分割された彫刻の話し

 私は今、一体の銅像の前に立っている。おそらくこういう作品は、美術史の範疇には
入らない彫刻なのだろう。造形的にも無難に作られているだけで、語るべき特色もない。
しかし「人目にふれた」という点では、現代美術の比ではない。つまりこの像はそれだけ
「人を見てきた」のだ、特に戦時中は・・。トルソー・・といえば、確かにそうだ。
なにしろ分割されているのだから。場所は都心だが、美術館ではなく、墓地の隅である。
「廟行鎮の敵の陣、我の友隊すでに攻む・・(作詞・与謝野寛)」お判りですか、
これは上海事変で戦死した「爆弾三勇士」の一人、江下武二一等兵の銅像なのだ。

 敵陣の鉄条網を撃破する為に、点火された破壊筒を三人で抱え持ち、突入して爆死した。
この爆破により、進撃する活路が開かれた。実際は、導火線を短く切りすぎた為に起きた
事故、とも言われているが、功労何にか譬うべき。この「美談」に国中が沸き上がった。
特に「個人名」が出ると、途端に過熱するマスコミの体質、今も昔も同じ事。軍の広報部も
顔負け、映画化は五社に及び、歌に芝居に教科書に、御菓子や清酒の銘柄、文房具にもなった。
小説・講談・浪曲・・「三勇士名誉肉弾(さんゆうしほまれのにくだん)」これは文楽の演題だ。
「デパ食(大阪・高島屋)」のメニューにもなった、嘘じゃない。フキを爆弾に見立てたそうだ。
私は子供の頃に読んでいた 「のらくろ上等兵」(もちろん復刻版)で、この話しを知っていた。
布表紙の立派な装丁で、小学生の私は小遣いを貯めて、全巻を買い揃えていたのだ。

 とうぜん銅像も建立された。靖国神社だろうと思ったら、港区の寺社だった。寺にある
のなら、どうして都内なのか、三人は久留米の旅団で九州人なのだ。その疑問は、現地に
行くと何となくわかる。二重橋で楠公騎馬像を見てから、日比谷を散歩。隣は曲垣平九郎で
お馴染みの愛宕神社、裏手には国営放送局、下れば芝公園、増上寺、足を延ばせば泉岳寺、
見上げれば東京タワー、はマダナイ・・そういう地域に「三勇士」の雄姿は建てられた。
当時の東京見物や修学旅行のコースに、見事に組み込まれているわけだ。

 上海事変(第一次)とは、満州事変の終盤におきた戦闘だ。巷間に伝えられているまま、
当時の流れをスケッチしてみよう。日露戦争に勝利し、南満州鉄道の開発権を拡大した
日本は「僕も行くから君も行け」と、大陸の資源に繁栄の夢を描いていた。孫文の目的は
「滅満興漢(漢民族の復権)」だったので、万里の長城の外側には、あまり関心がなかった。
未開の地という印象が強く、満蒙独立運動という動きもあった。川島浪速だの、内田良平だの、
伊達順之介だの、パプチャプ将軍だの、出口王仁三郎だの、個性的な人物が絡んできますね。
馬賊だの大陸浪人だの、前近代の匂いすら感じる。馬賊とは、まぁ自警団のようなものだ。
これが敵に回ると匪賊とされる。「どこまで続く泥濘ぞ・・」藤原義江作曲の「討匪行」は
ここから来ているワケ。「逃避行」じゃありませんぞ! 匪を討ちに行く、という事だ。

 鉄道開発により現地の景気が良くなると、もはや僻地ではない。民の環視の的となる。
「ここは元々我々の領土だ。日本人にでかい顔される理由はない、自分の国にカエレ!」
「ロシア軍を命がけで追い払ったのは誰なのだ。条約を結び、開拓して、何がワルイ!」
あちこちで喧嘩が始まった。当時の中国はまさに群雄割拠、実際に満州を支配していたのは、
奉天軍閥・張作霖。初めは日本軍を後ろ盾にしていたが、言うことを聞かなくなったので? 
河本大佐の指示により、列車ごと爆殺されてしまう。さぁ、息子の張学良は激怒した。
満州全土に晴天白日旗を掲げ、抗日排日の意志をあらわにする。

