イラン  (2003年3月2日〜3月28日)

 

  シーア派イスラーム 〜アーシュラー〜

  現代イランの素顔 〜イスラーム体制の現在〜

  民族と国家 〜複合国家イラン (未完) 

 

 アーシュラー写真は左をクリック!

 

シーア派イスラーム

「毎日がアーシュラー、全ての地はカルバラー」


 ヒジュラ歴(イスラーム太陰暦)の第一月、モハッラム。イランの町では、街路樹に、バーザールの軒先に、と、そこかしこが黒い横断幕で飾られる。そして、ある勇士の肖像があちらこちらに掲げられる。白馬に跨っていたリ槍を手にしていたリするその男は、額や頬から血を流しているのが普通である。「ホセイン」が彼の名だ。預言者ムハンマドの従兄弟であり娘婿であるアリーの息子、つまりモハンマドの孫でもある。

 シーア派とは、正確にはシーアト・アリーといい「アリーの党派」を意味する。シーア派とスンニ派との対立の根源は、ムハンマド亡き後のイスラム共同体(ウンマ)指導者の座を巡る正統性争いである。一方では、指導者は合議によって選出されるべきだ、とされた。その後のイスラム帝国にも受け継がれる「カリフ」位がそれである。また、他方では上述したような預言者ムハンマドの血筋にあたるアリー、そしてその血を受け継ぐものこそが指導者の座に相応しいと唱えた。それらが後に、前者がスンニ派、後者がシーア派へと発展して行く。ちなみに、アリーはスンニ派においては第4代カリフであるが、シーア派においてはアリー以外の「カリフ」の正統性そのものが認められていない。そして、「カリフ」に代わって、シーア派ではウンマ指導者を「イマーム」と呼ぶ。アリーは初代イマーム、その子ホセインは第3代イマームである。
 西暦661年、アリーは暗殺され、当時、大勢力を築きつつあったウマイヤ家のムアーウィアが「カリフ」に選任される。アリー派はこれを認めない。かくして西暦680年(ヒジュラ歴61年)のモハッラム10日、ホセインとその軍は、ウマイヤ家の大軍に戦いを挑むことになる。戦場となったのは現イラクのカルバラー(キャルバラー)。ウマイヤ軍の圧倒的な戦力の前にホセイン軍は敗戦、ホセインは戦死する。「ウマイヤ朝」の基礎が定まり、「カリフ」に率いられたイスラーム共同体は、その後「イスラーム帝国」として発展してゆく。シーア派は「反体制」となった。彼らは「カルバラーの悲劇」を、正義が悪に破れた日として記憶に留めた。
 その後、シーア派においても、その後継者を巡って分派するが、現イラン国民の多数を占める「12イマーム派」の解釈では、その後、預言者とアリーの後継者「イマーム」は12代まで続いた、とされる。その12代イマーム、モハンマド・アリモンタゼル(マフディー)は、西暦874年に消息を絶つ。これを信徒たちは「お隠れ」と呼ぶ。そして、信じるのだ。いつの日か、お隠れになっているイマームが再臨される。その時こそ世界に、真のイスラームが、正義がもたらされるのだ、と。

 
イラン革命がそうであったように、またサッダーム政権下のイラクでそうであったように、シーア派は、しばしば「反体制運動」として大きな爆発を起こす。歴史的にも抑圧されてきたシーア派は、ある意味で体制否定的な要素を色濃く持ち、それゆえに圧制に対する抵抗運動や、占領に対する解放闘争などに共感しやすいと言えるかもしれない。さらに、そこに加わる「お隠れイマームの再臨」という、ある種の救世主思想は、「最後の審判」を待つまでもなく、現世における「正義」の実現への希望を与えており、そのための「殉教」を尊ぶ気概も強いように思われる。

 アフガニスタンとも国境を接する、イラン東部、ホラサーン州の州都マシャッド。シーア派8代イマーム、レザーの殉教地であり、墓所である。イマーム廟が存在するイランで唯一つの街でもあり、マシャッドには聖地として、多くの巡礼者、旅行者が訪れる。街の中心はハラムと呼ばれ、黄金のドームが遠目にも眩しいイマーム・レザー廟、青いドームのマスジェッド(モスク)、神学校や図書館、博物館が連なる。ハラムに入るには手荷物を預け、ボディチェックを受けねばならない。写真撮影は禁止されている。なんでも10年ほど前に、反体制ゲリラによる爆破事件があり、その後、警備体制が強化されることになったのだという。聖廟内、イマーム・レザーの棺は金銀の柵で覆われ、天井や壁も金銀のタイルで飾られている。シャンデリアの灯りがキンキンギラギラの廟内を鈍く照らす。巡礼者は棺に手を伸ばし、口づけして祈り、願いを捧げる。

 西暦2003年のアーシュラー(モハッラム10日)は3月14日だ。しかしアーシュラーの行事、言い換えるならイマーム・ホセイン殉教追悼行事はその日だけ行われるのではない。アーシュラー、その前日モハッラム9日のタスアー両日を頂点に、大きく言えばモハッラム月全体がホセインの喪にあたる期間とされているらしい。京都祇園祭における宵山、宵々山みたいなもの、と言えば関西方面の人には分かってもらえるだろうか。
 モハッラムに入り、アーシュラーが近づくにつれ、町は徐々に黒く飾られてくる。黒い布地に「ホセイン」や「キャルバラー」の文字が目につくようになる。「全ての日はアーシュラー、全ての地はキャルバラー」これはシーア派のスローガンのようなものである。あの悲劇を忘れるな、と。イマーム・ホセインの肖像画、彼の殉教の場面を描いた絵画もあちこちに掲げられるようになる。そして、夜毎、どこからともなく聞こえる太鼓の響き。太鼓の音のする所へ行ってみると、10人ほどの男たちが太鼓の音頭に合わせて、手や棒を振るって身体を叩きながら行進している姿が見受けられる。
 イラン北西部の街、タブリーズでは日本で働いていたこともある(今も日本に行きたがっている)非宗教的な男が「毎晩毎晩、うるさくてかなわん」と愚痴をこぼしていた。また、クルド人の町、マハーバードではクルドの男が「ありゃ、イラン人だ」と言っていた。クルド人は大多数がスンニ派である。その他、イラン人でもスンニ派の人々は概してアーシュラーの行事を冷ややかに眺めている。自分で自分の身体を打って・・・、「アホなことをやっている」といった具合に。
 私がマシャッドを訪れたのはモハッラム8日。さすが、というべきだろうか、聖地という土地柄、またモハッラムという時期もあってか、女性は殆どがチャードルに身を包み、他の町とは段違いに町の色は黒い。誤解のないように付け加えておくが、色彩として「黒い」のであって、決して人々が「暗い」わけではない。さらに、ハラムで巡礼者を眺めていると、その顔つきの多彩さにも驚かされる。イメージとしては漠然と、イラン人、ペルシア人、シーア派をイコールで結びがちなのだが、巡礼者にはアフリカ系の顔もいればアラブ系の顔もいる。東洋系の顔もまた多い。やはりシーア派が多数を占めるアフガニスタン・ハザラ人かと思いきや、そればかりではない。後述するが、トルクメンやウズベク、中国の人も少なくはないそうだ。

