「いちにち鎌倉逍遙記」

熱波に見舞われた今年の夏、そんな最中、思いつきで鎌倉を散策。
夏休みの絵日記のつもりでお付き合い下さい。

北鎌倉の駅を降りて、左手、円覚寺の総門が見えてきます。
八代執権北条時宗が開き、中国から高僧を迎えて開祖としました。
その時に使者に託した書状の文章が、重文として残っております。
「樹にはその根あり、水にはその源あり、是を以って・・云々」
つまりサッカーや野球の監督を、本場から招いてくる感覚ですね。
時宗と云えば、文永・弘安の役(元寇)を撃退した事で有名です。
目に止まるのは雄大な三門と、国宝の洪鐘。鐘堂は小高い丘に在り
涼風が吹き抜け、眺めも良い。弁天堂脇の茶屋で汗を冷やします。

円覚寺居士林の前で
踏み切りを渡り、東慶寺へ。前出した時宗夫人・覚山尼が開山。
「駆込み寺・縁切寺」として知られる禅刹。夫と別れたい女性は
この寺で三年の修行をすれば、離婚が認められたという・・
実際には相談役も引き受けた為、復縁に至る場合も多かったよう。
いつの時代においても、或る程度の抜け道は必要なのでしょう。
明治政府は、このような特権は法律上宜しくないと、これを禁止。
その機能は裁判所が引き継ぎました。その為「駆込み寺」の役目は
終り、それまで尼寺であったのが、男僧の寺院になったそうです。

松ヶ丘東慶寺にて
街道沿いを歩きながら、浄智寺を訪ねます。北条時頼の三男宗政の
菩提を弔うために創建。仏殿には如来三尊が祀られております。
鎌倉の寺院は、丘を背負うように建てられている事が多いですね。
背後にある墓地では、山の斜面を背に木立が日差しを遮ります。
閑寂とした空間は暑気を癒し、木漏れ日が揺れ岩場の苔を照らす。
岩盤を削った窪みには、ひっそりと五輪塔や宝経印塔が置かれ、
岩を横向きに彫った井戸は、ひやりと水気を与えます。ヒシヒシと
蝉は鳴き、まさに御霊が眠っておられるような佇まいです。

金宝山浄智寺にて
そして、日本最初の禅刹と云われる、建長寺の門をくぐりました。
往時には千人を越す雲水が、修行をしていたと伝わっています。
栄西創建の建仁寺の方が、古いようですが、京方は創建当時
天台・真言・禅の三宗兼学、連立政権のような寺院だったのです。
建立した北条時頼は「鉢の木」というお話しに登場致しますね。
出家した時頼が、雪の上州で忠臣佐野源左衛門と出会う一くさり。
「〜憂き寝ながらの草枕、夢より霜や結ぶらん〜」という・・・
龍王伝に入り、背後に回ると、涼みながら庭園が眺められました。

巨福山建長寺にて
トンネルに向かって歩き、右手の急な階段を上れば、円応寺です。
建長寺創建以前からある古刹で、元々は海側の地域にありました。
閻魔大王を本尊として、冥界の十王が祀られて列座しております。
小さなお堂なのですが、 内陣の中央には閻魔大王、左右には十王像
そして奪衣婆、地蔵像等も鎮座し、見応えがあります。十王思想は
道教ですが、仏教では大王を、地蔵菩薩の化身とする解釈もある。
大王は人間を裁く事に因り、自らも業を背負うのだという、そんな
話しも御堂では、語られております。嘘はつけませんねぇ・・

新居山円応寺にて
鶴が丘八幡宮の境内に入ると、ぼんぼり祭りが催されていました。
昼間の事ですので、当然、灯は入っていません。まさに昼行灯・・
八幡神は、源氏の氏神様ですね。だから鎌倉の象徴なわけです。
源頼義が前九年の役で、奥州を平定した際に、京都石清水八幡宮を
由比ヶ浜辺に勧請し、後に頼朝が現在の地に移したという・・
ですから頼義の息子の義家も、八幡太郎を名乗っているのですね。
それにしても街道の横断・・なかなか渡れないんですよ、これが!
なかむら庵で手打ち蕎麦を食べて、夏の海を観ようと江ノ電へ・・

鶴が丘八幡宮参道にて
幾度訪れても、その度に印象が変わるのが、高徳院の大仏様。
奈良の大仏は慮遮那仏ですが、こちらは阿弥陀如来でおわします。
一番初めは木造だったそうです。それが台風の為に壊れてしまう。
青銅となってからでも、七百余年。重量は121.000キロもある。
ところが、またもや台風で大仏殿が壊滅、露座となって五百余年。
社殿にあった頃は、東大寺のように、下から見上げていたはず。
現在は離れて眺められる為に、印象が変化するのでしょう。
うつむき加減にも見え、その辺が「美男におわす」由縁かも・・

高徳院大仏殿にて
腰越という駅で降りて満福寺へ。御存知、頼朝に疎まれた義経が
鎌倉へ入れてもらえない為に、留まっていたという所です。
義経は無実を訴えた書状を書き送ります。これが有名な腰越状。
「義経犯しなくして、御換気を蒙る間、重ねて紅涙をなす・・」
一の谷、屋島、壇ノ浦と、輝かしい武功をあげた義経が、目と鼻の
先の鎌倉に入ることすら、許されなかったのは何故でしょうか・・
義経が鎌倉幕府の方針を、理解しなかったからだと云われますが、
判官贔屓の方には、納得出来ないかもしれませんね。

龍護山満福寺にて
腰越から江ノ島まで、路面電車に添って、ぶらぶらと歩きます。
この辺りはさすがに人が多く、夏の賑わいを見せておりました。
貝細工を眺めたり、夫婦饅頭の匂いだけ嗅いだりして進みます。
江ノ島は日本三大弁才天の一つ、他のふたつは、滋賀県の竹生島、
広島県の厳島ですから、大変な格式です。江島神社は「裸弁天」で
有名ですが、参道も「殆ど裸のような」女の子でいっぱいです。
「裸弁天」元々は着せ替え人形のように衣服があったものだとか。
琵琶を抱えたお姿は、音楽や芸能の神様なのでありますぞ。

貝細工の土産屋の前で
島を一回りし、参道の脇の小道を入ると西浦漁港です。
港とはいえ砂浜なので、カヌーで遊んでいる人もいましたな。
夕映えの海を隔て、富士山がくっきりと浮かび上がっております。
なんとなく麓まで泳いで渡れそうな感じ・・もちろんやりません。
鎌倉の武士達も様々な場面で、このような光景を見たに違いない。
日の暮れるまで海を眺めて、江ノ電で鎌倉に戻ると、ぼんぼりには
淡い灯がともり、段葛から境内へ、真夏の一夜を彩っております。
菓子処「紅谷」で洋菓子の詰合せを求めました。

富士を背に夕映えの海岸で
さて、前出いたしました建長寺、円覚寺、浄智寺、これに寿福寺、
浄妙寺を加えましたのが「鎌倉五山」、禅宗では最高の格付です。
折しも国立博物館では「京五山・禅の文化展」が開催中でした。
京五山としては天竜寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺、これに
別格で南禅寺が加わるそうです。禅宗が広まる経緯には鎌倉幕府が
大きく関わります。京都には延暦寺などの勢力がありましたので、
禅僧としては、新しい政権のある関東に助力を求めたのでしょう。
展示場では、円覚寺所蔵・絶海中津書状なども出品されていました。
京五山と鎌倉五山の職位を同等とするよう、そんな内容の手紙でした

東京国立博物館の前で