アフガニスタン '04年 7月24日〜8月20日

カーブル
 
首都カーブルですら、多くの家屋は破壊されたまま、利用され続けている。
     
 
左、4〜8ページ程度だが、日刊紙も五紙程度発行されていた。
多くはペルシア語、パシュトゥー語の両方で記されている。
右、CD化された映画フィルムや音楽CDを売る店。人気はインド映画
     
武装解除
 
国連、カーブル国防省、外国NGO職員立会いのもと、
ドスタム派私兵の武装解除が行われた。
武装解除された兵士は後日、国連やNGO主宰の様々な復興・生活支援プログラムを受けることができるという。
バルフ州・マザリシャリフ郊外カラエジャンギーにて
     
選挙
    
左、一票の平等、男女平等を謳う選挙啓蒙ポスター
右、選挙登録事務所。多くの人々は身分証など持っていない。
ここでは自己申告に基づいて選挙登録カードを発行していた。(カーブル)
     
カンダハール    
 
     
 
国連も事業を縮小し、多くのNGOもカンダハールや南部アフガニスタンから撤退した。
アフガニスタンの中でさえ「復興」の南北格差が開きつつあるように感じられる
     
 
左、宝石店で品定めする女性客
右、路上の両替商。扱っている通貨は、USドル、パキスタン・ルピー、イラン・リアルなど
     
 
左、カンダハールでも大規模なショッピング・モール建設が着工されていた
右、井戸で水を汲む姉弟
     
   

 

注) 下の記事は'04年8月下旬に執筆したため、現在は状況が異なっている点があります。

アフガニスタン復興の課題

 

 およそ二年ぶりに訪れたアフガニスタンは、どこも人であふれていた。カーブルはもとより、ヘラート、マザリシャリフと、都市部は著しく人口が増加している。人だけではない。自動車も(その多くは日本製中古車である)、電気製品も、都市部は物であふれているといってよい。二年前には携帯電話と言えば国際機関職員やジャーナリストが使用する衛星携帯しかなかったものだが、今では一般の携帯電話がそれなりに普及し始めている。復興の兆しはそこかしこに目にすることができる。まず、道路がこの数年で格段によく整備された。以前は首都カーブルでも、少し郊外へ行けば幹線道路の一メートル脇は地雷原を示す白、或いは色付けされた石の列が続いていたものだが、今ではその地雷線ははるかに後退し、あるいは見えなくなっている。建築物の再建も進んでいる。カーブルではブルカを取り、スカーフで髪を覆っただけの女性もちらほらと現われてきている。自由、開放、復興。アメリカと国際社会が空爆と一緒に持ち込んだスローガンは確かに実現しつつある。

 しかし、物であふれるバーザールを歩いていて気づくのは、そこには何でもあるがアフガニスタン製品だけはない、ということである。建築中の近代的ビルの隣には破壊されたレンガ積みの建築群が連なり、そしてそれら崩壊寸前としかみえない建築物には今でも人々が暮らし、商店や工場を営んでいる。各国政府やNGOの看板で再建、新設された学校や私塾は多いが、働く子どもの数もやはり多く、道路や建築が活況を呈しているかのように見える脇には、それらの仕事に容易にありつけない、多くの労働者、失業者の姿が目に入る。

 もはや緊急支援の時期は終わったと見てよいだろう。その上で、これからのアフガニスタンをどのような方向へ導いてゆくべきなのか、どうあるべきで、なにが可能なのかを、援助がもたらしてしまった新たな諸問題と社会構造の変化をも踏まえた上で再検討する時期にさしかかっているのではないだろうか。

 

