BOOK・OFF で 105 円均一の新書を漁って、
斎藤 純氏の「オートバイ・ライフ」を購入した。

このところ僕は web でキャンプについて調べる事を楽しみとしており、
その流れで寺崎 勉氏の「新 野宿ライダー」を読んで
新しいバイク仲間ができたようなうれしさがあったので
同じような気持ちになれるかもしれないと思って手にしたのである。

ぺらぺらとめくってみると、新書だけあって文体・内容ともに
大人…中高年向けであり、読み応えもありそうである。

僕は普段、バイクに関する本の好みがたぶんとても細かい。

カタログ的な物やテクニックのハウツー本、
科学・工学に関する物のような、感情の介在しない内容の本は
必要に応じてすぐに購入する。
しかし小説や漫画、主観が多く含まれた解説書、指南書、啓蒙書等は
それが自分の好みに合うかどうかかなり厳しく吟味する。
−「吟味」であって「評価」ではないから
僕の好みに合わないからといって悪書ではないが−。

例えばフィクションであっても重大な嘘があっては興醒めだ。
一番相入れないのは、バイクやバイクライフ、
さらには世界や人生その物に対するスタンス・観点が、僕と大きく異なる場合である。
以前に書いた事があるが、僕にとっては
ある時以降の片岡義男氏の作品がそれの顕著な例だ。

バイクは僕の大切な趣味であるから、
自分を大きく曲げて人に合わせようとは思わないし
また他人にとっても人生に多大な影響を及ぼすバイクという分野で
無理に僕に合わせてもらおうとは思わない。
すれ違ったり、そもそも接点すらなかったとしてもそれでいいのだ。
ただし、同じバイク乗りとして、日常のたったワンシーンに
同じ意識を感じる可能性はわずかながらあり、
そのわずかな可能性を夢見ているのは楽しい人生の過ごし方だ。


さて、「オートバイ・ライフ」であるが、
読者ターゲットは大人の、そして初心者を脱して、
バイクライフにネクストを求めている層だという事は
少しページをめくってみればすぐわかった。
とりあえずのツーリング、と、自分が求めてのツーリング、は違う物だが、
この本では自分の求める事に気付いてそれをやろうという、
先に例えたツーリングであれば
後者のスタンスに位置する事が読み取れたからだ。

買った後で後悔する事になってもたかが 105 円である。
一箇所でも「あ、いいなぁ」と思えれば元が取れる。
そう思って僕はこの本を購入した。

まず、この手の本には珍しく好ましいのは
決められた交通ルールが絶対ではないと
はっきり明言している事である。
具体的には例えば高速道路の追い越し車線における法定スピードの遵守の事だ。
社会的認知度の高い人がこういった、現状に即した啓蒙を行うのは
とても有意義な事だと思う。

またこの本では、氏が訪れて感銘を受けた場所がいくつか挙げられている。
その紹介のし方も、どういう事を求める場合にそこがいいのか
簡単ではあるがわかりやすくていい感じだ。
八幡平アスピーテラインという道路を僕は知らないが、
乗鞍スカイラインや芦ノ湖スカイラインと同列に語られれば
どういう風景なのかだいたい想像が付く。

と、この本にはいいところが結構ある。
105 円の価値は充分あるだろう。


しかし全般に渡っては、
僕にとっては鼻につく、ちょっと遠慮したいタイプの本だった。

まず感じるのは氏が、ややブルジョワっぽいバイクライフを好み、
また憧れているのであろうところである。
物質的にはともかく、精神的な部分にそれは顕著だ。
その観念に沿った行動が実は、ある程度経済的に恵まれていないと実現できない事に
氏は気付いているのだろうか。

氏のバイク歴は、少年時代の悪さを除けば三十代から始まったという。
おそらくはバイク遊びのための資金ぐらいは軽く捻出できるようになっていただろう。
遊び方というものは懐具合いによって変わるのだが、
氏の場合はそれが、その頃出会った「社会的地位の立派な方達」がよしとする価値観に
影響され過ぎてしまったようだ。
斉藤氏が BMW の識者を尊敬しようと、高価な肌着をつけようと、それは構わない。
人それぞれだ。
だが逆に斎藤氏の方は人それぞれとは思っていないらしい。
「人それぞれ」という現状を認識はしているが、許容していないのだ。
考え方がとても相対的であり、
「人はこうだが自分はこう」という考え方から「人はこうだが」を外して
「自分はこう」だけにできないようである。
こうあらねば、と思うあまりに他者への批判もかなり辛辣である。
自分と違う価値観を否定し糾弾する事を、
文筆業上で行って対価を受け取っているのはあまり褒められたものではないし、
氏の行動にしても、その時々で違う自分勝手な価値観が垣間見えて
さほど説得力があるわけではない。

