f l a t  d a y s

のんべんだらりを夢見つつ、魂に放浪癖のある一社会人が綴る、カウントダウン的日常の身辺雑記。

 

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お金じゃないのよ、さんちゃん

テロも戦争も、ひどい。

不特定多数の、個人的怨恨もない相手を、何人も何百人も何千人も殺して、

いっぺんに殺して、ひとりひとりの人生など考えることもなく、顔も知らない相手を

ただ「数」として殺して、

それで、それが成功すると勝利だの正義だの言う。歓喜の声をあげる。

 

こんな人間でも、神様はかわいいのだろうか。

それとも最初から,,神様は人間など大して愛してはいないのか。

そんな気もする。

それを知ってるから、人間は、ぐれちゃうのかな。

そうやって神様にかまってもらおうとするのかな。

まるでやくざだな。

 

2001.11

 

ひねもす読書

最近は、いっぺんに5、6冊の本を並行して読む。

かばんにいつも3冊ほど本をつっこんで持ち歩き、

適当にひっぱり出して電車の中なんかで読む。

今の常備本のラインアップは、

「ヤクザ・血の抗争史」

「死体の嘘」

「ホストの世界」

「ヤクザ大辞典」

寒川猫持先生の本、

花村萬月の本(1冊読むたびにまた1冊買ってきて補充)。

それと一番最近仲間入りした「古今和歌集」。

このあたりを適当に3冊ずつ鞄につっこんでいる。

ゆっくり静かなとこで本を読みたいなあ。

会社が暇なときなんか、ほんと、どっか行っておいしいお茶飲みながら

日がな一日、本を読みたいと思う。そういうタイプの本でもないか。

 

ひさびさに本屋でゆっくりと一時間ほど過ごす。棚から棚へ本を見て歩く。

五味太郎の絵本や、ピーターラビットの絵本、手相占いの特集の女性誌や、

語学のテキスト、大阪の映画のことが書いてある本や、精神世界の本、タレントのエッセイ、

ビジネス本、イスラム世界の本、ベストセラーのミステリー。

参考書のコーナーには学生たちがいる。

大学の名前がそのままタイトルになった本などを取り出しては見ている。

今、自分たちの置かれた状況を客観的に見て、自分たちに必要なものを選ぼうとしている。

つくづく自分が大人でよかったと思う。

中学や高校の時、私はこんな風に参考書なんか選びに本屋に足を運んだ覚えはない。

読まなきゃならない本だなんて、買わなきゃならない本だなんて、ぞっとする。

しかもそこには文章なんて書いてないのだ。問題やら答えやらが書いてあるだけなのだ。

いやだいやだ。

本はゆっくり選びたい。棚から棚へ見て歩き、おもしろそうな本を次々に手にとって、

本の束を抱えてレジに行く。至福の時。「カバーつけてください」

でも、思い出す。中学、高校ではそうやって参考書や問題集を選びにきたことはなかったが、

短大の頃はよく授業に役に立ちそうな本を選びにきたのだ。

ヘンリー・ジェームズ、アメリカ映画史、英文学概説。

やっぱり私もえらかったんだ。

そして今は受験生たちに混じって、古典の読解本を探したりしている。

勉強なんて、させられるもんじゃないよね。したくならなきゃね。そして、そういうときには

それは多分「勉強」とは呼ばないんだよね。強いて勉めるんじゃないもんね。

私のは遊び。よかった、大人で。

2001.11

 

増田新太郎先生

人が亡くなるたびに、いちいち悲しむのはやめよう。

先越されちゃったな、くらいに思うようにしよう。

先日、母の女学校時代の先生が亡くなった。

先生とは、私がうんと子供の頃、母の同窓会について行ったとき会ったきりで、

はっきり言って私とは何の関係もない。

関係ないのだが、なぜかこの先生は、私のやることなすこと喜んでくださって、

かわいがってくださって、これは母の徳のおかげだろうが。

なんとなく無償で愛してくださって、なんとなく年賀状のやりとりなどしていた。

つい最近も、ラジオドラマの放送の折、お祝いをいただいた。

はっきり言って、原稿料より多いお祝いだった。

いちいちこんなことをしていただいては私が売れっ子になったら

先生は破産ですよ、とお礼のお手紙を書いたばかりだった。

クリスマスプレゼントでお返しをしようと思ってた。

それと、次のドラマの主人公には先生の名前をいただこうと思ってた。

 

