あの日(1995.1.17)

1995年1月17日午前5時46分。

ん?ん??ん??? 地震やんっ!!!

隣で寝ている夫を「地震やでっ!!」と起こすと
即、かばうように覆い被さってくれて、 「怖くないから、大丈夫、大丈夫」と励ましてくれる。
当時、上の子が入った8ヶ月のおなかを抱えた妊婦でした。

それはそれでありがたいんだけど…。

別に全然怖いとは思わないんだけどねぇ。
だいたい、ふとん二つ敷いたらいっぱいの4畳半の部屋で 倒れてくる家具なんてないし…。
それよりも、あっちの部屋の片隅に置いた早めの誕生日祝いに もらったランの鉢植え大丈夫かなぁ…。

食器棚から食器がガチャガチャ落ちてる音がする。
あぁ、いっぱい割れちゃってるよぉ〜(泣)

実際の時間は数十秒だったようだが、体感時間は5分くらい。

それにしても、長いなぁ〜。

実際、最初の揺れで倒れた家具などの下敷きになって 亡くなった方も多かったのだから、申し訳ないが、のんきなものだ。

揺れがおさまって、部屋から出て見たものは…。

観音開きの食器棚の扉が開いて、落ちて割れた食器が散乱している。
後で調べてみたら、 お客用のいい食器は無事だったが、普段使っている安物の食器 ばかり割れていた。揺れの方向が食器棚の左右だったから助かったに 違いない。前後に揺れていたら全滅だったかも。

大型テレビは台からずり落ちて後ろの壁に激突してるし…。
とりあえず足の踏み場もないくらいものが散乱している。

当然ながら停電中。

テレビがつかないので、とりあえずラジオをつけてみた。
こういう時には某国営放送?

さすがの某国営放送でも初期の情報は、 神戸沖?が震源地の地震があったらしい としかわからない。

そのうち入ってくる情報でも、
慌てて玄関から飛び出したら屋根瓦が落ちてきてケガをした。 とか 塀が倒れてきて足にあたった。 とか…。

早朝はまだ電話もつながったので、両実家の無事も確認。
夫は上司からかかってきた電話で、とりあえず会社に向かった。

他愛のない情報のみで、たいした情報もないままに ラジオの電池は切れてしまった。
予備の電池なんてないよぉ〜っつーか、 どこにしまったかわかんないよ(汗)

テレビもつかないし、何がどーなってるのかわかんないままふとん以外の 暖房器具?も使用不能だし寒いなぁ。

「断水で今タンクに残っている水しかないから、極力水道の使用は控えて」と 社宅内の伝言がまわってきた。

時間とともに電話も繋がりにくくなったようだ。
「やっと繋がったのよ〜」と東京の知り合いからの電話が鳴った。
私が妊婦なのを知っているので心配して電話してくれたようだ。

「たいへんなことになってるけど、大丈夫?」

って言われても、何がどーなってるのかわかんないんだけど…。

頭上ではヘリコプターの音がうるさい。
電話で話しながら、ふと見上げると隣の家の外壁がなかった(汗)

外に出てみると道を隔てて向かいに建つ家、なんか傾いてないかいっ?

そうこうしているうちに会社に行ったはずの夫が帰ってきた。

電車に乗ろうとしたら阪急伊丹駅がなかったらしい。
「電車が落ちてて…」って何だよ??

JR伊丹の方へも行ってみたが、「今日はいくら待っても電車来ないよ」と 駅員さんに言われて、とりあえず職場に行くのはあきらめて、 近くにある本社の方に顔を出して帰ってきたとのこと。

「帰りにコンビニに寄ったけど、水は売り切れてるし、 食べ物もこれだけしかなくて…」とオレオクッキー2袋を差し出す。
それしかなかったのっ? みんな行動早いなぁ(驚愕)

お昼頃、電気が復活した。 電気って復旧早いねぇ(感動)
テレビをつけてみるとどのチャンネルも地震一色。
崩壊した街のあちこちから黒煙が立ち上る映像ばかり…。

コレハナニ。。。?


後日、道を歩いていると1階の窓から2階の床が落ちているのが 垣間見える家や、半壊状態の家…。
神戸ほどではなかったとしても、自宅近辺もかなり激しく揺れた ことがわかる。
当時築3年の新しい社宅だったから我が家は たいした被害がなかったのかもしれない。



電気は復活したものの、断水しているし、ガスも出ない。 おまけに妊婦。。

その日の夜から、揺れたけど水道・ガス・電気には 全く支障のなかった実家で避難民生活が始まる。

移動の時、ちょっと寄り道になるが 阪急伊丹駅の横を通ってもらった。

一般人が近づかないように、警察だか自衛隊だかわかんないが 駅のぐるりを取り囲んで立っていた。
地上3階?の高さのホームの真中が崩れ落ち、始発電車が 真中で折れて崩れた所に落ち込んでいた。ひぇぇ。

翌日もずっとテレビ報道漬け。
速報のたびに死者の数が1000人単位で増えていくのって…。
1日ずーっと見てたら気分悪くなってきた。

結局、水道の復旧に時間がかかり、自宅に戻ることが できたのは1ヵ月後。
早く帰りたくても8ヶ月の妊婦じゃ配給の水も運べないし…。

避難生活中、夢を見た。
夢の中で私は大きなおなかで重いバケツを両手にぶら下げて運んでいる。
そばで嫌いだった上司がニヤニヤ笑いながら見ている。
おなか大きいんだから、笑ってないで運ぶの手伝ってよっ(怒)



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たいした被害もなかったから言えるお気楽な感想だと思うが、

災害の最中の当事者は情報が入らないので何が起こっているのか わからない。

というのが一番強く感じたことだ。
きっとテレビでいち早く情報を得る遠方の人の方が状況に 詳しいに違いない。


崩壊した街も復興し、 1月17日と言われても、だんだん何の日だか わからなくなりつつある今日この頃だが、 亡くなった方たちのご冥福を祈るとともに、 忘れてはならない日だと思う。

2003.1.17


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