 モハッラム9日、この日は「タスアー」と呼ばれる。ホセイン追悼祭はいよいよ本番といったところだろうか、ハラムへ通じる大通りは朝から交通規制が布かれ、一部は通行止めにされる。通りのそこかしこにはチャイ(紅茶)やジュースを供する屋台が設けられている。無料である。通りには次から次へとアーシュラーの行進が連なる。見物客も含めて、あたり一面、人、人、人、である。行進はだいたい20から50人くらいが一団となって行われる。まず、横断幕やホセイン殉教画が先頭を務める。その後に2列縦隊の男たちが続く。中央にはスピーカーを積んだ乗用者や軽トラックが陣取り、荷台で男がマイクを握り、ホセイン殉教詩を謳いあげる。リヤカーにスピーカーを積んだ、徒歩の場合もある。その前後に太鼓、シンバル隊が構え、行進の音頭をとる。行進する男たちは、その殆どが黒シャツ、黒ズボンといった装いで、手にはヌンチャクの片側を鎖の束にしたような物を持っている。それを、太鼓、シンバルのリズムに合わせて、ホセイン追悼句を掛け声に、右に左にステップを踏みながら振り上げ、背中に打ちうける。ザンジール・ザニーと呼ばれる行事がそれだ。また、鎖を持たないものの、やはりホセイン追悼句に合わせて両手を掲げ、自分の胸を打つスィーネ・ザニーを行っているグループもある。さらに「アラム」の行進を行う者もいる。アラムとは、旗印のような飾り付けられた竿のことをいう。その竿に剣を模した金属板が山状に連なり、さらにクルアーンの文言やホセインを称える言葉が記された帯や殉教画が掲げられ、銃弾や宝石で飾られている。幅は3〜4メートル、高さも2メートルはあるだろうか。そのアラムを一人で担ぎ、歩くのである。当然、装飾が見事な物の方がより重い。担ぐ男は必死の形相だ。これらのグループは地域ごと、または職場ごとに組織されているらしい。それが次から次へと連なり、途切れることがない。女性のグループが続くこともある。こちらは鎖は持たない。スィーネ・ザニーも行わず、追悼詩を唱えるか、或いは無言の行進である。これらの行進は時折立ち止まって、マイクを握る追悼詩の言葉に聞き入る。車上の男は情緒豊かにホセイン殉教の様子を謳いあげる。いつしか声は涙を含み、感極まって嗚咽に喉を詰まらせる。もうこれ以上は語るに耐えない、とマイクを他に手渡し、壇上から降りる者もいる。聴衆も涙に目を腫らし、目頭を押さえる。「ヨー・ホセイン、ヨー・ホセイン」の大合唱。そして再び行進は続く。
 昼時に二時間ほど中断を挟み、朝から晩までこれらの行事が繰り返される。晩には羊の生贄も行われた。喉をかき切られ絶命した羊。流れ出た赤い血が、アスファルトを染め、オレンジ色の街灯を反射して光っていた。

 翌モハッラム10日、アーシュラー。私の宿泊する宿には朝、役人がやってきて、一部屋づつノックしては何やら伝えている。ハラム内の事務所に出頭した上でお食事券を入手されたし、とそういうことである。なんでもこの日、全てのレストランが無料になるのだそうだ。しかし、指示された事務所に赴いたところ、この「お食事券」はムスリム以外には支給されないとのことであった。「申し訳ないが」と申し訳なさそうに伝える係員。ムスリムの宗教行事なのだから当然といえば当然である。が、結局、結果的にはこの日、タダ飯にあずかる事になってしまった。アーシュラーのこの日、モスクや町の集会所(民家の場合もある)では無料で食事が支給されているのである。紛れこむ、などという邪な考えはなかったのだが、ガイド氏や周りの人々の御好意で、異教徒たる私にも食事は無料で振舞われたのだ。羊肉入りの豆シチュー、鶏肉を添えたピラフ、といただいた。
 通りで行われる行事自体は前日と変わらない。昼の休憩を挟んで、朝から晩までザンジール・ザニー、スィーネ・ザニーの行進が続く。ただし、晩にはそれらに続いて蝋燭を持った行進が続いた。行進、行事の終わりは判然としない。或いはイマーム・レザー廟にお参りし、或いはそこに到る前の広場やモスクの前で、再度ホセイン追悼句を唱和し、解散となるようである。もちろん、その後「お疲れさま!」と乾杯するわけではない。そして、アーシュラー翌日にも、小規模ながら同じような行進は行われていた。

 前述のように、「アーシュラー」はシーア派独自の行事である。キャルバラーの戦いもホセインの殉教も、世界史のなかでは、またおそらくスンニ・イスラームの歴史観においてもイスラーム帝国の成立過程における一分派闘争、反乱でしかないのであろう。事はシーア派にとってこそ「聖戦」であり悲劇であり「殉教」なのである。スンニ派の人が馬鹿にするように、多分にマゾヒスティックな行いであることは疑いを得ない。それはシーア派信徒にとっては、殉教者の苦しみを、自らの身体に刻み付ける事によって共有しようという試みである。正義が悪に敗れた、あの日を忘れるな、と。そして、殉教者ホセインのように義のためには命を捧げる事を厭うな、という教えでもあり、復讐の誓いでもあるかもしれない。「近代化」を目指したイスラーム革命前のパフラヴィー朝は政教分離を唱え、アーシュラーの儀式を禁止したという。しかし、反王政派は弾圧にも耐えてアーシュラーを敢行し、王政に弾圧された人々は新たな「殉教者」として称えられ、それら弾圧に倒れた人々を悼む意志表示としてアーシュラーは益々熱気を帯び、革命の大きな引きがねとなったとも言われている。当時、革命運動に参加した人々には社会主義者もいれば民族主義者もおり、必ずしも(結果としてそうなったにせよ)「イスラーム革命」を望んでいたわけではない、という。それでも反王政を掲げ、自由や抑圧からの解放を志した人々の心には、イスラームという教義を越えた精神的な支柱として、ホセイン殉教の物語が存在していたのではないか、と思われる。キャルバラーの悲劇は「シーア派」という枠組を越えて、より広く抵抗のシンボル足りうる。故にパフラヴィー王政はアーシュラーを禁じ、隣国イラクでもサッダーム政権はアーシュラーを禁じていた。
 民族的性質などとひとくくりに捉えることの無意味さと危険さを承知した上で、それでも敢えて言うならば、イランの人々の心情や価値観にはどこか日本人(かつての日本人と言ったほうが正確だが)のそれと共振し合う部分が少なくないように思われる。判官贔屓、と言おうか、結果よりも心意気をよしとする気概、「もののあはれ」を解する、どこか武士道的、任侠精神はありそうだ。「おしん」がイランで非常な人気を博しているのは、案外、そんな精神風土に合致しているからかもしれない。同様に、パレスティナの人々の抵抗闘争に寄せる同情も高く、また、日本の「カミカゼ」攻撃に対する理解も深い。
 さて、以上、表層に見える公式見解のアーシュラーに関して述べてみた。言わば「建前」である。ここでやはり、一異教徒である外国人が垣間見た、現代イランの「本音」の顔に関しても紹介しておきたい。
 現実のイラン社会は当然ながら宗教的情熱が全てを支配しているわけではない。一見すると殺気立った行事であるアーシュラーにも、よく見ると別の顔が同居している。行進に繰り出す前の集まりや昼食時の歓談の様子は、お神輿を担ぐ前の日本のそれと同様に和やかな雰囲気で、特に子供たちはお祭りを前にはしゃいでいる。鎖で背を打つザンジール・ザニーも、顔こそ皆引き締めているが、明らかに痛くないよう手を抜いている者も少なくはない。車上で嗚咽に声を震わせていた殉教詩の語り手は、マイクを手放した途端、傍らでにこやかにチャイを啜っていたリする。目頭を押さえていた聴衆もまた然り。女性の中には、身を覆ったチャードルにカメラやビデオカメラを隠し持っている人たちもおり、いざシャッターチャンスとなると観光客、撮影者に変身したりする。聖なる宗教行事であるとともに、アーシュラーもまた一つの「お祭り」であることも事実なのである。

