私と紙飛行機
 多くの人がそうであるように、私と紙飛行機の関わりは子供の時にさかのぼります。よくするように、新聞の折り込み広告を折って紙飛行機を作って遊んだわけです。
 近所の友達とどこまで遠くまでとばせるかを競い合って遊びました。
 小学校高学年になってからは、紙(お菓子の空き箱や広告)を切って部品を作ってセロテープで(!!)張り合わせて切り紙飛行機をつくっていました。もっともこれは家の廊下で滑空させて遊ぶだけの代物でした。
 中学生の時は、一時同級生と学校帰りに学校横の神社の境内でノートの切れ端で作った折り紙飛行機の滞空時間を競って遊んでいました。
 まあ、私と紙飛行機の関わりはこうした素地があったわけですが、しばらく紙飛行機で遊ぶことは無くなっていました。時々折り紙飛行機の自信作を作ってとばしてみただけです。
 私と切り紙飛行機との本格的出会いは平成4年のことになります。長女が1歳になってヨチヨチ歩きを初めた頃、週末は車で10分ほどのところにあるつくば科学万博記念公園の芝広場に子供を連れて遊びに行っていました。すると年輩の夫婦がとばしている紙飛行機が広い広場上空を悠然と飛行していたわけです。この人たちは現在つくば紙飛行機を飛ばす会代表の大久保さん夫妻だったわけです。
 思わず自分もやってみようと早速ケント紙を買ってきて適当に組み立ててとばしてみましたが、ぜんぜん飛びません。
 そこでおもちゃ屋に行くとホワイトウイングス15機種キットの中に設計者の二宮先生(現在の日本紙飛行機協会会長。第1回世界紙飛行機大会優勝者としてあまりにも有名)の設計入門が入っているのに気づき、その入門書欲しさにキットを買って(キットはだれか近所の子供にあげてしまった)、それを参考にまた作ると、いちおう10秒くらい飛行するものが作れるようになるとどんどんのめり込んでいったわけです。この辺の機体開発については試行錯誤コーナーに書いています。
 それからしばらくたって、ジャパンカップ全日本紙飛行機競技大会の開催が決まって、私も参加してみることにしました
 予選が筑波宇宙センターでも行われるのでこれに参加してみると、私の成績は長野オリンピックのジャンプ団体のごとく、なんとまあ、わずか7秒の失敗飛行のあとの視界没のmax記録で挽回して1位になってしまいました。
 その後のつくばの予選でも私のこのときの記録を上回る人が1人しかなく、私は結局地区総合2位で決勝進出が決まりました。
 しかし、私が決勝会場に現れることはありませんでした。決勝当日のちょうど1週間前、平成5年11月14日の夜、私は、救急車で病院に運び込まれ、3ヶ月後に退院したときには左半身不随の身体障害者になっていました。予想もしてなかった脳梗塞の発症でした。入院中に大久保さんが、デザイン競技に送っておいた私のデザイン競技用機体が4位入賞したことを知らせてくれました。ついでに賞状と盾と二宮先生のサイン入りスカイカブUをとどけてくれました。
 その当時の私は、左足の麻痺のために歩くのに杖が必要で、左手は、腕が肩の高さより上がらず、また指はいっさい動くことはなく、とうてい紙飛行機などできるものではないと思われました。  ところが、紙飛行機仲間が、私のために体にくくりつける専用のゴムカタパルトを作ってくれ、それまでに作った機体によって第2回大会から第4回大会までの予選に参加することができました。
 しかし、世の中の競技用機のトレンドは、すでに垂直上昇機にあって、旧態然とした私の機体では地区予選の上位進出(どころか下位脱出)さえ不可能でした。
 まあ、その当時はそれでもいいか、参加することに意義がある精神で参加してきましたが、さすがに予選最下位を記録して、第1回の予選会場1位の自尊心が刺激されたわけです。
 そこで、第5回大会から新機種の設計に力をそそぐこととして、右足で図面を引くための定規を押さえ、リハビリの結果、かろうじて動くようになった左手の親指と人差し指と、全く問題のない右手で機体の組立を行い、いちおう垂直上昇型の機体をでっちあげて、予選に参加したのですが、やっぱり予選落ち。
 それでも麻痺の状態はあまり変わらないのですが、次々と新しい機体を制作しているうちに、麻痺した状態で飛行機を組み立てるコツを会得し、ある程度の工作ができるようになり、第6回、第7回と連続でデザイン競技で入賞をはたしています。ただ、滞空競技の方がどうにも……。

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