アフガニスタン  (2002年4月26日〜5月30日)

 
     
 
     

 

これからのアフガニスタン

国境

大使館
ペシャワルからトルハムへ
国境係官

ケシと農業

アフガニスタンの食卓
マズィーナ村

戦争の傷跡

爆撃
元兵士という曖昧な存在
タリバーン
カーブル

バーミヤン

ハザラジャート・ハザラ人の土地
バーミヤンへの道
バーミヤン市
虐殺
元兵士の語るハザラ
仏像と民族の誇り

復興と難民

難民の帰還
帰る難民、帰らない難民

アフガニスタンと世界

グローバル化のなかで
国家という幻想
アフガニスタン人のナショナリティ

 

 
本屋さん (カーブル、フェロージュガーバザール)

路上の書店は、子どもの教科書を買いにきた、という大勢の母親たちで賑わっていた。
ほとんどの本はパキスタンかイランから輸入されている。79年製、旧社会主義政権下で
使用されていた古い英語の教科書も見うけられた。

 

これからのアフガニスタン

 「国連は飢えに苦しむ民衆よりも仏像が大事なのか」 2001年3月、タリバーンの悲痛な叫びが世界に伝えられた。しかし、すべてが無駄だった。タリバーンの声明どおり、「国際社会」はアフガニスタン民衆の苦しみなどに関心はなかったようだ。「文化財を守れ」という声は挙がった。しかし、アフガニスタン人を守れ、という声は聞かれなかった。そして、人質であった仏像は破壊された。タリバーンは「野蛮」「狂信者」と非難された。やがて、アフガニスタンに関する全てのことが、また忘れ去られようとしていた。
 イランの映画監督モフセン・マフマルバフ氏はその著書「アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ」の中で、この状況を見事に言い表している。曰く、「アフガニスタンの虐げられた人々に対し世界がここまで無関心であることを恥じ、自らの偉大さなど何の足しにもならないと知って砕けたのだ」(同書・現代企画室刊)。
 タリバーンを非難する声は世界中から聞かれたが、アフガニスタンの人々を助けよう、という声は聞かれなかった。ましてや、なぜこの国がかくも苦しまねばならないのか、なぜタリバーンを生んでしまうに到ったのか、その原因を追求しようという動きも見られなかった。

 アフガニスタンは現在「国際社会」の支援のもとに、和平と新政権樹立への道を歩みつつある。人々が望んでいた平和がようやく訪れようとしている。人々の声を聞くと、皆一様にタリバーン時代がいかに酷かったかを訴え、ようやく実現しつつある和平への希望を口にする。北部同盟の兵士や、かつてのムジャヒディンたちは、自分たちがいかにタリバーンと戦ってきたかと、その功績に誇らしげだ。
 しかし、この間の経緯を冷静に見つめれば、タリバーン政権を崩壊させたのは北部同盟ではなく、アメリカの軍事力であることは明らかだ。アフガニスタンの人々にはそのことはさほど重要ではないのかもしれない。だれのおかげであれ、やってきた平和のチャンスを逃すべきではない。むしろ我々がこの現実をしっかりと見つめなおさなければならないのではないかと思う。アフガニスタンに和平をもたらしたのが、この国に長い戦災を強いてきた大国や諸外国の責任と反省によるものではないことを。飢餓に苦しむ人々への人道的博愛精神からでもないことを。アフガニスタンへの世界の関心と援助がもたらされ、現在の和平プロセスへと到ったきっかけは、ニューヨークで2千数百人が殺されたことであり、その復讐として全てが始まったのだ。イギリスに、ソ連に、大国の支配に対して頑強に抵抗し続けてきたアフガニスタンに現在の和平をもたらしたのは、またしても外国の、それもかつてないほど強大な、そして理不尽な暴力の介入だ。この事実をどう考えればよいのであろうか。
 だから、現政権を認めない、というのではもちろんない。全くもって理不尽と言うしかないが、こんなことが無ければアフガニスタン紛争はまだまだ「世界に見捨てられた紛争」として続いていたであろう。その由縁はどうあれ、やっと訪れた平和への道筋は大事に育てて行くべきだと思っている。しかし、一連のアフガニスタンを巡る状況は、「国際社会」は所詮大国の利害によってしか動かない、ということを明らかにしてしまった。

 アフガニスタンの今後のイニシアチブを握っているのはアフガニスタン民衆ではなく「国際社会」である。このことの是非を問うことは困難だ。そして、だからこそ、これからのアフガニスタンを巡る動向は国連を始め、国際社会の関与の仕方までが問われているのだと思う。「復興」というが、これからのアフガニスタンは、ある意味で今までで未知の領域へ進むことになる、新たな「創造」である。うまく行けば、それは世界中の多くの紛争国、貧困国にとって輝かしいモデルを提示することになるであろう。
 「国家」のあり方、国家と民衆との関係。アフガニスタンはこれからかつてない、創造への道を歩みつつある。同時にそれは、「国家」と「国際社会」との関係も含めた、これからの世界を創造して行く試みでもあると思うのだ。

 

 
難民の帰還 (左:トルハム国境パキスタン側、右:ペシャワル、ハジキャンプ)

ペシャワルとジャララバードを結ぶトルハム国境。
連日1000台を越えるトラックがアフガニスタンへ向うという。
国境が開く朝8時前には、アフガニスタンへ向う多くの人々が
詰めかけていた。

一方、ペシャワルのアフガン移民街、ハジキャンプでは、
あちこちで帰還に向けた引っ越し作業の風景が見られた。
町の人口は日に日に減少して行く。
いまだペシャワルに留まっている人々からは
「ローヤジルガ後に何が起こるか、もう暫く様子を見る」と
慎重な意見が聞かれた。

 

国境

大使館

 パキスタンの首都、イスラマバードにあるアフガニスタン大使館の場所や建物は、タリバーン政権時と変わっていない。以前は「アフガニスタン・イスラム首長国」と通りに掲げられていた看板に、今は「アフガニスタン大使館」とだけある。タリバーン以前、ムジャヒディン政権時の「アフガニスタン・イスラム国」に戻ったわけでもないようだ。そういえば現在この国には正式名称というものがあるのだろうか? そんな疑問が、ふと頭をかすめる。

 アフガニスタン。中央アジアに多いこの「〜スタン」は、元々「〜の地域」といった程度で、「〜の国」という意味は含んでいなかったという。もっとも、今で言う「国家」概念が形成されたのはフランス革命以後だとされていることを考えれば当然なのかもしれない。「アフガン人地域」すなわちアフガニスタンだ。そして、歴史的にはアフガン人とはパシュトゥーン人を指していたというから、多数の非パシュトゥーン人をも含めて「アフガニスタン国境」内に暮らす人々を「アフガン人」と呼ぶ語法は、当然ながら「アフガニスタン」が領土国家である、という前提が築かれてからのことだ、ということになる。隣国のタジキスタンやウズベキスタンという国名は「〜人地域」が「国」の意味に転用されたものであり、パキスタン、イラン、アフガニスタンが交差する辺りが、国境を跨ぎながらも「バローチスタン」と呼ばれるのは「バローチ人地域」という「〜スタン」の従来の用法によってである。同様に、アフガニスタン中部のハザラ人地域は、しばしば「ハザラジャート」或いは「ハザリスタン」と呼ばれるが、この地域名も国家行政区分である「州」の境界とは無関係に広がっている。さらに、アフガニスタンとパキスタンの国境にまたがる地域を「パシュトゥニスタン」と呼ぶことがある。
 典型的な例だが、昨年ペシャワル郊外のアフガン人居住区を取材した折、ある男性に「あなたはアフガン人かパキスタン人か」と問いかけたところ、その男性からは「どちらでもない。ここはパシュトゥニスタンで私はパシュトゥーン人だ」との答えが返ってきた。「○○人」という定義さえ、我々が考えるほど容易ではない。「私はパシュトゥーン人だ」で終わってしまう人がいれば、「パシュトゥーン人であり、パキスタン国民だ」と答える人もいる。ましてやペシャワルからさらに西、アフガニスタンと隣接する一帯は「部族地域(トライバル・エリア)」とされ、部族自治区のような立場が与えられているために、この地域の人々の「領土国家としてのパキスタン国民」意識は総じて弱い。
 「アフガニスタン」はそのような地域にある。パシュトゥーン、タジク、ハザラ、ウズベクまでは、この国の民族紛争を説明する際によく名を挙げられるのだが、その他にも、トルクメン、バローチ、アイマク、等など、「少数民族」を列挙してゆくときりがない。「民族の博覧会」と呼ばれさえするほど、この国(現在アフガニスタンと呼ばれている地域)には多くの民族が居住しているのである。
 研究者のなかにはその辺りの事情を考慮して、「アフガン人」(歴史的位置付けから考察した、パシュトゥーン地域を主体としたアフガニスタン人)と「アフガニスタン人」(現在のアフガニスタン国境内に居住する人々)という表記を区別して使用する人もいるが、肝心のアフガニスタンの人々自体の意識が、民族に関係なくバラバラなのだから始末に悪い。少数民族であっても、都市や海外で暮らしている人には「アフガニスタン国民」意識を持っている人は少なくないし、最大民族であるパシュトゥーン人でも農村で自給自足に近い生活を送っている人は「アフガニスタン国家」まで発想が及びにくい。

 大使館という公的機関に掲げられた「アフガニスタン」の表記を目にして、そんなことに思いが及んだ。現在のこの国の「〜スタン」はどちらの意味なのだろう。いずれは、この「スタン」が「国家」という意味まで昇華されるのだろうか、或いは、例えば「アフガニスタン共和国」や「アフガニスタン民主共和国」というように、一語付け加えた形で「国家」を表記することになるのだろうか。現在の「アフガニスタン」という簡素な表記が、そういった面でも、今この国が置かれている状況、現政権が「暫定」であることを表わしているように思われた。

 暫く前にNHKが報道していたのを見たのだが、現在の在パキスタン・アフガニスタン大使は、タリバーン政権時に同大使館で通訳をしていた人だという。さらにそれ以前の政権下でも大使館職員として勤めていたのだそうだ。ヴィザ発給窓口で働く職員のなかにも、見覚えのある顔が一人いた。確認はできなかったのだが。
 大使館には時折、諸外国からのジャーナリストがヴィザの申請にやってくる。それとは別にいつも数人のアフガン人が訪れている。パスポートの切り替えやら発給の手続きのためだ。タリバーン時代にも、それらの手続きのために在パキスタン・アフガン人はここを利用していた。タリバーン支持者であるか否かは関係ない。パキスタンにおけるアフガニスタンの公的機関がここであった、というだけのことだ。
 一人の青年に、アフガニスタンに帰る手続きか、と尋ねてみた。答えは否、パスポートの更新だという。「帰りたい気持ちもあるが、私にはパキスタン人の妻と子どもがいる。ここで暮らすよ。」幸せそうだった。彼の妻はやさしく、美しく、「アッラーが私に授けてくれた最大の贈り物だと思っている」とのことだった。私がアフガニスタン行きの目的を告げると、かつては「カブール・タイムズ」誌のカメラマンだったという彼の友人の名と、その事務所があった場所を教えてくれた。「今はどうなっているのかわからないけれど」。

 

ペシャワルからトルハムへ

 ペシャワルの旧市街、ハイバルバザールにはショバ・チョーク(チョークとは交差点の意)と呼ばれる一角がある。カーペットマーケットとも呼ばれるように、この一帯のビルには、多くのアフガン人カーペット商が軒を連ねている。そしてその多くがハザラ人だ。そんなビルのひとつ、フセインプラザに、私は昨年暮れの約1ヵ月、毎日のように通っていた。それからおよそ半年ぶりの再訪になる。前回の帰国直前に「来年の夏にまた来るよ」と私が告げると、彼らは「そんなに遅くちゃ、俺たちみんなアフガニスタンに帰ってしまって、ここは空っぽだぞ」などと笑っていたものだが、幸か不幸か、私の親しい人たちは殆どがまだ残っていた。
 アブドッラ・ハキムは中でも最も親しいひとりだ。帰らないのかと尋ねると、来年の一月に帰る予定だと言う。「ローヤジルガの後、何が起こるかわからないからね。……でも、前に会ったろう、あの叔父はマザリシャリフに帰ったよ。」先発隊とでも言ったらいいのだろうか、先に戻った叔父は現地で仕事や住居を整え、残った彼には、このカーペット店の在庫処分やテナントの売却先の決定など、帰還に向けた後片付けという仕事が残っているのだ。現在、叔父さんは自動車修理工場の開業を準備しており、アブドッラも帰ったらそこで働く予定だという。学生時代は医学を学んでいたというアブドッラは、パキスタンに逃れてきて「他に仕事がないから」カーペット商になった、と以前聞いた。そして今度はメカニックだ。
「お茶を飲むかい、アフガンのお茶だよ。」前回はラマザンのために、お茶も出せなくて悪かった、と詫びながら、取っ手のついたグラスにヤカンからお茶を注ぐ。緑茶、というが色は茶色い。砂糖は入っておらず、飴玉を口に含みながら飲むのだ。

 アフガン人たちの国境の往来は以前に増して活発化したようだが、その他の外国人にとって、アフガニスタン国境への道は依然として制限が多い。ペシャワル中心部から車で30分も行くと、前述したトライバルエリアに入る。幹線道路以外はパキスタン政府の管轄外という部族自治区である。通常外国人の立ち入りは認められておらず、許可を得て入境する際にも警護のための兵士を同行させることが求められる。国境に向けて道路を通過するだけでもこのルールは適用される。
 大きな声では言えないが、実は今回、帰還するアフガン人たちと一緒に、ローカルの乗合バスでのトルハム行きを試みた。うまく紛れることができたのか、途中6箇所ほどの検問は難なく通過することができたのだが、イミグレーションオフィスで出国手続きの際に書類の不備を指摘され、出なおす羽目になった。トライバルエリアの通行許可証、出国許可、並びに警察の承認サインだ。理屈としては、トライバルエリアが危険だから護衛の同行を義務付けているわけで、その「危険地帯」を無事通過してきた者に対して、再び「危険地帯」を引き返し、あらためて警護を連れて出なおして来い、というのは本末転倒という気がしないでもないが、違法は違法であり、こちらに非があることは認めざるを得ない。その違法性ゆえに出国を認めてくれない係官の態度は、パキスタンが法治国家として機能しているという意味において喜ばしいこと、とも言えよう。
 余談だが、4月30日にパキスタンでは、クーデターによってその地位についた現職、ムシャラフ大統領の信任投票が行われた。結果は圧倒的多数による信任である。この結果と手続きに関して、欧米メディアでは何かと批判も多いのだが、町の声を拾っていてもムシャラフは大方の民衆の支持は得ているように思われる。それよりも面白かったのはその翌日の現地紙で見たのだが、この信任投票に関して、ノーザンエリア(北部地域)の一部では投票権が与えられていなかった、という記事だ。その地域は普段でも、議会への代表権も有していない代わりに、納税その他の義務も免除されている、という民族自治区のような立場にある。西部パシュトゥーン地域のトライバルエリアといい、このノーザンエリアといい、実質パキスタンに属していない、それでもパキスタン領土、という地域が多いのもパキスタンという国の不思議なところだ。
 話を戻す。そのように「違法に」トルハム国境に到着したのは、まだ朝の8時前だった。国境は8時に開かれるのだという。国境前には係官がロープを張って人々を制止しており、その後には大勢の人々が待ち並んでいる。手ぶらの人もいれば、手押し車に家財道具を積んだ人、また国境近くで商店でも営んでいるのか、氷の塊を運んでいる人も見うけられる。それら、身軽な人々の後ろにはWFPやその他国際機関の旗を掲げた援助物資満載のトラック。或いは一家の家財道具一切を積みこんだような、本格的な引っ越し、帰還難民トラックが順番を待っている。
 それら、アフガニスタンに向う人々はイミグレーションオフィスには並ばない。彼らはヴィザを持っているのか、との私の質問に、ある係官は「持っている」と答え、また別の係官は「必要ないのだ」と答える。「アフガニスタンに行くのは簡単だ。でもパキスタンに入ってくるのはとても難しい」。
 パキスタンには300万人ものアフガン難民が暮らしているといわれている。その中には、正規の難民認定手続きを経て暮らしている者もいれば、不正規に国境を越えてパキスタンに暮らしている者もいる。「アフガン人がアフガニスタンに帰るのはいいことだ」とあるパキスタン人は言う。大量のアフガン人がパキスタン経済を圧迫していたのだ。彼らがいなくなることによってパキスタン人に仕事が戻ってくる、と。また別に、アフガン移民街、ハジキャンプで雑貨店を営む私の友人のパキスタン人は昨年、こう言っていた。「何もなかったここに大量のアフガン人が流れこんできて、彼らを対象にして建築が始まり、バザールも生まれ、新しいビジネスが育った」。そのハジキャンプでは今、続々と住民のアフガニスタンへの帰還が始まっている。「町は日毎に活気を失っている」。今回彼はそう感想を漏らしていた。