軍閥

 アフガニスタンの治安不安定の原因として、まず挙げられるのが軍閥の存在である。いまや中央政府の要職を占める存在である故マスード将軍派も含め、政府軍に抵抗しうる軍事力を保持したままの地方の軍閥支配は、確かに中央政府にとっては好ましからざる存在であろう。しかしこれも地方からの視点で眺めると、その意味合いは大きく違ってくる。私が今回訪れた中でも、西部のヘラート、北部のマザリシャリフという両都市は、イスマイル・ハーン、ラシッド・ドスタムという国内でも有数の有力軍閥首領が実効支配する都市として知られている。中央政府にとっては目の上のタンコブとも言いたい厄介な、しかし重要な存在である。ちなみに、イスマイル・ハーンは現在、ヘラート州知事であり、ラシッド・ドスタムはジャンビッシュ・イスラーミー(イスラム運動)の党首を務めるとともに、カルザイ政権下では安全保障顧問という地位にある。これらの地位も、それら危険で強力な軍閥を手名づけようというカルザイ政権の苦肉の策によって与えられたものであることは明白である。さらに、経済的に潤うイラン国境地帯を支配しているイスマイル・ハーンに到っては、カルザイは副大統領やその他のポストを条件にカーブル中央政権への参加を幾度と申し出ているのに対し、彼自身は中央でのいかなるポストよりも、ヘラートの支配者であることを望んでいるように見受けられる。中央政権への野心はない代わりに、ヘラートに関しては中央の介入を拒む、そのような姿勢にも見える。そして事実、これら軍閥支配地域とされる地域において、中央政府の影は薄い。

 復興状況を取材に、ヘラート大学を訪ねた。現在ヘラート大学では校舎の修復工事と共に、学生寮の建設工事も行われている。それらの資金源は、と尋ねた私に、大学の事務長は「イスマイル・ハーン将軍の支援により」と答えた。その他、国連や諸外国NGOも関わって行なわれている道路や街の修復・復興事業に関しても、多くのヘラート住民は「イスマイル・ハーンのおかげで」と捉えている。

 状況はマザリシャリフでも似たようなものである。もっとも、現在はイスラム運動党首という以外に、公職としては安全保障顧問という、名誉職のような地位しかないラシッド・ドスタムの場合は多少異なる。かつてはドスタム帝国とまで言われた北部の要綱都市バルフ州マザリシャリフの現在の知事は、アタ・モハンマド。この両氏はしばしば武力衝突を起こしている。徐々にながら、権威を増しつつある中央政府に対し、ドスタムは少々権威喪失気味というきらいが無くもない。マザリシャリフにあるバルフ州庁舎の壁面には大きくマスードが描かれ、市中央の交差点にもマスードの肖像、交差点の地名もチョーク・マスード(マスード交差点)である。「ここはドスタム帝国と聞いていたが」という私の質問に対し、住民は商店壁面のポスターの糊跡を示し、「以前はここにもドスタムの写真が貼ってあった。でも、今ではこうだ」とその脇に貼られたマスードの肖像を示す。今回、ドスタムが大統領選挙に立候補している背景には、そのような支配力低下に対する劣勢挽回の意図も感じ取ることができる。しかし、マザリシャリフから直線距離にして一〇〇キロ弱、車で一時間ほどの隣州、ドスタムの本拠地となるジョウジャン州シェベルガンとなると、やはり依然としてドスタム帝国である。ここでは国際赤十字の援助で設立された病院にすら「ドスタム一〇〇ベッド病院」という名がつけられ、街中の肖像や選挙ポスターも、ほぼドスタム一色となる。この町で、道路建設、建築物復興の状況を尋ねるとほぼ間違いなく「ドスタムのおかげで」という言葉が返ってくる。「カルザイが何かをしてくれたことなど何もない。復興事業は全て外国と、ドスタムが行なっている」人々はそう答える。今回、マザリシャリフ郊外のカライ・ジャンギー(カライとは要塞、基地を指し、ジャングとは戦争の意である)という要塞で行なわれたドスタム派民兵の武装解除に立ち会う機会があった。かつてドスタムが、次いで彼を追ったタリバーンが、さらにそのタリバーンを追った米軍が軍事基地として利用したというその要塞は現在も軍の駐屯地として利用されている。「現在のここの所有者は政府軍なのか」と尋ねた私に、ガイドを勤めてくれたUNで運転手として働いている地元民はこう答えた。「政府?なんだそれは。ここにあるものは全てドスタムの物だよ」。

