実録・魏太祖武皇帝その六
217〜220


本文・注とも主なものにとどめる。

陳寿『三国志』・魏書武帝紀より 本文への裴松之の注
217年
建安二十二年
(63歳)
春正月、王は居巣に陣した。
二月、軍を進めて長江の西の[赤β]谿に陣営を敷く。
孫権は濡須口におり、城を築いて対抗したが、
そのまま攻撃を仕掛け、孫権は退却。
三月、王は軍を率いて帰途につき、
夏侯惇・曹仁・張遼らを残して居巣に駐屯させた。

夏四月、天子は王に天子の旌旗をかかげるなどの特権を許した。
五月、[シ半]宮(はんきゅう、諸侯の作る学校)を造った。
六月、軍師の華[音欠]を御史大夫に任じた。

冬十月、天子は王にさらなる特権を許し、
五官中郎将の曹丕を魏の太子とした。
劉備が張飛・馬超・呉蘭らを下弁に駐屯させる。
曹洪を派遣し防禦させる。
 
218年
建安二十三年
春正月、漢の大医令・吉本が少府の耿紀、司直の韋光と共謀し反乱を起こす。
許を攻め、丞相長史・王必の陣営に火を放った。
王必は潁川の典農中郎将厳匡とともにこれを討伐、彼らを斬った。
曹洪は呉蘭を打ち破り、その将・任キらを斬った。
三月、張飛は漢中に逃走した。陰平のテイ族・強端が呉蘭を斬り、
首を送ってきた。

夏四月、代郡と上谷の烏丸族・無臣テイ(氏の下に一)が反乱。
[焉β]陵侯・曹彰を派遣、曹彰はこれを打ち破った。
六月、埋葬についての布告を出す。

秋七月、兵の観閲を行い、劉備征討のため西へ赴く。
九月、長安へ到着。

冬十月、宛城の守将・侯音らが反乱を起こし、南陽太守を捕らえ、
官民を強制的に支配し宛城に立て籠もった。
曹仁が関羽征討のため樊城に駐屯していたが、
この月、曹仁に宛を包囲させる。
   
219年
建安二十四年
春正月、曹仁は宛を陥落させ、侯音を斬った。
夏侯淵が劉備と陽平で戦い、劉備に殺された。
三月、王は長安から斜谷を抜け、漢中に臨み陽平に到達。
劉備は要害をたてに抵抗。

五月、軍を引き揚げ長安に帰還。

秋七月、夫人の卞氏を王后にとりたてた。
于禁を派遣し、曹仁を助けて関羽を攻撃させた。
八月、漢水が氾濫して于禁の陣に流れ込み、軍陣は水没。
関羽は于禁を捕らえ、さらに曹仁を包囲。
徐晃を救援に向かわせる。
九月、相国の鍾ヨウが西曹掾魏諷の反逆に連座して免職となった。

冬十月、王の軍は洛陽に帰還。
孫権は使者を派遣して上奏、関羽を討伐することで忠誠を示したいと述べた。
王は洛陽から関羽征討に南下したが、到着前に徐晃が関羽を破り、
関羽は逃走。曹仁の包囲は解けた。
王は摩陂に駐留した。
  
220年
建安二十五年
(66歳)
春正月、洛陽に到着。
孫権は関羽を攻撃して斬り、その首を送ってきた。
正月二十三日、王は洛陽にて崩御した。
年は六十六歳だった。遺令にいう、
「天下は依然として安定をみない以上、古式に従うわけにはいかない。
埋葬が終われば皆、服喪を去れ。兵を率いて駐留している者は、
部署を離れることを許さない。官吏は各々自己の職につとめよ。
遺体を包むのには平服を用い、金銀財宝をおさめてはならない」
諡を武王という。
二月二十一日、高陵に葬った。
  


評にいう。
漢末は、天下がたいそう乱れ、豪傑が一斉に起ち上がった。
その中で袁紹は四つの州を根拠に虎視し、その強勢さは無敵であった。
太祖は策略をめぐらせ計画を立て、天下を鞭撻督励し、
申不害・商鞅の法術をわがものとし、韓信・白起の奇策を包み込み、
才能ある者に官職を授け、各人の持つ機能を利用し、
自己の感情を抑えて冷静な計算に従い、昔の悪行を念頭に置かなかった。
最後に天子の果たすべき機能を掌握し、大事業を成し遂げ得たのは、
ひとえにその明晰な機略がもっとも優れていたためである。
そもそも並外れた人物、時代を超えた英傑というべきであろう。



戻る