 国境を越える。私にとっては、ようやく辿りついた、憧れのアフガニスタンだ。国境を越え、アフガニスタン側に入ると、そこにもパキスタン側と同じようにロープが張られ、銃を下げた男たちが人々のパキスタン行きを阻んでいる。新たにやってきた外人を目にすると、そのロープの向こうから早速「通訳は要らないか?」「タクシーはどうだ?」との声が飛んでくる。
 軽機関銃jやライフルを肩に下げた者も多い。迷彩の軍服を着用している者もいれば、そうでない者もいる。誰が軍人なのかはわからない。さらに、国境を越えて真直ぐ歩いていても誰一人として妨げる者がいない。「イミグレーションオフィスはどこなのだ」そう声をかけ続けてようやく、あそこだ、と教えてくれる者がある。パキスタンから来て通りの左手、長テーブルの上に機関銃、その脇に迷彩服姿の軍人が一人、二人。その脇の建物がオフィスだという。

 

国境係官

 我々の前には援助団体の職員だという西洋人女性が二人おり、入国目的、職業、訪問予定地、などなど係官の質問を受けていた。係官は30前後のがっしりした体格の男で、頭にはスカーフを巻き、その眼にはどこか愛くるしい優しさが見られ、総じて言えばなかなかの男前であった。その男が、やおら立ちあがり、演説調で述べる。「アフガニスタンに様々な外国の援助関係者が訪れ、我が国の再建を支援していただいていることにあらためて感謝申し上げたい。アフガニスタンにとっては、今がまさに平和を築く好機なのだ。しかしながら、次のことにも留意していただきたい。多くの外国の方がカーブルに行かれ、カーブルの状況を世界に伝えてくださる。しかし、カーブルだけがアフガニスタンなのではない。アフガニスタンには30もの州があり、それぞれに問題を抱えている。例えばここナンガルハル州にも多くの人々が暮らし、さまざまな問題が存在している。どうか、これらの地域にも足を運んでいただきたい。援助を必要としているのはカーブルだけではないのです。」
 彼女たちの手続きが終わると我々の番だ。係官が「こんにちは、日本人ですか」と笑顔とともに日本語で話しかける。なんと、日本で働いていたことがあるという。「ちょっとまって、ペプシ要らない?」これまたきれいな日本語で問いかけ、缶ジュースを持ってきてくれる。二年ほど、日本で「カイタイ」の仕事をしていたそうだ。会話ができる程ではないが、ときおり挟む日本語の発音は滑らかだった。
 仮にA氏としておく。型通り一通りの手続きを終えると彼が、自動車や通訳の手配はできているのか、と問いかける。おそらく国境で、それが駄目でもジャララバード市内で通訳やガイドは手配できるだろうと踏んでいた我々は、その時点では何の用意もできていない。その旨を告げると彼は、外国人がローカルの交通手段を使うのは勧められない(人々は外国人に慣れていないから何が起こるかわからない)。それに、訪れる場所によっては護衛をつける必要がある。と前置きした上で、なんならガイド、通訳を紹介してあげるが、と持ち掛けてくる。さらに「私も含めて検討してくれ」と。国境事務所係官が「私をガイドに雇わないか」と申し入れているのである。これには唖然としてしまったが、A氏曰く、「ここの仕事はボランティアでやっているに過ぎないので、抜けることに関しては全く問題はない」ということだ。その場で値段交渉に移り、結果、我々は彼を雇うことにした。理由はいくつかある。一番には信頼性の問題で、私がもっとも恐れていたのは、ガイドや通訳が突如強盗に化けてしまうという危険性なのだが、仮にも国境事務所という公的機関で働いている以上、その点では安心してよいと思われた。また、かなりリベラルな思考の人物らしく、さらに、なまりの薄い丁寧な易い英語を話すので、コミュニケーションも取りやすく、付き合いやすい。加えて、元ムジャヒディンで銃の携帯許可証も持っている。つまり、ガイドでありガードの役割も果たせる、というのも大きな要因だった。軍服に機関銃、というものものしい出立ちの護衛を連れていたのでは取材活動にも支障を来たすであろう。
 「車を用意してこよう」A氏はその場その時から国境係官を休業、我々のガイド兼通訳、兼護衛に転職することが決まった。

それぞれの国境 (トルハム、アフガニスタン側)

国境を越えてアフガニスタンに戻ってくる人がいる。
一方、そんな人たちの荷物を台車に乗せて、近くのバス乗り場まで
運ぶという新たなビジネスも始まっていた。担い手は殆どが子供たち。
もちろん、一番の上客は外国人だ。

 

ケシと農業

アフガニスタンの食卓

 荒涼とした山岳地帯、峰や谷や洞窟を効果的に利用したゲリラ戦のイメージから、アフガニスタンの人々には遊牧民のイメージが付きまとう。しかし、実際には遊牧民はわずかで、多くは定住農民である。戦争さえなければ食料に関しては自給自足できていたという。
 アフガニスタンの食事は主食がナーンと呼ばれる薄いパン。米も多食される。こちらでは焚きこみご飯を「パラオ」というが、それが「ピラフ」の語源になったともいう。穀物としては他にジャガイモや豆な、またトマト、タマネギ、キュウリといった野菜も豊富だ。そして肉料理。主として羊肉で、代表的なものは串に刺して炭火焼にするケバブだが、それにも普通にブロック肉を刺したものやミンチにしたもの、また内臓も食されている。さらに、それらをスパイスやトマトで煮込んだり、米と一緒に炊きこんだりといった料理が見られる。もちろん、鶏肉や牛肉も食卓に上るが、口にする頻度はなんといっても羊肉が圧倒的に高い。羊は彼らに衣類や住居に欠かせない絨毯の原料を与え、ご馳走も与えるという、まことに有益な動物なのだ。一方の牛は、乳牛や食肉としての役割も併せ持つものの、どちらかというと運搬用の動物といった地位を得ているらしい。
 それらの牧畜業は決して遊牧民のみが携わっているわけではなく、少し裕福な(土地のある)農家では大抵、羊か山羊、または牛が飼われている。半農半牧である。
 我々が町中の食堂で眼にするのは殆どが肉料理で、なんとよく肉を食べる人たちかと驚くとともに、肉食分化がもたらす攻撃的性格への影響、などという俗説を思い浮かべたりしたものだが、実情は多少異なるようだ。やはり肉は高価な、ご馳走なのだ。今回は何度か民家でご馳走になる機会があったのだが、そんな時に出されたのはナーンとジャガイモのシチューだけだったり、フライドポテトを載せただけの白米のピラフに豆のスープだったりした。そういう時、その主人は大抵「軽食ですまないが」と多少自らを恥じるような表情を見せたものだった。一方で、裕福な家庭に招かれると、これでもかと言わんばかりの料理が食卓を飾る。その場合は殆どが肉料理であり、その他の副食も到底食べきれない程の量が用意される。客人をもてなすというのは彼らの習慣であり、義務であり、誇りでもある。特にパシュトゥーンにその意識が強い。

 
アヘンの収穫 (マズィーナ村 ナンガルハル州)

花が落ちたケシの実に専用のカッターで擦り傷を付けてゆく。
最初は乳白色だが、2〜3日すると粘り気のある茶褐色の樹脂状に変化する。
それがいわゆる「生アヘン」だ。

 世界に見捨てられてきた旱魃は皮肉なことに世界の注目を浴びるとともにおさまった、或いは緩和したようだ。アフガニスタンは東部を中心にこの3年間ひどい旱魃に見まわれてきた。それが、昨年末に雨が降ったというニュースが伝えられた。カーブルでは数年ぶりに雪が降ったとも。
「タリバーンがいなくなったら5年ぶりに雨が降ったよ」ナンガルハル州のある農民はそう言って微笑んだ。まさに恵みの雨だったのだ。現在、一見したところ川にも豊富に水が流れ、畑は緑に彩られている。
 麦や米、野菜といった作物は農家自身が消費し、また近隣のバザールで売買される。それらとは別に換金作物として栽培されている、アフガニスタンで数少ない輸出品が阿片(オピウム)である。ケシの実から採取された阿片はその後、モルヒネへ、そしてヘロインへと加工されてゆく。その精製過程が進むに連れて麻薬作用は高められ、同時に価格も跳ねあがる。80年代ころまで、世界最大のアヘン、ヘロイン生産地はタイ、ビルマ、ラオスにまたがる「黄金の三角地帯」とされてきた。その後、前述生産各国の政情安定化と、国際社会の圧力も受けた麻薬撲滅、或いは転作奨励政策が一定の効果を挙げる。代わって90年代から世界一のヘロイン供給源として成長したのが「黄金の三日月地帯」、パキスタン、アフガニスタン、イランにまたがる地域である。特にアフガニスタンは92年から続く内戦の結果、実質無政府状態にあり、しかも農地が荒廃してゆくなか、各地の支配者や軍閥を支える貴重な財政源であったから、撲滅など望むべくもない。アフガニスタンでケシ生産の減少が確認されるのは、全土の大部分を制圧したタリバーンが麻薬生産の禁止令を発した98年以降のことだ。
 参考までに、隣国のイランはイスラーム革命政権下、麻薬の使用や所持には死刑も含めた厳罰で臨んでいる。ところが国内の麻薬常用者は一向に減る気配がない。原因はアフガニスタンだとイラン政府は考えている。アフガニスタンとは長い国境を接するうえに、相手が無政府状態とあっては取り締まりも容易ではない。イラン政府は戦争とも呼べる体制で、越境してくる麻薬密売人の取り締まりにあたってきた。79年のイスラーム政権発足から01年までで、この麻薬戦争によって殉職した革命防衛隊員は3000人、イラン政府の取り締まりにかける予算は年額8億ドル、国境を守る革命防衛隊に射殺、或いは逮捕された密売人は昨年だけで1700人に上るという。現在イラン農業省はアフガニスタン暫定政権に対して、ケシ栽培からの転作を奨めるため、積極的に農業技術の支援を申し出ている。アフガニスタンの麻薬問題は決して対岸の火事ではないのだ。

 ナンガルハル州には、パキスタンのペシャワルからアフガニスタンの首都カーブルを結ぶ街道が通っている。様々な物資、そして今では帰還難民を運ぶ大動脈だ。国境から州都ジャララバードまでは道路の破壊も少なく、比較的快適なドライブだ(ジャララバード・カーブル間は破壊されたつくした悪路が続く)。そうした幹線道路から脇道へそれ、山麓の村々へと向ってゆくと、辺り一面がケシ畑、といった光景に出くわすことも珍しくはない。真っ白な、或いは淡いピンクのケシの花が一面に咲き乱れている様は実に美しい。しかし、農民たちはもちろん、花を栽培しているのではない。花が落ちた後の「実」がすべてなのだ。
 現政権も、ケシ栽培は禁止しているそうだ。農民たちは私たちの車が近づくと一瞬手を止め、じっとこちらに視線を向ける。それが麻薬栽培に関わるが故に生じるある種の後ろめたさや警戒心なのか、私には判断できない。
 ケシ農家の取材として訪れたのはナンガルハル州、ジャララバードから車で1,5時間程の高原にあるマズィーナという村だ。もちろん、そこまでの道中でも多くのケシ畑を見かけたし、マズィーナ村が特別ケシ栽培の盛んな村というわけではない。我々のガイド、通訳をしてくれているボランティア国境係官、A氏の叔父の家があり、故に宿泊が可能であり、彼が土地のことをよく知っているというから訪れた、この辺りのごく普通の農村である。


マズィーナ村

 我々のガイド、A氏は地元の教育に関するNGOにも関わっている。「アフガニスタン・ヌール・エデュケーション・プログラム」。訳せば「光」教育計画となる。「マズィーナには225人の女の子に300人の男の子がいる。なのに学校がない」村の人口は定かでないのに、そのように子供の数が詳細に述べられるのも、その計画に携わっているためであろう。ユニセフに本やその他の支援を求めているところだという。内務省、計画省から発行されたNGO登録認定証を大事そうに、そして誇らしげに見せてくれた。「学校が必要な州は他にもある。だけれども、ここは人口も多いのに学校がないんだ。」というマズィーナには2ヶ月後に学校が建設される予定だという。既に教員候補として二人の女性は確保できているそうだ。
「ここに来た外国人は皆、楽園のようだ、って言うんだよ」とA氏が誇るように、対ソ戦時を通じても戦火に晒させることがなかったというこの村は緑豊かで穏やかな農村である。農産物は麦、玉ねぎ、トウモロコシ、綿、などなど。山の雪解け水だという小川がせせらぐが、食事や飲料には井戸水を使用している。見ると日本のNGO・ペシャワール会が築いた井戸だった。
 珍しい外国人を見ようと、たちまち10人を優に超えるちびっこたちが近所から集まってくる。そんなのどかな農村でもケシは栽培されている。二つ、三つのケシの実を串に刺し、枝の先につなげてころころと走らせて遊んでいる子供もいる。「ケシが何なのか、子供たちは知っているのか」とA氏に尋ねてみる。「いや、彼らはまだ幼いから何もわかっていないよ」との返事。しかし、10代も半ばくらいの少年たちは大人たちに混ざってアヘンの採取作業にも加わっている。
 ケシは、その美しい花が散った後に、ゴルフボール大の楕円の実を残す。この実に、大きさによって3〜7箇所程、3,4枚の刃がついた専用のカッターで傷を付けてゆく。実から染み出す乳白色の液体は2,3日すると粘り気のある、キャラメル色の樹脂に変化する。これがアヘンだ。これをスコップのような器具で採取してゆく。
 現暫定政権もケシ栽培は禁止している。しかし、この時我々には、A氏とは別に正規兵が同行していたにも関わらず、農民は気にする風もない。また兵士も何一つ気にかけた様子も見せない。その後訪れた山岳地域の軍司令部でも事態はそのようなものだった。司令部横にはケシ畑が広がり、その中で兵士の記念撮影さえできてしまった。
「ホギャノ地区では政府と農民の衝突があり、怒った農民が役人を殺害する事件もあった。政府がケシ畑を破壊することもある」とA氏は言う。しかし農民たちは「ケシ一本を刈り取られたら、政府の役人1人を殺す」という意気なのだ、ともいう。そして、このあたりの農民は皆武器を所持しており、その武装度は州政府の兵士たちと変わらないから、兵士たちもうかつなことはできないのだ、と。
「30年、40年も前から」「先祖の代から」「100年以上も続いている」自分たちの文化であり、農業なのだ、と農民たちは言う。聞いたところ、彼らはアヘンを吸わない。作って売るだけだそうだ。「ケシは少ない水でも栽培できる。この辺りもしばしば旱魃に見舞われるから、他の作物ではやってゆけないのだ」という声も聞かれた。ひとつ、気になっていた質問をぶつけてみた。
「麻薬をつくっている、ということをどう考えていますか?」 しかし、彼らの答えは飄々としていた。
「これは長いこと作り続けている農作物です。それを、誰が麻薬に変えて、誰がどのように使うのか、私たちは知りません。」
 マズィーナに関して言えば、特に貧しいからケシに頼っている、というのではなさそうだった。アヘン収穫の後は粟、次いで米、と三毛作さえ可能らしい。またこの辺りは皆自作農とのことである。しかし、繁忙期のみ雇われる臨時の作業員も皆近隣の村人だという。
 採取された生アヘンは市場で売られるまで、200〜250グラムくらいのかたまりごとに葉で包んで一日、二日寝かされる。価格は1キロで約20,000ルピー(約40,000円)。しかし、これがヘロインに加工されたら1キロ、2〜300,000ルピーはするだろうとのことだった。かつては州内東部にヘロインへの加工工場があったのだが、今はない。現在、工場は、パキスタンのトライバルエリア内にあるという。よって彼らの顧客は、パキスタンの密輸人、とのことだった。その後の流通を考えるとロシア人も来ていそうなものだが、彼らに尋ねたところ、見たことがないという。
 それにしても、これほど大っぴらにケシを生産していていいものであろうか?しかも、半年前までの支配者、タリバーンは麻薬厳禁政策を布いていたはずだ。そのことについても尋ねてみた。
「タリバーンは1000ルピーの売上に対して100ルピーの税を徴収した」「道路沿いや目につくところで栽培することは禁じられた」 しかし、ケシ栽培そのものは存続していたと彼らは言う。そこで面白いのは、タリバーンの10パーセント税だ。彼らの言葉によると、そのような制度はタリバーンが始めてで、ケシ栽培に限らず、それ依然の社会主義政権、ラバニのムジャヒディン政権ではいかなる税も払ったことはない、というのだ。
 税のない政府。私には嬉しい政府だが、ではその政府はいかなる資金の元に機能していたのか。アフガニスタンにおける政府の役割とその立場、という意味で非常におもしろい。この件に関しては、今後調べて行きたいと思っている。そして、税の徴収という、政府、それも中央政府らしい行為を行ったのがタリバーンだった、ということも非常に興味深い。蛇足だが、アフガニスタンの田舎では、その部族社会の規律とイスラームの精神により、特別に「発展」や「開発」を望まない限り行政機構はなくてもやってゆける。家族や親戚で飢えている者があれば、まず、他の家族が放っては置かない。また、そういった者が助けを求めてくれば、それに答えないことはパシュトーンの義に背く。さらに、イスラームの相互扶助の精神、富める者は貧しい者に施しを与える責任がある。このように、家族、部族、イスラームの精神が混ざり合い、「我が村」レベルの行政やインフラ整備ならば、モスクを中心、媒介として成立し得る社会でもある。このことがアフガニスタンの中央集権化、いいかえれば国家化を妨げている面は否めないが、逆の見方をするならば、中央政府などなくても困らない社会なのだとも言えよう。
 そのようなアフガニスタンにあっては、タリバーンは最も「政府」らしい運動をしたのかもしれない。そして、同じ課題は中央集権化された「アフガニスタン国家」を築こうとしている現政権も引き継いでいるはずだ。
 タリバーンが去って変わったことは何か、と尋ねると、多くの人が喜びの声を上げ、その理由として、仕事が増えた、外国の援助が増えた、ということを指摘した。多くのNGOが活動を始め、井戸の建設や道路整備、また、未亡人(タリバーンは女性の労働を禁止したために、戦争で夫や親を失った女性は生活手段を絶たれたと言われている)や障害者の生活支援にも取り組んでくれている、と。
 そんな取材の中、応答してくれていた農民たちの1人が仲間を指して「彼はタリバーンだったんだ」という。始めは冗談(神学校で学ぶ学生をタリブと言う。タリバーンとはその複数形)かと思っていたのだが、どうも真実であるらしい。元タリバーンで迫害されたりということはないのか、と問うと、非タリブの1人が「カルザイ(暫定行政機構議長)が個々のタリブの罪は問わないと宣言したろう?何も問題はないさ」と答える。元タリバーン氏も笑ってうなずいている。
 タリバーン運動とは一体何だったのだろうか。
 同じナンガルハル州の他地域を現地で活動するNGOに同行して取材させてもらったことがある。途中、大きな城壁に囲まれた立派な、まるで要塞のようなカライ(パシュトゥーンの民家は伝統的に家屋を城壁で囲む。家族や一族が住まうその「カライ」は時に一家であり、時に「村」にまで巨大化する)を目にする。そこはタリバーンが地域の行政府として使用していたのだと言う。門前町といった格好の、その近くのバザールは、今ではその大半が空家となっている。
「以前はここはポッピー(ケシ)バザールと呼ばれて賑わっていたんですけれどね。タリバーンの麻薬禁止例の後、すっかり寂びれてしまって……」とNGOスタッフ。
 マズィーナとは天地の差だった。タリバーンの麻薬禁止例やその他の政策も、そのさじ加減は地域の行政官によってまちまちだったのかもしれない。地元から登用され、それ以前と大差なく過ごしていた処もあれば、純粋な熱血タリブが派遣されて多いに迷惑した地域もあり、と、そんな状況ではなかったか、と想像している。
 隣村の住民と雑談する際に、「参ったよ、なんだかえらく堅物のタリブが来ちゃってさぁ」「えっ、そりゃ酷いなぁ、ウチなんか○○の息子の××が担当だからさ、適当にやっているよ」などという会話が交わされていたのかもしれない。
 現政権は、転作奨励のためケシの買い取りを行っているという。一定面積(1ジリーク=約2000u)あたり、350ドルでケシを刈り取っているのだそうだ。しかし、この制度も決してうまく機能しているわけではない。土地の広さをめぐる判定でもめることもあれば、収穫が終わった後のケシを刈り取らせて、アヘン売買と政府の転作奨励金を二重取りするなどの不正も数多いという。