 

現代イランの素顔


テヘラン

 イランの首都、テヘランは、カスピ海の南、4000〜5000メートル級の山々が連なるアルボルズ山脈の南麓に広がる高原都市である。パフラヴィー王政下で整備されたという、広い道路は街路樹で飾られ、その脇の小川には雪解け水がせせらぐ。公園や広場には植樹された緑が鮮やかに映え、北を望めば雪の冠を頂いた山々が街を覆うようだ。本来は美しく整備された都市なのであろう。しかしながら、現実にこの街に足を踏み入れると、とても景色を愛でている余裕などない。
 交通事情はアジアでも最悪の部類であろう。曲線の少ないことも災いしてか、幅広の道路を無数の乗用車、バス、バイクが疾走する。交差点はロータリーが基本だが、たとえ信号があってもそれに従う車は少ない。さらには反対車線を逆送する。殊にバイクは歩道まで走るものだから危険極まりない。車は革命前から乗り続けていると思しき国産車ペイカン、同じく年代物のトヨタ。ミラーが欠落している物も珍しくはない。おそらく皆、前しか見ていないのであろう。それらが排ガスを撒き散らしながら「隙あらば」と疾走するのである。また、そういう気持ちになるのも理解できるほど、交通量は多い。渋滞も深刻だ。そんな状態だから、当然、事故も頻繁に目にする。ここではバンパーやドアが触れ合った程度では事故とは呼ばない。歩行者はそのような道路を横断せねばならないのだから、慣れるまではまさに命がけである。
 全イラン人口の10パーセントが暮らすというテヘランは巨大で、過密した都市だ。イランの人々は概してきれい好きで、家の中などきれいに整えられているのだが、街の環境美化にはたいして関心を払わないらしい。タバコの吸殻やチャイやジュースを飲んだプラスチックのカップ、その他、包み紙等々、通りにポイポイ投げ捨てる。この街がそれでも比較的きれいに保たれているのは、数多くの清掃員が一日中作業に当たっている賜物である。
 テヘラン市街を東西に横切るのがエンゲラーブ(革命)通り。革命前の名はレザーシャー通りであったという。大雑把に述べるなら、この通りの北側が高級住宅街、高級ショッピング街、オフィス街であり、反対に南側は、低所得者層の町といえるかもしれない。文字通り、北側が「山手」だ。テヘランの大バーザールがあるのは南側で、北側では洒落たブティックやファーストフード店、高級レストランが目に付く。人々の装いも、北側は明らかに垢抜けている。なかでも若者はファッションにも敏感なようで、通りを行く彼らの装いは欧米のそれとたいした変わりはない。ヘアスタイルもパーマあり長髪ありベッカム風あり、と様々だ。髭を生やしている者は少なく、あってもそれはイスラーム風というよりはファッションとして刈り込まれた生やし方である。女性もここではチャードルは少数派。ジーンズ姿も多く、仕方なくスカーフだけは頭に載せている、といった感がある。「女性は髪を覆うべし」との服装規定のもと、以前なら前髪が見えているだけでコミテ(革命委員会)の取り締まりに会ったというが、今ではそのようなことはない。街行く女性のスカーフを見ていると、多くは垂直よりも後方にずり落ちたような被り方をしている。前髪を如何に美しく見せるか、ということもファッションの大きな要素のようで、スカーフからはみ出す前髪には部分的にカールが施されていたりし、その額への垂れ方にも様々な工夫が見て取れる。さらに、後ろ髪まで大胆に露出している女性も少数ながらみかける。こうなるとスカーフは本来の意味を失って、リボンのようなものである。このあたり、制服の規律をいかに拡大解釈して、その枠いっぱいにおしゃれするかに熱心な、日本の女子中高生と同じ心境にあるのかもしれない。スカーフも淡色物よりは鮮やかな色彩を散ばめたカラフルなものが好まれているようだ。お化粧もばっちり決まっている。若い男女がデートしている姿もみられるが、やはり二人きりという状況には抵抗があるのか、仲良し男女数人のグループ交際(日本ではすでに死語か)の方がより多く見受けられる。かと思えば次から次へと女の子に声をかけまくっているナンパ男もいる。「この国では何もかも規則規則で禁じられている。うんざりする。」ある若者は現体制への不満をそうぶちまけた。


イスラーム体制の今

 イスラーム体制下の自由の抑圧、と言われる。ことにアメリカはそのような表現を好んで使うようだ。では、実際のイラン社会はいかがなものなのだろうか。
 先に述べたように、服装規定は緩やかになってきている。正確には、規定はそのままなのだが、取締りが緩やかになっている。新聞スタンドに並ぶ新聞の種類は20紙を優に超えるだろう。政府批判等を行なって発禁処分になる度に、同じ編集者が違う名前で出版を始めるのだという。「国外から堕落した反イスラーム文化をもたらす」として禁じられている衛星放送も、富裕層を中心に視聴されている。これも解禁されたわけではない。しかし取り締まられることはなくなったそうである。イランの住宅は、一戸建てならば、通り沿いに高い壁が設けられ、内部は中庭を囲んだコの字型の建物、というのが基本である。そのような家に招かれ、門をくぐると、中庭にパラボラアンテナが設置されているのだ。高層の集合住宅の場合なら、やはり表通りからは見えないように、ベランダにアンテナを設けているそうである。
 イスラーム体制の堅持を謳う政府。進まない改革に苛立ち、「改革派」へさえも募る人々の不満とあきらめ、といった図式は確かに存在するが、一方でハータミー政権下、より正確にはホメイニー師死後、着実に社会は開放化されていることは事実であろう。かつて市民の生活の隅々まで監視していたというコミテ(革命委員会)の姿を見かけることは、少なくとも表向き、今はない。こちらの予想外に、人々はおおっぴらに政府批判を口にする。
「ハータミー(現大統領)はいい男だが」と多くの人々が言う。「彼には力がない。外国に向けてはいいことを言っているようだが、我々のためには何もしていない。」そして大抵はこう続く。「もっとも、彼には限界がある。この国の本当のトップを変えなけりゃ何も変わらない。」本当のトップとは言うまでもなく、最高指導者アリー・ハーメネイ師である。イラン・イスラーム共和国においては、形式上は三権分立が採られているが、その三権の上に、文字通り最高権力として「最高指導者」が位置している。ハータミー政権も、保革の対立が報じられる議会も、つまりは最高指導者の下部機関である。
「イランには資源もある。人材も豊富だ。政府さえ良くなれば、我々は大きく発展できるはずだ。」あるインテリ風青年は、私に向かってひとしきり日本の経済発展を称えた後にそう言った。「日本は資源もないのに発展したのだから」というわけだ。
 日本では社会の「解放」の側面に焦点が当てられがちだが、イランの人々にとっては経済政策、とりわけ失業対策は深刻な問題である。大学を卒業し、これから徴兵だというさる若者は次のように語ってくれた。
「仕事があるならば中学を出て働いたほうがいいよ。大学を出たって、それが文学や歴史の専攻だったならば何も仕事はないのだから。コンピューターや技術系の勉強をしていたら、ちょっとはましだけれども。」