 そのような地で、その土地を支配するドスタム派民兵の武装解除が行なわれるのである。その実態は、話には聞いていたが、まさに茶番としかいいようがないようなものであった。予め、国連側と軍閥側とで、提出武器の種類や数が合意され、リストが作成される。国連職員はカーブル国防省から派遣されたという司令官と、武装解除される側のドスタム派幹部、そしてお目付け役を担っている複数のNGO職員立会いの下、リストを照会しながら武器の回収に当たるのである。私が取材した当日の状況でいうならば、指定された場所、カラエジャンギーにドスタム派民兵二〇人ほどが、指定された武器をトラックに積んでやってくる。兵士たちが持参した武器は、二丁の対空砲ほか、どう見ても現在使用中とは思われない旧式の自動小銃である。武装解除される兵士に話を聞いてみるとやはり、「家にはまだカラシニコフがある」とのことであった。それでも当日、回収されるべくリストに記載されている武器が複数持ち込まれていない、ということで、一隊が再び武器庫へ引き返し、改めてその指定された武器を持ってくる、ということがあった。それとてもやはりもう使用されていないであろう対戦車砲、そしてわずか四丁のカラシニコフである。回収された武器は、使用可能なものはカーブルの国防省武器庫へ搬入されるべくトラックの荷台へ。使用不能なものはその場で粉砕機にかけられていた。武装解除された元兵士はその場で臨時の身分証明書を発行される。その身分証があれば後日、農業復興、起業支援、地雷撤去といった復興プログラムに参加し、除隊金として一〇ドルを受け取るとともに、三・五ドルの日当で労働の機会が与えられる。なんでもこの除隊金は最近までは二〇〇ドルだったものが、資金難から今では一〇ドルにまで減額されてしまったという。私が目撃した武装解除とはそのようなものである。これも小さな一歩であることは間違いない。しかしそれはすり足といっても良いほどの小さな一歩に過ぎない。そして、武装解除のみならず、軍閥支配そのものに関しても考えざるを得ない。軍閥支配というものが、はたしてそれほど悪であるのか、という問題である。確かに、中央集権化を進めたいカーブル政権および「国際社会」にとって、中央政権に匹敵しうる軍事力を持つ地方軍閥は脅威である。しかし、見方によっては、地方軍閥は地方政権そのものでもある。現在「国際社会」が声高に述べるような民主主義や選挙制度など実態として持ったことのないアフガニスタン人民にとって、軍閥こそが彼らの生活を守る治安部隊であり、彼らの政府であった、ということも一面の事実である。現在の復興事業が地域軍閥のおかげ、と捉えられていることは先に述べた。加えて、現地をパトロールし、治安を担っている「軍閥私兵」も実のところ、地元の若者たちなのである。地元の若者が地元の親分の下へ就職し、銃を持ってパトロールしているわけだから、住民側としても特別不安はない。むしろ、そこに顔も知らぬカーブル中央政権の肩書きを持った兵士が派遣されて来たりなどしたら、地元の人々にとっては、よそ者の占領軍にしか見えないのではないか。そんな思いも否定することはできない。

 

選挙

 アフガニスタンでは本年一〇月に大統領選挙が、来年四月に議会選挙が予定されている。この選挙は、そもそも本年六月に同時実施される予定だったものが一旦九月へ、その後再度延期され、大統領選と議会選を別々に実施することとなったものである。議会選の方が後回しになったのは、全国で全候補者から一人を選べばよい大統領選に比べ、選挙区に分断される議会選の方が住民登録等より正確に把握されねば実施不可能なためである。

 現在の大統領候補者は二三人。現移行政権大統領であるカルザイを含め、有力なところではマスード派の重鎮であるカヌーニ元内務相、ドスタム将軍、といったところが立候補している。町では、各地域、各人それぞれに、支持する候補者のポスターを街頭や商店の軒先に掲げ、同時に選挙投票、選挙人登録を促す啓蒙ポスター、とりわけ男女の平等、一票の同価を謳ったポスターが多く貼り出されている。識字率の低いアフガニスタンのこととあって、それらポスターの殆どに文字は少なく、絵を見ただけで内容が推測できるような構成になっている。カルザイのポスターは全国区的にどこでも目にすることができるが、その他、シェベルガーン、マザリシャリフではドスタムのポスターが多く、ハザラ人地区では元計画相モハッガクのポスターが多い、などとそれぞれに地域差はある。現移行政権の実質的な支配層といってもよい、マスード派からカヌーニが出馬を表明すると、カーブルでは途端にカヌーニのポスターがあちこちに貼られた。しかし、選挙戦で盛り上がっているかというとそうでもない。それら各候補者支持を口にしながらも、住民の意見は以外に現実的である。「今のアフガニスタン支配しているのは米軍と国連なのだから、やはりカルザイになるのだろう」。おおむねそのような反応なのである。各地の住民の声を拾っていて、つくづく感じられるのが、彼らの厭戦感情だ。カルザイに力がないことは分かっている。しかしカルザイを「国際社会」が支持し、カルザイの元で平和でいられるなら、彼でいいではないか。私が人々との対話で受けた大統領選挙への彼らの意識はこのようなものである。