 
青空学校 (ナンガルハル州)

五月のナンガルハルの気温は40度近い。教師は
「校舎も、日差しを遮るテントさえもないのです」と援助を呼びかける。
子供たちには良い教育を受けさせたい、という多くの大人たちの声をきいた。

 

戦争の傷跡 

 

爆撃

 アフガニスタンには高い建物が少ない。土壁や泥レンガで建造される伝統的な家屋であれば、構造上やむを得ないのかもしれないが、コンクリート製の近代建築物でも、3階建てを越える建物はそう多くない。カーブルでも、ジャララバードでも、家屋の損傷は甚だしい。町には、破壊され、それでも尚使用されつづけている半壊家屋を多く見かける。カーブルで見た団地は壁面一体に銃痕や焦げ跡が残り、部分的には壁が崩壊しているのだが、そんなところにも人々は暮らしている。大都市では建築ブームも始まりつつあるようだが、二階から上に鉄筋だけがにょきにょきと突き出している建物が建築中なのか、破壊された跡なのか、一瞬判断に迷う。建物や都市基盤の損壊、人名の損失、ばら撒かれた地雷も、手足を失ったそれらの被害者も、23年分溜まっているのだ。ソ連軍によるものもあれば、ムジャヒディン同士の抗争によるものもある。タリバーンによるものもあればアメリカ軍によるものもある。

 今回の取材目的のひとつとして、アメリカ軍による空爆の実態調査を計画していた。クラスター爆弾の被害やその無差別性は一部で報道されたが、米軍はその他にも様々な兵器を使用したと言われている。湾岸戦争で使用され、現在もイラクを汚染しつづけている劣化ウラン兵器もその一つだ。バンカーバスター、ディジーカッター、などなど、新聞紙上でもそれら新兵器の解説がなされていたが、その実態は明らかにされていない。アフガニスタンはさながら米軍による兵器実験場であり、兵器の消費地であり、ゴミ捨て場とされたのではないか。
 米軍は圧倒的な軍事力で「誤爆」し続けた。米軍ほど高い技術力と情報収拾能力を備えた軍隊が、これほど明らかに誤爆を繰り返すことがはたして可能なのだろうか、という疑問すら浮かんでくる。これは「誤爆」に名を借りた無差別爆撃ではないのだろうか。おそらく、米軍にとってアフガニスタンの人々の命は虫けらのようなものだったのだろう。そこにタリバーンやアルカイダがいるかどうか、確証はなくてもよい。いるかもしれないと思われる場所はとりあえず叩いておく。結果として一般の住人が死亡しても「誤爆だった」というだけで済んでしまう。アフガニスタン人の命は驚くほど安い。

 結果として、米軍被害の取材は限定的、表面的なものに終わった。劣化ウランやその他、米軍新兵器使用が疑われる地域に入りこむには準備も能力も手段も欠いていたと言わざるを得ない。加えて、来るのが遅すぎた。
 ナンガルハール州東部の山岳地帯は、ビンラーディン氏やアルカイダの隠れ家になっているとして度重なる空爆が報道されていた。一口に東部山岳地帯といっても、その示す範囲は広大だ。ナンガルハル州からパキスタン北西辺境州へかけての山岳部は概して木々は少なく、その大部分が乾燥した岩山である。その所々に村落が点在している。米軍の空爆跡にも我々が近づけるところと近づけない場所がある。

 ジャララバードから車で1時間半ほど行った所にダロンタという村がある。ここにも米軍空爆によるすり鉢状の穴がいくつかあけられている。破壊されたアルカイダの施設、という建物に入ると、焼け焦げたビンや袋、ガスマスクが散らばり、硫黄らしい粉が散っていたりする。
 さらに車で30分ほど行くと、アガンという場所に着く。ここでは3軒の民家が破壊され、8人が死亡したという。全員民間人である。「攻撃されるのはアルカイダのいる場所だけだと思っていた」というナキーブさんは親戚8人を失い、自身も重傷を負ったが、死者に対する保証はおろか、自身の治療費すら何の社会的支援もなく、友人たちからの借金で賄っているという。
 アガンから更に先へ、トラボラやその付近への入り口となる地点がギリヘイルという場所だ。ここから先への道は、5月6日の時点では閉ざされていた。軍司令部が許可を出してくれない。これより先へ進むには、米軍の許可が必要なのだという。司令官の話では、その時点では700名ほどの米英軍が駐在しており、近々アルカイダ掃討作戦が予定されていることもあって、外国人を入れるわけには行かないのだという説明だった。米軍は空から監視しているし、地上ではアフガン兵が警戒にあたっている。下手に潜りこむと何が起こるかわからない、とのことである。そう説明する司令官の歯切れが実に悪い。この地域での米軍の行動に関して尋ねると概ね、「私の上司ならわかるだろうが、自分は直接米軍と接していないので」 とはぐらかされてしまう。「ここは貴方の国でしょう。なぜアメリカにコントロールされなければならないのですか」とぶつけてみても、「仕方がないでしょう。我々にはどうしようもないことです」との答えであった。
 蛇足だが、この司令部横には一面にケシ畑が広がっていた。仕舞いには、司令部近辺での撮影は禁止、と言っていた兵士が自らケシ畑に入って行って、記念撮影をせがまれる始末だった。
 それから10日ほど後、5月17日に、再度トラボラ地区の取材を試みた。その時は、現ナンガルハル州知事、ハジ・カディールのオフィスへ寄って、あらかじめ許可証を手にして出かけたのだが、この時は何の障害もなく物事が進んだ。その許可証の提示を求められることすらなく進入できてしまったということから考えると、米軍の作戦が終了したのだろう。道中の警備体制が前回とは比較にならないほど緩められていた。ハジ・カディールの事務所で許可証を書いてもらっている際にも、その総務部長が言っていた。「これは地元の兵士には有効だけれども、アメリカ軍に対しての効力は保証できないことを理解しておいて欲しい」。悲しいことに、これがアフガニスタンの現実だった。
 この時はトラボラに近いミロ周辺で米軍爆撃の跡や破壊されたアルカイダの洞窟等を訪ねたのだが、特筆すべきことはない。ここでも米軍はクラスター爆弾を使用し、その不発弾処理は地雷除去NGOの手で進められている、ということくらいだ。米軍は爆弾を撒き散らすだけで、その撤去にも、被害者の保証にも何ら関わっていないということだけは明らかである。

 

 
マスードの肖像 (ジャララバード)

都市部では到るところでマスードの肖像を目にする。
カーブルでは軍関係の事務所はもちろん、役所や銀行にまでマスードの肖像が掲げられている。
ジャララバードでも、兵士の車両のフロントガラスに、ルームミラーにぶら下げられたCDにも(写真左)
カーペットにもマスードを織り込んだ商品が多数見られた(写真右)

元兵士という曖昧な存在

 前述のように、我々をガイドしてくれた国境係官A氏は元ムジャヒディンである。とはいえ、彼はパキスタンに暮らしていた事もあり、また日本で働いていた事もあるというから、筋金入りの戦士というわけではないのだろう。酒も飲めば女性も大好き、という、リベラルといえばリベラルだが「イスラーム聖戦士」と呼ぶには行状がよろしくない。それでも、ジャララバード近郊の軍関係ではかなり顔が通っているらしいことは間違いない。彼の叔父は現役の兵士だというから、そんな関係も影響しているのかもしれない。軍の駐屯地やその宿舎でも、顔パスで訪問する事ができた。
 ジャララバード郊外の農村で週に一度の市が開かれているのに遭遇したことがある。市の脇には警備のため警官が待機しており、外国人である我々は、形だけとはいえ、まず訪問目的その他を説明する事になったのだが、そこでの交渉はA氏曰く「話をしてみたら私の方が地位が上だということがわかったんだ。だから何も問題ないよ」。A氏の詳しい戦歴は定かでないのだが、それにしても現役の警官よりも引退した元ムジャヒディンの方が地位が高いということになる。ちなみに、警官と書いたが、警官と兵士の境界もきわめて不明確である。町中で交通整理にあたっている警官などは、"宇宙戦艦ヤマト”式の白い警帽を被っているのでそれとわかるが、道路で検問を行っていたり、市中をパトロールしたりするのは兵士なのか警官なのか、その立場は曖昧である。国家機構上は、国防省の管轄下にある者が兵士で、内務省の管轄下にある者が警官ということになるのであろう。しかし、ナンガルハル州にはそのようなカーブルの行政は及んでいない。形の上では、最大軍閥の領袖であるハジ・カディール氏が知事(02年6月発足の暫定政権では副大統領)となっているが、アフガニスタンにおける知事とは中央政府の代理などという役割ではない。もともとが軍閥であり、行政機構としての区分けは大まかなものでしかなく、警官も軍人も乱暴に言えば同じハジ・カディール氏配下の兵士である。もっとも、ハジ・カディール氏が全てをコントロールできているわけではなく、彼のほかにもハズラット・アリー氏やハジ・ザマン氏といった有力者が、それぞれに権力(軍事力)を保持しているために事態は一層複雑だ。一応それぞれの支配地域ごとに住み分けがなされた上で、ハジ・カディール氏の優位性が認められているといった構造であるようだ。しかし、それぞれに軍事力は保っており、兵士にその所属を尋ねると、皆一様に「カルザイの政権だ」と答える。名目上は皆が体制派なのである。

 ケシ畑の項でも述べたが、住民も多くはカラシニコフ銃を所持している。怖れていたほど(出かける時は忘れずに)ではないにせよ、日常的に銃を携帯している一般住民もちらほらと見かける。軍人はもちろん銃を携帯している。それら、銃をさげて歩く人物のうち、誰が軍人で誰が一般市民なのか、見分ける方法はない。軍人であっても皆が軍服を着用しているわけではない。幹線道路の検問所には軍服を着た者が多いが、全てではない。山岳部の司令部では、アガンでは殆どが私服、ギリヘイルでは多くが軍服姿であった。このことは米軍との作戦地域に近い、ということが影響しているのかもしれない。
 米軍は拘束したアルカイダ兵を、正規の軍人と認めない、という処置をとったが、そもそもゲリラであったアフガニスタンの兵士に軍服の着用やその他、西洋が決めた戦争のルールを適用する事は不可能かと思われる。対ソ戦にせよ、その後の内戦にせよ、アフガニスタンの23年の戦争は国家間戦争ではない。より狭い地域での郷土防衛戦争と見たほうが正しいであろう。

 ついでに、通行税の徴収に関して記しておく。幹線道路を通行していると、主に都市への出入り口だが、随所に検問所が設けられ、身分証の提示を求められたり、簡単な検査が行われたりする。その上で小額の通行料を支払う。きちんとした検問所で行われる場合はまず問題ないであろう。それらとは別に、時折個人による検問を見かけることがある。銃を示して制止を求め、この場合にも運転手は小額の通行料を支払うのが常である。主に郊外で見かけるこのような小検問には正規のものと不正規のものがある。不正規のもの、とはつまり、ただのたかりだ。「夜になると彼らは強盗に化けるよ」とA氏が言う。しかし、小さくとも正規の検問もあるため、無視するわけにはゆかない。「この通行料は正式の税なのか」と問うと「正式の税だ」と答える。「集めた金はどこへ行くのだ」と問うと「カルザイの政府だ」との答えが返ってくる。まさか本当にこの通行料が国庫に納入されるとは信じ難いが、正規の検問の場合は、おそらく現場で多少ピンハネされた後に、地方軍閥の金庫に運ばれるのであろうと思われる。02年5月の時点で、毎日1000台以上のトラックがトルハム国境からアフガニスタンに向うと言われている。私の見ていた限り、通行料は一箇所につき1000〜2000アフガニー程度で、これはナーン一枚ほどの額なのだが、それでも複数箇所で毎日1000回以上の徴収となると、地方財政にとっては大きな額となるであろう。
 さらに付け加えるならば、この通行税は今回私がナンガルハル、カーブル、バーミヤンの3州で見聞きした中で唯一の税金なのだ。現政権は混乱の中で発足したばかりという点を考慮せねばならないが、それ以前のムジャヒディン政権、社会主義政権にあっても税を支払ったという話は聞かれない。例外は前述したタリバーンのアヘン10分の1税だ。
 アフガニスタンの税制に関しても今後調べて行きたいと思っている。