女性

 例えば、市内を走るバスでは、前半分が男性席、後ろ半分が女性席とされている。長距離バスの場合でも、夫婦や家族以外の男女が隣り合わせになることはない。そのような時は速やかに席替えが行なわれて、男同士、女同士になるようにする。タクシーも同様に(イランのタクシーは後席3人、助手席に2人の定員制が基本)、例えば、後席に男性二人が座っていたところに女性が一人乗り込んできたとしたら、男性客二人は助手席に移動する。空いた後席の二人分には女性しか座れない。女性客が助手席に座ることは稀である。地下鉄(99年、中国企業との合弁で開通)の場合は仕切りがないため、それほど厳密ではないが、それでもなるべく男女が隣り合わせにならないように気を使っている。結果として夫婦者やその他カップルが男女仕切りの役割を果たすようになる。
 さらに大学以外の教育では男女別学制がとられるなど、何かにつけ男女が区別されているのだが、だからといって女性の地位が低められているというわけではなさそうだ。まず、イランでは、役所、商店、私企業のオフィス、など、多くの分野で働く女性たちの姿が見うけられる。「その程度」と思われるかもしれないが、隣国アフガニスタンやパキスタンでそのように働く女性の姿はまず見られない。女性が夫以外の男に媚を売ることはまかりならぬ、という理由から、商店などの接客業に従事する女性はごく稀なのである。そのような地域では、女性が客として見知らぬ男(商店主)と接触することにすら抵抗をおぼえるのか、買い物客にも女性の姿は少ない。というわけで、バーザールはほぼ「男の世界」となる。そのため、女性用下着の売り買いをめぐってやりとりする男たち、という我々には滑稽に見える光景も生じている。そのような状況から、よく「イスラーム体制の下で抑圧される女性たち」といった報道を目にするが、これは正確ではないだろう。確かにイスラームの教えにも一因はあるが、それをどう解釈し援用するか、ということに関しては、むしろそれぞれの文化的背景によると解釈した方が妥当ではないだろうか。それゆえに、タリバーン政権から「開放」されても多くのアフガニスタン女性はブルカを被り続けているし、一方「イスラーム原理主義国家」とされるイランでは女性も社会で働いている。少なくとも私の見た限り、イランでは男尊女卑といった意識は低い。これまたパキスタンやアフガニスタンとは異なり、イランでは女性も自動車を運転するし、上述したようなテヘランの交通地獄の中、車をぶつけたぶつかったと相手男性ドライバーと丁々発止、つかみかからんばかりの剣幕でまくし立てている、といった光景も珍しくはない。
 イランではよく食事に招かれる。突然の異邦人の訪問に、奥さん娘さんは慌ててスカーフを被るのだが、ある程度親しくなるとそのような面倒なことはしなくなる。また、スカーフの有無はともかく、食卓では家族皆一緒であることが普通だった。アフガニスタン、パキスタンでは(というよりパシュトゥニスタンではと言った方が正確だが)やはり同じように自宅に食事に招かれても、それは来客用の部屋で、女性の家族が食事の席に同席したことはない。私が余所者だからという要素は当然排除できないが、地元の友人であっても「○○のお母さん(或いは姉妹)には会ったことがない」という声は聞いたから、案外、それほど身内の女性を隠す風習は徹底しているのかもしれない。そこへゆくと、イランはその建前はともかく、実世界はかなり「俗」な世界である。若い女性たちも、初めて見る「ジャポーニー」に好奇心いっぱいらしく、結構話しかけてくれる。大抵、年齢を聞かれ、嫁さんの有無を聞かれるので、30で独身だと答えると憐れんでくれる。「あなたとだったら結婚したいなぁ」などとこちらも応じる。すると、まぁ、けらけらと笑い飛ばされるか、或いは冗談で応じてくれたりもする。アフガニスタンでこんなこと言ったら、親父さんやお兄さんに殺されかねないなぁ、と思う。実際アフガニスタンではその手のトラブルは珍しくないらしい。婚前性交渉などもってのほかで、そのようなことがあれば、相手の男ばかりか、娘さんまでも父親に殺されたりするそうである。が、イランでは親父さんの目の前であってもこんな冗談を言える。

 

イランとペルシア

 「イランへ行く」と言うと、大抵の人は心配してくれる。「危なくないのですか?」「気を付けて」等など。一般に、日本人は自分たちが自覚している以上に世界の事情に関して無知なのではないかと思う。仮に「アフリカへ行く」等と言うと「ライオンに気を付けて」とさえ言われかねない気がする。「脱亜入欧」の名残は未だに強い。最近では「脱亜入米」と言ったほうが適切かもしれない。政治家などその最たるものだと思うが、「外国」「国際」「世界」と言いながら、その対象としてはアメリカ合衆国しか想定していないのではないだろうか。
 ところが「ペルシアに行きます」というと不思議と危ぶむ声は聞かれない。「イラン」と「ペルシア」、この二つの語の与えるイメージは、ここ日本にあっては乖離といってもいいほどかけ離れているようである。
「イラン」にはどうも「イスラム原理主義」「テロリスト支援国家」といった妙な印象が付きまとうようだ。ひところ目だった、違法行為に従事する一部の在日イラン人も、そのような日本人の対イラン観に大きく影響しているかもしれない。一方の「ペルシア」は大抵「シルクロード」とセットでイメージされるようだ。「悠久のペルシア、シルクロードの旅」などと謳う旅行パンフレットなど、その最たるものであろう。大体において、日本人のシルクロードへ寄せる思いはいささか過剰である。幻想といってもいい。その実、それら中央・西アジアの実情は知らないものだから、益々なんでもかんでも「シルクロード」で片付けられてしまう。悲劇である。このあたりの歴史に関しては、杉山正明氏が「遊牧民から見た世界史」(日本経済新聞社)で優れた見解を示している。簡単に言えば、中央ユーラシア世界は、決してローマと中国の中継地という「点」であったわけではなく、そこに発展した遊牧民とその国家そのものが「面」として文化を作り出していた主体である、ということである。おそらくそうであったろう。