その先生が亡くなられた。

お通夜に行った。

翌日のお葬式には行かなかった。その晩、先生の夢を見た。

私は夢の中で、先生が亡くなったことを知っていた。

先生は挨拶に来たのだと言った。

握手をした。右手だった。

先生は、広い野原みたいなところを、ゆっくり歩いていった。

私は手を振った。先生も手を振りながら遠ざかって行った。

先生が見えなくなるまで、私はずっと手を振って見送った。

そんな夢だ。

何の関係もなかった私などに会いに来られるはずもない。これはただの夢だ。

でも、魂と魂、って、こんな感じのふれあいなのだろうと思う。

たまに、親しい人が亡くなった時、霊が私に会いにきたら

この部屋の汚さにはあきれるだろうとか、こんなことを考えてる私に

さぞかし失望するだろう、と思ったりするのだが。

魂だけならそんなこと、なんも関係ないのだろうな。

魂だけなら、どんな人も愛せるかもしれないな。

だったら、神様も人間をまんざら嫌いでもないかもな。

 

ただ、先生の夢を見た晩、寝る前に、変なビデオを見てたことだけ

少し申し訳なく思ったりする。

2001.11

 

人運満開

このところの私の人運はどうしたことかと思う。

ひっさしぶりに、いつも私に元気をくれる同期のまっちゃんと食事に行く約束をしたら、

同じ週に、ぷーさんとラジオドラマの声かけてくれたEさんから焼肉のお誘い。

時を同じくして短大の時のゆきちゃんが、久しぶりに会おうと電話をくれる。

休みの日に知人の知人が出展してる小さな画廊をのぞき、帰りに高島屋の

地下でおかず買うべくうろうろしてると、これまた短大の時のめーちゃんにばったり。

こんなこともあるんだわと思ってると、何年か前に会社を辞めた友人が

盲腸で入院してたの、また会社に遊びに行くから、という電話。

さらに高校の同窓会を小人数でやるからおいでよという電話。

んで、本日はまた、かわぼうから、「会長秘書やるんだって?」と驚きのメール。

すごい。

なのにアホな私は、それらの人運&お誘い攻勢がうれしくて、

最近お誘いが多くて忙しくてさあ、なんて言わなくていい相手に言ってしまったりする。

アホやなあ。

いいけど。これが私なんだからしょうがない。

と一向に反省しないから進歩もない。から、変わりようがない。から、成長しない。

から、若いのだ。はっはっは。

階段がめっきりしんどいだけで。ううう。

えええ。そんなわけで、恵まれてます。ありがとう、皆さん。

2001.11

 

失望

10月末までに仕上げようとしゃかりきに書いてた脚本を、

しばらくぶりに、冷静な頭で読み直してみる。

通常、原稿が仕上がったら、最低でも2、3日全く原稿のことを忘れて

思いっきり遊んだり本を読んだりして冷却期間とし、、

客観的になった目で原稿を読み返す、という作業をする。

それが今回は期日が迫っててできなかった。ぎりぎり10月末まで書いてて

原稿用紙の最後までいったらすぐ出してしまった。

そんなもので、冷静に読み返すのはこれが初めてだったのだが。

ひどい。

がっかりだ。一生懸命書いたのに。目もあてられない。

いい出来だと思ってたのに。いいキャラ作ったのに。

かわいそうにごめんよ生かしてあげられなくて。

こんなものいいと思ってたなんて。もっと書きようがあるだろうが。ああ。

いいよ、また書くから。

てなわけだから。ちょっと天狗になってたけど、また出直します。ども。

とりあえず、今月は吸収月間だから。

はー。

2001.11

 

みんな、月でした

小説「皆月」を読み終える。(花村萬月)

読んで、映画「皆月」が傑作であったことを思い知る。

映画を先に見ていた。映画のアキラの最後の自首シーンにはやられた。引きずった。

あの切ないシーンを文字で読むために、ページを繰っていたようなものだ。

物語はそこに向けて集約されていくのだと信じて読みつづけていた。

全編にわたって、彼の想いをオーバーラップさせながら。

ところが。

ないのだ。

あのシーンは。あのラストは。小説には。アキラの「ねえちゃん・・・」はないのだ。

えええええええ。だとしたら、これは、何の話なのだ。

(もちろん、妻に逃げられたダメ中年男、諏訪の再生の物語なのだが。

すみません、完全にアキラ中心に読んでます)