 国内では昭和天皇も怒っていた。総理大臣を難詰し、しまいには口も聞かなくなった。
そのわけは、関東軍が勝手に暴れ出し、正規の軍令に耳を貸さないからだ。「オラが宰相」
田中義一は、軍と政府の板挟みに合い、心労で倒れてしまう。それでも当時は、大正ロマン
の甘美が残っていて「戦争よりはカフェーでダンス」そんなムードも多かった。ところが、
中村大尉という人が、中国兵に殺害され(出た!個人名)これに民衆が反応した。盛大な
葬儀が催され、橋本欣五郎率いる「桜会」は血書の大弔旗を掲げた。キンゴローといっても
落語家の金語楼とわけがちがう。万宝山事件も起こり、険悪に拍車。その上、世界恐慌の
時代に入り、大不況の影が忍び寄る。人々の脳裏に、日清日露の戦勝景気がよみがえった。
「兵士十万の英霊を思え!暴支膺懲!獲得した満蒙は死守せよ!」世論も過激になってくる。

 「俺達ならカミソリで切ったようにスパリとやる」板垣征四郎・石原莞爾の参謀コンビは
思った。ちなみに「征四郎」と「莞爾」から一字づつ貰った名前の人が、音楽指揮者として
世界的な活躍をしていますね。彼の父親は満州青年連盟の人だった。板垣さんは東京裁判での
死刑囚、今なお揉める戦犯合祀問題の一人だ。石原さんは参考人程度の扱いで済まされた。
東条英機と仲が悪く、終戦時は閑職に追いやられていたからだ。A級戦犯と騒いだところで、
内実はこんなものだ。国内では失業者が三十六万人にもなり、千里広野での「チカラワザ」
を期待している。大陸では「何かがおきそうな・・」空気が蔓延してきた・・。

 たまらず、建川少将が満州へ乗り込む。「おいおい、馬鹿な事をやってもらっては困る。
政府の方針は不拡大だぞ!」ところがこの人、奉天の料亭でベロベロに酔わされて白川夜舟、
外がうるさい・・と思ったら爆音!柳条湖事件が勃発していたのだ。これは簡単に言えば、
マッチポンプだ。自ら火を放ち、敵のせいにする。治安の名目から武力制圧を狙うわけだ。
石原莞爾が豪語したように、奉天占領・錦州爆撃・チチハル入城と、日本勢は敵陣に成角を
打ったような勢いで押しまくる。自分でも飛行機に乗って爆弾を投下していたというから、
念の入った話しだ。朝鮮軍司令官・林銑十朗は八の字髭をなでながら、独断で援軍を出動
させた。大変な暴挙だが、国民は「越境将軍」に拍手喝采を送った。そんな最中、上海で
日本人僧侶が殺される。こちらも排日運動の激化凄まじく、リルと遊んでいる暇もない。
軍艦「夕張」から陸戦隊上陸し、戦闘が始まった。迎え撃つは、中国最強の第十九路軍。
日本軍は頑強な抵抗とクリーク(小川)に阻まれ攻めきれない。ここで「爆弾三勇士」の
出番となる。つまり「特攻」は「苦戦」の現れなのだ。この後、満州国建国となるのだが、
中国の底力が顔を出し初め、外交に戦闘に、恐怖の「受け潰し」を食らう事になる。

 我々は「乃木希典」や「東郷平八郎」になることは出来ない。しかし工兵隊一等兵なら
手が届かない事もないだろう。享年二十一という歳が胸を打つ。「三勇士の像」は敗戦後、
占領軍の目を気にして、建立者が自発的に撤去したようだ。その際に三分割し(一体は
佐世保にあるらしい)おそらくは、人目に触れないように保管しておき、ほとぼりが
さめた頃、現在のように設置したのだと思う。彫像の状態を見るに、丁寧に解体したとは
とても言い難い。慌てていたのだろう、足首から先が無いのだ。これは「引き倒された」
可能性が高いという事だ。何であれ、当人達にとっても、銅像にとっても、実に迷惑千万な
話しではないか。戦死したうえに、もてはやされる、騒がれる、壊される・・

                                     2004年 8月