 「イラン」(正確には「イーラーン」)は「アーリアン」を意味する。「アーリア人」である。一方「ペルシア」とは、現イランの一地方、かつての古都、ペルセポリス、シーラーズを含む「ファールス」地方を指す。「ペルシア」とは「ファールス」のギリシア訛りである。つまり、「ペルシア」は他称、「イーラーン」が自称なのである。その「ペルシア」が「イーラーン」を基盤とする国家の呼称として(西洋では)定着した。「グレートブリテン及び北部アイルランド連合王国」が、その一地方である「イングランド」の名を持って総称(俗称)とされたようなものかもしれない。
 アケメネス朝から続く「古代ペルシアの栄光」を鼓舞したパフラヴィー王朝が「ペルシア」の呼称を禁じ、「イーラーン」を称したことにはそのような背景がある。
 もちろん、その「イーラーン」世界も、そもそもの語義である「アーリア人」という「民族」という範疇のみで捉えられるものではない。なにせ中央ユーラシア世界は「民族」の行き来も盛んなのだ。多民族共生はこの地域の常識でもある。イランの建国叙事詩「シャー・ナーメ」では、フェリドゥーン王が三人の息子に世界を三分割する。長男サルムにはルーム(小アジア)とその西方を。次男トゥールにはトゥーラーン(トルキスタンと中国)を。そして三男イーラジには世界の中心である「イーラーン」を。さらに、その三王子の后に迎えられるのはイエメン(アラブ)王の娘たちである。

 シャー・ナーメを著した詩人フェルドゥスィーの廟はホラサーン州のトゥースという町にある。イランではメジャーな敢行スポットである。「アラブに征服された我々に、彼はイランの誇りをもたらしてくれた」人々はそうフェルドゥースィーを称える。「イスラーム原理主義国家」と規定されることが多いイランだが、その内実は必ずしもイスラーム的ではないことも多い。シャー・ナーメに代表される「イーラーン」の歴史的な誇り、そしてシャー・ナーメの屋台骨でもあるゾロアスター教の伝統は決して死滅してはいない。イランがイスラームでもシーア派である事は、その最たるものだと思う。一般にイランでは血統主義は色濃い。ゾロアスター教では血統を守るために近親結婚も奨励している。代々のイラン王朝も、その正統性の裏づけとして血統を重んじる。俗説では、アーシュラーの主人公であるイマーム・ホセインの妻は、ササーン朝ヤズデギルド三世の娘であるとされている。つまり、預言者ムハンマドの聖なる血と、ペルシア王家の尊い血がここで結合したのである。かつては辺境の蛮族と蔑視さえしていたアラブ人が興した新興宗教イスラームに屈服せざるを得なかったイランの人々にとっては、そのような理論付けは是非とも必要であったのだろう。12イマーム派の、お隠れイマーム(マフディー)再臨という救世主待望論もゾロアスター教の救済者信仰と無縁ではない。
 現在イランではイスラーム・ヒジュラ太陰暦と併用して、実生活では春分の日を正月とするヒジュラ太陽暦を採用している。ファルバルディーン、オルディーベヘシュト、ホルダード、・・・・・・と続くこれら月の名もゾロアスターと密接に結びついている。それらの多くはゾロアスター教のアムシャ・スプンタ(天使のようなものか)に起源を発している。尚、ゾロアスター教は「最後の審判」思想を始め、ユダヤ、キリスト教への影響も非常に大きいらしい。さらに大乗仏教の思想にも多大に影響していると言われている。ゾロアスター教を「拝火教」と訳し解説するのは全く筋違いと言うしかない。ゾロアスター教では、火のみならず、水も、大地も神聖とされる。有名な鳥葬(遺体を鳥についばませ、風化させる)も、神聖なる大地を遺体で汚さないためである。(善悪二元論を根本とするゾロアスター教では死は悪神アングラ・マインユの仕業とされ、遺体は穢れである。)
 イスラーム化した後のイラン諸王朝はゾロアスター教徒を迫害したが、そのイランのシーア派化は、ある意味でイスラームのゾロアスター化ではないかとも思われるのである。
 「イスラーム原理主義国家」と紹介されるイラン。しかし、そのイランは、同様に「イスラーム原理主義勢力」とされた隣国アフガニスタンのタリバーンとは犬猿の仲であった。サウジアラビア、ワッハーブ派の流れを汲むデオバンディ派の影響濃いと言われるタリバーンは「シーア派は非ムスリム」としてシーア派への弾圧・虐殺を行ったとされる。「イスラーム」という一つの枠にくくって物事を語りたがる日本の報道は非常に危ない。殊に、非アラブ世界におけるイスラームは実に多彩である。乱暴に言えば、唯一神信仰を持って、その神を「アッラー」と呼んでいれば、それはイスラームであるという側面もある。中央アジアに多く見られるスーフィー(イスラム神秘主義)の多くが、スンニの規範とはかけ離れていながら、それでも「イスラーム」とされるのは、その点でしかないのではないかと思わる。イスラーム世界は実に多様なのである。そのような事は、仏教やキリスト教においては当然とみなされているのに、なぜか日本人はイスラームに関しては、ガチガチなイスラーム教徒、しか想像しない。無知の最たるものである。世界の宗教地図でみたら「仏教国」である日本人が、果たしてどれほど熱心な仏教徒であるか。敬虔なキリスト教徒であると伝えられるブッシュ米大統領が、「右の頬を打たれたら左の頬を差し出しなさい」どころか、右の頬を打たれる前に相手を倒せ、という行動規範に則っていることを見ても明らかなように、信仰とその生活様式とは必ずしも一致しない。イスラームも同様である。
 イラク・キャルバラーでは。アルバイーン(イマーム・ホセイン殉教40日忌)に数10万人が集まり、反米デモが行われたという。アメリカが言うように、確かにイランも関与しているであろう。しかし、アルバイーンに集まった数10万人全てが「イスラーム国家」を求めている、などということはあり得ない。多くは、単なる宗教行事、お祭りに集まっただけではないだろうか。そもそも、経済的、政治的、行き詰まり著しいイランに亡命していながら、イランのようなイスラーム国家建設を目指す、などと本気で考えているとしたら、それは余程のアホと言っていい。「体制」ではなく、人々の生活規範、道徳規範、文化背景としてのイスラームを理解する努力がもっとなされるべきだと思う。