すると、アキラのラストのシーンは、映画のオリジナルなのか。

すごくないか。監督の望月六郎がすごいのか.脚本家がすごいのか。

そこまでアキラの心の奥深く降りていったのか。そこまでアキラを読んだのか。

映画の方は、私はアキラは死ぬものと思って見てたので、も全然服役OK、

死なないでくれただけでもありがたいと思った。

小説の方では、更にラストは楽天的だ。

アキラの心の揺れ動きはより複雑だが、

なんせ、アキラの真情のシーンがない。自首したアキラを見送った後、

諏訪と由美に、アキラは思ったより早く出所してくるだろうから

迎える準備をしておいてやらねば、みたいな会話までさせている。

(映画の、ダメ男諏訪の最後の最後の悪あがきのシーンすらない)

それを、なぜ、わざわざ映画は。

でもわかるような気もする。私もきっと映画にするなら、一方で「アキラの物語」に

するだろう。彼を激情に走らせるものは、「1時間に一回は切れ」させるものはなにか、

考えずにはいられない。諏訪の気をひきたいだけのものであるはずもない。

そして、「アキラの物語」をやってしまったらかすんでしまう主人公に、もう一度、

あんたの話やってんで、と花をもたせるだろう。

小説も、映画も、どっちもいい。

少なくとも、この小説を、作者と同じレベルまで読みこんだ人が映画にしたのだ。

どっちのアキラも、鋭利で傷つきやすく、もろくて哀しい。月そのままにね。

 

小説「皆月」

「みんな、月でした。がまんの限界です」という謎の手紙を残し、

妻 沙夜子が、こつこつ貯めた一千万円の貯金を持って蒸発してしまう。

残された情けないコンピュータおたくの四十男、諏訪は途方にくれ、

仕事をやる気も失せてしまう。

事情を知っていそうな義弟のちんぴらアキラが諏訪を慰めようと連れていった

風俗店で、ソープ嬢 由美 と知り合い、同棲をはじめる。

やがて諏訪は、切れると何をするかわからないアキラ、諏訪に尽くす由美と共に、

沙夜子を探す旅に出かける。

 

 

テニスクラブの閉鎖

もう14、5年になるだろうか。

毎土曜日通いつづけたテニスクラブが閉鎖される。

この前の土曜日が最後のレッスンだった。

大阪市内、それも地下鉄一本で通える、8面も平地にある屋外テニスコート。

(駐車場にスペースを割くまでは、10面ほどあった)

地主さんが亡くなり、多分多額の相続税が必要になるのだろう。

土地は手放されることになった。

我ながらよく通ったと思う。運動神経のない、体を動かすことの嫌いな私が。

そんなに続いたのは、そこで出会った友人たちによるところが大きい。

コーチもみんないい人たちだった。

さて、11月17日、最後のレッスン。

思ったほど感傷はなかった。

ただ、テニスクラブの門の脇に大きな木があって、私の好きな木で、

隣の6階建てマンションの5階あたりまで枝葉が伸びていて、

それが今、すっかり黄金色に色づいていて、

そいつともう会えなくなるのか、と思うと、悲しくなった。

あの見事な木は残してもらえるだろうか。

それともあっさり切られてしまうのだろうか。

思えば、テニスクラブに通う道すがら、桜や菜の花、

むくげ、もみじ、近隣の畑のきゅうりやねぎ、柿や、山吹などなど、

いつもこの目に季節のおすそわけをしてもらっていた。

夏はばかみたいに汗かいて、冬は白い息をはずませて、

季節による空の青さや高さに気づいたのも、テニスに通う道だった。

一人で黙って、空を見ながらどんどん歩くあの時間が好きだった。

そういう時間がなくなるのはさびしいことだ。

なんとなく仲良しになった気でいた、フェンス越しに私に枝を伸ばして

ひっかきにくる山吹たちとも、さようなら。

さようなら。

変わらないものなんてない。

2001.11.20

 