 次いで、心配される選挙の公正さについて述べよう。戸籍制度があるわけではなく、住民の把握事態も困難なアフガニスタンのことである。諸外国によく見られるように、住民が皆身分証を携帯するような制度も確率してはいない。彼らが最初の身分証、選挙登録カードなり、パスポートなりを受領する際は、自己申告に頼るしかない。選挙登録事務所では、規定の用紙に氏名、年齢、出生地等を記入し、選挙登録カードを受け取ることとなる。現状では自己申告以外に本人を特定する制度などありようはずもない。ために、一人が複数枚の選挙登録カードを取得した、選挙人条件である年齢に達していないにも関わらず選挙登録カードを取得した、などという話もよく聞かれる。これはそれで致し方ない面がある。現状では正確な人口把握などおよそ不可能なのである。そのような問題に関して選挙登録事務所職員に質問したところ、彼は「実際の投票の折には指紋も押捺させる。だから、例え今選挙登録カードを複数持っていたとしても投票は一回しかできない」と言う。しかし、指紋押捺を義務付けたところで、アフガニスタンのどこに指紋照会のシステムがあるというのだろう。公正な選挙、という事柄ひとつとっても、アフガニスタンでそれを実行することは実に難しい。それでも、大統領選挙は比較的問題なく行なわれるであろう。上述したように、どうせカルザイになるのであろう、という空気は色濃く感じられるのである。しかし、半年後となった議会選挙はそうは行くまい。それは住民の利害、そして軍閥間の勢力争いが密接に絡んでくるからである。住民の厭戦気分は大きい。加えて地域軍閥との信頼関係も概ね良好である。しかし、そこに現在の中央集権化の流れに沿って新興軍閥の野心が加わる。地方では「カーブル大統領」「米軍が連れてきた大統領」と揶揄されることも多いカルザイであるが、国際社会が彼をアフガニスタン代表として扱い、彼に権力を集中させようと画策してきた結果、やはり徐々にカーブル中央政府の重みは増しつつある。となれば、この波に乗じて体制派を盾に、従来の軍閥支配に割って入ろうとする新興軍閥が現われるのは必然とも言える。強固な軍閥支配が伝えられるヘラートやマザリシャリフで、しばしば軍閥間の抗争が起こる背景には、中央政府との関係も絡めた、旧軍閥と新興軍閥との抗争といった構図も垣間見ることができる。

 

タリバーン

 選挙に関して注意を払わねばならぬ、もう一つの要因がタリバーンの存在である。ムッラー・オマールを頂点とした、権力構造としてのタリバーンは米軍の攻撃によって崩壊した。しかし、タリバーンはいまだ存続し、一部報道では、その勢力は以前にも増して強力になりつつあるとも言われている。各地で散発する、爆発事件、襲撃事件は選挙妨害を目的としたタリバーンの犯行と言われている。今ではタリバーンは「テロリスト」としてしか語られない。しかし、南部、東部アフガニスタンで住民がイスラームを掲げて戦えば、それは当然タリバーンと同質のものとなる。狂信的、と報道されたタリバーンの諸規定だが、政権としてのタリバーンがあろうがなかろうが、パシュトゥーン地域の住民の風土・文化は、タリバーン支配時と大きく変わることはない。だから、その地域で住民が反政府活動を行なえば、それは当然のように「タリバーン」と表記される。見方によっては、これほどまでに反選挙活動が活発化するなかで行なわれる選挙の正当性はどこにあるのか、という疑問も生じてくる。少なくとも、ここには選挙に反対する人々の「民意」が反映されていないことは明白である。「分かる人」だけの間で行なわれる選挙とそれによって選ばれた議員に、果たして「民主主義」としての正統性は与えられうるものなのであろうか。

