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ここがカンジン 鎌倉彫刻
弁慶は弱っていた。
「まさか読めと言われるとはなぁ。思い付きで南都復興の為の者と名乗っちゃった・・
この関を抜けないと奥州へ抜けられないんだよ。判官様も不安そうにこっちを見てるし、
他の連中ではごまかせないだろうし・・何ぃ、早く読め?えぇい、どうなるものか!」
笈の中より往来の、巻物一巻取り出だし、高らかにこそ読み上げけれ。
「あぁぁと、それつらつらおもんみれば、大恩教主の秋の月は・・誰だ、覗くやつは!
・・聖武皇帝と名づけ、どうだ恐れ多いぞ。最愛の婦人に別れ、思いを善途に翻して、
盧舎那仏を建立す・・と、どうだ参ったか。かほどの霊場の耐えなんことを悲しみて、
俊上坊重源(ちょうげん)諸国を勧進す・・・」
義経一行が、京を落ちた数年前、東国で本物の勧進帳を受け取っていた者があった。
ほかならぬ兄頼朝である。送り主は弁慶も名前を使った俊上坊重源聖人・・東大寺再建を
目指す大勧進、単なる寄付の元締めに非ず。入宗三度、自ら施工技術に精通した高僧で、
企画設計から建設費の管理まで、アートディレクターであり、プロデューサーであり、
ゼネラルマネージャーでもある。頼朝は既に木材や砂金などを寄進する事に決めていた。
「それは良いが・・」頼朝の心中に薄い蔭が射した。気掛かりになっているのは、現在、
関東にいる平重衡(しげひら)の処分である。昨年「一の谷の戦さ」で捕虜になり、
鎌倉へ護送された。平家軍の副将格で、南都炎上となった治承の乱の指揮官でもある。
もちろん命令は、父親である清盛が発しているのだが、現場にいた司令官であれば、
恨みを買うのは避けられない。興福、東大寺は猛火にみまわれ、数多くの犠牲者を出し、
金銅十六丈の大仏の御くし(頭部)が燃え落ちた。この天竺震旦にもない程の大法滅は、
みんなこの男のせいだと思われている。特に壇ノ浦で源平合戦の決着が付いた後は、
身柄引き渡しの請願が絶えない。助命はかなわぬ事ではあるが、捕らえてみると、
その態度といい覚悟といい、実に堂々たる武人である。復讐心に燃えた南都の宗徒に
引き渡すのは忍びない・・
「狩野介を呼べ」そう伝えて、頼朝は鳩サブレーをかじった。
「宗茂(むねもち)参りました」
「おう、近う寄れ、実はな・・」
「重衡殿の事でございますか」
「わかるか・・彼の方はその後どうしておる」
「どうもこうもありません、大将がおなぐさめにと申してつかわした侍女・・」
「おぉ、千手前(せんのてまえ)か」
「どうも大変にいい女・・いやお美しさでして、実にもったいない・・
いや、まぁ、今ではすっかり重衡殿に情が通っておりましてな・・ぞっこん、
というやつで、朝に夕に中将様中将様と、見ていても羨ましいやら、悔しいやら・・」
「まぁ、ああいう良い男だから直に惚れられるな・・」
「それなんですよ。それに無骨一点張りの鎧武者かと思ったら、歌は詠む、謡いはやる、
琵琶は弾く、平家の公達は嗜みが深く、教養がございます。女供はすっかり夢中ですよ。
我々はことごとく隅に置かれてしまいまして・・羨ましいやら、悔しいやら・・」
「うむうむ、それであれば良いのだ。どのみち長らえぬ・・」
頼朝は視線を落とした。
「それではやはり南都の衆が・・」
「騒いでおる。渡さぬわけにはいかぬだろう。仏敵と申しておる」
「やはり今後は、寺院方と巧く付き合っていきませんと・・」
「それよ、叡山、南都と頭が痛いわ、思うにならない・・」
「山法師・・ですなぁ・・二寺再建といえば、色々な噂がございますな。
慶の字を名乗る仏師たちが、大層注目されているそうで・・」
「それは奈良仏師であろう」
「左様、元々は修復が専門だったようです。いわば下請けで、しかし仕事には独特の
工夫があるそうです。それ、時政様のお建てになられる願成就院・・」
「御義父上のな・・」
「その御仏像ですが、慶の者に依頼するそうです」
「京仏師には頼めぬのか」
「彼らは平家の出入りでしたからなぁ。呪詛でもされたら大変でございますよ」
「ふぅむ・・しかし、そちゃ、なかなか詳しいの」
「へへ、区立図書館で調べましたんで・・」
「その辺りの事を、もう少し説明してくれぬか」
「これはどうも恐れ入ります。」
宗茂は、素早く小鳩豆楽をほおばった。