複合民族国家

マハーバード

 イラン西部、西アゼルバイジャン州にマハーバードという町がある。1946年、史上初めて生まれたクルド人国家の首都となった町である。この通称「マハーバード共和国」は結局一年と持たず崩壊する。大雑把に言えば、第二次大戦のどさくさに紛れて中東への支配権を確立しようと画策したソ連の後ろ盾を受けて成立したものの、その後ソ連と米欧列強との手打ちがなされたためソ連に切り捨てられ、見捨てられたのである。その後、イラン軍の侵攻により、共和国大統領は絞首台に吊るされた。
 イランのクルド人はその後、イラン革命の際に蜂起を試みるが、これもホメイニー体制の革命イラン軍により鎮圧される。その後のイラン・イラク戦争ではまさに彼らの土地、クルディスタンが主戦場となり、国境により分割されたクルド人は、イラン、イラク、両政府から敵国内の反体制勢力として利用される。敵の敵は味方、と、イランはイラク・クルドの反イラク運動を支援し、イラクはイラン・クルドの反イラン運動を支援するのである。
 98年に私はトルコのクルディスタンを訪ねている。そこで接した若者たちは多くがクルディスタン独立の夢を語っていた。「トルコでは僕達に自由はない」「トルコ人とクルド人では文化も歴史も、全く違うんだ。独立するしかない。」 トルコにはクルド人という少数民族がいて、その一部は過激な独立闘争をしている。今振り返れば恥ずかしい限りだが、その程度の知識しか持ち合わせていなかった当時の私には、トルコ・クルディスタンで私に語ってくれた彼らの言葉は衝撃的だった。「トルコは軍部ファシズムの国だ。トルコの兵隊は、クルドの子供まで殺すんだ。」過激派でもない、PKK支持者ですらない若者がそのようにトルコでクルド人として生きることの困難を語り、独立の夢を語るのだ。イスタンブールでは連日のようにクルド人による「テロ」が報じられ、「クルド人は子供まで殺すんだ」と、クルド人への敵意・蔑視を露にする人も少なくない。まったく同じ憎悪の言葉が、180度異なる主語で語られているのである。
 そして2003年3月。米軍のイラク攻撃はいつ始まるのか、という状況だ。イランのクルド人はこの状況をどう見つめているのだろうか、また、イランのクルド人はイランをどのように捉えているのだろうか。彼らの声を聞いて見たかった。
 クルディスタン訪問前に私が滞在していたのはイラン西部の都市、タブリーズである。イラン政府の対クルド感情も知りたいと思い、探りをいれる意味で観光案内所で尋ねてみた。「クルディスタンに行ってみたいと思うのだが、(戦争がいつ始まるか知れず)危なくはないだろうか?」職員は「イラクとの国境は閉ざしているから、戦争が起こっても全く影響はない」と言い、何処へ行くつもりか、と尋ねる。ちょっと躊躇したが「マハーバードへ」と言ってみる。「イラン人」にしたら、かつて自分たちが弾圧し、崩壊させたクルド人国家の首都、マハーバードである。その反応を確かめたかったのだ。しかし、私としては相当覚悟して「マハーバード」の名を口にしたのだが、先方の返事はあっけらかんとしていた。「おぉ、そうか、マハーバードか。あそこはクルディスタンの首都だからな。」

 タブリーズはイラン西部一の大都市である。西にはトルコが近く、北を向けばアゼルバイジャン、アルメニアもすぐそこだ。宿で宿泊台帳に記入する際「トルコへ行くのか?」と聞かれたように、多くの旅行者や商人がこの町を行き交っている。片言のペルシア語しか解さない私に業を煮やして「トルコ語は話せるか?」「アゼリーはどうだ?」と尋ねる者もいる。ここタブリーズもまた国際都市なのである。タブリーズから西へ。イラン最大の湖ウルミーエ湖の北岸を周り、バスで約4時間走るとウルミエ市に到る。ちなみに、乗合タクシーでフェリーを使用し、湖を横切ると約2時間の行程だそうだ。マハーバードは、そのウルミエから南へさらにバスで2時間の距離にある。バスには、頭にターバンを巻き、腰に帯を締めたクルド衣装の乗客もちらほら見うけられる。女性も、チャードルではなく、頬っかむりしたスカーフの上に、工事現場労働者風と言おうか、帽子や帽子状に布を被る、いかにもな装いでクルド人と察せられる。もちろん、それらは典型的なクルド衣装というだけであって、全てのクルド人がクルド衣装をまとっているわけではない。チャードルを纏うクルド女性もいれば、洋服姿のクルド男性も多いことは言うまでもないだろう。
 イランには「コルディスターン州」という名の州もあるのだが、マハーバードは「西アゼルバイジャン州」に属する。「クルド国家の首都」と想像を膨らませていると拍子抜けしてしまう、こじんまりとした街である。トルコ・クルディスタンの大都市であるディヤルバクルやエルズルムと、規模の上では比較にならない。洒落たオフィスビルやショッピング街もない、ただの田舎町と言ったほうがよい。それでもここにはトルコにはないものが数多く存在する。それは、人々の話すクルド語であり、クルド衣装である。お菓子屋のウィンドウに飾られたケーキにはクリームで記された「クルディスタン」の文字も見うけられる。書店ではオジャラン(トルコのPKK「クルディスタン労働者党」党首。現在国家反逆罪他で服役中)を表紙にあしらった書物もあった。正月(イランは春分正月)を前にしたこの時期、路上のあちこちでは縁起ものである金魚や麦の新芽を商う露点も営業していた。ゾロアスター教を起源に持つイランの正月、ノウルーズ。クルドもまたイスラーム化する以前はゾロアスターを信仰しており、ノウルーズはイラン(ペルシア文化圏)と同様かそれ以上に祝われる、一年の始まりのお祭りである。資料によると、毎年ノウルーズは盛大に火を炊いて、人々はその周りで歌い、踊って一年の息災を願うのだそうだ。惜しむらくはイラン太陽ヒジュラ歴1382年の正月は太陰ヒジュラ歴(いわゆるイスラーム歴)モハッラムに当ってしまい、シーア派ムスリムにとってはイマーム・ホセインの喪にあたる期間である。そのためノウルーズの祝祭は自粛されている。私はノウルーズをシーア派の聖地マシャッドで迎えたためもあろうが、ノウルーズの祝祭そのものはついぞ目にすることができなかった。はたして、スンニ派が多数を占めるクルディスタンではどのようなノウルーズを迎えたのであろうか。
 イラン建国叙事詩「シャー・ナーメ」にはクルド人の起源に関して述べられている部分がある。その昔、悪魔にそそのかされ、その化身である蛇を肩に生やしたアラブの勇者ザッハークは遂にイランの王位を簒奪する。宮廷では、毎日、その蛇を養うために若者二人が差し出される。そのような悪政に心を傷めた「気高いペルシアの若者」二人が、せめて蛇王への供物をされる二人の若者の一人でも救おうと料理を学び、宮廷の料理係として仕えることになる。二人は毎日差し出される生贄二人のうち一人をこっそりと逃がし、料理には代わりに羊の脳を混ぜてごまかす。『その命を救った青年に彼らはいう。「こっそりと逃げる手を考えろ。人のおおい町にはいないように。この世で君が住むところは山と荒野になるだろう。』 そのようにして逃された若者の数が200人に達した時、料理人となった二人は彼らに羊と山羊を与え、彼らを砂漠に送り出した。『現在のクルド族はこの人たちの血をうけて定住地を知らずテントを家とし、心には神への畏れをもっていない』(「王書」岡田恵美子訳、岩波文庫)。まるで、近代以降、大国による国際政治に翻弄され「山以外に友はない」という諺さえ持つというクルド人の苦難を示唆しているようである。
 そのクルドは、イランでどのような立場にあり、どのように暮らしているのであろうか。かつてのマハーバード共和国大統領は広場で絞首台に吊るされた。現在その広場にはイラン国旗をかたどったモニュメントが建ち、その横には支庁が建つ。イラン革命に乗じた蜂起も革命政府により鎮圧された。クルドはやはり迫害されているのか? 以下、旅行者として目についた範囲でイランにおけるクルドを論じてみたい。詳細な取材活動を行ったわけではない、あくまで概観である。
 どうしてもトルコとの比較になってしまうのだが、大前提として、イランではクルド人でいられる。日本人の「国籍」「民族」意識で考えると分かりにくい表現になってしまうのだが、クルド人という「民族的アイデンティティ」と、イラン人という「国民国家としての国民意識」が共存できる状態にあるとは言っていいと思われる。例えれば、「帰化」したラモス・元サッカー選手や曙太郎・元横綱は、実生活ではいまだ「外人」扱いされることが多いだろうと想像される。イランでは(というより多くの外国で、と言ったほうがいいだろうが)クルドであれアルメニアであれ、アフガニスタンであれ、その「外人」意識はない。ブラジル人であり日本人(日本国民)である。ハワイ人であり日本人である。「大和んちゅ」であり日本人である。そもそもイランイスラーム共和国は「民族国家」ではない。他民族共存はこの地域の常識といってもいい。現在、「イラン」と言ったとき、それはアーリア人種、ペルシア人を指すのではない。むしろ領土としての「イラン」の範囲を指すと言ったほうが適切であろう。「純血」などといった概念はこの地域には馴染まないように思われる。
 マハーバードで出会ったクルド人も、多くがイラン人でもあった。トルコではクルド人かトルコ人か、二者択一を迫られる。しかし、イランではクルド人でありイラン人でいられるのである。「これまでどの街へ行ったんだ?」「なに、エスファハーンに行っていないだって!あそこはイランで最も美しい街だぞ」。民族意識と国民意識はイコールではない。