 タリバーンの本拠地と言われるカンダハールを訪ねた。カーブルや北部の都市で、カンダハールへ行きたい、という私の意見に賛同してくれる人はカンダハール出身者を除いては皆無であったといっていい。「危ないから止めろ。あそこはタリバーンの中心地だ。」「外人と見たら金を奪うために何をするか分からん連中だ。」「首をかき切られて、金品を奪われて、おしまいだ。」「あそこは文字など読めないような連中の集まりだ。クルアーンしか知らない。異教徒のお前が行ったりしたら、それを殺してイスラームの義務を果たしたと信じる、そんな連中だぞ。」等々である。さすがに私も尻込みせざるを得なかった。せめて多少でも危険を回避すべく空路での出発を考えたが、肝心の飛行機が(現在アフガニスタンには、アリアナ・アフガン・エアラインとその子会社的なカム・エアーという二社の航空会社がある)現在カンダハールへの便は停めている、という。しかし、住民が皆山賊、とうような町など現実的に考えてありうるはずもない。それに空路はないとはいえ、バスは毎日一〇便ほどが運行している。カーブルとの人の往来は間違いなく盛んにあるのだ。さらに、再建されたカーブル・カンダハール道路は、その半分を米国が、半分は日本の担当で建設された道路なのである。反政府勢力の襲撃により一〇名ほどのアフガニスタン人作業員の死者も出して建設されたその道路に日本も関わっているのである。そして二年前には二〇時間と言われたカーブル・カンダハール間が今は八時間で結ばれている。そのように自分を励ましつつのカンダハール行きであった。そのカンダハールだが、市内に関しては特別な危険は感じられない。ここでも表向きは現在カルザイ派が支配している。タリバーンにとっては憎んでも飽き足らない存在であろう、故マスード将軍の写真を掲げたレストランさえある。町では頻繁に政府軍のパトロールがあり、そして時折米軍のパトロールを見かける。市街中心部ではタリバーンが禁止していた、音楽CD、カセットテープ店や、インド女優のプロマイド、ポスターを売る店も多くあり、商店からはインドポップスが流れ、衛星テレビでは多くの人がインド映画を楽しんでいる。ポスター、プロマイド屋にはインド女優、男優に混じって、カルザイやマスードのポスターも売られている。「ムッラー・オマールのポスターはないのか」と尋ねる私に店員が示したのは犬の写真で、彼は「ムッラー・オマールはこれだ」とおどけて見せた。カンダハール市街を歩いている限り、タリバーンの影はどこにも見えてこない。むしろ人々は批判的に、「タリバーンはアフガニスタン人ではない。あれはパキスタンがアフガニスタンを侵略するために送り込んだのだ」などという。表面上はカンダハールと言えどもカルザイ政権派である。しかし、市街地をうろつく私に住民達は「ここから先へは行かないほうがいい。タリバーンの支配地域だし、住民が外人には何をするか分からないから」と助言を与えてくれる。タリバーンはまるで山賊呼ばわりである。一体、何が、近代アフガニスタンでは長期政権といってもいい、タリバーン政権を支えていたのか。その答えは見えない。タリバーンの本拠地と言われるカンダハールにおいても、今では、「治安」という一点を除いて、タリバーン政権を肯定する人はまるでいないのである。視点を転ずれば、カーブルで会った元タリバーン兵という男の答えはこのようなものであった。「元タリバーンであるために、今迫害されたりということはないのですか」という私の問いに、彼はこう答えた。「タリバーン時代と言ったって、何ら変わったことはない。あの時は髭を伸ばし、黒いターバンを巻いていただけのことだ。」最盛期には全土の九〇パーセントを支配したというタリバーン政権の実態は、全体的に眺めればおそらくこのようなものであったに違いない。皆、心からタリバーンに賛同したわけではなく、日和見的にタリバーンになったのである。同様に、今各地でマスードの肖像が掲げられているからといって、彼らが皆マスード派であると断じることもできない。それは紛争地ゆえの生きる知恵であろう。主義主張ではない。とりあえず現体制派に従うことによって乱世を生き延びる、それは紛争地ならではの、生きのびるための知恵である。

