パキスタン取材から

 

パシュトゥーンとパシュトゥニスタン

 いろいろな人の話を聞く。いろいろなコメントがノートに記される。そのなかの、どのコメントを取り上げるかという段階になると、やはり、公平に、とはいかない。自然、自分と気の合った人間や、自分の意見に裏づけを与えてくれるようなコメントを拾いがちになってしまう。まったくその問題に無関心でもない限り、客観的な分析を行うことは実に難しい。

 私は主にハザラの連中と接してきたから、当然彼らには同情的だし、親近感を抱いている。取材者の勝手な思い込みかもしれないが、彼らのうちの数人とは、ジャーナリストと取材対象、という関係を越えた友情を築けたのではないか。思い入れ過多かもしれないが、私はそう思っている。
 それでも私は敢えて彼らを「迫害された少数民族」と位置付けたくはない。ます、少数民族、というが、多民族国家アフガニスタンにおいてハザラが占める割合は15〜20%と、人口の上では決して少数ではない。ちなみに、最大多数のパシュトゥーンでも約40%、二番目のタジクは約25%という統計がある。その意味では3番目に大きな民族だ。彼ら自身が強調するように、ハザラをマイノリティたらしめているのは、その人口ではなく、またシーア派という宗派的問題でもなく、そのモンゴロイドの顔だちにあるのではないかと思っている。
「君たち日本人は、自分たちの顔をどう思っている? 俺たちは目が小さいし、鼻も低い。そのことで馬鹿にされるんだ。俺たち、高い鼻に憧れているんだよ。」
「イランに行ったハザラは、顔が違うって蔑まれるんだ。」
「イランは同じシーア派だけれども、俺たちを助けてはくれない。彼らは民族的に同一なタジクを支援しているんだ」
 以上はペシャワルのハザラ人のコメントだ。滑稽なのだけれども悲しくなる。そして、だからこそ、彼らは私を歓迎してくれた。同じ顔をした日本人。経済発展した日本人。ロシアに勝った日本人。超大国アメリカと戦争した日本人。それらのイメージは時に、歴史の偶然であるし、また彼らの無知によって助長されている面は否めないのだけれども、彼らはそのように日本人である私に同胞としての友情と敬意をもって接してくれた。
「パキスタンはパシュトゥーンを、トルコはウズベクを、イランはタジクを支援している。日本や中国や韓国がハザラを支援してくれることを望んでいるんだけれど……。だって、同じ『ナショナリティー』じゃないか。」
 そう問い掛ける彼らに、私は「武器援助ならしないよ。特定の民族じゃなく、アフガン人みんなを助けたいんだ」と答え、日本人も、多くは西洋人のような高い鼻に憧れているのだと説明した。

 タリバーンの、数回に渡るハザラ人虐殺に関しては、Human Rights Watch などが検証し、国際的にも認知されている。しかし、私はだからといって彼らを、虐げられてきた可愛そうな民族、とは定義したくない。パシュトゥーンやタジクからは「ハザラは戦闘的で残虐だ」という声も聞く。反タリバーン戦ではマスード将軍が有名だが、バーミヤンや中部アフガニスタンではハザラもまたタリバーンに対し頑強に抵抗し続けてきたのだ。だから上記のようなコメントも聞かれるし、ハザラに親族を殺された、という者もまた少なくはない。それこそが内戦なのだ。、その規模の大小や、侵攻か防衛かでその善悪を判断する気は私にはない。

 取材元の選択に話しを戻そう。困ったのは熱烈なタリバーン支持者である。私は、こんなことになるまではむしろタリバーンを政権として認めることによってアフガニスタンに「国際社会」での居場所を与えるべきだと思っていたし、タリバーンをそれほど否定的に捉えてはいない。それでも、パキスタンで出会ったタリバーン支持者の言動にはしばしば辟易させられた。例えばこんな具合である。

