ぐいずとは?


どんな奴?

性別:♂
身長:平均よりかなり低い
体重:ほぼ標準(2002年1月現在)
言語
主に松山地方の方言を中心とした日本語を操るが、広島、関西での生活経験があるため、その方面の方言も混じる。更に、生来人の影響を受け易い性格で、今まで人から聞いたり本で読んだりした言葉、更には中国語や韓国語も混じって、時々意味不明なことを口走る。ぐいずが良く分からない言葉を口走っても、決して「それ何処の言葉?」などと聞かないで下さい。
多分本人も分かりません。

座右の銘

その1:心に棚を作れ!
「レピッシュ」の狂一さんと上田 現さんが本の中で使っておられた言葉。
人に意見したり物事を批評したりする時に、いちいち自分の事を省みていると何も言えなくなるので、とりあえず心の中に棚を作って、自分の事はそこに上げておくこと。
多用させていただいてます。

その2:日々是遺言
関西在住当時に「上岡 龍太郎ひとり会」を見に行き、その会場で売られていた著書「上岡 龍太郎かく語りき」を買った際に、書いていただいた言葉。
大切な事だと思います(合掌)

その他の好きな言葉
果報は寝て待て
棚からぼたもち

好きな食べ物:甘いもの
嫌いな食べ物:大抵の物は口にするが、苦い物と口触りがモシャモシャした物は苦手

栄光(?)の半生

1960年代半ば 愛媛県松山市に生まれる。
?歳 一番古い記憶。
テレビを見ていて、ものすごく悲しくなり大泣きした。
母親と兄の証言
ちょこんと座って、おとなしくテレビを見ていたと思ったら、番組が終了した途端に、ワアワアと泣き出したので、びっくりしました。お腹でも痛くなったのかと思って「どうした?」と聞いたら、「シーボーズが死んだあ!」と言って泣き続けました。
母と兄は顔を見合わせて大笑いしたそうだ。昔は感受性の強い子供だったらしい。
それにしても、実相寺監督は偉大です(ウルトラマン好きの人にはわかるでしょう)。
幼稚園時代 大阪の万国博覧会に行くため、生まれて初めて飛行機に乗る。確かプロペラ機。
この次飛行機に乗るのは、実に19年後となる。
万博で記憶に残っているのは、「デメ」「デカ」というロボットと、「太陽の塔」の内部をエスカレーターで登った事くらい。
小学校時代 1年生の時、○○○音楽教室の発表会において、皆がエレクトーンを弾く中、ピアノ奏者に抜擢されピアニストでびゅうを果たす。しかし、同時に手が小さくて非力な人間はピアニストに向かないと痛感し、ピアニストへの道を断念する(昔から諦めは早い方)。
2年生の時、漫画雑誌に載っていたテレビの地方ロケ時のエキストラ募集に応募したら当たってしまい、「仮面ライダーV3」にてテレビでびゅうを果たす(この撮影分は、特別編集版として劇場公開もされたので、実はスクリーンでびゅうもしているという話)。
6年生の時、理科の自由研究を発表する番組で、ラジオでびゅうを果たす。
この時の研究内容は「静電気を帯びたプラスチックなどを水道から垂らしている水に近づけると水が曲がる」というものだった。十数年後、この研究の延長のような内容で、どこかの学者さんが何やら賞を貰ったと言ってぐいずの母親が騒いでいたが、当の本人はそんな研究発表の事などすっかり忘れていた。
中学時代 かなり真面目な学生生活を送る。
中学時代の校則で、髪型は「カリアゲ」と決められていて、きちんと守ってはいたものの、一度だけ何だか反抗的な気分になり、床屋に行った時に「軽〜く刈上げて下さい」と言った事がある。翌日ちょうど服装検査があり、生徒指導の先生に前に出てくるように言われ、怒られるのかと思ったら、「○○(ぐいずのこと)を見てみろ。きちんと刈上げておけば、髪が伸びても、こういう風にちゃんと刈上げた形が残るんだ!」と、何故かカリアゲ君のお手本にされてしまい、密かに凹む
そういう事もあって「カリアゲは子供の髪型」とインプットされてしまい、大人になってからはバリカンでのカリアゲは断固拒否している。
高校時代 一番何してたかはっきりしない時期。