「そもそも我が国の仏像は、飛鳥・白鳳・天平と、中国や朝鮮の技術者が制作にあたり、
彼らの仕事を模倣することが常道でありました。それを徐々に和風に変えて行き、
確立させたのが定朝(じょうちょう)という仏師でして、表現では柔和豊穣を好み、
技術では寄せ木造りを発展させました。それが平安の中頃であります。」
「なるほど」
「定朝で有名なのは平等院鳳凰堂の・・つまり10円玉のそれですな。
その真ん中に定朝作の阿弥陀さまがあると思えば良いわけです」
「もったいない話しであるな」
「この様式は一般に藤原彫刻とも言われ、その流れが円派・院派、つまり京仏師です。
定朝の孫の頼助は興福寺の仕事をよくしました。その弟子筋の康慶は、独特の作風を
持っておりまて、ひとつの流派となります。息子の運慶が現在の棟梁格ですな。
慶派には他にも、定覚、快慶、定慶などの腕自慢がおります」
「ふーむ、それほど違うものなのか」
「それがですな、ものに「気」が通うと申しますか、躍動感・・というのでしょう。
運慶の手によるものは、今にも(動き出すのでは・・)とさえ言われております。
像に対面していると、こちらにも気力が湧いてくるそうで・・」
「それはおそれいるのう」
「先だって東京国立美術館で、三十三間堂の千手観音像三体を、展示しておりましてな、
これが湛慶・隆円・院承の作でして、三派の作品を目の当たりで比較出来るように
なっていたのでございます。ちなみに湛慶とは運慶の長男にございますな」
「それは面白い。して、おぬしは比べて見てどう感じたのじゃ」
「へぇ・・そのへんは各人の見方がありますので、わたくしからは・・へへ、」
「なんだ、はっきりせん奴だ。重源殿も運慶を認めておるのか。」
「それはそうなんですが、快慶の方を可愛がっておられるようで・・」
「ほう、なぜじゃ」
「おそらく、棟梁ともなりますと、主義主張が有る故に、扱い憎いのでは・・」
「うーむ、そういうものかもしれんの・・」
頼朝は一瞬、義経の事を思った。
「しかし、見る者に力を与えてくれるというのは良いな。今まで脇に置かれていた
一派が活躍するというのも気に入った。新しい創造に気がたぎるのであろう。
これからの時代に、我々鎌倉武士も、そうありたいものではないか!」
運慶の作った仏像を拝んでみたい・・と、頼朝は思った。
本三位中将重衡卿は狩野介宗茂に預けられて、去年より、伊豆の国におはしけるを、
南都の大衆頻りに申しせれば、ついに奈良へとぞつかはしける・・
「そもそもこの重衡卿は大犯の悪人たるうえ、仏敵法敵の逆臣なれば、東大寺興福寺の
大垣をめぐらして、鋸にてやきるべき、掘頸にやすべき」と詮議されたが、
それではあんまりといって「守護の武士にたうで、木津の辺にてきらすべし」となった。
「辞世はござらぬか」
「されば・・大仏の 首は修理が効くけれど 落ちて戻らぬ重衡の首・・」
「それは川柳というものでござる・・ではお覚悟を」
重衡の胴体は、本妻である北の方が取り寄せて、法界寺という所で供養を行った。
首は晒されていたが、さる有力者に懇願して、取り戻してもらい、荼毘に付された。
この有力者とは誰やらん、「頸をば大仏の聖俊乗坊にとかく宣へば、大衆にこうて
日野へとぞつかはしける(平家物語)」つまり重源なのだ。
重源はでっかい一輪車を作って、各地を巡行しては資金を集めたらしい。
大変な実行力で、現場に居られない時は、自分の肖像彫刻をそこに置いて、
「目を光らせた」ともいう・・美術家としての腕も相当なものだったらしく、
「重源の功画・妙計・運転神の如し。梓人皆な附して指授を乞う・・(元亮釈書)」
と、されている。これ程の「やり手」であれば、仕事の方法なども、各担当者と
相当な衝突があったと思う。当然仏師達とも・・そして示寂の後、遺像が作られた。
この像は顎を突き出し、背を丸め、眼の配り方から皺の表情まで「本人が見たらば気を
悪くするのではないか」と思うほど徹底した写実が行われている。その性格描写には、
寺社側への追従や遠慮が全く感じられない。モデルとの真剣勝負とでも言おうか、
敵意も好意も内包し、作り手も作られ手(そんな言い方はないが)も、一歩も引かぬ・・
そんな「凄み」のある彫像だ。現在この像は東大寺境内の俊乗堂に安置されている。
運慶作とみる人が多い。
2005年 3月
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