アトランティス

ぷーさんに試写会の券をもらいみんなにうらやましがられて行って来た。

なんの予備知識もなかった。ディカプリオかなんか出てて、タイタニックみたいな実写の

スペクタクルのロマンスの、見た後ぐったりくるやつだと思ってたら、ディズニーアニメだった。

一口で言いましょか。これから見る人に悪いけど。

宮崎駿から、愛や哲学や世界観を引いたら、こうなるのかもって感じ。

多分、作ってる人は宮崎アニメが大好きなんだと思う。いつか作ってみたいと思ってたんだと思う。

何度か、おまえはラピュタか、とスクリーンに向かってつっこみたくなった。

残念だけど、決定的にちがうのは、愛がないのよ、愛が。

あるじゃん、と思うでしょお。ちがうのよ。世界を愛してないのよ。

宮崎さんなら、ヘルガを殺さない。あの軍人のおっさんも多分殺さない。

ただ金に目がくらんでるだけじゃないか。なにも世界を征服しようとか全人類を皆殺しにしようとか

企んでるわけじゃない。それなのにもう、悪は悪、とされ断罪される。西洋はこわいとこだ。

潜水艦はやたらお金かけてリアルにすっげえ丁寧に描いてる。潜水艦から出る泡もすごい。

だが、世界を愛している人のアニメなら、潜水艦よりも、アトランティスの青空を、もっと

丁寧に描きこむだろう。千と千尋の、あの青空を見たかい。マイロ・サッチがその美しさに

する世界なんだぜ。もっと思い入れもって描いてもいいんじゃないのか。

まあそんなんで、逆に日本に生まれてよかったと思った。仏教の国でよかった。

宮崎駿の国でよかった。

2001.11.21

 

 

いつか片足をあげる前に

会社をどうしようかと思ってる。もうもたないでしょう。

モチベーションがない。

どうでもいいじゃん、ということをしゃかりきにやる気にはならない。

新人事制度とかいうルールが適用される。

その説明がひとりひとりに面談で説明された。

目標記述書に書いたこと、それができても当たり前で、プラスアルファがないと

上方考課できないから、と。今までのように、勤務態度とか、本人の努力とか、目に見えない

形の貢献、という部分は評価されなくなるから、と。「成果主義」に徹底されるから。

目標を達成できて初めて100%、さもなければマイナスポイントになるから。

評価は、さらに、それがコストダウンにどれほど貢献したか、にかかってくるから。

 

へえええ。

あほらしくなる。別に評価などしてくれなくていいから。プラスアルファ?

なんのために。給料をくれるくれない上げる上げないはあんたたちの勝手だ。

成果。なんの成果?

誰が喜ぶの? 評価。 はあー。 あほらしくってやってらんねえ。

なんだこの会社ってシステムは。

「もうけろ。そしたら給料アップしてやる。」

それはわかる。私ら、管理部門にどうしろっていうの。

管理部門はお金を稼がない。「成果」をあげるというなら「経費削減」「節約」くらいしか

てだてがないが、そんなことを本来の「職務」にしている管理部門の社員はいない。

会社としての方向性を示し、営業が仕事をしやすいように環境を整え、サポートするのが

私ら管理部門の「成果」ではないのか。

辞表のひとつも出せば、最大評価されるのか。

 

会長秘書にどうしろっていうの。

お散歩に秘書を付き添わせるのはやめましょう、会長。

めったに大阪に来ないあなたと社長のために、10F全部のフロアを

普段から空けておくのはムダです、会長。

使いもしないあなた専用の広い応接はおさわりバーに改装しちゃいましょう、会長。

退職した今でも、元秘書を自分の私用に使いまくってる、あなたのお気に入りのあの

セクハラ元専務が毎日喜んで通いはりまっせ、会長。

そういうこと目標記述書に書いてもええですか。ねえ。課長さん。

ええっすか、部長さん。ねえって。ねえ。ねえねえ。

 

私は、月20数万円の生活費を稼ぐために会社で働いている。

やれと言われた仕事はやる。

よく、「言われた仕事だけやっててもだめだ」なんて言い方をするけれど、

(「あなたぐらいになると」なんて余計な前置きがついたりする)

それは、まともな指示も出せないあんたたちの甘えじゃないのか。

あんたらの仕事はまともな指示を出すことじゃないのか。

それで、私らの倍もそれ以上も給料もらってんじゃないのか。

 

いつか、私はやくざになってしまう。

いつか、面談の席で、机の上に片足あげてしまう。

どんどん愛想がつきていく。

過去3年分の議事録がそろってない? だからどうしたよ。ないもんはないんだよ。

2001.11.22

 

 