 軍人に話を戻す。首都カーブルでは表向き武装解除が進んでいる。代わりに市内の警備にあたっているのが国際治安支援部隊(ISAF)で、それぞれの国旗を掲げた装甲車やジープがパトロールしている風景は頻繁に眼にする事ができる。代わりにアフガニスタン人の兵士は、大使館やNGOなどの主だった施設で守衛にあたっている。
 カーブルでは、タリバーンとの前線となった地でもあり、北部同盟支援のため米軍が爆撃を行った、北部郊外、カラバーからチャリカールへの街道を訪ねた。地雷等の危険もあり、また住民にインタビューもしたかったので、事前に地域の司令官に協力を求める。訪れたのは司令官ハジ・アイマスの事務所。本人には面会できなかったが、秘書のカーズィーナイーム氏が対応してくれた。
 ハジ・アイマス氏は故マスード将軍旗下の司令官で、四個師団を統帥しているという。その時はふむふむ、と聞いていたのだが、よくよく考えると、1個師団12000の兵員というナイーム氏の説明で四個師団の長というのは幾らなんでも大き過ぎる。(2000〜2001年、マスード派全軍でも兵力12000名程度と言われていた。)誇張したか、或いは現在のマスード派のことを述べたものと思われる。ともかく、いわゆるパンジシール派であり、現在は国防相ファヒーム司令官の配下にある正規軍である。その秘書であるナイーム氏はパルヴァンの出身だということだがモンゴル系の顔立ちをしている。民族の違いに囚われず、全てのアフガニスタン人が参加できるアフガニスタン国家を目指したという、伝えられているマスードの美談を思い起こした。いまでこそ秘書というが、もちろんナイーム氏も元戦士である。カーブル奪回に関して、タリバーンとの目立った戦闘はなかったようだが、と尋ねると、攻勢をかける前に前線のタリバーン兵2〜3000人が寝返ったためだ、と説明してくれた。そんなナイーム氏と運転手のアーマヌロン氏に案内されて、カーブル北部の前線跡を訪れた。

 カーブルから北へ。首都のすぐ脇だというのに、辺りは一面が地雷原だ。幹線道路を1メートルも逸れると、地雷原を示す白石が延々と道路に沿って続いている。その奥では幾つものNGOによる地雷除去作業が続けられていた。ヘルメット、フェイスガード、胴当て、と基本的な防具は身に付けているものの、いざ事故が起これば大怪我は免れないであろう。
 後日MDCというドイツに本部を置く地雷撤去NGOを取材させてもらったのだが、アフガニスタンで使用された地雷はソ連製、中国製、イタリア製、と生産国や形式も様々なら、鉄製もあり、プラスティック製もありと種類もさまざま。さらに対人地雷も対戦車地雷も併用されているために、最終的に手作業に拠らざるを得ないのだという。場所によってはブルドーザー型の地雷除去機も使用されているようだが、それらの機械は対人地雷は粉砕できても対戦車地雷には対処できない。また複雑な地形には対処できない。さらに述べるならば、地雷除去機器を製造しているメーカーの多くは地雷製造メーカーでもあるという。地雷除去もまた死の商人のビジネスと無縁ではない。
 MDCでは地雷犬の育成に取り組んでいる。火薬の匂いに反応する犬である。金属探知機に反応しないプラスティック地雷にも対処できる上に、体重が軽いため、被害も少なくてすむという利点があるようだ。通常の対人地雷は2,3キロの負荷に反応するように造られているため、犬の片足程度では爆発しにくいそうである。もちろん、地雷除去に確実な方法はないし、犬は地雷を発見することは出来ても、最終的に地雷を掘り起こし、解体できるのは人間以外にありえない。
 カーズィーナイーム氏に、貴方がたも地雷を使用していたのか、と尋ねると「もちろんだ」との答えが帰ってきた。「しかし、我々はどこに埋設したかをきちんと把握しているから、撤去も容易なのだ」と。それよりも、誰がどれくらい埋設したのかわからない地雷が多いのだという。この20年間、人々は時々の戦況に応じて移動してきた。敵に備えて地雷を設置し、そのまま余所へ避難、或いは難民として他国へ逃れ、或いは戦闘で死亡してしまうと、もうどこが地雷原なのかは誰にもわからない。
 道路脇には破壊された戦車や車両の残骸も数多く残っている。その多くが対ソ戦時のものだが、タリバーンの物もある。近づいて調べたいが、地雷のため近づけない。白石の内側なら安全かと思うのだがナイーム氏は「対戦車地雷は撤去されているが対人地雷は残っているかもしれないから」近づくな、と言う。地雷撤去に完全はないのだ。

 道々、ナイーム氏は辺りの解説をしてくれる。米軍の爆撃で18人が死んだという市民が乗ったバスの残骸と墓標がある。タリバーンにより徹底的に破壊されたという村の跡がある。タリバーンの塹壕、タリバーンが使用していた車両の残骸。道路には様々な戦争の残骸が散らばっていた。
 タリバーンにより破壊されたというサライホジャ村。なぜ、ここまで破壊する必要があったのだろう。そう問うとナイーム氏は「住民が反タリバーンで徹底抗戦したからだよ」と事も無げに答える。
 幹線道路から逸れて、村落へ入る。近くには学校も再開され、ユニセフの印の入ったバッグを持った子供たちを大勢見かけた。その村でも爆撃で一般市民が死んだのだという。米軍だ、と言うが、「1年前くらい」という時期を考えると対タリバーン戦であろうと思われる。死んだ子供、片手、片足を失った幼児。この国では障害者であることはさして珍しくもない。その爆撃跡で子供を失った壮年男性の話を聞いていると、通りかかった青年が「おれの足も見ろ」という。その足は指が二本欠けていた。「地雷か」と尋ねると「そうではない。銃撃だ」という。タリバーンとの戦闘で負傷したのだ。ナイーム氏に尋ねた。「彼は兵士だったのか?」 ナイーム氏は、くだらんことを聞くなとでも言いたげに答える。「彼は普段は畑で働いている。でも戦争が始まれば兵士になるんだ。」
 現在、軍人として給料をもらっている兵士はごくわずかであろう。しかし、兵士というアイデンティティをもった一般市民は数多い。言わば民兵であり、半農半武士なのだ。
 帰り道の車の中、ナイーム氏は運転手を指して「彼は元タリバーンだ」と言う。最初は冗談かと思っていたのだが、事実だという。本人も認めている。カーブル攻防戦が始まる前に寝返った2〜3000名のタリバーンの1人なのだ。今ではパコール帽を被って北部同盟司令官のもとで運転手をしているが、半年前までは黒いターバンを巻いていたのだという。

 
地雷

カーブルから北へ向う街道でも、幹線道路から1メートルも脇に逸れると地雷原が広がる。
道路脇には各種NGOが設置した、地雷原を示す白石が点々と続いていた。(写真左)
地雷撤去作業にあたるNGO、ハロー・トラストの職員。(写真右)

タリバーン

 元タリバーンという人物に会ったのは彼が二人目だ。1人目はナンガルハル州のケシ農家だった。両者に共通している事といえば、少なくとも表面的にはちっとも悪びれた様子がない、といったことだろうか。自分から口外もしないが、特にそのことに引け目を感じている風もない。彼らが、というよりはむしろ、周りの人間が、というべきかもしれない。報道で「迫害される元タリバーン」という印象を持っていただけに、私には彼らが特殊に見えた。実際に、都市でも村でも、タリバーンの評価は散々なのだ。人々は、いかにタリバーンの支配が過酷で不自由であったかを語り、いかに今の平和を喜んでいるかを故マスード将軍への賞賛とともに語ってくれる。住民の中にこれほどの反タリバーン感情があるのなら、タリバーンはいかにして国土の9割をも支配し得たのだろうか、というのが素朴な疑問だった。
 それはあまりにも表面的な捉え方だったのだ、と思う。

 現状ではタリバーンのことは非常に聞きづらい。まず、治安を担当しているのが一応、反タリバーン連合側だということがある。現カーブル政権の中枢を占めるマスード派は言うに及ばず、ナンガルハル州のハジ・カディールにせよ、バーミヤンのカリム・ハリリにせよ、中央、地方問わず現在の支配層は、タリバーンに追われていた者たちの返り咲き、という構図になっている。そのような状況にあってタリバーンを擁護するかのような発言は聞かれるはずもない。
 ついでながら、「裏切り将軍」と書かれたりもし、マスコミには受けの悪いマザリシャリフのドスタム将軍だが、そのような批判は見当違いではないか、と思う。彼は、社会主義政権下で国防相という地位にあったことで寝返りが目立ってしまうのだが、自身と支配地域の安全のために合従連衡を繰り返してきたのがアフガニスタンのこの10年ではなかったか。タリバーンと何らの交渉もせず徹底抗戦だけで臨んでいたようなグループはおそらく、ない。ドスタムを「風見鶏」と批判するならば、大部分のアフガニスタン人も同様に風見鶏であろう。それは戦乱の中で生き延びるための技術でもあろうし、余所者が勝手な倫理に照らして批判できる性質のものではないと思う。
 関西では俗に「京都人は何を考えているのかわからない」と言われる。表面的には愛想よく、それでいて真意は読み取る事ができない。あからさまな否定の表現は避ける。近づき過ぎず、遠からず、政権との微妙な距離を保つ事によって様々な政権下で生き延びてきた、紛争地ゆえの生きる知恵、などと解説されたりもする。
 おそらくアフガニスタンの人々にも同じような性質がある。ただし、彼らの場合は、もっと大っぴらに事が行われるようである。風向きを見極めて、常に体制派であろうとする。そんな傾向が見られるように思われる。だからこそ、確固たる信念なく日和見的にタリバーンに参加したような元タリバーンは、さしたる非難を浴びる事もなく現体制派に寝返ることも許されるのではないだろうかと考えるのだが、あまりにサンプルが少ないため、私の推測でしかない。
 カーブルでは多くの人に「タリバーン時代はどうだった?」と尋ねてみた。その結果わかったことは、実に多くの人々が昨年末のタリバーン崩壊後にカーブルに戻ってきた、ということである。タクシーの運転手、バザールの商人、ゲストハウスの従業員、などなど、少なくとも外国人が普通に接する人々の多くが、ここ数年は他州、他地域、或いは外国に避難していた、と言う。今はタリバーンと戦った戦士たち、タリバーンから逃れていた人々が勝ち組なのだ。そして新政権に期待しているのだ。一方、私の知るペシャワル在住のかつてのタリバーン支持者はカルザイ政権を「アメリカの政府」と悪し様に罵る。きっとカンダハルではまた違った意見が聞かれるに違いない。

 

カーブル

 ジャララバードからカーブルへは延々と悪路が続く。比較的平坦な、トルハム(パキスタンとの国境の町)・ジャララバード間と異なり、峠を越えねばならないから、ということもある。しかし最大の要因は道路の破損の酷さである。ところどころに舗装の跡は残っているものの、大部分は砲撃を受けたためであろう、クレーター状にボコボコになった砂利道が続く。乗用車はともかく、物資満載のトラックなどは歩いた方が速いのではないかと思われるゆっくりとしたスピードでしか進めないようだ。小麦か豆か、援助物資であろう麻袋を満載にしたトラックやトレーラー。家財道具をいっぱいに積みこみ、さらにその上に多くの家族を乗せたトラックが激しく揺られながらのろのろと進んでいる。そんな状態であるからもちろん、転倒事故も多発している。また、角張った砂利でその磨り減ったタイヤを破裂させてしまったのであろう、タイヤ交換で立ち往生している姿も珍しくない。積みこまれた援助物資にはドイツ企業のものが目立った。また、どういうわけか、カーブル方面から東へ向うトラックには、新品のタイヤを運んでいる物が頻繁に見うけられた。五月とはいえ、30度は優に越す炎天下、街道近くには村らしい村も見うけられない。そんな中を自動車に混ざって進むロバ牽きの姿を見つけたりすると、この人たちがどこから来てどこへ向おうとしているのか、不思議な思いにとらわれる。
 それが、パキスタンからカーブルへ向う幹線道路の現在である。そして、そのような幹線道路であるがゆえに重要な戦略拠点であり、そのためにここまで破壊されてしまったのであろう。地図上では150キロほどに過ぎないジャララバード・カーブル間は、四輪駆動車でも五時間はかかる長い道程だ。
 やがて、スロービの峠を越え、再び舗装道路が復活したと思えば、もう時期にカーブルである。郊外にはフランスやイタリアの国旗がはためくISAF(国際治安支援部隊)駐屯地となっている団地風の建物があり、その後も都市らしい景色もないまま、いつしかカーブル中心部に到達している。
 首都らしい、洒落た高層ビルが立ち並ぶわけでもない。広々とした道路と家々の間隔は計画されたものなのだろうか、或いは戦災で隙間だらけになってしまったということなのだろうか、やはり崩れかけたような建物が多い町並みだが、都会的な猥雑さというよりは、ゆったりとした牧歌的な印象を受ける。イギリスの影響なのか、大通りの交差点はロータリーで交わり、電力の不足も一因であろうが、信号は殆ど見かけない。そんな大通りの一つに「グレート・マスード・ロード」と標識で記されているのを見つけた。ジャララバードでも意外なほど多くマスードの肖像を見かけたが、やはり地元のハジ・カディール、或いは昨年死去したアブドゥラ・ハクの肖像が掲げられていることも多かった。それがカーブルではマスード一色といった印象だ。その後、町を歩いていても、商店や食堂の番台の上、政府関係の建物は言うに及ばず、学校や、現在機能しているのかどうか定かではないアフガニスタン銀行の門前にさえマスードの肖像が掲げられていた。
「アフガニスタンを救った偉大な英雄」「タリバーンを打ち負かした尊敬すべき指導者」 マスードについて質問すると、人々はそう言って彼を称えた。

 

 他のジャーナリストから得た情報では、02年2月の時点でカーブルの「ムスタファ・ホテル」は25ドルとのことだった。それが我々が訪れた5月には100ドルだという。マネージャー曰く、その後、「発電機も整備したし、水道設備も整えた。ローヤジルガに向けてジャーナリストは大勢来るし、西洋式のホテルではこれでもウチが一番安いはずだ」。
 とても100ドルも払う余裕はない。我々は、トルハム国境からここまでガイドしてくれたA氏と交渉し、彼の知人宅に留めてもらうことにした。そしてその後、A氏と別れ、30ドルのゲストハウスを見つけ、そこに宿を移した。
 100ドルのホテル。そこでは、電気が通り、水道が使え、テレビが見られ、ホットシャワーが出て、フロントには衛星電話の用意もある。インドやパキスタンでは10ドルも出せば得られる設備であろう。それがアフガニスタンで100ドルだという。このことは「アフガニスタンなのに」高い、と捉えるべきなのだろうか、それとも「アフガニスタンだから」妥当な値段と捉えるべきなのだろうか? カーブルでは一般に、発電所は稼動しているものの停電は多く、水道設備は破壊されており、電話網は寸断されたままだ。つまり、我々が日常としている社会基盤は損なわれたままである。そして、それらの設備の復旧は「外国人の使用」するところから優先的に整えられようとしているのだ。そのことが私を複雑な気持ちにさせた。
 外国人が宿泊するホテルの門前では、しばしば、ことに朝方だが、数人の客引きに声を掛けられる。大抵は若者で「通訳は要らないか」と言うのだ。学生だという者が多い。学生だったという者もいる。近所の宿や食堂の従業員であることもある。多くの者が、タリバーンが去ってからカーブルに戻ってきたのだという。それまでは、マスード支配地域やパキスタンに逃れていたというから、いわば帰還難民だ。帰ってはきたものの、仕事はない。大学も教員の帰還が思うように進んでおらず、再開されたとはいうものの授業ははかどらないらしい。通訳は彼らにとって、無資本で始められる、高給のアルバイトである。彼らの英語能力は概して低い。よくそれで「通訳に雇え」などと売りこんでくるものだ、と飽きれてしまうようなレベルの者もいる。それでも彼らは必死だ。大手メディアは事務所を構え、自前の通訳を常時雇用しているし、フリーのジャーナリストは以前に比べ、めっきりその数が減少した。観光客など望むべくもない。ライバルとの仕事の取り合いである。
「いいか、あいつらはみんな、金だけが目当てなんだ。中には金をひったくって逃げる泥棒もいる。決して誰も信用するんじゃないぞ。」 ご忠告をありがとう。貴方のアドバイスにしたがって、貴方も信用しないことにしましょう。
 空港の出口にも通訳志願者は常時待機しているようだ。一度、急に通訳が必要になってパートタイムの仕事を頼んだことがある。
 20年以上にわたって教育システムが破壊されてきたことを省みれば止むを得ない結果なのだろうが、首都カーブルでも一般に英語の通用度は低い。英語を解せる人には、パキスタンへの難民経験者が多いように思われる。ナンガルハル州では「パシュトゥー語は話せないのか」と尋ねられたりもしたものだが、カーブルではダーリ語のほうがはるかに優勢であるようだ。アフガニスタンではパシュトゥー語とダーリ語が公用語とされている。両方話せる人もいれば、一方だけの人もいる。他に、ウルドゥー語やアラビア語を解する人もいる。北部出身者にはウズベク語を話せる人もいるし、当然ながらその人の育った環境によって満ち付けられた言語も異なっている。
 英語など必要なかったこの20年のカーブルであるから、外国人が泊まるような宿でも英語を理解できるの従業員は1人いれば良いほうだろう。タクシーの運転手も大半は駄目である。
 私が宿泊していたハシーブ・ゲストハウスでも、英語を話せるのはアジマル君だけだった。年は20代前半。ジーンズに洋服姿の、都会的な若者である。親しくなった後、彼が私に仕事の相談を持ちかけてきた。
「日本の大使館とか、援助団体に知り合いがいたら、僕のことを紹介してほしいんだ。」「今はこうしてゲストハウスで働いているけれども、毎日退屈しているんだ。それに、ローヤジルガが終わったら外国人の客はいなくなってしまうだろうからね。」
 難民の帰還で、カーブルの人口は膨張している。しかし、彼らを受け入れるだけの産業はまだ育ってはいない。外国のNGOは彼らにとって援助団体であるだけでなく、優良な就職先でもある。

