21世紀になった。
小学生の頃から夢見てきた新世紀である。諸外国は去年ミレニアムイベントを済ませてしまったようだが、 「2001年宇宙の旅」という名作が存在した以上、新世紀は2001年からなのだ。 アメリカをはじめとする外国は、ミレニアムイベント効果を前倒しで享受したくて 去年という事に(強引に)してしまったとしか思えない。 少なくともキューブリックを見た者、更に「ガンダム」を見たり、ハヤカワSF文庫を読んだりしてきた者は、 2001年から21世紀が始まると思っていると思う。
さて、21世紀を迎えていろいろなメディアが「思い描いてきた21世紀と現実の21世紀」という特集を組んでいるが、 僕たちのような世代にとってはどうなんだろう。小学生の僕たちにとって、21世紀とはすなわち「未来」だった。 リアリティなんて概念も持ってなかったその頃の未来とは、やっぱり「鉄腕アトム」だったのだ。 異常なまでにクリーンな世界、ビルとビルの間を透明なパイプが張り巡らされ、エアカーがその中を駆けめぐる。 食事は宇宙食のようなペースト状の物で、学校の先生はもちろんロボット…。 だがどうやらそれらはまだ少し先になるようだ。人類はまだ、「共栄」という意識を最優先させてはいない。
次に小学校時代を経て中学・高校生になった僕たちの思い描く「未来」は、リアルな、日常の行く末としての物になっていき、 それは「ブレードランナー」で具現化された。混沌とした社会、 きらびやかなネオンとそびえる摩天楼に混じりあって渦巻く、臓物のようなスラム。 リアリズムの視点からの想像を元にしているだけあって、 現実の21世紀はこの「ブレードランナー」に近い物へと進んでいっているようだ。 汚らしい渋谷センター街の雰囲気は、ほんとにああいう感じだし、 昨今の、いきなり目の前で人が殺されてしまうような事件も、その味付けに一役かっている。 映画中の、異形の者が民衆に混じり歩いている風景だって、 ビジュアル系のバンドファンと思しきピエロメイクの(コスプレ?)女の子によって現実化されているし、 そもそもエッグギャルの顔グロメイクがそうだったのかもしれない。
しかしよく考えてみると、「ブレードランナー」の世界は近未来の描写であると同時に、 世紀末の描写でもあった。世も末、って奴だ。未来、という言葉に含まれる明るいイメージと、 世紀末という言葉の持つ暗いイメージは相反する。
だけど今現在、「世紀末」は過ぎ去ってしまった。次に世紀末がくるのは100年後だ。 これからしばらくは「新世紀」が続く。「子供が親を殺すなんて、世紀末だね」とはもう言わないのだ。 「殺すなんて、新世紀だね」と表現する事になる。どうも説得力も迫力もないけれど。 でも、そうなのだ。21世紀は虚飾から始まるのかもしれない。