「彼らは真のイスラーム国家をつくろうとしているんだ。無実の人々を殺戮しているアメリカと戦って、人々を守っている。住民もみなタリバーンを支持している。北部同盟が政権を握っていた時のことを知っているかい? 奴らは強盗で、殺人者で、強姦魔だ。人々は怖くて外を歩くこともできなかった。そこにタリバーンが現れて、平和をもたらしたんだ。」
 細かいことはさておき、ここまでは私も概ね同感である。そこで、タリバーンは非常に偏ったイスラーム解釈を圧しつけているように思うが、と言ってみる。
「ヒゲをはやさないと殴られるとか、音楽を聴いてはいけない、とか、そんなことはみんな嘘だ。アメリカのプロパガンダにすぎない。彼らはムスリムだ。罪のない人を殺すようなことはしていない。」
「確かに女性は顔を隠している。コーランにそう書いてあるからだ。でも、女性を抑圧しているなんて嘘だ。女性は家事をしたり、子育てをしたり、家庭内の一切を取り仕切っている。」
「パシュトゥーンはアフガニスタンの80パーセントを占めている。タジクやウズベクの政権なんてアフガニスタン政権とは認められない。タリバーンは皆パシュトゥーンだし、パシュトゥーンがアフガニスタン国家を作ってきたのだ。」
・・・しかしタリバーンにはアラブ人や外国人も多いと聞くが・・・
「イスラームの教えでは、ムスリムはみな兄弟だ。アラブ人とかチェチェン人とかインドネシア人とか、国籍は関係ない。彼らはみな、イスラームのために集まっている。」
 彼などは極端な例だと思うが、こういう話し、データを無視した偏狭なタリバーン讃美の説教を聞かされるとさすがに疲れるし、うんざりする。
 私が読んだ日本語約コーランには「女性は顔をかくせ」などとは書かれていないかったし、まして教育を禁じたりはしていなかったはずだ。そして、北部同盟を非難するにあたっては民族の違いを持ち出しながらタリバーン参加の外国人に対してはムスリムの同胞を唱えるのも矛盾している。

 あくまで上記は、ある一人の例であるし、かなり極端な例であるとも思う。

 パシュトゥーンはアフガン人口の約40パーセントを占める。さらには、パキスタン人口の約15パーセントを占める。アフガニスタン東部から、ペシャワルを含むパキスタン西部にかけては「パシュトゥニスタン」と呼ばれることもあり、その帰属を巡ってアフガニスタンとパキスタンが争ってきた地でもある。パキスタン側、アフガン国境沿いにトライバルエリア(部族地区)が設けられ、部族による自治が認められていることに象徴されるように、領土国家としてのパキスタン国民意識は総じて弱いようだ。従って、ペシャワルはまたパシュトゥーンの都市でもある。
 同じアフガン難民であってもパシュトゥーンと非パシュトゥーンとではこの都市における立場は大きく異なるようである。少なくとも、ハザラやタジクにはそのように感じている人が多い。
 しかし、当然ながらそのパシュトゥーンにもまた様々な意見がある。ある若者は、自身パシュトゥーンでありながらパシュトゥーンが嫌いだ、と言う。
「特にトライバルエリアのパシュトゥーンはひどい。教養がなく無知だから、すぐに殺し合いを始める。」
 また別の男が言う。「パシュトゥーンは争いが絶えない。眼が合っただけで喧嘩をすることもあるんだ。『なんで俺を見ているのだ』と。そして、ナイフで、銃で喧嘩を始める。」
 さらに、伝統的に子供の結婚は親が決める。まだ子供が13、4歳の時に婚約を済ませることもある。「お宅のお嬢さんを嫁にくれないか?」断ると、それがもとで殺し合いになることもあるそうである。「パシュトゥーンは誇り高く、勇敢な戦士だ」 その男は、その点に関しては自信を持って誇っていた。
 駄目押しにもう一つ。次はペシャワルで働くチトラール出身者が語ってくれた談話だ。
「トライバルエリアでは裁判所は用なしだ。揉め事があっても裁判で解決しようなんて人は誰もいない。地域のジルガで裁かれるんだ。(トライバルエリア外の)パキスタン人とのトラブルでも同じこと。彼が裁判所に訴える。でもトライバルエリアからは誰も出頭しない。それを強制する権限は政府にもない。そこではパキスタンの法律は通用しない。トライバルエリアだからね。
 だからトライバルエリアでは電気も非常に不安定だ。電気代も電話代も、彼らは払おうとしないから。自分たちをパキスタン人だと思っていないのに、どうしてパキスタンに支払わなければならないんだ、というわけさ。」

 さて、こう続くと、何も知らない人はパシュトゥーンをまるで「未開の蛮族」のように捉えてしまうことだろう。もちろん、そんなことはない。総じて誇り高く、信義に厚く、歓待精神にあふれた人々なのである。前述の男は「目が合った」といって喧嘩するパシュトゥーンの粗野さを恥じるように語ったものだが、それに対し、私は次のように答えた。
「そりゃ乱暴だ。まるで日本人みたいだ。」
 少なくともパキスタンには、「足を踏まれたから」とか「席を詰めてくださいと言った」から殺されるというような理不尽な暴力は存在しない。