 

 
     

バーミヤン

〜ハザラ人にとって仏像とは〜

ハザラジャート ハザラ人の土地


 アフガニスタンの中部に位置するバーミヤン州。さらにはゴール州、ウルズガン州辺りにまたがる地域は、ハザラジャート、或いはハザリスタンとも呼ばれることがある。ハザラ人の土地、といった意味で、その中心都市はバーミヤンである。3000メートルから5000 メートル級の山々が連なる山岳地帯で、道路はその谷間を縫うように走り、所々に村々が点在している。白雪を頂いた山々が臨まれ、小川がせせらぎ、谷間には背の低い木々と小ぶりな花々。そしてすれ違う羊飼いやロバに揺られ移動する村人たち。のどかな高原の風景と言っていい。しかし、村落や渓谷のを除くと、概して山々に緑は少なく、岩肌を露にしている。この地域に住む人々、すなわちハザラ人と呼ばれる人々は、頬骨が張り、眼は細く、鼻も低い。つまり日本人とよく似た顔立ちのモンゴロイドである。報道ではよく「少数民族」と紹介されるが、各種統計で15〜20パーセントとされるその人口比は、多民族国家であるアフガニスタンにおいて、決して少数とはいえない。最大のパシュトゥーン人でさえ35〜40%、タジク人は25%程度とされているから、その意味では3番目に大きな民族という言い方もできる。ウズベク人は10 %に満たないと言われているし、その他、アイマク人、バローチ人、等など、この国は「民族の博覧会」と呼ばれるほどの多民族国家なのである。首都カーブルにおいてもハザラ人の姿は決して珍しくない。そして彼らが主に市場裏での荷運びや工事現場などといったきつい肉体労働に従事していることは、ぼんやりと街を眺めているだけでも感じられる。貧しいから、教育がないから、そしてモンゴル人だから、他に仕事がないのだ。彼らの答えは概ねそのようなものだ。

 バーミヤン州の州都バーミヤンはそんなハザラ人の中心都市である。もっとも、町の規模としては都市と呼ぶに程遠く、小さな村と言った程度だ。大通りの両側に雑貨屋や食料品店、宿を兼ねた食堂が並ぶささやかなバザールは100メートルと続かないであろう。その中心部からははずれた街道沿いに外国NGO が支援している病院が一つ。それとは逆方向の外れにモスクが一つ。米軍により破壊されたバーミヤン大学もやはり中心からは外れたところに位置する。人々が暮らす民家も集中するということがない。まばらに散らばっている。どこまでがバーミヤン市でどこからが隣村なのかという境界は判然としない。そのような近隣の諸村から、人々は徒歩で、ロバで、このバーミヤン市にやってくる。この町は、中央の司令塔というよりは、周囲の集会機能が置かれていることによって中心であると言ったほうが適切なのかもしれない。
 そして、バーミヤンに存在する二つの要因が、ここが政治的に、また精神的にもハザラジャートの中心であることを裏付けている。
 ひとつには、政治的な要因として、ハザラ人最大の軍閥、ヒズベ・ワフダットの本部が置かれ、その領袖であるカリム・ハリリが居を構えていることであり、精神的な要因としては、北の断崖に彫られた巨大な石窟仏の存在があげられよう。

 ヒズベ・ワフダット(イスラム統一党)は対ソ連戦時に結成されたハザラ人のムジャヒディン組織である。ハザラ人はその多くがイスラーム・シーア派信徒であり、他のスンニ派組織とはもとより、同じシーア派ハザラ人組織同士でも当初は統一歩調がとれずにいた。その後、統一戦線の必要から、主だったシーア派ハザラ人部隊9 派が集まって結成されたのがヒズベ・ワフダットであり、ハザラジャート一帯を支配してきた。この連合には同じシーア派の大国、イランが関与したともいわれている。対ソ戦後はラバニ政権や後にはマスード派、タリバーンと離合するが、指導者のマザリがタリバーンに惨殺されたことから反タリバーンの姿勢は決定的なものになったという。殺されたマザリの後を受けて、新たな指導者となったのが現在同党を率いるカリム・ハリリである。ハリリは2001年10月に発足した暫定政権では、カルザイ議長に次ぐ副議長の地位を与えられている。
 実際にバーミヤンでは全てが彼の支配下に置かれているらしいことは容易に見て取れる。町をパトロールする兵士はすべてヒズベ・ワフダットの兵士だし、モスクを管理するのも同党の元兵士である。マザリとハリリの肖像画が掲げられた同党の事務所は市庁舎だといっていい。仏像の調査に訪れる研究者も、この地域で活動する各種NGO も、何か協力を求め、或いは許可を求める必要が生じたならば行く先はここ以外にない。民事、行政、軍事、全てにわたってバーミヤンにはヒズベ・ワフダット以外に「公的機関」といえるものはないのだから。ここで政府と言えば、それはヒズベ・ワフダットを意味している。現在町では新たな病院と空爆で破壊された大学の再建話が持ちあがっているようなのだが、誰が建てるのだ、と質問すれば「ハリリだ」という答えが返ってくる。誰がカネを出すのだ、と尋ねると「カルザイの政府だ」と言う。そのカネはどこからでてくるのだ、と重ねると「外国の援助だろう」という。殊更に反カーブル意識もなく、独立志向が強いというわけでもない。ここにハリリがいて、カーブルにカルザイの政権があるのならば、ハリリ政権はカルザイ政権なのだろう、といった程度の認識のようである。中央政府の役人や軍隊が派遣されてくるでもなく、何一つ新しい制度がもたらされ、強制されることも無く、地元の人間によって今まで通りの生活が行われているのだから中央政府などといったものは視界に入らなくても無理はない。ある老婆は「(カーブルの国家)政府は何もしてくれない。必要な援助はみな外国の団体がしてくれた」と言う。現在モスクの管理人をしているヒズベ・ワフダットの元兵士は、冬の食糧難の時期、配給を求めてやってくる村人たちの対応にあたっていたのだそうだが、「外国の団体がやってきて資金や物資、食料の援助を行ってくれたので餓死者も出ずに済んだ」と言う。人々に、戦争が終わったという安堵感はあっても、新しい政権ができた、という認識は薄い。

 
ヒズベワフダットの事務所前 (写真左)

掲げられているのは現リーダーのカリム・ハリリ氏とタリバーンに殺害された
前リーダーアブドゥル・アリー・マザリ氏

羊を追う少年 (写真右)

耕地面積の少ないハザラジャートでは放牧も主要な産業である
少年はユニセフのバッグを持っていた

バーミヤンへの道

 アフガニスタンへ行く前、パキスタン・ペシャワルに暮らすハザラ人の友人を訪ねた。「トルハムの国境を越えて、陸路ジャララバード、そしてカーブルへ向う」そう私が告げると、彼は、彼が戻るよりも先にアフガニスタンへ行く私を羨みながらも「ジャララバードでは気をつけるように」と言う。どういう意味かと問うと、「ジャララバードのパシュトゥーン人はハザラ人に敵意を持っているから」とのことだった。 
 実際にはジャララバードにもハザラ人は暮らしている。そんなハザラ人が経営する食堂で、店のオヤジに「バーミヤンへ行く」と告げると、彼はとても喜んでくれた。バーミヤン、ハザラジャート、俺たちの国、・・・・・・。
 東部パシュトゥーンのハザラへの感情はともかく、日本人に対してはアフガニスタンのどの民族も好印象であるらしく、歓待してくれる。歴史が、都合良く誤解されて伝わっているのだ。
 ロシアと戦争した国、アメリカに戦争を挑んだ国、イスラームと戦争しない国、非西洋文明でありながら発展したアジアの同胞。加えて今は復興を援助してくれる国でもある。実際に、教育が満足に行き届いていないであろうこの国で、驚くほど多くの人が「ヒロシマ・ナガサキ」のことを口にする。その惨劇から経済大国へと復興した日本は、戦災に苦しむ彼らにとって希望の星なのかもしれない。「原子爆弾で多くの人を殺したアメリカと、どうして仲良くできるのだ」といった質問もしばしば受ける。「日本とアフガニスタンは同じ日に独立した」というのも、広くアフガニスタン人に流布されている誤解の一つである。日本に独立記念日はない、と言うと皆が怪訝な顔をする。なかには「お前は歴史を知らない」と言い出す者までいる。ではその独立記念日はいつなのだ、と問い返すと「えーっと、えーっと・・・・・・」となり、「1919年だ」というところまでは答えが返ってくる。正確な日付は彼ら自身も把握していないことが多い。暦法の相違を考慮するにせよ、日本と同じだという独立記念日の日付がはっきりしないというのはひどい。はっきりしていないのに日本と一緒だと言いきって嬉しがっている様がなんとも微笑ましい。(アフガニスタンの歴は、西暦、イスラーム太陰暦、そして春分の日を正月とするイラン式の太陽暦の三つが平行して使用されている。)その日本びいきに、ハザラ人の場合はもう一つ「俺たちは同じナショナリティーだ」ということが付け加えられる。「きっと先祖は一緒なはずだ。」
 パキスタン国境で出会って以来、カーブルでの最初の数日まで、A氏がガイドしてくれたことは先に述べた。ただ、そろそろ彼と別れるべき時期がきていた。彼をこれ以上雇い続ける資金力に欠いていたし、彼にガイドしてもらっていることで逆に見えなくなっていることも多いように感じられてきたのだ。我々が彼に支払っていた給料は、他の大手メディアジャーナリストから見れば比較にならないほどの薄給であっただろう。しかし、それでもアフガニスタン人にとっては大金であったはずだ。A氏はまだまだ我々のガイドを続けたがっていた。「私はアフガニスタン中を旅行したことがあるから、どこへでも貴方たちをガイドできる。どこに行っても私には知り合いがいる。」 それはかなりの程度事実であろう。決して彼が無能だから解約しようというのではない。その当時、我々はカンダハール行きの相談をしていたのだが、「その後、私はバーミヤンに行こうと考えている」と私が言うと、一瞬彼の表情は曇った。そしてためらいがちに言う。「止めた方がいい。危険だし、私はガイドできない。」はっきりと理由は述べないのだが私が「ハザラジャートだからか」と問うと「そうだ」との答え。住民たちが彼を受け入れないだろう、と言う。ハザラジャートでは、タリバーン崩壊後、現地では少数のパシュトゥーン人がハザラ人によって虐殺、迫害されているとヒューマンライツウォッチが報道していた。A氏が拒むのも無理はない。私ではなく、彼にとって危険だったのだ。

 バーミヤン行きのバスは、カーブルのプレソクター地区から発着する。プレソクター、ダシュテバルチーはカーブルのハザラ人地区である。早朝5時、バス乗り場には数台のワゴン車が控えており、満席になった車から順次出発して行く。私が乗りこんだのも、三人掛け三列プラス運転席と助手席、というトヨタのワゴン車。日本の中古車で、フロントには「○○幼稚園」のペイントが残っている。乗客は皆ハザラ人である。前列には3人のブルカを被った女性が席を占めた。車内ではブルカを捲り上げている。アフサールという青年が英語を話し、私と他の乗客とのつなぎ役を勤めてくれた。彼はバーミヤンの病院でMSF(国境なき医師団)の通訳をしているのだという。今回はカーブルへの出張帰り。経費を報告するためだろうか、途中休憩所での食事代など、出費は全てノートに記録していた。彼自身はハザラとタジクとウズベクが交じり合ったような顔をしているのだが、車内での彼の話はその殆どがハザラ人のアイデンティティに関するものだった。「ハザラ人と日本人はともにモゴール(モンゴロイド)だ。きっと先祖は同じに違いない」「一体、モゴールの起源はどこなのだろう?」
 カーブルから北へ、チャリカール過ぎまで舗装された幹線道路を北上し、やがて西に折れる。そこからは未舗装の山道が続く。小川を渡り、谷を走り、峠を上る。この山道にも小川沿いにも、到るところで地雷原を示す紅白のラインが引かれ、地雷除去隊が作業していた。

 

バーミヤン市

 道中二度の休憩を挟み、バーミヤンに到着したのは夕方4時を過ぎていた。市内に入る検問所の手前に病院があり、アフサールは他の乗客に私のことを託しバスを降りる。ゲストハウスは検問所のすぐ脇の建物だという。ここだここだ、という他の乗客の指示にしたがい、検問所でバスをおり、係官に事情を告げる。すると「まずハリリの許可をとってくれ」と言われる。ハリリの事務所はその100メートルほど先だ。ハリリとマザリの肖像画が掲げられた入り口の前にテーブルが置かれ、軍服も含めた四名ほどが待機している。簡単な自己紹介を済ませると「ハリリに会いたいのか」と尋ねてくる。ちっぽけな田舎町とはいえ、ハリリと言えば全国規模での重鎮であろう。こちらは誇りまみれの衣服にバックパックとショルダーバッグを下げた、貧乏旅行者のような出で立ちである。受けつけ係官の唐突な質問にすっかりうろたえてしまった。
「もちろん、お会いしたいのだが、まずは宿を定めたい。」 しばらくすると、事務所から丸顔の柔和な表情をした中年男がでてきて「大変申し訳ないが、ハリリは今日とても忙しく、面会は不可能だ」と告げられる。そして「ハリリのホテルは満室だから、新しいバザールにある他のホテルを紹介しよう」と先導してくれる。

 男の名はカヴィール。元ムジャヒディンで、現在はモスクの管理人を勤めているという。仕事は「いえ、聖職者ではありません。ただの管理人です。モスクで住民たちの陳情を聞いたり、援助物資の配給を行ったりしていました。」というものだそうだ。
 バザールといっても小規模なもので、路上に日用品を並べているだけの商店があり、コンテナを改造した商店があり、土壁のきちんとした建物の商店がある。
「もともとのバザールはタリバーンに破壊されてしまいました。ここは昨年暮れに、ハリリが新しく造ったバザールなのです。」そうして連れられたのは、バザールなかほどにある食堂。看板には「モモナジャフ・レストラン・アンド・ホテル」とある。バザールで見かけた他の食堂もだいたいゲストハウスを兼用しているようだ。モモナジャフでは広間がレストランスペースになっており、その奥に個室が3つほど設けられている。

 こちらの情報不足、勉強不足というしかないが、正直なところバーミヤン市がこれほど小さな町とは想像していなかった。かつては観光客も訪れていたであろうし、巨大な石仏をはじめ周辺の遺跡を巡って、多くの調査団や学者や国際機関もやってくるのだから、他の都市と同様に、町なかで通訳も車も雇えるであろう。そう考えていたのだが、全く勝手な想像でしかなかった。ここにはタクシーもリキシャも走ってはいない。カーブルからのバスでアフサールに出会い、ここでカヴィールに出会えたのは実に幸運だったと言う他ない。バーミヤンではカヴィールがなにかにつけ私をサポートしてくれた。

 

虐殺

 タリバーンとの戦争では、パンジシールのマスード司令官が有名だが、アフガニスタン中部に位置するハザラジャートでも常に一進一退の攻防戦が続けられていた。タリバーンはシーア派を非ムスリムと捉えていたらしいために、シーア派ハザラ勢力の抵抗もまた頑強なものであったようだ。そのためか、マザリシャリフやバーミヤン、ヤカオラン、といった中北部では、タリバーンによるハザラ人虐殺事件が多数報告されている。人権団体ヒューマンライツ・ウォッチの調査ではその数は15000人に上るという。
 昨年秋に訪れたパキスタンで私は多くのハザラ人に接したが、彼らのなかにも98年頃、つまりバーミヤンやマザリシャリフといった彼らの居住地がタリバーンに制圧されたためにパキスタンに逃れてきた、という者が少なくなかった。部屋に隠れて鍵穴から路上でのタリバーンの住民惨殺を目撃した、と語る人もいた。
 バーミヤンでは多数の住民が虐殺された。これは事実であろう。しかし、前述のヒューマンライツ・ウォッチは、タリバーン崩壊後の中北部アフガニスタンで、今度は逆にハザラやウズベクによるパシュトゥーン虐殺や暴行事件が多発しているとも伝えている。私はこの事実を確かめたかった。双方の意見を聞きたかったし、報復の意義について尋ねてみたかった。結論から言うならば、この地域に暮らすパシュトゥーンには会えなかった。実際、バーミヤン市を始め、ハザラジャートではハザラ以外の顔立ちを見かけたことがない。近くのパシュトゥーンを訪ねたい、というとカヴィールを始め、皆がこの辺りにパシュトゥーンはいない、と答える。