 

イランとアフガニスタン

 ホラーサーン州の州都マシュハド。シーア派8代イマーム、レザーの墓所として聖地とされている街である。そのイマーム・レザー廟であるハラメ・モタッハル広場は聖廟そのものを除いて異教徒にも公開されている。より正確に述べるならば、公式には異教徒の立ち入りを禁じている聖廟にさえ異教徒が入れてしまう。紛れこむ、というような不謹慎なことをする気は私にはない。むしろ周囲の人が勧めてくれたりするのだ。私としては、万が一にもトラブルが起こるような行動はしたくないし、異教徒であってもイスラームには敬意を払っている事を示したい。「いや、私は異教徒だから」と断るのだが、構わない、折角だから寄って行け、というように誘われる。そのような時のイラン人の親切心はまた徹底していて、いささか強引でもあるくらいである(イランに限らず、西アジアのイスラーム圏で総じて感じられる気概という気がする)。そして、私に奇異の目を向ける人がいれば「わざわざ日本から来てくれているんだから」というような説明をして取り持ってくれる。もっとも、実際には私が聖廟にお参りしたところで、好奇の視線を寄せる者は殆どいない。だがこちらとしては冷や冷やものだ。公式には禁じられている行為を犯していることは言うまでもない。頑迷な宗教保守派の人もいるかもしれないし、そのような人達は異教徒である私の訪問を苦々しく、或いは侮辱とさえ感じているのかもしれない。そんな心配で、緊張しっぱなしである。
 現実には私が聖廟を訪れても、別段奇異には見えなかったろうと思う。なぜならば、ここを訪れる巡礼者の人種が雑多だからである。紛れこもうとするまでもなく、紛れてしまうのだ。明らかにアフリカ系と見える人もいれば、東アジア系の顔も決して少数ではない。キルギスやウズベク、トルクメンからの巡礼者、そしてアフガニスタンからの巡礼者である。

 テヘランでもタブリーズでも、マハーバードでも、もちろんアフガニスタン国境に近いマシュハドでも、私はよくアフガニスタン人と間違われた。イランに居住するアフガニスタン人にはハザラ人が多いのだ。ハザラ人はタリバーンにより破壊された石窟仏で有名なバーミヤンを含む、アフガニスタン中部に多く居住し、その殆どがイスラーム・シーア派。アーリア系のパシュトゥーン人とは異なり、日本人と同じような顔をしたモンゴロイド人種である。日本人などと接した事のない人々には、片言のペルシア語を話す東アジア人の私はアフガニスタン人に見えるのだろう。アフガニスタン人からさえ「あなたはアフガニスタン人か?」と聞かれたりするのだから可笑しくなってしまう。そして、イラン各地で多くのアフガニスタン人が私に話しかけてくれた。日本人だと告げるとより一層の好意を持って接してくれた。「アフガニスタンを支援してくれてありがとう」と。米イラク戦争が始まり、イラク同様に「悪の枢軸」呼ばわりされた国として危機感も募るイラン人から「日本はいつもアメリカの言いなりだな」と軽蔑と落胆の混じった発言を受けたあとで聞くアフガニスタン人からの謝意の言葉には、救われる思いもしたものだ。
 イランに滞在するアフガニスタン人、と聞いて「難民」をイメージする必要はない。もちろん難民も多く居住しているが、パキスタンの項でも述べたように、イランにもアフガニスタン出身の、非正規の難民もいれば移住民も、出稼ぎ労働者もいる。「イラン国民」である「アフガニスタン出身者」も多いのである。マシュハドの路上でパンを売っていたモンゴル系の顔立ちをした人々に「アフガニスタン人ですか」と尋ねてみると、「そうだ」と答える者もいれば、「母はアフガニスタンの出身だが私はイラン人だ」といった答えが返ってくることもある。
 そして、イラン国内にもまだアフガニスタン難民キャンプは存在する。マシュハドから150キロほどアフガニスタン方面へ向ったところにトルボテジャムという町がある。マシュハドのUNHCRで尋ねたところ、トルボテジャムの難民キャンプには今だ6000人の難民が居住しているという。職員は「まだ寒いから、帰還の動きは活発ではない。しかし、夏になれば多くの難民がアフガニスタンへ帰還するのではないか」と語っていた。イランのアフガニスタン難民の暮らしを見、話しを聞いてみたい、と取材許可を求めたのだが、それは叶わなかった。理由は、書類の不備。観光ビザで入国し、記者証も持ち合わせていない私は、記者であることを証明する何物も持ってはいないのだ。さらに、二日後からはノウルーズ(正月)の長期休暇が始まろうという時である。テヘランに戻って内務省に取材許可を申請して、などという日程的余裕もない。駆け出しフリーの存在証明の困難さを嘆くとともに、事前準備の到らなさを痛感させられた。
 キャンプには行けないとしても、やはりアフガニスタン国境、そしてキャンプのあるトルボテジャムには行ってみることにした。前年パキスタンで見た国境ははなはだ曖昧なものであった。国境で「国家」は仕切られても、人々の文化や生活は決して閉ざされてはおらず、そこは「国境」を越えた「パシュトゥニスタン」である、という印象を受けたものだ。ではそのアフガニスタンの西端であるイランとの国境はどのような世界なのであるか。それを確認したかったのである。