 


カーペットマーケットのハザラ人

「このカーペットの値段を知っているかい?」
 私が知らない、と答えると「何回もここに来ていて、そんなことも調べていないのかい」と笑われてしまった。アブドゥラ・ハキムは33歳。パルヴァンの生まれだが、マザリシャリフで多くの時を過ごし、パキスタンにやってきたのは5年前。小さなカーペット店の店主である。3人兄弟、2人姉妹の長兄。彼自身は結婚して4人の娘がいるという。両親は既にいない。母親は7年前に癌で病死し、その翌年には父親が交通事故で死亡した。亡くなった父親は医師の助手だったそうで、彼もマザリシャリフではインターナショナル・メディカル・エデュケーションで学んでいた。「今はカーペット屋だけれどね。」と笑って付け加える。

 なぜカーペット屋を?

「パキスタンではアフガン人が部屋を借りたり、仕事を見つけることは非常に難しい。アフガン人にできる仕事といったらカーペット屋くらいしかないんだ。」

 距離的に近いウズベキスタンやトルクメニスタンに行かずにパキスタンに来たのはなぜ?

「トルクメニスタンやウズベキスタン国境は戦闘が激しく、国境の管理もとても厳しかった。アフガン人を受け入れてくれないんだよ。そこへゆくと当時パキスタン国境は常に開いていたし、パスポートも書類も要らず自由に行き来できたんだ。」

 ここには大勢のハザラ人がいるけれども、アフガンの他民族との関係はどうなの?

 この質問には隣にいたタジク人、スルタン・ムハンマドが答える。
「ハザラ、パシュトゥーン、タジク、ウズベク、アフガニスタンには色んな民族がいてそれぞれの伝統を持っている。それぞれが独自のステートだといってもいい。でもみんな合わせて一つのアフガン人なんだ。」
 アブドゥラは「パキスタンでは何の問題も無く暮らしているよ。」と付け加える。

 アフガニスタンの諸民族のなかでもハザラ人は貧しいと聞くけれども?

「貧しいよ。ハザラは殆ど山に暮らしている。都市の発展も関係ないし、農業のための土地も充分ではない。だから貧しいんだ。」

 ソ連軍が撤退した後のムジャヒディン政権は内戦を引き起こしてしまいました。民族間の対立、例えばハザラ人にはヒズベ・ワフダットのハリスがいて、マザリシャリフにはドスタムがいて、戦争ばかりしている彼ら司令官を、住民は支持しているのですか?

「もちろん支持している。住民には自分たちを守ってくれる組織が必要なんだから。彼らがいなければ我々はタリバーンに、もっと酷い目に遭わされただろう。」
 スルタンが付け加える。
「なんで彼らが互いに戦争を始めたか知っているか。パキスタンやイランやロシアや、色々な外国がそれぞれに金を渡してコントロールしようとしたからだよ。長い戦争でアフガニスタンでは仕事が無い。地雷がいっぱいで農業もできない。どうやって生きていけばいいんだ? そんな時にお金をくれる人がいたら、その人の言う通りにならずにいられるか?お金をもらって『あいつを殺せ』と言われたら殺すしかないだろ。」
「多くの難民の子供たちが学校にも行かず、カーペットを作っている。親たちに他の仕事がないからだよ。多くの難民は学校にも行けない。もちろん全ての親が、子供にいい教育を受けさせたいと望んでいるはずだ。でも仕事が無い、お金が無い、どうして生きて行けというんだ? 生きるためには子供たちにも働いてもらわなければならないんだ。ヨーロッパでは難民には家も教育も無料だというじゃないか。でもパキスタンは違うんだ。色んな団体がアフガニスタンを支援している。でもそれはおれたちには届かない。届いてもわずかだ。九割はパキスタン政府が取り上げてポケットにしまっているよ。
 例えば彼(アブドゥラ)は家族のアパートに月5千ルピー払っている。その他に、この店の家賃や電気代など2万ルピー払っている。政府は何の援助もしてくれない。働いたお金は全部パキスタンに支払っているようなものだ。アフガニスタンを援助してくれるのはとても嬉しい。でも、やるならアフガニスタンに行って、手から手へ直接手渡してくれ。そうでなければパキスタン政府が儲かるだけなんだから。」

 カーペットマーケットで働くハザラ人にパキスタンへやってきた時期を尋ねると、大抵は自分の町がタリバーンに占領されたときに逃げてきたという。それでは、タリバーンが来るまでの生活はどのようなものだったのだろうか。

