| 近代銅像説話集   一般的に「銅像」と言った場合、鑑賞する美術作品というより、歴史上の偉人英雄や地域功労者などの、肖像彫刻を指す場合が多い。だから、素材は石でも陶土でも、
 内容は「銅像」そんなものもある。ただ単に銅製といえば「大仏様」など歴史は古いが、
 西洋式の写実的なブロンズ像となると、明治の半ばからだ。では、日本の銅像第一号は?
 「大村益二郎像・1893」とされている。地上13m、招魂社(現靖国神社)に建てられた。
 ラグーザ門下の大熊氏広が、10年掛かりで制作した。実はそれ以前に「日本武尊像・1880
 (高岡銅器会社制作)」があるのだが、これなどは「仏像路線」と「肖像路線」の乗り換え駅
 といえるだろう。大熊氏の作品、近場で観られるのは「有栖川宮親王騎馬像(有栖川宮公園)」
 「小松宮親王騎馬像(上野公園)」「瓜生岩子像(浅草公園)」等がある。
  その後は「西郷隆盛像・1898」「楠木正成像・1900」と、いかにも、明治政府らしい人物像が建立されていく。当時は粘土での整形は普及していなかったので、高村光雲が
 木材で原型を彫り、岡崎雪声が鋳造した。今夏開催された「万国博覧会の美術展」高村さんも
 岡崎さんも輝いていました。ところが「西郷隆盛像」の除幕式、「さぁ、御覧あれ!」
 と幕を下ろしたら、「西郷はこんな人ではありません!」未亡人が泣き出した。除幕式・・
 お偉い御方々が集まっている、制作者の晴れ舞台だ。こいつは困っただろうなぁ。しかも
 「正成像」では高山樗牛が噛み付いた。「尊皇の忠臣を荒武者の顔に彫るとは何事ぞ!」
 しかし正成さん、本当にゲリラ隊長なのだから、写実の解釈としてはそれで良いはずだ。
 高山先生「敬われるべき人物像は、それなりの人相で造るものだ」と言っているのだ。
  この頃になると、木彫中心の日本彫刻界も、欧州の近代彫刻の影響を受けて、塑像の作品に注目が集まるようになってくる。何せ当時の「コンテンポラリーアート」なのだ。
 そして、日露戦争あたりから、英雄偉人を彫像にして、観衆の耳目を集める事が流行、
 空前の銅像建立時代が始まった。銅像になるということは、立身出世の締め括りとして、
 大変なステイタスになったのだ。少し前の映画をみると、校長先生が自分の銅像が立つことを
 夢見ている場面などが、結構出てくる。ハナ肇の「本人ブロンズ像」のギャグも、それが
 風景として定着していたアラワレだ。普通は当人の没後に「有志が集い」「制作費を寄進して」
 「生前の偉業を讃え・・」建立するものだが、生前に完成する事もある。これを「寿像」
 と呼び、かつては「長寿のお祝い」に送られるものだった。競艇界の大立者・笹川良一氏が、
 自分の母親を背負っている銅像がある。建立者は何と、笹川さん御当人なのだ。
 
  日露戦争といえば「日比谷焼き討ち事件」を御存知だろうか。ポーツマス条約の内容に不満を示した民衆による大暴動だ。「大臣、官邸を焼き払え!」講和を切望する政府に、
 「庶民」が反対したのですぞ。全権・小村寿太郎は知らせを聞き「日本に帰れば命は無い」
 と覚悟した。この騒動は神戸でも起きており、伊藤博文の銅像が、ひどい目に合っている。
 「群衆は、元老の中心人物である伊藤が屈辱的講和成立を指示したことを憤ったのだが、
 やがて綱、丸太などで銅像を引き倒して首、手足を丸太で叩きこわし、四五百名が綱をかけて、
 数町はなれた福原遊郭まで曳きずっていった。・・(吉村昭・海の史劇より)」彫像は六年後に
 再建されたが、後の大戦で供出され、現在は台座だけが残っている、そうな。
  供出とは大戦末期の金属回収令の事だ。戦況継続には資源不足となり、寺院の鐘や銅像に動員がかかった。もちろん彫刻家は抗議した。銅像は中身が空洞なので、集めた所で大して
 資源にはならない。供出される彫像の制作費は、合計1億5000万円にも及び、それをツブシに
 したら、たかだか40万円の値打ちにしかならない。これは愚行であると、軍部を説いて回ったが、
 時よ時節でどうにもならない。資源というよりは「戦意高揚の宣伝に一役」が目的なわけだ。