 虐殺の跡を訪ねたい、と言うと、カヴィールは四つほどの村の名を挙げた。そのうちの一つ、サローズ村には事件を目撃した女性がいるが、というので彼に案内してもらった。
 女性の名はファーティマ。50歳の農婦で六男五女の母である。彼女によると、タリバーンがやってきたのは四年前(98年)の収穫期。その時彼女は内臓疾患を患って入院していたそうだ。その日の午後2時過ぎ、タリバーンは病院にやってきた。ハザラは非ムスリムである、と次々に銃で、あるいはナイフで喉をかき切られ、殺害を始めたという。その対象は顔つきや、シーアとスンニの教義上の質問で判別されたという。「幸い私はお金を持っていたのでタジク人にかくまってもらうことができました。」と彼女は言う。10日後に退院し、近郊のグルワンへ避難したが、そこでも若者と男たちは既に余所へ逃げ出していた。彼女の夫と子供たちも山へ避難していたという。やがてグルワンへもタリバーンが侵攻してくるが、その時は「老人だからでしょう」何もされなかった。単身サローズ村戻ってきたのは3ヶ月後。まだ病気は完治しておらず、一人ぼっちの彼女を近所の女達が面倒をみてくれたのだという。多くの死体と焼けた家。村に残っていたのは女性だけだったそうだ。死体は埋葬されることもなく放置され、犬についばまれていた。
「タリバーンは非人間、非ムスリム、非イスラームの特殊な人々だったと思う。その時には全く希望が見出せなかったし、いつ逮捕されるかと不安でいっぱいでした。彼らは、ハザラはアフガン人ではない、宗教が違う、とハザラ人を嫌悪していました。『タジクはタジキスタンへ帰れ、ウズベクはウズベキスタンへ帰れ、ハザラは(帰る処がないから)墓場へ行け』と。」
「カルザイの政府には期待しています。状況は良くなっていますが、新しい政府が人々に何かをしてくれたということはありません。食糧援助や道路整備など、必要なことはすべて外国の援助団体が行ってくれています。」
 彼女は「ザーヒル・シャーが国王になったって構いません」し、ハリリに関しては「私たちを支援してくれると期待しています」と答えた。アフガニスタンのこの50年で一番良かったのはどの時代ですか、と尋ねてみた。
「この50年というもの、良い時代なんてありませんでした。神様のご加護で、これから良い時代が訪れるように願っています。みんなが共に働けるアフガニスタンになって欲しいですし、子供達には学校へ行って、よい教育を受けて欲しいと願っています。」

 

元兵士の語るハザラ

 当たり前の話だが、戦争を続けるには資金が要る。銃弾ひとつとってもタダではない。多くの餓死者が出ていると報道されていたアフガニスタンで、なぜ彼らが戦争を遂行できるのか、ということは私にとって素朴な疑問だった。よく言われるのは外国の関与、武器や資金援助である。シーア派のハザラ人軍閥であるヒズベ・ワフダットにはイランが積極的に援助していたと言われている。しかし、昨年私が接したパキスタンのハザラ難民、移民(元兵士も含まれている)の間ではイランの印象はすこぶる悪い。「彼らは俺たちハザラを鼻が低い、目が小さい、と馬鹿にしているんだ。イランに逃れた難民も酷い扱いを受けている。(上層部ではそういうこともあったのかもしれないが)ハザラを支援してくれたなんてことはなかったよ。イランは民族的に近しいタジクばかりを支援していたんだ。」といった調子である。ヒズベ・ワフダットの元ムジャヒディンであるカヴィールにも戦闘の背景を尋ねてみた。
「確かに物資の供給はいつも深刻な問題だった。お金も食糧も武器も、何一つ満足ではなかったから。」「資金や武器は殆どマスード軍からの分配に頼っていたんだ。」「イラン?何一つ助けてはくれません。彼らが送ってくるものといったら、スローガンとホメイニーのポスターだけでした。」 食糧の調達に関しては、いつも支援してくれる村人達が助けてくれたのだという。「貴方たちがいると村が戦場になってしまう、と怖れる人達もいましたが、『それならずっとここに留まるぞ』と脅して食糧を分けてもらうこともありました。」
「タリバーンは高速車に乗って攻めて来るのに我々には馬しかない。ようやく我々が高速車を手に入れたら、タリバーンは今度はヘリコプターで攻めてくる。」タリバーンとは到底比較にならない貧弱な戦力であったと嘆く。それでも戦士時代を語るカヴィールの口ぶりや表情には、どこか当時を懐かしむ様子が見られなくもない。「ハザラは冒険魂を持って冒険人生を生きているんです。」「ブズカシ(頭を切り落とした羊を奪い合うアフガニスタン伝統の騎馬競技)をご存知でしょう。あれは、ハザラ、ウズベク、トルクメンで盛んであって、パシュトゥーンの文化ではないのです。」 さらに彼はこんな小話を披露してくれる。「アフガン人、日本人、アメリカ人、ロシア人が一つの船に乗っていました。日本人は時計を投げ捨てます。『いくらでもあるから』。アメリカ人は銃を投げ捨てました。同じように『いくらでもあるから』。アフガン人はロシア人を投げ捨てました。『いくらでもあるから』。」

 ソ連との「聖戦」時代、反政府ゲリラはことごとくその名に「イスラーム」を掲げていた。一般には、それ以前の社会主義政権が推し進めた上からの近代化、民主化政策に対し、イスラームと伝統に根ざした村落の民衆が反発したのだ、と解説される。隣国イランも似通った状況を経験したと言えるかも知れない。国王が進めた「白色革命」、農地改革も含む、近代化、民主化を計ったはずの運動が、結果としてはイスラーム革命を招くことになった。イスラームと「近代化」「民主化」との関係は非常に興味深い。
 カヴィールは学生時代をカーブルで過ごしている。ナジブッラー大統領、ケシュマン首相の時代だという。意外なことに、彼によると「社会主義政権時代は、ハザラ人にとって、歴史上もっとも良い時代だった」という。同様のコメントはその他多くのハザラ人から聞かれた。
「ナジブッラーの時代はハザラ人には多くの利益をもたらした。ハザラ人も平等に扱われたし、民主的で、教育も受けられ、(政府の奨学金で)留学だってできた。移動も自由だったし、ハザラ人の首相だって生まれたんだ。」
 そう語るカヴィールの言葉の裏にはハザラがアフガニスタンで経験してきた過酷な歴史がある。「アブドル・ラフマン(国王、在位1880〜1901)時代にはハザラの6割が殺され、奴隷としてパシュトゥーンやタジクに売り買いされた。ラフマンは、ハザラジャートを『別の国』と怖れ、破壊と殺害を行ったのだ。」 彼の話では、ターバンを巻いた頭の上に熱湯をかける、首を切り付け、その傷口に煮え立った油を注ぐ、等といった拷問も行われたのだそうだ。そのためにマシャッド(現イラン)やクエッタ(現パキスタン)に逃れた者も多く、スンニ派に改宗した者も多いという。この時代に「ハザラは自身のアイデンティティを失ってしまった」と嘆く。その後、国王暗殺計画も含めたハザラの抵抗運動も激化し、状況は徐々に改善、「以前のように窒息死させられることはなくなったが」とカヴィールは語る。

 

仏像と民族の誇り

「私たちの起源はどこなのだろう?」出会った多くのハザラ人同様にカヴィールもこの問いを繰り返す。「私たちはペルシア語を話すし、ハザラの言葉も文化も失ってしまった。」タジク人にはタジキスタン、ウズベク人にはウズベキスタン、と他の民族は皆そのルーツを隣国に持っている。しかしハザラ人にはそれがない。アフガニスタンの真中に孤立したモンゴロイドだ。
「パシュトゥーンは200年前にインドからやってきた。ハザラは5000年も前からアフガニスタンに暮らしている。ジャララバードだって、昔はハザラ人の土地だったんだ。」カヴィールはそう信じている。そして、かつては日本や中国とも深く結びついていたのだ、と。
 カーブルから来る時、バーミヤン市に入る手前の山を「ズホーク王の城だ」とアフサールが指差した。なんの事かと教えてもらうと、イラン建国叙事詩ともいわれるフェルドゥースィーの「王書(シャー・ナーメ)」に悪王として登場する、肩に蛇を生やしたザッハーク王のことだという。このあたりの発音だと「サック・ホリダ」「サクホの城」と呼ぶらしい。「『サクホ』って発音は『サムライ』と同じ起源だと思わないかい?」とカヴィールは言う。彼のみではない、他のモンゴロイド国との繋がりをうかがわせるようなことに関して、多くのハザラ人は驚くほど敏感である。「ナジブッラーの時代に、中国が『ハザラは我々の弟であり親戚である』と声明を発した事があるんだ。」といった具合。
「俺たち(ハザラと日本人)は同じモゴールだ」「先祖は一緒だ」それは、ペシャワルでも、カーブルでも、そしてバーミヤンでも、何度となく聞かされた言葉である。そして自分たちが他のアフガニスタン諸民族といかに異なっているか、そのために差別されてきたかを嫌というほど耳にした。日本人を歓迎してくれるのは嬉しいが、正直なところ辟易させられ、また彼らのために危ぶみもする。民族の伝統や文化は大切だ。誇りを持つ事も必要だと思う。しかし、そうして日本人との繋がりを求めていても、アフガニスタンにおける彼らの将来にとって、建設的な要素は何一つ生じはすまい。むしろ、より孤立化を深めるだけではないのか。私はそう危惧し、その懸念を彼らに伝えもした。

 バーミヤンを象徴する、今では破壊されてしまった巨大な石窟仏に関して、私はあまりに無知である。その美術的価値も、歴史的な価値もわからない。今、崩れ落ちたその残骸には一部でビニールシートがかぶせられている他は放置されていると言っていい。空洞になった仏像脇の崩れ落ちそうな階段を上って石窟内部を観賞することも可能である。私もそうしたし、時折近郊からのアフガニスタン人観光客もやってくる。
 わずか3日の滞在ではこの土地に暮らす人々にとって仏像が何を意味していたのか、その心根まで理解できるものではないであろう。私が聞き出せたのは、あの仏像はハザラの人々にとっての誇りであった、というものである。それが仏像であり、仏教徒の信仰対象である、ということはあまり関係なさそうだ。彼らは、あの仏像を造ったのは自分たちの先祖であると考えているようだ。もちろん、現在この地に仏教徒はいない。彼らは殆どがイスラーム・シーア派である。ただ、現在では虐げられている自分たちの先祖は、古代にあのように巨大で偉大な建造物を築く能力を有していたのだという、ある種、民族の精神的支柱の役割を果たしていたように思われる。
 仏像はいつ復元されるのだ、という質問を数人から受けた。アフガニスタンに平和が確立されたならば、仏像の復元はバーミヤンにとって貴重な観光資源となり、それがもたらす経済効果も大きいであろう。一面ではそれは彼らの誇りを取り戻すことであるのかもしれない。そして、民族の誇りと、彼らが背負ってきた苦難の歴史は、複雑に混ざり合っている。
「しかし、仏像が復元されたら、それはハザラの顔をしているんだろう? ・・・・・・そうしたら『ほらみろ、やっぱりハザラは異教徒だ』と他のアフガン人から非難されることにはならないだろうか?」カヴィールはそんな不安ももらした。

 

復興と難民

難民の帰還

 カーブルの中心街、フェロージュガー・バザールを歩いていると、とある中年男性に声を掛けられた。「昨年ペシャワルでお会いしましたね。」あいにく私は覚えていなかったのだが嬉しく、また難民の帰還を実感させられる出来事だった。
 バーミヤンでも同様に、しかし今度は私のフルネームを呼びかける者がいる。昨年末にはペシャワルのアフガン移民街、ハジキャンプのカーペット工房でデザインを担当していたアブドル・ラファールだった。バーミヤンへは1月に戻り、今はバーミヤン大学の学生だという。バーミヤンに帰ってきたのは1月で、彼が働いていた「ハジ・タハールカーペット工房」もカーブルに移転して営業しているとのことだ。「今ここには何もないけれど、僕は帰って来れて嬉しいんだ。ここは僕の国だし、僕は今、自由だからね。パキスタンでは僕らは所詮、余所者だった」
 さらにもう1人、ペシャワルのカーペットマーケットでカーペットの担ぎ屋、販売を行っていたムハンマド・ブラヒミとも再会した。彼は私が宿泊するモモナジャフ・レストラン&ホテルの数軒先に小部屋を間借りしていた。今はカーブル・バーミヤン間を結ぶバスの運転手をしているという。
 アブドル・ラファールの言葉は希望に溢れていたが、現実には大多数の帰還難民の生活は厳しい。パキスタンやイランに逃れたアフガン難民は400万人とも600万人とも言われているが、現在のアフガニスタンに、それだけの人口を養える産業は育っていない。ナンガルハル州には、州都ジャララバードの市街外れにヘサールシャヒーキャンプという広大な難民キャンプのテント村が設置されている。約2万人を収容しているというこのキャンプの住民は、米軍の空爆により住みかを失った人、また、帰ってきたものの住む家も仕事もないために国内難民化した、帰還難民だという。
 アフガニスタンでは基本的に、家族や親族といった血縁は強い結束力を保っている。さらに、イスラームの共同体意識、相互扶助の精神も強く生きているために、親族を頼って、という事は珍しいことではなく、また受け入れる側にも、困っている同胞を見捨ててはいけない、という任侠道のような精神が貫かれているように思う。ヨーロッパや中東(ドバイが多い)で働いている親族の収入、仕送りに頼って生活している家族も多いようだ。都市には失業者があふれている。少しでも英語ができると思っている者は「通訳に雇わないか」と擦り寄ってくるし、「コックに雇わないか」という申し出も何度か頂戴した。MSFの通訳を務めるアフサールのような者もいれば、流暢な英語を操れるものの「カーブルでは仕事が見つからないからバーミヤンなら需要があるかと思ってやってきた」という通訳志願者の青年にも出会った。
 ある日、UNAMA(国連アフガニスタン支援ミッション)の事務所を訪れたら、壁には多数の求人広告が張り出されていた。その殆どは各種NGOの地雷撤去作業員募集広告だった。その時には10枚以上は張り出されていたその広告は、数日後にはもう消えていた。私がインタビューした地雷撤去作業員は「家族や祖国の復興に貢献する作業に、やりがいを感じています」とその動機を答えていたが、本心は如何なものであろうか。

 

帰る難民・帰らない難民

ルーシャン・レストラン

 昨年のペシャワル滞在時に行き付けとしていた店がハイバルバザールにあるトルキスタン・レストランというアフガン料理店だ。オーナーはトルクメン人、従業員はタジク、ハザラ、、ウズベク、と、さながら北部同盟とでも呼ぶべき布陣であった。その中の一人、ハザラ系のガラムサキィが、私がパキスタンを去る折に「俺の家族がカーブルでレストランをやっているから、アフガニスタンに行く時には寄って行けよ」と教えてくれたのが、カーブルのフェロージュガーバザールにあるルーシャン・レストランである。今回その店を尋ねて見ると、早速顔馴染のモハマッドが出向えてくれた。ペシャワルのトルキスタンレストランからは私の知る限り、3人が転勤してきているようだった。「同じ名前だけれどもパキスタンとは中身が違うんだ」などと料理の説明をしてくれる。
 しかし、モハマッドは私が数日のバーミヤン訪問から帰って来るとすでにいなくなっていた。同僚の話では「彼はまたパキスタンへ行ったよ」という。またトルキスタンレストランで働いているのか、と尋ねると、そうだと思うが詳しいことは知らない、との返事。その後ペシャワルでトルキスタンレストランを尋ねたが、彼は戻ってきてはいなかった。
 トルキスタンレストランには新顔も増えたが主要メンバーはほぼ残っていて、半年ぶりの私の訪問を歓迎してくれる。パンジシール出身のハビブッラー、ウズベクのサブール・シャイード、等など。ハビブッラーに、私がアフガニスタンで見聞きしてきたことを伝え、君は帰らないのか、と尋ねてみた。彼は暫く考えこむような表情を見せ、「いや」と首を横に振る。後で別のスタッフがやってきて「あいつにはここ以外に居場所がないんだよ」と言う。そういえば親しいつもりでも、パンジシール出身のタジク人という以外に私は彼の事を何一つ知らない。