・減速を駆使して、交差点で停止しないように調整する
  そうしておいて、停止しているライダーを置き去りにする事に優越感を感じるのは
  まったく価値がない事なのではないだろうか。
  それはバイクの不必要なデコレーションとなんら変わらないと思うのだ。
  停まらないで済んだのはあくまでも偶然である。
  信号の待ち時間が長ければやはり停まらなくてはならないわけで、
  その場合には劣等感を感じなくてはならないというのだろうか。

・危険で無謀な追い越しをかけた四輪に対してハイビームのパッシングをする
  357マグナムという例えはまったくわからないが、
  こういう場合のバイクはやはり弱い草食動物なのだ。
  そこだけは漫画「キリン」は実に正しい。
  パッシングで抗議しただけで満足するのは実に危険だしくだらない。
  事実、携帯電話のドライバーにパッシングしたが意に介されなかったようではないか。
  だからどうした、こうしたとは書かれていない。
  それで満足しているのはいったいどういう事なんだ。
  それならば何もせず、従順に悲しい目をしているだけのほうが安全である。

・ワインディングでのライン取り
  リターンライダーが読む率が高いと思われる本書であれば、
  もう少し逃げる体勢が取れるラインのほうがいいんじゃないかと思うが
  研究課題とあるし、イラストの精緻さの問題かもしれないので
  あまり細かくは突っ込まない。

・ライディングテクニックを語る事、早く走る事についてのアレルギー
  これを言っちゃあおしまいだろうし、自己矛盾の危険も孕んでいる。
  素朴な感想だが、氏は MotoGP 等に興味がないんだろうな。

・普段と違う腕時計を付けてオートバイ・ライフを自分らしくしよう
  なぜいつも愛用している時計では駄目なのか。
  氏のオートバイが「日常」ではないからではないのだろうか。
  バイクのある日常、バイクが意識にある日常を過ごしていれば
  普段使う時計は、バイクに乗る時に使える物になる。
  ロレックスはスポーツ時計だ。充分バイクに使える。
  パテやバシュロンをしているなら、普段のその人はライダーではない。
  といって、別に週末ライダーでも構わないのだ。
  毎日バイクに乗るライダーと週末ライダーに、明確な区分はないのだから。
  力を抜いて、いつものようになにげなくバイクに跨ればいいではないか。

・単気筒、二気筒のエンジンの排気音は四気筒とは違って味わいがある
  この本が書かれたのは1999年である。
  キムタクの「ビューティフルライフ」の放映は2000年。
  つまり TW をはじめとしたスーパートラップブームは
  執筆時にはまだ起こっていないのだ。
  斉藤氏は、「現在(2007年)のうるさいバイク」のほとんどが
  単気筒か二気筒である事をどう思っているのだろう。
  また、突っ込んだ話ではあるが
  W 650 のオリジナルである 650-W1 、
  またはメグロ スタミナをどう思っているのだろう?
  それらは W 650 よりも本来の鼓動感があるはず、だが
  確実に W 650 よりもうるさい。
  結局、二気筒の W 650 ならばいいという物では決してないのだ。

非常にリターンライダーらしい意識の持ち方だと思うのだが、
氏は、好んで原付二種に乗る人種が存在する事を知らないのではあるまいか。
高性能なバイクは否定しているが、その否定のしかたが逆差別になっている事がある。
また高性能なバイクが、低速度域で余裕を持っている事に言及しないのは
論旨が崩れるからだろうか。


この本ではまた、オートバイ・ライフの先にある物、というような捉え方で
音楽や絵画について説明を行っている。
確かに僕のような年代の者にとって、そういう案内は有用だ。
しかしそれなら、「ツーリング先で美術館に立ち寄ってみよう」でいいのだ。
事細かに、氏の薀蓄を聞かされても辟易するばかりである。
勘違いしてもらっても困るが、僕が読みたいのはオートバイ・ライフであって
斉藤氏の生き様と思想、ではないのだ。


悪い人じゃないけれど、二人っきりでツーリングには行きたくない。
ツーリングのメンバーの中に氏がいても別に構わないけど…。
この本から僕が斉藤 純氏に抱いた印象はそんな感じだ。

言い過ぎたかもしれないが、これはちょっとしたわだかまりのせいでもある。
まず斉藤氏は僕より10歳近くも年上の、人生の先輩である。
氏のバイク暦は今年(2007年)で19年ぐらいになるはずだが
このバイク暦に関しては僕のほうが少し長い。
長ければいいという物ではないし、短くても濃密な時間であれば
長いそれを上回る事もあると思うが、
少なくとも僕は青春をバイクと共に過ごしており、
氏はバイクとは青春を過ごしていない。
僕は「それ」を知っていて、氏は知らないわけだ。

そう考えると、氏を先輩として見るか後輩として見るかで
この本への感想も変わってきそうである。
この本はもちろん、「拙いながらも先輩目線」で書かれているから
どうにもうざったい感じがするのを否めなかったが
それを目を細めて読んであげる事が僕には必要なのかもしれない。