 マシャッドからアフガニスタンへは概ね漠とした荒野が広がっている。木々は少なく、大地は乾燥している。レンガ、或いは泥土で作られた集落が点在し、羊飼いの姿も見うけられる。国境の町、タイバートはそのような中にあると不思議なほど緑の木々に彩られた小さな町である。おそらくは植樹されたものであろうが、高い木々が林と呼べるほどに広く植わっている光景を目にするのは実に久しぶりのような気がする。このタイバートからドガラン国境まで、公共の交通機関はないらしい。乗合タクシーで国境へ向う。乗客は他に初老のアフガニスタン人男性一人。途中、検問所が一箇所。私もアフガニスタン人もパスポートを提示してパス。一本道をタクシーは100キロ近いスピードですっとばす。20分ほど走って国境だ。ゲートの前にはレストランが1軒。それ以外何もない。本当に何もない。その光景に私はすっかりうろたえてしまったほどである。両替商も売店も闇市もなければ、荷物運びのアルバイトをしようという少年もいない。ノウルーズ(元日:イランは春分正月の太陽暦を採用)の休日ということを考慮したとしても、それは予想外に閑散とした国境だった。行き交う人々のまばらだ。前年トルハム(パキスタン)国境でみた「難民の帰還ラッシュ」とそれは雲泥の差であった。一緒のタクシーでやってきたアフガニスタンおじさんは「さぁ、行こう」と私を招く。いや、アフガニスタンには行かないのだ、と私。困惑した表情のアフガンおじさん。タクシーの運ちゃんも怪訝な表情を浮かべている。彼らの懸念はもっともだ。アフガニスタンに行かず、この何もない所へ何をしにきたというのだろう。誰よりも私自身が困惑していたのだ。
「国境にはバーザールがあると聞いたのだが」タクシー運転手に問うてみると「バーザールならイスラムカラ(国境を越えたアフガニスタン側)にある」と彼。「ここにはないのか」見ればわかることだが思いつつも一応尋ねると、「ない」。見れば分かるだろう、とばかりのそっけない返事。その表情は「お前は何をしにここへきたのだ」と不審を露にしている。することもないので昼食を採ることにする。幸いにレストランは開いていた。店の番台上には「ウェルカム・トゥー・イラン」の表示。壁にはホメイニー師、ハータミー大統領の肖像の他、エスファハーン、シーラーズ等、イランの風景写真が飾られている。メニューを尋ねるのも面倒なのでチョロウ・ケバブとザムザムコーラを注文する。イランではどの食堂でもチョロウ・ケバブだけはある。
「アフガニスタンから来たのか?」と店の親父。「違う、マシャッドからだ」と私。「アフガニスタンへ行くのか?」と店の親父。「違う、マシャッドへ帰るのだ」と私。
 食事を済ませ、ともかく気を落ち着けてあらためて国境を観察する。しばらく眺めていても国境を越えてくる人、越えて行く人は殆どいない。それでも、そんなわずかな乗客を待ち受けるタクシーは数台待機している。道路脇にはトラックが長い列をなしているがどの車両にも運転手の姿はない。まるで放棄された車両といった感がある。荷台に物資は積載されているから、やはり正月休みということなのだろうか。ともかく、町もない、人もいない、ではここでやるべきことはすでにない。タイバートへ戻ることにする。

 その後、タイバート、トルボテジャムで数日を過ごした。旅行者など、通過することはあっても滞在することは殆どない小さな町である。日本人だとわかると私の周りに人だかりができることもしばしばだった。人々は総じて親切に私をもてなしてくれ、この町はどうか、イランをどう思うか、と熱心に問いかけた。アメリカのイラク攻撃は始まっているというのに、その隣国イランの東端にあって人々の様子にさほど危機感は感じられない。距離感ゆえか、或いは正月休暇ということも影響しているのかもしれない。(ノウルーズ前後の1,2週間はイラン最大の長期休暇、旅行シーズンとなる)。
 イラン東部のホラサーン州。現在イランではホラサーンは一行政区分である州であるが、歴史的にはホラサーンと言えば西部アフガニスタンも含むより広大な地域の総称である。政治的な諸問題はさておき、歴史的な地域名が国境に分断されている点ではクルディスタンやアゼルバイジャン、バローチスタンも同様で、「国家」は異なれど地域の文化風習は断絶されているわけではない。イランでも有数の大都市である州都マシャッドはともかく、トルボテジャムやタイバートにはやはりアフガニスタン的な景色も多く見られる。イラン都市部では見られない、頭にターバンを巻いた男の姿もその一つである。柔らかそうな、白いターバンが主流らしいのがこの地域の特徴といえるかもしれないが、その巻き方はやはりアフガニスタン風だ。クルドのターバンとも異なり、また、白といってもビンラーディン氏がやっていたように包帯のようにぴっちりと締めるのではななく、後ろに長く尾を引き、ゆったりと無造作に巻くスタイルである。当初はそれらの人々に「あなたはアフガニスタン人か」と尋ねていたのだが、すぐにそのような質問の無意味さを悟った。移住してきた人を除けば、この地で生まれ育った人々に何人かと尋ねれば「イラン人」と答えるに決まっている。「アフガニスタン系」などということは外部の人間による勝手な分類に過ぎない。多民族共生が自然であることはパキスタンやアフガニスタンで見て、理解していたつもりなのに、ここでも無意味な「アフガニスタン人探し」をしてしまっていた自分に気がついた。移民には移民の、難民には難民の、そして地元民には地元民の、それぞれのアイデンティティの置き方がある。地域、国家、民族、それらへの比重の置き方は人それぞれというしかない。それらの事情も勘案して述べるなら、このアフガニスタン国境近くの町でアフガニスタンからの移住者には殆ど出会わなかった。それは当然のことなのだろう。「難民」を除けば、ろくに仕事もない田舎町に、故郷に近いからという理由だけで移り住むはずもない。
 それでもやはりアフガニスタンとの地域的な近さを感じたことの一つに、この地域の住民は殆どスンニ派信徒であるということが挙げられるかもしれない。また、負の印象としてはハシシの類が相当出まわっているらしいことも感じられる。イランでも近年、麻薬中毒者や麻薬犯罪に手を染める者が後を絶たないという。その原因をアフガニスタンに求めるイラン政府はアフガニスタン国境警備に大規模な予算をつぎ込み、麻薬密売人との戦闘で革命防衛隊や警察に多くの殉職者も出しながら取り締まりに当ってきた。現在もイラン政府や農業省は、アフガニスタン暫定政権へ麻薬栽培撲滅への協力や代替作物奨励支援等の申し出を積極的に行っている。麻薬問題は対岸の火事ではないのである。また、イランではアフガニスタン人が麻薬を広めているとして、それがアフガニスタン人への差別や偏見の一因にもなっている。実際、「あいつら(アフガニスタン人)は麻薬ばっかり吸っている」という非難を私も幾度となく耳にした。