 

カーペットマーケット

 「来年の夏に戻ってくるよ」と私が別れを告げると「そんなに遅くっちゃ、俺たちみんなアフガニスタンへ帰ってしまって、ここは空っぽだぞ」と笑いながら答えてくれた昨年末以来のペシャワルのカーペットマーケットだが、相変らずそれはそこにあった。もちろん、ここからも多くの人々がアフガニスタンへ帰還していたが、私の親しかった者たちは殆どがまだ留まっていた。
 マザリシャリフ出身のハザラ人、アブドゥラ・ハキムはそんな中でも最も親しい一人だ。彼に、帰らないのか、と尋ねると、来年の1月に帰る予定だと答えてくれた。「この前君も会ったろ。あの叔父はもうマザルに帰ったよ。」彼より一足先に帰還し、現地で自動車修理工場を始めるべく、色々と手配しているらしい。アブドゥラも帰還した折にはそこで自動車修理工として働く予定だという。彼は、マザリシャリフでは医学校で学んでいたと語っていた。それが、パキスタンへ来て仕事がないためにカーペット商人となり、今度はメカニックになるわけだ。今のところ、従来どおりカーペットの仕事を続けつつ、店の売却先探しも進めて帰還の準備を始めている。
 彼の友人であるタジク人のスルタン・モハンマドは来月(六月)にアフガニスタンへ戻るという。カーブルでやはりカーペット商を営むのだという。こういったケースは実は少数派である。ペシャワルのカーペットマーケットで働く者は殆どがハザラ人、そして少数のタジク人だが、彼らはもともとカーペット商人でもなんでもなかった。故国では別の仕事をしていたものの、難民として逃れてきたペシャワルでは仕事がなく、家庭内工業として彼らに馴染みのあったカーペット産業で働くしかなかった、というのが多数派だった。同じアフガン難民でも、パシュトゥニスタンであるペシャワルでは、パシュトゥーンと非パシュトゥーンで就職等に大きな差別が付きまとうのだとも語っていた。スルタン・ムハンマドも既に一族の誰かしらがカーブルで店を開いており、そこで働くのだそうだ。彼はカーペットの他に、宝石の商売も行っている。
 「そろそろアフガニスタンに帰ろうかと思うのだがどうしたものだろうか」と私に意見を求めてくるものもいた。それはあなた次第だろう、と答えると「いやいや、あなたはジャーナリストだから色んなことを知っているだろう、意見を聞かせて欲しい」等と言う。私はアフガニスタンで見てきたことを話す。端的には、帰っても仕事を見つけるのは困難であろうし、政情も本当に安定したとは言い難い、という事だ。すると彼らは「ふむふむ、やっぱりそうか」と納得しながらも落胆の表情を見せる。身よりのない者には、帰っても厳しい現実が待っている、ということは誰よりも彼ら自身がよく識っている。だからこそ、彼らは「とりあえず仕事のある」ペシャワルを離れられずにいるのだ。

ハジキャンプ

 一方、ハジキャンプでは難民の帰還が進み、あちこちに空家が目立つようになっていた。トラックに家財道具を積みこみ引っ越しの準備に追われる姿がそこかしこで見られる。聞くところによると、ペシャワルからカーブルまで、トラック一台の賃料はおよそ2000ルピーだという。一般市民の月収の半分くらいであろうか。さらに、正規の手続きを経た難民には帰還支援金としてとしてUNHCRやパキスタンの難民局から100〜200ドルが支給されるそうだ。この支援金にしても、もらえる人ともらえない人が生じているわけで、その基準もはっきりしたことは分からないのだが、大まかに言えば正規に難民登録している人は受け取れるようだ。つまり不正規に国境を越え、パキスタンに住みついてしまった人には原則的に支払われない、ということになる。しかし私が見聞きした範囲では、そのような不正規難民の方が数としては圧倒的に多いように思われる。

 アブドル・ラファールから「カーブルへ移転した」と聞いた「ハジ・タハール・カーペット工房」はまだハジキャンプにあった。引っ越し準備真っ最中と言ったようすで、私が訪れた時にもコンピュータなどの荷造りに追われていた。社長であるハジ・タハールにはいろいろな迷いもあるようだ。彼らの作るカーペットは北米やヨーロッパへの輸出をターゲットにしている。交通や通信インフラの整っていないアフガニスタンへ移転して商売はうまく行くだろうか?。さらに彼はこれを機に、カーペットの製造輸出のみならず、電気製品や自動車部品等のアフガニスタンへの輸入事業も考え始めている。日本やアジアのメーカーや商社とどのように接触を計ればよいのだろうか、また、輸入・輸送ルートをどのように確保するべきか。アフガニスタン復興の波に乗って飛躍を図ろうと考えている。

 ハジ・キャンプはアフガン難民街の様相を呈しているが、いわゆる難民キャンプではない。もともとは「ハッジ」巡礼者がメッカへ赴く前の支度処として、あるいは巡礼ツアーの出発地としての、いわば宿場町であった。そこにソ連軍のアフガニスタン侵攻以降、多数のアフガン難民が押し寄せ、その結果として彼らをターゲットとした住宅が建ち、商店が増えてバザールとなり、今のようになったのだという。そんなこの町の生立ちを教えてくれたのは、ここで雑貨店を営むワッカースだ。彼はアフガン人ではない。「僕自身は自分が100%パキスタン人だと信じているよ。」というパキスタン人である。彼はアフガン人のパキスタンへの大量流入をむしろ肯定的に受けとめていた。「大勢のアフガン人がやってきて、彼ら目当ての商売も始まり、新しい町が造られ、新しいバザールが造られた。」「アフガン人がもたらした新たな雇用も大きいんだ。」さらに彼は、アフガン人の勤勉さと仕事熱心さを説く。それだけに、またもちろん彼の商売に直接影響するためということもあろうが、続々と難民の帰還が始まっている現在の状況を憂いていた。「アフガン人が作り出した町の産業や活気が日毎に失われていくよ。」
 もちろん、彼のような意見ばかりではない。一般的にはアフガン人はむしろ敬遠されていたとも言える。「あいつらが俺たちの仕事を奪って、パキスタンを貧しくさせていたのだ。」「これでアフガン人に奪われていた仕事が戻ってくる。」 パキスタンに暮らすアフガニスタン人はその数300万人ともいわれる。日本でいえば京都市と神戸市の全住民を足した数である。ただでさえ豊かとはいえないパキスタンがそれだけの外国人を受け入れていたという現実を鑑みると、偏狭な移民排斥ともいえない、素直な感情であろうとも思われる。しかし、概してアフガン人は勤勉で努力家、質のよい労働者、という風評は獲得しているようにも思われる。私がペシャワルで定宿にしている「アル・シェラーズ・ホテル」で働くパキスタン北部、チトラール出身のザファールは「アフガン人に奪われていた仕事が帰ってくるのだから良いことだ」 アフガン人の中には、帰還支援金を受け取って一旦アフガニスタンへ帰ったものの、不正規に国境を越えてパキスタンへ戻って再び帰還支援金を受け取るという詐欺を行っている者も多い、と非難しつつ「アフガン人はよく働いていた。(彼が現在アルバイトしている)マッチ工場では大量のアフガン人労働者がいなくなってしまい、人手不足で困っている。」とももらしていた。

 
ブルカ姿の女性 (カーブル、フェロージュガーバザール)

タリバーンによる強制が終わったとはいえ、相変らず女性は外出時ブルカを身にまとう。
それでもカーブルでは多くの女性が外出しているが、地方では街中で女性を見かける機会自体、依然少ない。
それは「社会的強制」なのか、「伝統文化」なのか。「国際社会」はどこまで踏み込むことが許されるのか。

 

アフガニスタンと世界

グローバル化のなかで

 かつてソ連のゴルバチョフ書記長はアフガニスタン戦争を「出血の止まらぬ怪我」と呼んだ。ソ連軍撤退後も終わらぬ内戦をUNHCRの緒方貞子事務局長は「世界に見捨てられた紛争」と呼んだ。米ソの代理戦争としての役割を終えたアフガニスタンの内戦に「国際社会」は大きな関心を払うことはなく、他方で直接利害のからむ近隣諸国は介入を続けた結果である。メディアの関心も総じて薄く、それでも断片的に伝わるアフガニスタンのニュースと言えば、時々の内戦の進行状況や難民の増加、旱魃や地震とそのための飢餓民、そしてタリバーンの風変わりな規制に関するものだった。アメリカが再びアフガニスタンに関心を示すのは98年以降で、それとても人命や人権とは関係なく、アメリカを敵視するオサマ・ビンラーディンの隠れ家として注目したに過ぎない。その年、ケニア、タンザニアで相次いだ米国大使館爆破事件に対してクリントン政権は報復と称してアフガニスタン、スーダンへ巡航ミサイルを発射したが、この時も世界の関心は薄かったように記憶している。これとて理不尽な攻撃と言うほかないのだが、2001年末のような、あるいはコソボで起こったような空爆反対の運動は起こらなかった。一体アフガニスタンに着弾したミサイルは誰を殺傷したのか、周知の如くオサマ・ビンラーディンを殺害することはできなかった。
 それにひきかえ、2001年9月11日以降は、と思う。その後の圧倒的な報道量によって、今では多くの人がアフガニスタンがどこにあるかを知っている。アフガニスタンが長い年月戦争を続け、多くの難民や餓死者を生んできたことを知っている。アフガニスタンには様々な民族が生活していることを知っている。多くの援助団体が活動を始め、多くの人々がアフガニスタンの悲惨な状況を知り、同情した。世界中で反戦を訴える声が沸き起こりもした。
 我々が情報を得るのは主にメディアを通してであるから、その関心もメディアへの露出度に左右されないわけにはいかない。メディアで報道される飢餓には「気の毒だ」と心を痛め、メディアで報道される虐殺や弾圧には「酷い」と憤慨もする。報道されていない処でも同様なことが起こっている、という可能性に思い至るにはちょっとした主体性が要求されるのかもしれない。アフガニスタンの悲惨は9・11によって起こったのではなく、それ以前から存続していた。同じことが続いていながら、この注目度の違いは何なのだろうか。「9・11が世界を変えた」等というのは妄想に、或いは勝手な思いあがりに過ぎない。若しくはそれは無知を封印する作業である。崩壊したニューヨークのビルはこの半世紀延々と続いてきた世界の矛盾を象徴的に表わしたに過ぎない。誤解を恐れずに言うならば、遠く離れたケニアやタンザニアの大使館爆破ではダメだったのだ。
 9・11は、アフガニスタンの人々には何の関係もない事件であったろう。ただし、結果としてそのために彼らは爆撃され、結果として世界の注目と同情が集まり、結果として内戦の終結と復興への援助がもたらされることになった。この事実をどう捉えればよいのだろうか? 仮に、9・11がなかったら、と考えてみる。或いはタリバーンがマスードを駆逐して全土を掌握、或いは反タリバーン連合がタリバーンを追い出して全土掌握、というシナリオだ。おそらく、そのようにしてアフガニスタン内戦が終結したとしても、それは見捨てられた内戦と同じように見捨てられた和平であったことであろう。「国際社会」が一斉に復興支援に乗り出す、などということはなかったに違いない。
 アフガニスタンは遠い国である。おそらく、アメリカやヨーロッパにとっても遠い国である。日本に関して言えば、石油が取れるわけでもなく、天然ガスの輸入元でもなく、アフガニスタンで生産されるカーペットも、産出されるラピスラズリやその他の鉱物・宝石も大して魅力的な商品ではない。人口2000万の交通も不便な世界最貧国とあっては日本製品の輸出先としても開拓意欲は湧いてこない。乱暴に言えば、そこにあろうがなかろうが関係ない国である。事実、この20年はそうだったのだ。おそらく、一部のエネルギー設備企業を除いては、ヨーロッパにとっても、アメリカにとっても同様であったろう。だからあえて介入することもなかった。だからこうも無遠慮に無差別爆撃を行うこともできた。現在のアフガニスタンへの注目はアメリカの復讐によってもたらされたというのは厳然たる事実だ。そしてこのことの意味するものは大きい。

 私が「国際社会」とあえてカッコ付けで使用するのは、それが意味するものが真の意味での国際社会ではない、と思っているからである。「国際社会」或いは「国際秩序」とは決して世界の総意に基づくものではなく、「国際」のなかの極一部分であるはずの先進国、とりわけアメリカによって規定されているものである。そして、その後ろ盾となっているものは、突き詰めて言えば軍事力、つまりは暴力の大きさではないかと考えている。それによって命の重さも異なってくる。ニューヨークで死亡した2800人の命は悼まれるが、アフガニスタンで死亡したそれ以上の死者は「間違いでした」で片付けられてしまう。それが「国際社会」であることを9・11以降の世界は示している。このことの是非を論じることは難しい。ことアフガニスタンに関しては、そのことによって今だかつてない和平と復興への兆しが現れ、それを支援しようと言う世界的な動きが生じたのは紛れもない事実なのだから。
 だからこそ、これからのアフガニスタンに関して「国際社会」がはたすべき責任は大きい。ソ連軍が撤退した10数年前、アフガニスタンは一時的に復興への期待が生じたという。同じ過ちを繰り返す危険性は大いにある。アフガニスタンの人々はだれよりもその危険性を承知している。「次の政権がどうなるか、まだわからないから」と帰還をためらう難民は依然として多い。アフガニスタン国内では「今度は国連や国際部隊が関わっているから」また紛争が始まることはないだろう、と期待する声も聞かれた。
 さまざまな矛盾や不安定要素をはらみながらも人々は生活再建に必死だ。そして当然ながら、復興の進展具合は個人個人により異なる。新たな事業に乗り出す人がいれば、住むところさえない人もいる。全土にばら撒かれた地雷は農業の回復を困難にしているし、多すぎる兵士の転職も進んではいない。カーブルや都市部では多くの人が失業状態にある。各種のNGOや援助機関の支援のありかたも大きな曲がり角にあるのかもしれない。緊急援助の段階はひとまず終わった。これからが本当の復興支援であろうし、そのためにはより深く住民たちと接する必要が生じてこよう。事実、最近の各NGOの計画には「自立支援プログラム」と題したものが増えている。しかし「復興」といっても、一体どこの段階に戻せばいいというのだろう。そして、「復興」は往々にして「開発」を伴う。さらに「近代化」はしばしば「西洋化」への価値観の転換を余儀なくさせる。
 都市部では多くの女性をみかけるが、そのほとんどはブルカを身にまとっている。タリバーン政権時、しばしば女性抑圧の象徴として外国メディアに紹介されたブルカだが、一面では伝統衣装の側面も併せ持っていることは否定できない。かつてイランのパーレビー王政は近代化の名の下に、女性のチャードル(ヘジャーブとも言う。髪や顔を覆うスカーフ)着用を禁止したが、「解放」されるはずの女性側からの反対の声も大きかったという。
 再建された学校、或いは再建されないままに青空の下で開かれる学校で多くの子供たちが学んでいる姿を目にすることができた。しかし、村落部ではいまだに女性に教育は必要ない、という意見が多いとも言われる。こと教育支援ひとつとってみても、どこまで外国が介入を許されるのか、介入すべきなのか、その判断は難しい。

