上映会パンフレットから

 この文章は、「蒲団龍宮記」の上映会で、配られた案内書に、寄せたものです。
実はこれを書いた時点では、撮影が終わったというだけで、一切フィルムを見ていませんでした。
自分がどう写っているのかも、どういう映画になるのかも、全く知らずに書いているのです。
ですから、わざと硬い文面にしておいて「見よ、此の有様を〜」以降で、映画を観たお客さんに、
笑って頂こうという狙いだったわけです。ところが、思ったよりも自分が「素敵」に写っていて、
これなら別の書きようもあったのに・・と、編集画像を観た直後に思いましたが、入稿の後でした。
その際、一緒にお配りした「俳優歴」も添付します。御笑読下さい。(ueno 談)

「蒲団龍宮記」によせて

 凡そ悲喜の何れで有ろうと、其れが劇である以上は娯楽性が無くては勤まらぬ。
世に起きる陰惨な事件が、気持を曇らせるのも、其れ事態が「悲劇」では無く 「悲」其の物 だからだ。
で有るから、様々な要因に行き詰まった連中、特に表現活動に携わる輩は、
自らの現実を劇化する事で、山積する問題をも作品にし、神経を麻痺させたりする訳だ。

 私も若年の頃は、此れは此れで心情を吐露するに足り、
観る側の共感も得られるし、 其れ成りに格好の良い事だと思ってはいた。
ところが今日の様に押しも押されぬ大無名作家 に成って見ると、
非成功者の儘で被写体に相成る事など、 楽しくも何とも無いのが良く分かる。
「先生」等と作り声で呼ぶインタビュアーの方が、先生よりずっと高額の収入を得ているではないか。

 後世の評価も大事だが、現世の利潤も不可欠だ。
同じ物を作るなら売れないより売れる方が良いに 決まっている。
「清貧を厭わず」とは、怠け癖の付いた自信家の形作りで、
世に出たい下心の裏焼きに 過ぎない。
好きな事をしていて羨ましいですね、という御方が在れば、今すぐにでも変わってあげよう。

 見よ、此の有様を。目脂顔の油拭う間も無く、綿のはみ出た褞袍、金具の壊れた別珍、
部屋の塵埃、 家具食器類も殆ど在りの儘だ。
我が日常も斯様に映画的であったのかと覚えれば、既に自らを劇化して、
笑い励ますより致し方無い。どうせなら滅多に陽に当てぬ貧弱な素裸までも、
活写して頂きたかったが、 「時間無し」の一言で却下されてしまった。

 それでも、此れは「劇」である。殆ど「有りの儘」使って いる部分が多いけれど・・
事実は此れ以上にみっともない(焦)。 映された姿を戒めに、正業に付きたい。

「上野茂都俳優歴」

1973頃 中学校文化祭で「杜子春・芥川龍之介」。杜子春を演ずる。
    冒頭の台詞「日は暮れるし、腹は減るし・・」は現在に通ずる。

1976頃  高校有志演劇団で「風の又三郎・唐十郎」を公演。
     月光町の織部を演ずる。共演したWは現在女優として活躍中。
     彼女は最後の場面で私の台詞「読者です」を言ってしまい、
     仕方無いので「・・僕もです」と言って幕を下ろした。

1980頃  明治学院大学8mm映画部に招かれ、2本に出演。
     新宿御苑でミミズを掘って、踊り暴れるような役。
     どちらも長編で、音楽を上野耕路が担当、女優Tの協力など
     完成度も高く、好評を得たが、現在は所在不明。

1987頃  各国参加の映像コンペ「インフェルメンタル」(その年、開催国が日本)。
     招待監督として太田蛍一(画家)が抜擢される。出演依頼を受け、
     電波障害で身体中がTVになってしまう男を演じる。(特殊メイクを使用)

1990頃  パルコ制作・映画「プ」35mm に美術として参加。
     監督の山崎幹夫氏(今回の撮影)とはこの仕事からの交友となる。
     途中人手が足りなくなり、撮影当日「酒場の客」を演じることになる。
     どぶろくに見立てたカルピス(照明で暖まっている)を延々と飲まされ
     気持ちが悪くなる。ビデオ化されている筈。

1992頃  彫刻作品を制作している自分をVTRに収めた。
     鑑賞用に編集したので、専門学校の授業などで使用した。

1993年  目黒美術館「目黒名画座」に出演。但し此は映画では無く、美術展。
     ポスターの文字を山田勇男氏が描く。氏とはこの時からの交友。
 
1990代  その後、映像関係の係わりとしては、小道具で協力。
     「深い河(熊井啓監督)」
     「冬の河童(風間志織監督)」など。

2003年 「蒲団龍宮記」に出演。 監督/山田勇男・撮影/山崎幹夫ともに8ミリ界の巨匠。