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某奨学制度落選論文
この文章は、昨年、私が落選した「某奨学制度」の願書に添えた
「現在、私がやっている制作活動と今後の方向」(だと思った)という小論文です。
自分で自分の事を書く、いわゆる「自薦文」なので、本人は歯が浮いていますが、
どうせ落選したのだし、「私」を「上野」に変えて使えば、色々と応用も出来る名文?
なので掲載してみました。尚、この奨学制度は絵画系のものだったので、
私の立体や音曲の仕事には触れていません。(ueno 談)
「私の制作活動・今後の方向」
私の作品には、無名の放浪画家が、風雨を凌いだ御礼にと、家々の建具に描いていった
そんな生活画の香りがする・・・と、思う。 その絵は難解・晦渋とは無縁であり、
飄逸さと懐かしさを内包し、鄙びた古道具の好ましき味わいを備えている・・・筈だ。
和紙に墨で輪郭を引き、水彩絵の具で着色する・・・音も立たない、場所も取らない、
殆ど塵も出ない、私にとっての技法はこれで充分である。
大体、私は「その辺にあるもの」を描いている。菓子折、食材、文具、草花、小動物など、
それは当たり前過ぎる位当たり前の物だが、そこに新鮮な色合いを感じ、自由に構成し、
川柳のような遊び心を加えたり、幻談的な異界を出現させたりもする。
作品は、李朝民画にみる文字絵・文房具・花鳥画などに雰囲気が似ていると、よく言われる。
それは、非空間・無背景・無方向、筆の走りを遅くする事で対象を図案化している事など、
具体的に共通した特徴があるからだろう。観賞性より実用性を重んじている事なども有ると
思われる。但し肝心なのは描き手の隠者的な部分で有り、孤独性を感じるかどうかだ。
それはノスタルジックな買いかぶりなのかもしれないが、性分として避けて通れないものがある。
普段から目に触れる物を描いた結果にも、心象の代弁を見る事が多い。
現れるのは畢竟「作家の姿勢」である。私はそこに気負いを感じる作風は好まない。
まして、己の制作行為に全く疑問を感じていない作品など、私の到達しうる域ではない。
私は素直に弱音を吐きたいと思っている。人に知られざるを憂い、迷走する美術界に
身の置き所を覚えぬ、そんな自分への諧謔、諦観などが作風や言動に見えも隠れもする。
それはむしろ心有る一般人には共通の心情として、観賞者から共感を拝する事が多い。
常に大衆は操作された流行に飛びつくと考えるのは、一般人の識眼を軽視した発想である。
購入してくれた家庭などを訪ねて、埃を被り、日焼けして、
「時代が入った・・」自作を 見るのは嬉しい事である(そんなに売れやしないけど・・)。
嘘か真か、「畫は視線を吸って成長する」という。
極力仕舞い込まぬ所に、現物で提供したい。痛みが酷くなればまた描けば良いのだ。
そういう作品を今日も描いている・・・つもりである。
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