 都市のインフラ整備が外国人の利用を優先して進められている現状は先に述べた。電気、水道、通信、交通の近代設備は、現地の人のためというよりはアフガニスタンに滞在している外国人にとって需要がより大きい。むろんアフガニスタンの人々も欲していることではあるのだが、良くも悪くも彼らはそれらがない状態でやりくりする術を身に付けているために、それほど切実ではないのかもしれない。カーブルの外国人向けホテルでは蛇口をひねれば水が流れ、不安定な電気供給に対処するために自家発電装置を備えているところもある。一方、カーブル市内はずれの住宅地では子供たちが近くの井戸までポリタンクやバケツで水くみに行くのが日常生活のひとコマである。電気は届いていなかったり、届いていても頻繁に停電が起こる。バーミヤンには発電所すらなく、夕方から晩にかけての一定時間、町のそこここにある個人所有の発電機が唸りをあげている。近所のひとはそれを時間あたり、或いはランプ一つあたりといった単位で賃料を払って分けてもらうという仕組みだ。
 そのような環境であるから、住民にとって外国の援助機関は優良な勤め先としての役割も果たしている。給料がいい上に、技術を身に付ける機会も与えてくれるし、場合によってはさまざまな備品も支給してくれる。そのためか、住民たちと話をしていると、しばしば外国頼みともいえるような安易な発想が見出されることがある。援助依存体質が進行しつつあるのではないかと危惧の念が生じるのを禁じえない。例えばローヤジルガを取材した朝日新聞にこんな記事があった。ファラー州代表の村相談役「私の地区には学校も病院もない。仕事も道路も農業用水も電気もない。戦争で破壊されたというより、もともとなかった。ロヤ・ジルガでは閣僚全員に会って「なんとかしてくれ」といいたい。」(2002年6月13日、朝刊)
「もともとなかった」ものを建設することは「復興」の範疇なのだろうか?20年以上にわたる戦乱はアフガニスタンの社会そのものを停滞させてしまった。産業の近代化や情報化も、というより産業自体が崩壊してしまった感すらある。アフガニスタンにこのような状況をもたらしてしまった「国際社会」は当然そのことに責任をもっていい。20年の空白を埋め戻し、発展への道筋を示す作業に積極的に関わるべきだとも思う。しかし、あまりに空白が長いために、それは、取り戻すというより一足飛びに先に進めてしまうといった形にならざるをえないのではないかと思われる。日本を含め、諸外国は当然ながら、この20年という歳月をかけて徐々に徐々に変化し、現在に到っているはずだ。産業の機械化や情報技術の進化、社会制度の変遷すべてにおいてそうであろう。しかし、アフガニスタン復興ではそうはゆくまい。そこにはいきなり「近代国家」モデルが当てはめられることになりそうだ。それはある種、日本の幕末期における黒船のような存在であるのかもしれない。そしてそのことはアフガニスタン社会や個々のイデオロギー、文化に大きな影響をもたらすことになるであろう。そして、そのことが彼らに何をもたらすのだろうか。
 アフガニスタンは農業国である。戦争や時折の自然災害さえなければ自給自足可能であったという。貧しくとも食えてはいたのだ。村落からは農作物や家畜を追って自動車なら数時間の道程をロバで数日かけて都市のバザールへ運び、交易を行っていた。そこに「近代化」が持ちこまれる。それも唐突に、大規模に。ロバは自動車に代わり、たい肥は化学肥料に取って代わられるかもしれない。そのこと自体に反対する気は全くない。しかし、一度「近代化」の波に飲みこまれるともう後戻りはできない。自分のロバの脇を、近所のだれそれがトラックで、それも自分よりはるかに多くの商品を積んで通り過ぎるのを眺めてしまったら、そしてその者が財を築いて行くのを見てしまったら、もうロバでは満足できないであろう。ひょっとしたら最初の数人は自動車を「援助物資」として無償で入手できるかもしれない。しかし、いつまでも「国際社会」がアフガニスタンを特別扱いしてくるはずもない。ロバと牛の農村に自動車が持ちこまれ、自動車を維持し活用するためには様々な部品や燃料を購入せねばならない。もちろん、そのために新たな産業が創出される可能性もある。しかし、現時点で自国産業をもたず、またそれらの復興開発近を主導するのが国際機関や外国企業であってみれば、むしろ新たな搾取構造を生むおそれは大きいであろう。それこそが、現在先進国のなかでも批判を巻き起こしているグローバリズムの問題でもある。世界最貧国のひとつであるアフガニスタンがグローバル化した国際社会、国際経済に組み込まれた時、彼らにどのような地位が与えられるかと考えたら、決して楽観視できるものではない。

 

国家と言う幻想

 2001年10月の暫定行政機構、翌2002年6月に暫定政権が発足したとはいえ、要人の暗殺事件や小規模ながら地方での戦闘も伝えられ、アフガニスタンの治安は決して良いとは言えない。カルザイの指導力を疑問視する報道も目立つが、問題は指導者の立場や資質というより、むしろアフガニスタンの人々の国家概念の希薄さにあるのではないかと思う。
 アフガニスタンは部族社会だと言われている。18世紀以降、ドゥラーニー家を中心とした王国となるが、決して絶対君主であったわけではない。あくまで部族連合体の長という立場であったようだ。サファービー朝、カージャール朝のイランとムガル帝国のインドの間に位置していたこの国において、領土国家としての国境の策定はむしろイギリスとロシアの対立により行われたと考えた方がよい。北東部でワハーン回廊が臍の尾のように飛び出て中国と接していることが英露紛争の緩衝国というアフガニスタンの立場を象徴している。国境が定まったところで、周辺諸国とはそれぞれに民族的同一性を有しているし、遊牧民は国境を越える。領土国家意識も希薄ならば中央政権国家であったわけでもない。例えて言えば足利幕府がこのようなものだったかもしれない、などと想像したりする。中央政権が存在することも、その権威も認めている。しかしその権力は地方までも支配し得るほど強力ではなく、地方はその土地の有力者が実効支配している、と。アフガニスタンの場合、基本単位は家族である。その延長に村があり、部族がある。村の中での揉め事は長老たちによって裁定され、村同士での揉め事はそれぞれの村村の長老たちが話し合って解決される。これが「ジルガ」と呼ばれる。ローヤ・ジルガとはその全国版である。議会でもなければ「国民大会議」でもない。
 家族を基礎としたアフガニスタンの部族社会にはもう一つ、精神的な基盤がある。それがイスラームである。伝統的な慣習法とイスラームの規定が合わさったものがアフガニスタン村落の規律だ。一応、と言ってよいものか、今世紀に入り近代化を計った国王の下で制定された憲法があり、現在も司法省もあれば裁判所も存在しているのだが、村落部においては依然として民事刑事問わず、イスラーム法や慣習に則って、長老たちによって裁定されているそうだ。イスラームは、生活の規定を定めるだけでなく、福祉をも担っている。学校のない田舎ではモスクの聖職者や地域の識者によって教育が行われ、灌漑や井戸の選定、また災害等で破損した家屋があればその修復など、モスクを中心としたコミュニティ及び、イスラームの相互扶助の精神が民生上大きな役割を果たしている、つまり、大型開発事業でも行うのでなければ国家や政府など介在する必要がないのだ。さらに自動車も普及していないような農村では、せいぜいが近郊都市のバザールまでが彼らの生活圏であり、意識の上でも「アフガニスタン国家」まで想像が及びにくいという事情もあろう。アフガニスタンの伝統社会とはそのようなものであるらしい。

 基礎は家族だと述べた。ここで民族問題に関しても考えてみたい。だが、その場合でもやはり根本単位は家族だと考えた方が誤りが少ないように思われる。アフガニスタンには確かに民族の対立は存在する。殊にシーア派が多数であるハザラ人は抑圧・差別の歴史から反パシュトゥーン意識が強い。人々に「王政をどう思うか?」と尋ねるとパシュトゥーンからは概ね歓迎、賛成、「我々の偉大な父親」といった意見が聞かれるのに対し、ハザラやタジクからは「彼はパシュトゥーンの王に過ぎない」と距離を置いた発言が多く帰ってきた。しかし、伝えられる民族対立、民族紛争の真の原因を探ってみると、純粋に、民族が異なるから、ではないように思われる。むしろそれは紛争が進んで行く過程でそのような色彩を帯びてくるのではないか、と。細かく見れば、同民族内でも対立は頻発しているのである。バーミヤンで近郊の村を訪ねた時、案内してくれた男は「この山の向こうにもハザラの村があるが、代々争ってきた仲だ」とその結束の弱さを自嘲するように語ったものだし、パシュトゥーン地域であるナンガルハル州で井戸建設を行っているNGO「ペシャワール会」のスタッフからは、井戸を掘る場所に関して三つの村の代表に話し合ってもらったところ、一人が過去の怨念(殺人事件)を持ち出し、紛糾してしまった、という話をしてくれた。そして親族の殺害には復讐で応えるのが広くアフガニスタンで行われている流儀であるためにその手の殺害、復讐事件は後を絶たない。例えは悪いがまるでヤクザの抗争である。根源的には○○一家と××一家の争いなのだが、紛争が拡大する過程でそれは□□組と△△組の抗争へといった様相を呈してしまう。同民族同士でもやっている紛争であっても相手が他民族だと、それは民族紛争と捉えられてしまう。
 東部パシュトゥーン地域からパキスタン内のトライバルエリアにかけてよく見られる住宅は、高い土壁で家屋を囲み壁には銃眼が設けられている。さながら要塞である。いかに彼らが近隣家族とも争ってきたか、そのために警戒しているか、想像できよう。

 

アフガニスタン人のナショナリティ

 ハザラ人の多くは私に対して、モンゴロイド人種としての同一性と親密さを表現するために「おれたちは同じナショナリティだ」と言った。パシュトゥーンやタジク等、アフガニスタンの他民族を指して「彼らとはナショナリティが違うから」とも言った。そこで述べられる「ナショナリティ」には「国民意識」という意味はない。通常我々が使用する言葉におきかえるならばむしろ「民族的アイデンティティ」と言うべきものだ。彼らにとっては「国民」意識よりも「民族」意識の方が強いように感じられた。
 確定された国境があり、その領土内に居住する人々が国民であり、国家は共通の法体系により統治される。そんな「近代国家」の定義とアフガニスタンの実情は大きく隔たっているように思われる。そのような「国民国家」「近代国家」概念を当てはめると、果たしてアフガニスタンは「国家」と呼ぶことができるのだろうか。実のところ、アフガニスタン国家やアフガニスタン国民といった意識は非常に曖昧である。ペシャワール会の中村哲医師はその著書「ダラエ・ヌールへの道」のなかで、アフガニスタン人のなかには外国にいって始めて自分が暮らしている土地がアフガニスタンと呼ばれていることを知った、というエピソードを紹介している。20年以上に及ぶ内戦はアフガニスタンをいわば一種の鎖国状態に置いた。そして、そのように外界と閉ざされたアフガニスタンは基本的に村村の集合体である地域自給自足経済体制を採ってきた。さらには歴史的にも強力な中央集権国家であった経験もなく、地域ごとの部族社会が存続しつづけてきたことを鑑みれば、領土としてのアフガニスタン国家内に暮らす人々にアフガニスタン国民意識が薄いのもうなずける。大方の人間にとって彼らのアイデンティティの基盤となるものは「国家「ではなくまず家族であり、一族であり、その村落だったはずである。ある意味で彼らは「国家」なるものの存在を必要としなかったのかもしれない。彼らは「アフガニスタン国民」であるよりもまず○○民族であり、○○族であり、○○村の住民であった。「アフガニスタン国民」意識を強く持っているのは都市の知識層、あるいは外国に逃れた難民であるように思われる。外国との接触なくしては国家意識は芽生えにくいのだ。
 アフガニスタンという国名自体が「アフガン人の土地」を意味し、そこでいう「アフガン人」とはパシュトゥーン人である。領土国家としてのアフガニスタンは言わば英露列強によって人為的、作為的に創出されたともいえる。その土地がアフガニスタンと定義されようが、そこに暮らす人々は従来からの生活を維持してきた。ダウード・ハーンやカルマル、ナジブッラーといった中央政府の王や首長は近代になって西洋的な「近代国家」中央集権国家の創出を目指したが、それら多くの改革は失敗に終わり、部族社会は温存された。対ソ戦争も、司令官レベルは別として、多くのゲリラ、民兵にとっては国家防衛戦争ではなく、自分の村、町を守る自衛戦争であったという。
 現在アフガニスタン新政権の不安定要素といわれている地方軍閥の問題に関して述べてみたい。彼らは確かにカーブル中央政権を脅かす存在である。しかし、多々の問題は抱えつつも、一面ではそれぞれの地域を彼らが支配し、安定をもたらしているのは事実である。ヘラートのイスマイル・ハーン、マザリシャリフのラシッド・ドスタム、バーミヤンのカリム・ハリリしかり。そして、彼らに共通しているのは、とりあえずカーブル中央政府での野心といったものはなさそうだ、ということである。彼らの行動に「京の都に幟を掲げる」といった気配は見出せない。それぞれに、自分の支配地域の権益が確保されさえすればそれで満足、といった風でもある。そして現実に各地方で行政を行い、治安を維持しているのはそれら軍閥であって決してカーブル政権ではない。
 現在進められつつあるアフガニスタン復興プロセスはカーブル中央集権化の方向に向っているように思われる。はたして、その必要性があるのだろうか。中央集権化が新たな紛争を招きはしないであろうか。アフガニスタンの現状を眺めるならば、中央政府による支配の一元化よりはむしろ、緩やかな連邦制を採ったほうがより望ましいのではないかとも思われる。

 

国家と世界

 学生時代(90年代前半)、「国際経済論」の講義を担当していた教授が、実のところ「国際経済」という言い方は好きではない、と言われたのが印象に残っている。現在の世界経済は国と国との関係を超えていて(インターナショナルというよりむしろトランスナショナル)、一国よりも一企業の方が力関係において上位にあるというようなことが往々にしてありうるから、という趣旨だったと記憶している。今でいう、グローバル化の問題点を指摘されていたのだろう。そして現実に世界はますますその傾向を強めている。80年代以降、市場原理に任せ、「小さな政府」をうたった資本主義陣営においても政府の役割は変化を求められている。市場原理の暴走、それがもたらす貧富の拡大やその過程で生じる新たな搾取構造、地球環境の悪化などの諸問題に対しては、資本主義の恩恵を被ってきた先進諸国からも各種のNGOを中心に反対の声が挙がりつつある。国境を越える資本や経済に対して、あらためて政府の役割が問われている。
 EUは国境を破壊しつつある。一方で独立国家を望む声は各地に聞かれる。苦難の、というより凄惨な過程を経て独立を勝ち得た東ティモール。旧ソ連、旧ユーゴスラビア諸国もまた然り。一方では国境を取り去ろうという動きがあり、一方では自分たち(その多くは民族を基盤としている)の国家を、という声がある。EUへの加盟を目指すトルコ。そのトルコはクルディスタン問題を抱えている。ある意味で国家の解体でもあるEUへの参加を求めるトルコが「トルコ民族」主義によってクルド人を弾圧している。かつて私が出会ったトルコのクルド人たちは盛んに独立を口にしていたのだが、彼らはこのような世界をどのように捉えているのだろうか。
 アフガニスタンはかつてはイギリス(大英帝国)とロシアによって、近年ではアメリカとソ連によって、都合のいいように利用され、見捨てられてきた。イランやパキスタンといった隣国も同様に、自国の利益に従って介入を続けてきた。アフガニスタン絡みの利権という面ではよくカスピ海の石油及び天然ガスのパイプライン構想が引き合いに出される。アメリカが当初タリバーンを指示しさえしたのはまさにこの理由だろう。ではなぜアフガニスタンでなければならなかったのか、と考えると、カスピ海から大洋への出口としてより近いイランルートを使えなかったからという以外に理由は見つからない。なぜか? 答えは単純に、イランが親米国家ではないからだろう。アメリカの「世界戦略」による各地の紛争はひとまず置くとして、現在のアフガニスタン復興計画もやはり利権ルートから着手されている点は否めない。道路整備計画然り、カーブル中央政権強化策然り。一方、各地の軍閥がその支配を放棄しないのもやはりその利権が絡むからであろう。アフガニスタンは、国家と世界との関係、国家と民衆との関係、国家と民族の関係、現代世界が内包する様々な問題を提起している。
 突き詰めていえばアフガニスタンの再建は国家論から見つめなおさねばならない問題だと思う。国家とは何なのか、なぜ国家であらねばならないのか。我々が当然の単位として捕らえている「国家」という概念そのものの普遍性を問いなおさねばならない。その土地土地、村々で人々は慣習と伝統に則って暮らしている。それではいけないのだろうか。そこに「国家」を必要としているのはアフガニスタンの人々ではなく、むしろそこに関わろうとしている外国なのではないだろうか。
 残念ながら、アフガニスタンの和平はアフガニスタンの人々によってではなく、外国の強大な暴力によってもたらされる結果となった。そして「国際社会」の規定する「国家」として再建が図られている。それは文化的、歴史的背景によらない、始めにモデルありきの試みであるようにも思われ、ために不安も感じてしまうのだが。その意味で、アフガニスタンの復興はある意味で新たな国家の創造である。かつてなかったものを創り出そうという試みである。「国際社会」がスポンサーとなったこの国家創造の試みを一概に批判しようとも思わない。パレスティナも含め、今後も同様に「国際社会」主導の国家造りは幾つもの地域で行われることになるであろう。もはや世界の中で鎖国することは現実的ではないし、民族主義のみによった国家建設も現実性を欠くであろう。否応なく国家は世界化せざるをえないのだともいえる。その際に「国際社会」が、民族、宗教、資源、近隣国の介入、グローバル化、といった多くの問題をいかに解消して「国家」を築いてゆこうとするのか。その介入の方法如何によっては新たな世界を創造できるかもしれない。そしてその過程で国家と世界とのあらたな関係が発見されることになるのかもしれない。あらたな世界への希望となるか、あるいはまた「国際社会」の利害関係に翻弄され、見捨てられてしまうのか、アフガニスタンと世界の新たな歴史が築かれつつあるのだ。