 しかし、カンダハールの街には、カーブルやヘラート、マザリシャリフといった北部の主要都市とは著しく異なる点も見受けられる。まず、カーブルを中心に、それら北部都市で頻繁に見かけていたUNやNGOの車両がめっきり少なくなる。JICAや国内外の政府、NGO組織の名を掲げた看板こそあちこちに見かけるものの、それらは全く実態を伴っていない。途中で復興支援は放棄されたのではないか、というような荒廃した風景が続く。家屋の損傷具合はカーブルの比ではない。それでも、そのように崩れかけた廃墟の一角に人々は暮らし、商店を営んでいる。建築、インフラ整備、学校、病院、といった各国政府や援助機関の名の下「復興支援」として進められている事業が、カンダハールでは激減する。国連も部分的にカンダハールからは撤退。各国NGOも治安の悪さを理由にカンダハールや南部アフガニスタンへの進出には消極的である。現状を見ればそれは当然の判断ではあろうが、そのことがまたカンダハールや南部アフガニスタンの復興を妨げ、反中央政府意識を助長している面も否めない。現在のアフガニスタンに正式な統計などあろうはずもないが、アフガニスタンの識字率は二〇パーセント未満、南部に到っては一〇パーセントにも満たないであろうとも言われている。カーブルでは現在、日刊新聞が五紙程度、その他週間新聞や月刊誌も複数出版され、北部、西部主要都市でもそれらは販売されているが、カンダハールでは新聞売りの姿や、新聞売り場さえ見かけることはなかった。アフガニスタン国内においてすら、南北間の格差は拡がりつつあるようだ。

 

復興支援

 首都カーブルといえども復興状況は伝えられるほど芳しいものではない。この数年で目に付いて現われる変化の一つは、人口の急激な増加であろう。パキスタンやイランから多くの難民が帰還し、その多くが日本製である自動車の洪水が交通渋滞を作り出している。国連や、外国NGOの車両も多く見かける。現在カーブルでは外国人が自由にホテルに泊まることはできない。外国人は銃を持った警備員が常駐した外国人向けホテルへの宿泊が義務付けられているのである。一般の宿では五ドル程度の宿泊料が、そのようなホテルでは最低でも三〇ドルもしてしまうが、そこでは水道の蛇口をひねれば水や湯が出、電気も通っている。頻繁に起こる停電に備えて自家発電装置も備えている。多くのホテルでは衛星放送受信可能なテレビも設置されている。一般の家庭にはまだ水道も引かれておらず、電気もない。水は井戸水に頼っており、毎日、井戸から家庭へポリタンクに水を汲み、運ぶのが子ども達の日課となっている。

 復興支援に伴い、物は増えた。自動車、携帯電話、テレビや洗濯機、他、電気製品に到るまで、バーザールを探せば無い物はない。道路の修復は進み、建物も部分的に新築、或いは修復が進んでいる。それら復興の光は、その対照として影をよりくっきりと浮き上がせている。一部の高級住宅街や外国人の多く暮らす地域の商店街を除けば多くの家屋は損壊したままであるし、二階から上が吹き飛んだ建築郡の一階で人々は商店や工場を営み、砲弾の穴が開き、縁が崩れ落ちたビルにも人々は暮らしている。輸入品は増えてもアフガニスタンの産業はことごとく崩壊したまま。かつては貧しくとも自給自足可能な農業国であったというが、二〇数年の戦争と、およそ八年ほど続く旱魃の影響で、離農は深刻である。農業の要である雨は今でもほとんど降らないという。全く雨も雪も降らなかったといわれる数年前より、多少ましになったとはいえ、全体的な環境傾向としては依然として旱魃が続いていると解釈してよいだろう。カーブル中心部を流れているはずの川にも水流といえるほどの流れはない。西洋人には「タイタニック・マーケット」と呼ばれている、本来なら川底であるところに設けられたバーザールが、沈むことなく営業を続けていることが水の不足を顕著に示している。川には草が繁り、所々に水溜りができる程度であるが、女性や子ども達はそのような水溜りさえも衣類の洗濯に利用せざるを得ない。そのような水量であっては農業の復興など望むべくもない。バーザールで米や小麦の生産地を聞くと、ほぼ全てがパキスタンやトルクメニスタンからの輸入であるという。WFPや、外国組織による援助も依然継続されているようだ。ではアフガニスタン国内の農家は何を生産しているのか、と尋ねると、「ブドウ、メロン。それに、ケシだ」と笑いながら答える。

 地域的に、水のあるところでは農業も営まれている。日本のNGOも含め、多くの団体、機関が農業復興プログラムに取り組んでいることも事実である。しかし、全体にみると急激な勢いで都市化は進行している。一〇年、二〇年と言う長い歳月を、パキスタンやイランで過ごし、またはアフガニスタン国内を流動してきた者は多い。それらの人々はたとえかつては農民であったとしても農業に復帰することは難しい。難民達は隣国で都市労働者となる。帰国して彼らが選ぶ仕事も都市労働である。カーブルに限らず、都市ではどこでも日雇い労働者の集まる寄せ場があり、彼らは一日中、手配師から仕事の声がかかるのを待っている。日当はおよそ三ドル。それでも週に一日か二日、仕事にありつけるかどうかという頻度だという。

