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三月堂物語
平将門が板東諸国を制覇して、遠からず京に攻め入るとの噂が立った時、朝廷の心労は
計り知れないものがあった。追討軍として平貞盛、藤原秀郷が向かっているが、それだけ
では不安である。瀬戸内海では藤原純友が跋扈して、これもまた都へ打ち入るかの勢いだ
という。「これはたまらない」と、京や奈良の諸寺に、逆賊調伏の祈祷を命じたのも無理
もない。ここ東大寺の会議室でも、幹部が集まりミーティングが行われていた。
「俗な話しですが、こういう時こそ朝廷に恩を売っておかなければいけません」
「しかし調伏といいましても、どうしたものか・・」
「やはりなにかを退散させるようなものに、祈らなければなりますまい」
「そのような修法が当寺にあるとすれば・・」
「あると・・すれば」
「羂索堂(法華堂・三月堂)の北側の・・」
「御本尊様と背中合わせになっている・・」
「初代別当様の念持仏・・」
「では、やはり・・」
「詮議は無用・・」
「時をかわさず・・」
「羂索堂に参りましょう」
「それが・・今日は駄目なのです」
「何故」
「修学旅行の予約が入っています」
初代別当とは良弁(ろうべん)僧正の事である。いわゆる「良弁伝説」は民話・文楽・
歌舞伎・などでおなじみのお話しだ。良弁は二歳の時、母親が桑の葉を摘んでいる隙に、
大鷲にさらわれてしまう。杉の木の上で食べらそうなところを、高僧義淵に救われる。
講談では邑井貞吉のものが絶品だったそうで、楽屋で聴いていた文楽、志ん生、円生、
という名人連が、顔を見合わせて感服したという。「わが子をかえせ、わが子をかえせ」
と母親が大空に舞う鷲を、追いかけるくだりが哀れを誘う。母親は狂気して探し回るが、
三十年の後、名僧となった良弁と二月堂で再会する。
ででん〜”恵みも深き二月堂、日頃の憂きは木の元に、悦び栄ふ孝の道、顕はれ出づる
弥陀の慈悲・・”もちろんこれは創作であろうが、良弁という人は、組織の中から出世した
のではなく、在野の私度僧から見いだされた後、高僧に昇進したようで、その生い立ちにも
謎の部分が多い。したがって「登場場面」が伝説化されたのかもしれない。東大寺の前進は
金鐘寺といった。これは金鷲寺ともいい、金鷲(こんす)行者という人が建てたといわれる。
この「鷲」という文字から「伝説」を連想するだろう。金鷲行者=良弁とみる人も多い。
そして金鷲行者、すなわち良弁が日夜祈りを捧げていた神像とは・・。
「其の山寺にひとはしらの執金剛神の珥像を居きまつる。行者、神王の腓(こむら)より
なわを掛けて引き、願ひて昼夜に憩はず・・(日本霊異記)」良弁は神像の脛(はぎ)に
縄を結び、それを引きながら祈っていた。その甲斐あってか、時の帝に認められ、布教が
許される。なんでも神像の脛から光が放たれ、皇居まで届いたそうな。「その光を放ちし
執金剛神の像は、今、東大寺の羂索堂の北の戸に立てり」つまり現在の状態である。
羂索堂というからには、本尊は不空羂索観音である。羂索とは、紐に重りを付けた狩猟
の道具だろう。それをお使いになり衆生の苦悩をすくい取ってくれる・・そういう菩薩様
だ。五穀豊饒は元より、大仏様が無事に完成する事を祈願して作られたらしい。三月堂に
は、現在十六体の彫像が配置されている。段々増えていったのだろうが、建立時は乾漆像
で統一されていたと思われる。金属は大仏様が大量に御使用になるから、他の素材という
事で、二番目に高価な漆で作られた。九体ある乾湿像の平均身長は十尺近く、相当な材料
費が掛かったはずだ。高価と言えば、本尊の宝冠に施された二万粒の宝石は有名だ。この
宝冠は昭和十二年に盗難にあっている。コレクターの機転で事なきを得たが、いったい幾
らくらいの値が付くのだろうか。本尊を菩薩様に譲ることで、それまで主役であった執金
剛神は、黒塗りの厨子に収まり秘仏となった。もちろん良弁僧正の意図であろうが、羂索
観音との背中合わせは「慈悲」と「怒り」との対比構図がある。
執金剛神は塑像だが、土を用いた天平期の彫刻には、他の時代には見られない、卓越した
写実感覚がある。これは私の憶測だが、製作する際にモデルにポーズをとらせていたのでは
ないだろうか。戒壇院にある四天王は、持国天と増長天、広目天と多門天が、それぞれ同じ
顔をしている。伝日光月光の両菩薩の手の表情なども、実物を観察しながら彫塑している。
「絵図」ばかりに頼らず「人体」から形を学ぶ事も積極的に行ったようだ。
現存する塑像作品が少ないのは、破損しやすい素材であった為だろう。
天慶三年、東大寺羂索堂では、かつてない規模の呪術祈祷が行われようとしていた。
京雀は連日のデマやうわさに恐慌し、火付け騒ぎも連発して、パニック寸前、阿鼻叫喚。
状況は逼迫しているのだ。大僧正、中僧正、小僧正、大坊主、小坊主、二十坊主にカス坊主
まで集められた。いつものように南から入り拝むのかと思ったら、北へ回れという。厳かに
厨子の扉を開けると、封じ込められていた霊気を纏うように、秘仏執金剛神が現れた。その
もの凄い憤怒の形相の前には、邪心をのぞかせる隙もない。振り上げた金剛杵は刃先を向け
て、さながら雷霆を投げつけるゼウス神の如し。ちなみに金剛石とはダイヤモンドの事だ。
荘厳な調伏の祈りが続いた。像の表情も心成しか赤みが差してきたかのように見える。握り
締めた拳は力がたぎり、腕は血管が浮くほどに震えている。咆哮する叫びが聞こえてくるか
のようだ。一山がひとつとなり唱えた渾身の祈祷!まさに頂点に達した頃である。金剛神の
髪を縛ってある元結に「ぴしっぴしっ!」とひびが入った。しかし、一心不乱に念じ続けて
いる僧達の中には、この異変に気付く者はいなかった。
秀郷・貞盛の連合軍は苦戦していた。将門軍は追い風を利用して果敢に攻め寄せる。
烈風の為に矢が使えない。堪えきれず兵が潰走しかけた時、突然風向きが逆に変わった。
その瞬間、なにか「土くれ」のような物体が、将門を目掛け、猛烈な早さで飛んできた!
咄嗟に避けようとしたところ、驚いた馬が竿立ちになる。「馬は風飛の歩を忘れ・・」
どど・・!!将門は落馬した。「それ!」連合軍の射る矢が、豪雨のように降りかかった。
将門誅伏の報に、洛中が胸を撫で下ろしたのは言うまでもない。純友は小野好古に討た
れたが、時を同じくした東西両雄の蜂起には、京都朝廷も徳俵に足が掛かっていたのだ。
東大寺も久々の平穏に包まれていた。僧達は連日の祈祷で疲労はしていたが、それぞれに
安堵の表情が伺える。「これもみな、執金剛神様のお陰である・・」拝みながら厨子の扉
を閉めようと像に近寄ると、右側の元結がなくなっている。「これはいかなこと・・」と
大勢で捜し回ったが、とうとう見付け出す事は出来なかった。
2006年 5月
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