あほな土曜日

テニスがないのに早起きしてしまった。

テニスがないということを家人に言い忘れ、朝早くから階下で食器のふれあう音がする。

しまった。起きて朝食の準備してくれてるんだ。

テニスがないと言えなくなり、しょうがなくそのまま起きて、

テニスラケットを提げ、テニスシューズをはいて8:25に家を出る。

どうするんだ。こんな朝早くから。

なんかリストラにあったお父さんの気分。家族には言えなくて毎朝出勤のふりして

家を出る。

デジカメもって、そのままテニスクラブへ。気になってた、私の愛する木の写真をとってくる。

それから、山吹の道。みのひとつだになきぞかなしき。

それでもまだ9時すぎ。どうするんだ。デパートだってユニクロだって10時開店だぞ。

図書館へ行くことにする。

ひさびさの大阪市立中央図書館。

午前中いっぱい、テレビドラマの脚本を集中して読んで過ごす。

1冊本を借り、そのままふらふらとなんばまで出る。

仕事の関係の人の結婚祝いを探そう、と思って入った高島屋は、

すっかりクリスマスモード! 金や銀のかざり、いろんなキャンドル、クリスマスリース、

天使のオブジェ、なにもかもかわいくてうれしくて、なんかいろんなものを人にあげたくなる。

クリスマスは大好き。家用のサンタの木の置物を購入。誰かにあげるように同じ物をもうひとつ。

ずっとずっとクリスマスグッズを飽きもせずに見て周りすっかり満足。

アフタヌーンティーでランチを食べて帰ってくる。

今日は友人との約束がキャンセルになっちゃってもてあますはずの日だったのだが、

結構有意義なリストラの土曜日。

来週もこれでいこうかな。

2001.11.24

 

京都へ紅葉狩り

テニスで仲良くなったKさん、Iさん、ぷーさんと私で京都へ。

テニスクラブもなくなっちゃうし、最後にみんなでランチでもという話だったんだけど、

そのへんでランチだけ食べて、じゃあねっていうのも変なので

いっそどっかもみじでもみに行こうやという話になった。

清水寺へ。えらい人だろうとは思っていたが、やっぱしえらい人だった。

阪急河原町から八坂神社を通りぬけ、高台寺前を通って二年坂、三年坂を

昇り、七味屋に上がってきたら、あとは清水寺までにぎやかなお土産屋さんなど

両側に見ながら一本道。

どこもかしこも人でいっぱいだが、それでも、みんな紅葉を見に来たんだねと思うと

愛しい。おじいちゃんもおばあちゃんも若いカップルも親子連れも、

みんなこれを美しいと思うから来たんだね、これを見たいと思うから来たんだね。

あのアフガンの地にも四季はあるのだろうか。岩山ばかりの映像しか見ていないが、

冬は厳しいと聞いているが、こんな誰もが愛する、心なごむ美しい季節はあるのだろうか。

 

京都は好きだ。なにより食べ物が合う。おはずかしいのだが、私はいい年こいて

食べ物の好き嫌いが多い。でも、京料理はたいてい大丈夫。

この日も、鍵善のくずきりに始まり、料理旅館のランチ懐石もぜーーーんぶ

なんにも残さずに食べられた!(これはとても珍しいことなのです、私としては)

それに器がかわいいのもそれだけでうれしい。

帰りに、ぷーさんのお奨めで、先斗町の中のお茶専門の茶房でお茶を

何杯もゆっくりゆっくり楽しむ。

まあ女四人だとなんにしても食べたり飲んだりばっかりですわ。

清水寺そばのお店で、お正月用に羽子板の形のはしおきを買う。

所持金きっかり1万円で、帰りには電車賃以外に50円しか残らなかった。

2001.11.25

 

ルードヴィッヒへ

人を殺すのはいやだからと、徴兵制度にもかかわらず兵役拒否するのは

弱い、ということではない。まして、国に正義などないことを知っているのなら。

もしかして、あなたのことを、責任逃れだとか、みんな泥をかぶっているのに自分だけ、

とか言う人がいるかもしれないが。案外親しい人にそんなことを言われたり

することもあるかもしれないが。

そうではない、と私が言ってあげますよ。

好きで生きてる。

どこにも、何にも所属しなくても。

それもありです。

2001.11.30

 

 

 


とこのHPから抜粋、転用などすることは、どんな事情がおありか知りませんが、私の同意なしでは許されません。

   来る?