 参考までにイランの例を挙げよう。イランの工事、建設現場では多くのアフガニスタン人労働者を目にすることができる。そのような筋肉労働を嫌うイラン人に代わって、イランの産業の底辺を支えているのがアフガニスタン難民、移民たちである。かれらの日当はおよそ七ドル。ここでも彼らは週に二、三日しか仕事はない、と言うが、現実にはそれほど困窮しているわけではない。寄せ場で彼らを眺めていると、手配師がやってきても、全ての仕事に飛びつくわけではなく、条件を尋ね、それによって仕事を選んでいる。上述したようにアフガニスタン人はこの産業において労働力の要である。そして長年働き続けてきたアフガニスタン人労働者達は、ある意味で熟練労働者であり、難民の帰還が進み、労働力不足が予想されるイランにあっては、より大切な労働力となっている。

 それら熟練労働者がアフガニスタンに帰還すると、給与はおよそ半分、仕事の頻度も激減する。しかも物価水準はイランとそう変わらない。外国の援助頼みとあっては復興景気といえるほどの労働市場を生み出すには到っていない。ために都市は多くの失業者であふれている。カーブル、ヘラートのイラン大使館、領事館には毎日大勢の人々がイランの入国ビザを求めて集まっている。イランは年内(太陽ヒジュラ暦、春分の日を一年の始まりとする)には全ての難民キャンプを閉鎖し、難民を帰還させる、という方針を打ち出しているが、イラン大使館、領事館に集うアフガニスタン人たちに聞くと、相変らずイランは入国ビザを発行し続けているという。難民としては入国させないが、短期の移民労働者としては受け入れる方針であるらしい。事実、私が眺めていたかぎりでは、手続きに沿って申請さえすれば、全ての者が問題なくイラン入国ビザを得られるようである。

 参考までに、国連や外国NGOで運転手等の仕事を得ている者の給与は、月給二〇〇ドルから三〇〇ドルであるという。外国援助団体は彼らにとって優良外資系企業に等しい。

 カーブルではバス停を示す青い看板に日の丸が描かれている。市内バスの半数以上は日本製。車体の前面、側面にやはり小さな日の丸が描かれ、その下に「from the people of Japan」という文字が見える。バスだけではない。交通警察のパトカーにも、給水車にも、カーブル空港のX線荷物検査機にも日の丸とその文字が記されている。その他にも、町には新築、補修された道路や公共建築物、学校、病院、等々に、アフガニスタンと援助国国旗をあしらい、それら諸外国政府やNGOの協力で復興されたことを示す看板が林立している。日の丸は他国国旗を圧倒して目にする頻度が高い。アフガニスタンにおける日本の存在は我々の想像を超えて大きい。日本では近年「顔の見えない援助」への批判もあるが、一面では顔の見えない援助の功績も大きい。アフガニスタンの人々も多くは日本のことをよく知っているわけではないが、それゆえに想像だけで日本への期待と好意を勝手に膨らませてくれているようにも感じられるのである。もちろん、実際には日本の「顔の見える」援助も多く行なっている。「日本の援助はとてもいい。直接我々に届くことをやってくれているから。もしも政府間だけで援助がなされていたら、それは我々には届かず、どこかで誰かのポケットに消えてしまうだろう。」私へのお愛想もあろうが、多くの人々がそのように語ってくれた。しかし、この言葉はもう一つの事柄をも示唆している。援助が人々に行き渡っていない、政府関係者と一部の者が復興で私腹を肥やしている、ということである。腐敗が実際に行なわれているかどうかはともかく、少なくとも人々にそのような視線が生まれている、ということは事実である。一部では土地の値段がひどく高騰した。社会の表面を見る限り、物質的には豊かになりつつある。しかし、物価高騰の原因と、その購買層を支える要因が共に外国の援助というのは皮肉な話だ。そして現実に、外国の援助以外にアフガニスタン経済を流動させる資金源となる産業はない。