「今までの全ての王や大統領は自分の利益の事しか考えてこなかった。貧しい民衆のことを考えて政治を行ったものは誰一人いない。力が正義だし、力が人々を支配してきた。それがアフガニスタンの基本なんだ。」アブドゥラはそう言って苦笑いを見せる。

「タリバーン以前にも戦争はあった。マザリシャリフでは、ドスタムとジャミアティとヒズベ・ワダットの三派だ。でも彼らの戦争は兵隊同士のものだったし、一般人が殺されるようなことはなかった。そんなことをやったのはタリバーンだけだ。」
「各民族は田舎ではそれぞれ別々の暮らしをしている。ジャウジャンではウズベクが多数派だしファーリャブではウズベクとトルクメンが多数派。マザルはハザラとウズベクが混ざり合っている。でも都市部では民族の区別なく一緒に暮らしていた。ソ連が侵攻してくる前、ダウードの時代がそうだった。その後、ソ連軍がやってきて、ムジャヒディンの時代になって民族が別れるようになった。」
 タジク人、スルタン・ムハンマドはタリバーン以前のカーブルの様子を次のように説明してくれた。
「ソ連軍がやってきて自分たちの政府を作ろうとしたが、おれたちは共産主義者ではない。共産政権なんて受け入れられなかった。だから戦ったんだ。その後、ソ連軍は撤退したが、共産主義の政治家は残ってそのまま政治を続けようとした。それを受け入れることなんてできるわけがないじゃないか。」「その後のムジャヒディン政権時、アフガニスタンには七つの政党があったが、それぞれに別々の国から支援を受けていた。彼ら軍事指導者は政治のやり方なんて全く知らなかったんだろう。ところがソ連との戦争の結果、武器と兵隊だけはいっぱい残っている。そんなところに外国が金をくれて『あいつを殺せ』と指示したんだ。」

 今回のアメリカの空爆に関してはどう思っているのだろう?

「モデレートされた人の中には、平和をもたらすためだとして支持する人もいる。意見は様々だ。でも、アメリカが軍隊を駐留させ続けるなら平和はやってこないだろう。アフガニスタン人は外国軍の支配を認めはしない。国連が『平和維持』目的で介入するのがいいのではないだろうか。」

 外国の介入が紛争を長期化させている?

「そうだ。ハザラとかタジクとかパシュトゥーなんて本来は問題じゃなかった。それらが集まって一つのアフガンだったんだ。」

「非武装の政府ができることをみんなが望んでいるんだよ」とアブドゥッラが付け足す。「一番の問題は貧しいということなんだ。金がない、仕事がない、となったらどうやって生きて行く? 強盗にもなるだろう。貧しいから犯罪も増えるし戦争を起こすんだ。財産があって満足な暮らしをしていたら戦争なんか始めるものか。アフガニスタンだけじゃない、世界中でそうだ。パキスタンでは多くの兵隊がカシミールに行っているのは知っているだろう。彼らは一日100ドルの給料を政府からもらえるって言うじゃないか。だから金のために戦争に行っているんだ。」

 ペシャワルには多くのアフガン人が住んでいる。キャンプで暮らす難民と街中に暮らすアフガン人とは何が違うのだろうか?

「金があるかどうか、ということだけだ。金のある人、モデレートされた人はキャンプには行かず都市に住んで仕事をする。キャンプの不自由な生活を嫌がるんだ。この辺りだって昔はサダル(カーペットマーケットから500メートルほど離れたメインロードの一つ)に一つマーケットがあっただけだった。そこに多くのアフガン人がやってきてビルを建て、今のようになったんだ。そのころはアパートも月1100ルピーで借りることができた。今では5000ルピーもするけれど、何の援助もない。一方で、金のない人はキャンプしか行くところがない。特に農民は土地を追われては農業ができない、仕事ができない。だから多くがキャンプに行く。」

 タリバーンをどう思う?

「彼らはムスリムだ。でもアフガン人じゃない。彼らはみんな外国から、パキスタンからやってきた。」

 パキスタンの難民キャンプやマドラサの出身者も多いと聞くけれど。

「そうだ。だから教育がないわけじゃない。マドラサでは5年10年と、長いことコーランを学ぶんだ。でも彼らのイスラームは非常に狭い捕らえ方で物事を見ている。罪のない人を殺せなんて、コーランには書いていない。 
 おれたちの挨拶を知っているか。『アッサラーム・アレイクム』これは『あなたのもとに平安を』という意味だ。イスラームは平和をとても大事にするし、人を傷つけたりはしない。」

(2001年11月のインタビューから)