1991年   韓国・ソウル



1990年秋に、当時私が勤めていた会社が、韓国の某社と合弁会社を作った。
本来、国内向けの自社製品修理業務に就いていた私には、特に関係無い話であるはずが、当時の社内事情、その他諸々の思惑が複雑に絡み合った結果、ちょいと半年ほどソウルに行って技術指導をして来い、ということになった。
高校入学以来、英語の試験で追試を経験しなかった記憶がなく、海外旅行の経験も社会人になってからの社員旅行でソウルに行ったことがあるだけ、という社員にこういう命令が出るというのも不思議だが、「せっかく行って来いと言ってくれるのだから、行かなきゃ損」とホイホイと出かけて行った。
赴任前の話だと、既に技術者が決まっていて、日本語も少し出来るという事だった。ところが、現地に行ってみると、聞いていた技術者というのは、提携先の会社にいる人のことで(しかも日本語は習い始めたばかりでサッパリ)、新会社の技術者は募集中との事だった。結局技術者が決まったのが2月。それまでの私の仕事は、たまに日本から来る人の相手と、ごく稀にある、現地調達のための商談の付き添いとか、非常に稀な展示会の設置とか、現地調査と名を借りた電器屋巡りで、あとは事務所で韓国語のお勉強という、むちゃくちゃ罰当たり状態であった。
当初、現地法人に在籍していたのは私を含めて8人。 言うまでもなく、ほとんどは提携先の韓国側企業から派遣された韓国人だ。
元軍人で、顔が広いという総務部長のL氏。貿易担当のS氏と経理担当のK氏は、共に温和で面倒見が良く、大変お世話になった。他に、事務方の女性が2人。
私はあくまでオブザーバー的な存在であり、日本側からは責任者として営業部長が赴任していた。で、この営業部長がフランス人のP氏である。何でフランス人やねん?と思われる方もいらっしゃるかと思うが、このP部長、かなり長く韓国に住み、喋る方はほとんどダメだが、聞く方では韓国語もある程度分かるという人物である。が、日本語は全然ダメ。そして、P部長の奥方であり、日本語、英語ぺらぺらで、フランス語もある程度しゃべる韓国人のC女史が、この多国籍メンバーの交通整理役として大活躍をされていた。
さて、仕事はしなくても腹は減るもので、昼食の時間はとても楽しみだった。外出している時を除いて、ほとんど毎日皆で昼食を食べに行った。
普段の昼食は決まった食堂に行って、日替わり定食のようなものを食べるというものだった。ご飯と日替わりのスープが各自に配られ、その日の惣菜が数品(確か6、7品だったと思う)、皿に載ってずらっと並ぶ。皆でその皿をつつきながら、ワイワイ言って食べる昼食は、とても楽しかったし、日々変わる惣菜やスープは観光旅行で口にする料理とは違った世界を見せてくれたし、なにより美味かった。
たまにラーメンを頼むと、店の主人が近所の食料品店にインスタントラーメンを買いに行き、卵を割り入れて作ってくれるのだが、これがまた美味い。未だに韓国に行ったり、韓国物産展があったりする度に、「辛ラーメン」や「安城湯麺」を買いこんで来て、卵を割り入れて作り、麺を食べた後にスープにご飯を入れて雑炊風にして食べる癖は、この時についたものだ。

さて、そんなある日のことである。
L部長が、
「食事に行きましょう!」
と叫んだ(L部長は、この言葉は必ず日本語で言う)。
はて・・・?私は思わず時計を見た。
普段、昼食の時間は12時30分からと決まっていて、今までその時間を外した事はなかったのだが、その時時計は12時25分を指していた。たかが5分と思われるかも知れないが、普段そういうことには厳しいL部長だけに不思議に思った。怪訝な顔をしている私を見て、P部長がにこやかに言った。

「ヒー イズ ベリー アングリー」

・・・・・え?


「アングリー、アングリー、アングリー・・・・・」

脳みその中の、貧相なボキャブラリーを必死で検索してみるが、「アングリー」という発音で引っ掛かるのは「angry = 怒る」という言葉一つだけである。
〔He is very angry. = 彼は大変怒っています。〕
言葉としては充分意味が通るが、
「彼は怒っているので、早く食事に行きたいのです。」
となると、何が何だか訳が分からない。
頭の中で「angry」の文字がぐるぐる回る。
ふと、P部長の方を見ると、何だかとても困ったような顔をして、
「分からないのかい?」
と、聞いてきた・・・いか〜〜ん!これは、相当基本的なところで躓いているらしい。何か見落としているんじゃないか?何か・・・何か・・・ウ〜〜〜・・・
と、ここで急に昔何かで呼んだ言葉が、頭の中に甦って来た。何に書いてあったものかすらすっかり忘れてしまったが、とにかくそれは、唐突に私の頭の中に現れた。
曰く、「フランス人は英語の”H”を発音しない」
Hだ、Hだ、Hを入れろ!そしたら、どうなる?

「ヒー イズ ベリー ハングリー(彼はとても空腹です)

おお!完璧で無いかい?
そうですかい、部長。お腹が空いていらっしゃるのですね。いやいや、そうと分かれば喜んでお供いたしますとも。さあさあ、行きましょ、行きましょ。
心配そうに見ていたP部長に満面の笑みでもって、意味が分かったことを知らせ、皆と一緒にいつもの食堂へと向かい、めでたし、めでたし・・・・のはずなのだが・・・

自慢じゃないが、私の記憶力は、かなり刹那的である。しばらくして、朝一番にP部長が私の部屋にやって来た時、私の頭の中には、この時の記憶がすっかり抜け落ちていた。
P部長はむちゃくちゃご機嫌で、部屋に入って来るなり、こう言い放った。
「○○(ぐいずの本名)サーン

 アイ アム ベリー アッピー !

・・・・・へ?・・・・・アッピーって・・・・・何?・・・・・

(この時は、とうとう紙に書いてもらった・・・恥ぃ・・・)



おしまい