 都市インフラは徐々にではあるが整備されつつある。地方も、少なくとも大都市間を結ぶ幹線道路沿いを眺める限りでは、小さな村にも何らかの援助機関が入り、活動している。或いは活動していた。上述の看板がそのことを示している。諸外国の援助内容も、数年前の緊急支援の段階は過ぎ、井戸建設も含めたいわゆる土建事業にあたるものから、最近では、農業支援、教育といった、より長期的な復興支援策へと移行している。日本も含め、多くの諸外国政府やNGOが病院や学校を再建、新設した。公立学校もあれば英語やコンピューター他、諸技術を教える私塾もある。それらの授業料は殆どの場合、無料である。教員の給与は援助でまかなわれている。もちろん、たとえ授業料が無料であっても学校へ通える子どもは少数である。大多数の家庭では生活のために、子供も働かざるを得ない。

 個々に状況を見てゆけば、復興の兆しを喜ぶこともできる。しかし、より長期的にながめるならば、アフガニスタンに明るい見通しは全く見えてこない。問題は、援助が行き渡っていないということではなく、むしろ大量にもたらされた援助がアフガニスタン社会そのものを大きく変質させている、ということである。人々が意識するしないに関わらず、現実のアフガニスタン社会を支えているのは諸外国の復興支援なのである。仮に今、支援が途切れてしまったならば、学校の教員や病院の医師への給与は止まる。かといって授業料、診察料を有料化しては人々はそれら施設を利用することは不可能である。自動車も、電気製品も、それらの購買層そのものが消滅するであろう。現在、首都カーブルですら多くの場合発電はジェネレーターによる自家発電でまかなわれている。それらの機器や、燃料を購入することすら、外国の援助なしにはできまい。つまり、この国に産業と言えるものは皆無なのである。北部では一部でガスが産出される。かつてはソ連が買い取っていたという。しかし、その規模にもよるが、現在どこの国がわざわざアフガニスタンまでガスを購入に来るであろうか。せいぜい地元経済と近隣国とのささやかな貿易を潤すことができればよい、という程度ではないだろうか。宝石、希少金属も若干の埋蔵はある。それとて同様であろう。中東諸国のように地下資源に頼ることはできない。観光資源は実は多いのだが、その多くはひどく破損、破壊されている。加えてそれらの修復と交通設備の整備、なによりも治安の安定という要件を鑑みるなら、これも長期的にはともかく、産業といえるまでに育てるのは至難の業である。観光に絡めて述べると、カーペットやアクセサリー等、民芸品も外国人にはユニークな物が無くはない。しかし、カーペットなど典型的だが、美術的にも品質的にもとても隣国イラン、或いはインド・パキスタンに匹敵しうるレベルではない。さらに見れば、いわゆる「民族衣装」に属するものであっても、生地は中国産ということも少なくない。それほどまでに中国製品は世界に浸透し、それに比してアフガニスタンの産業は脆弱である。

 こう眺めてみると、アフガニスタンに何が産業として成立し得るであろうか。最後の要である農業も農民の流出と自然環境の悪化で復興への道のりは険しい。日本の例を出すまでもなく、農業という仕事は、離れるは易く、新規に始めるのは難しい。都市労働者として長い年月を暮らした後ではなおさらである。そこに援助によってもたらされた物質文明化が拍車をかける。アフガニスタンは農業国であり、大多数の人々は農民である、という分析は、かつては正しかったであろう。しかし、そのような伝統的社会は現在急激に崩れつつあるのではないだろうか。パキスタンやイランから帰還してくる大量の難民も加わり、都市化は急激に進んでいる。都市に行けば物はある。かつてはロバに乗っていた者が一旦自動車を手にしてしまえば、それを手放してロバの生活に戻ることは容易ではない。世界に見捨てられていたアフガニスタンが、今度は復興支援の名の下にグローバル化の波に呑み込まれつつあるのである。一体、国際社会はいつまでアフガニスタンを援助し続けるのか、いつかは手を引くのであるならば、その時期と方法を慎重に検討せねばなるまい。

 紛争が一段落したら選挙を行い、暫定政権、そして正式な政権発足。いつ頃からか国連の主導する戦後復興は、ある種のパターン化がなされてきたように思う。アフガニスタンも例外ではなく、今後、大統領選挙、議会選挙が予定されている。しかし、選挙を行い国際社会が承認する政権が発足したからといってアフガニスタンを取り巻く問題が解決するわけではない。国際社会は、自らが援助の名の下に持ち込んだ新たな問題をも含め、復興支援のあり方と方法を再検討するべき時期にさしかかっているのではないだろうか。