書道部に所属し、放課後に書道用の長机を合わせて卓球台を作り、「手首のスナップを利かせるための訓練」と称してトレーニングに励む。
写真に凝り始めたのもこの時期からで、一眼レフのカメラを買い込み、書道室で白黒フィルムの現像をしたり、天文地学部の暗室で怪しい合成写真を作ったりしていた。
3年生の時、K出版の「B」という雑誌に投稿したイラストが載って、イラストレーターでびゅうを果たす。
3年間、一度も長期休暇中の宿題を出さなかった(別に遊んでいたわけじゃなくて、単にやってなかった)が、無事卒業
大学時代 広島方面の私立工業大学に入学。
映画研究部に所属し、自主制作映画の撮影にのめり込む。自分で監督などはせず、専ら8mmカメラでの撮影を担当。編集や音響関係にも首を突っ込む。
2年生の時、広島で「国際アニメーションフェスティバル」が開催され、バイトのスタッフとして参加させてもらう。16mm映写技師のヘルプと36mmとの音声切り替えを担当し、スタッフ中でも数えるほどしかいなかった「全作品を見る」特権をいただく。
この時見た作品から、「国が変わればモノの見方も変わることがある」という事を痛切に感じる。ホンマ良い勉強させていただきました。
4年の夏、ゼミ旅行でソウルに行こうという話が出て、生まれて初めての海外旅行を楽しみに、パスポートまで取ったが、就職活動のため一人お留守番となる。
最後に受けた追試の結果を教授が教えてくれず、卒業証書を受け取るまでホントに卒業出来るかビクビクしていたが、履修最低単位+1単位で何とか卒業
サラリーマン時代1
(関西時代)
大阪の会社に就職し、生活の基盤が関西に移る。
関西ではいろいろな公演も多く、映画だけに留まらず、演劇、落語などにも通うようになる。特に落語が好きで、枝雀師匠の独演会などには必ず行っていた。
社会人2年目に、慰安旅行でソウルへ。学生時代に取っていたパスポートが無駄にならずに済んだ。この旅行、実は幹事になっていたのだが、2日目の自由行動の時、単独行動を取り国立博物館へ。展示品を堪能した後トイレに行ったら、窓から慶福宮が見えて唖然とする。ツアーだったので、事前知識を全く入れていなかった。時間が無くなっていたので、再訪を強く心に誓いホテルに戻った。
1990年11月から、身分は国内の機器修理担当の身でありながらソウル駐在。慶福宮再訪の誓いは、あっさり達成。
1991年1月17日 湾岸戦争勃発
1991年5月 帰国
1993年4月 国際部に移籍。以降香港、シンガポール、マレーシア、上海などを出張で訪れる。
1994年10月 6年半勤めた会社を退職
ぷー太郎時代 1994年11月 日本を出発、オーストラリアへ
1995年1月17日 阪神淡路大震災
1月下旬にニュージーランドへ移動。2月中旬にオーストラリアへ戻り、3月初旬にシンガポールを経由して帰国。
関西でぶらぶら生活に入る。就職活動も多少していたが、基本的に中国語の勉強や大型免許の取得の方に走っていた。
1996年3月 9月から中国に語学留学することが決まり、関西から郷里の松山に戻る。松山でのぶらぶら生活開始
8月中旬日本を出発し、途中香港、マカオ、広州を観光し目的地の広西チワン族自治区南寧市へ。留学生活に入る。
1997年1月下旬から2月末 冬季休暇を利用して、貴州省、雲南省へ。
5月 目標としていた試験が思ったより早くあったので、その試験が終わると同時に学校を出る。中国からタイへ。カンボジアに行くつもりだったが、フン・セン派とラナリット派の戦闘が起こり断念。ベトナムを経由して再度中国入りし、9月中旬韓国を経由して帰国。
サラリーマン時代2
(松山時代)
1997年11月 サラリーマン復帰
1998年秋 パソコンを購入。「ぐいず」のハンドルネームを使って、ネット内徘徊を始める。
2001年4月17日 ホームページ開設
2001年8月 前年10月に過去最高を記録した体重に衝撃を受け、ダイエット開始。標準を約2割越えていた体重を、この時期までに約3パーセントオーバーまで落とす。その後、2002年を迎えるまで、体重は横ばい状態。
これから・・・ さあ?




おしまい