 渋谷のハチ公も「出陣」の名の下に溶かされた。「銅像、大挙して応召」新聞の見出しを添え、
 作品には赤い襷が掛けられた。全国で944基あった銅像が、61基しか残らなかったという。
 ナント九割以上が消えてしまったのだ。そんな時代の彫像、もはや金属素材では造れない。
 山本五十六像はセメントで制作。もっともこの頃は敗色濃厚、モデルにも不足していた・・。
  戦後は、軍国主義を煽った作品を「戦犯彫刻」などと呼び、自主的に撤去する動きが起こる。象徴的なのは日露戦争の軍神「広瀬武夫像」。旅順港閉塞で戦死した
 人だが、これは簡単に言ば「狭い港の入口にボロ船を沈めて、停泊しているロシアの軍艦が、
 出られないようにしてしまえ」という作戦だ。作品は巨大なもので、台座の下部には鎖が
 巻かれていて、錨につながれている。そこに部下の杉野兵曹長がいて、上部には広瀬中佐が
 立つのだが、二人は同じ戦況に参加している、そういう珍しい構図である。
 陸のタチバナ・海のヒロセと、人気のあった人物だが、いつの間にか撤去されてしまい、
 どう処分されたのかよく解らない。作者の渡辺長生は、谷中の彫塑館でおなじみの
 朝倉文夫のお兄さん。日本橋の「獅子」と「麒麟」を創った人で、京都では「高山彦九郎」
 が再建されている。広瀬像は万世橋にあり、日本橋、三条大橋と・・この人「橋男」かもしれない。
  上モノが撤去されれば、当然台座だけが残る。その上に違う作品がちゃっかりと乗ってしまう事もたまにある。金属回収とはいっても、国策に有益なものは、残す必要もある。
 寺内正毅元帥の 騎馬像などは、秀作でもあり「生き残る」と思われた。ところが息子の
 寺内寿一大将は「範を示す」と、親父の像を真っ先に提供してしまった。
 これには作者の北村西望も、開いた口が塞がらなかった。そして現在、この台座には
 「平和の群像」という三体の裸婦像が立っている。設立者は「天下の電通」。日本の屋外に、
 堂々と婦人のハダカが置かれたのは、ここからだと思う。制作した菊池一雄氏は、
 私の師匠の先生にあたります。空に向かって折り鶴を掲げている「原爆の子」を造った彫刻家です。
  「銅像」を純粋な芸術表現として観るべきかどうか、戦前の作家にも多くの葛藤があったようだ。 荻原守衛なども、いち早く「パブリックアート」としての「銅像論」を
 持っていた。是に因りて・・「このままでは東京全市は、銅像で埋められてしまう」
 と当時の風潮を揶揄し、置かれる場所と作品の関連を指摘している。面白いのは、
 服装選択の難しさを語っている所で、欧化主義の矛盾を突いている。「似る似ない」では無く
 「人格を発現せよ」とも言っている。「写真の引き伸ばし」みたいな彫刻では、
 意味がない・・と、これが既に1909年の論評だ。真剣に考えているのがワカリマスネ。
 設立には、遺族・寄進者・設置場所など様々な要素が加味され、作者の好き勝手には造れない。
 それでも作家は、信念を曲げない方が良いようだ。人々の心の中に生きていく「主人公」は、
 必ずしも現実の「その人」とは一致していなくてもよい・・のかもしれない。
  今でも「銅像見学」を趣味としている人は多い。それは美術鑑賞というより、歴史的な興味や、観光地の見物としての意味合いが強いと思う。その人物に出会う気持ちで
 見に行けば、形状が人体であるだけに、塔や碑文よりも親近感があるのだろう。
 佳作もあれば悪趣味なものもある。さすがに現代では、自分の銅像が立つことを目標に
 している人は少ないだろうが・・。更に歴史の流れによっては、偉人も悪人になってしまう。
 供出されたお陰で、キャリアに傷が付かずに、ホッとした作家もいるわけだ。
 古今東西、彫刻の役割は「偶像崇拝」と無縁ではない。 今日では「作られた人」より
 「作った人」を「崇拝」するようになった、というだけのオハナシなのだ。
                                   2004年 9月
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