本文・注とも主なものにとどめる。
年 | 陳寿『三国志』・魏書武帝紀より | 本文への裴松之の注 | ||
217年 建安二十二年 (63歳) |
春正月、王は居巣に陣した。 二月、軍を進めて長江の西の[赤β]谿に陣営を敷く。 孫権は濡須口におり、城を築いて対抗したが、 そのまま攻撃を仕掛け、孫権は退却。 三月、王は軍を率いて帰途につき、 夏侯惇・曹仁・張遼らを残して居巣に駐屯させた。 夏四月、天子は王に天子の旌旗をかかげるなどの特権を許した。 五月、[シ半]宮(はんきゅう、諸侯の作る学校)を造った。 六月、軍師の華[音欠]を御史大夫に任じた。 冬十月、天子は王にさらなる特権を許し、 五官中郎将の曹丕を魏の太子とした。 劉備が張飛・馬超・呉蘭らを下弁に駐屯させる。 曹洪を派遣し防禦させる。 |
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218年 建安二十三年 |
春正月、漢の大医令・吉本が少府の耿紀、司直の韋光と共謀し反乱を起こす。 許を攻め、丞相長史・王必の陣営に火を放った。 王必は潁川の典農中郎将厳匡とともにこれを討伐、彼らを斬った。 曹洪は呉蘭を打ち破り、その将・任キらを斬った。 三月、張飛は漢中に逃走した。陰平のテイ族・強端が呉蘭を斬り、 首を送ってきた。 夏四月、代郡と上谷の烏丸族・無臣テイ(氏の下に一)が反乱。 [焉β]陵侯・曹彰を派遣、曹彰はこれを打ち破った。 六月、埋葬についての布告を出す。 秋七月、兵の観閲を行い、劉備征討のため西へ赴く。 九月、長安へ到着。 冬十月、宛城の守将・侯音らが反乱を起こし、南陽太守を捕らえ、 官民を強制的に支配し宛城に立て籠もった。 曹仁が関羽征討のため樊城に駐屯していたが、 この月、曹仁に宛を包囲させる。 |
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219年 建安二十四年 |
春正月、曹仁は宛を陥落させ、侯音を斬った。 夏侯淵が劉備と陽平で戦い、劉備に殺された。 三月、王は長安から斜谷を抜け、漢中に臨み陽平に到達。 劉備は要害をたてに抵抗。 五月、軍を引き揚げ長安に帰還。 秋七月、夫人の卞氏を王后にとりたてた。 于禁を派遣し、曹仁を助けて関羽を攻撃させた。 八月、漢水が氾濫して于禁の陣に流れ込み、軍陣は水没。 関羽は于禁を捕らえ、さらに曹仁を包囲。 徐晃を救援に向かわせる。 九月、相国の鍾ヨウが西曹掾魏諷の反逆に連座して免職となった。 冬十月、王の軍は洛陽に帰還。 孫権は使者を派遣して上奏、関羽を討伐することで忠誠を示したいと述べた。 王は洛陽から関羽征討に南下したが、到着前に徐晃が関羽を破り、 関羽は逃走。曹仁の包囲は解けた。 王は摩陂に駐留した。 |
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220年 建安二十五年 (66歳) |
春正月、洛陽に到着。 孫権は関羽を攻撃して斬り、その首を送ってきた。 正月二十三日、王は洛陽にて崩御した。 年は六十六歳だった。遺令にいう、 「天下は依然として安定をみない以上、古式に従うわけにはいかない。 埋葬が終われば皆、服喪を去れ。兵を率いて駐留している者は、 部署を離れることを許さない。官吏は各々自己の職につとめよ。 遺体を包むのには平服を用い、金銀財宝をおさめてはならない」 諡を武王という。 二月二十一日、高陵に葬った。 |
評にいう。
漢末は、天下がたいそう乱れ、豪傑が一斉に起ち上がった。
その中で袁紹は四つの州を根拠に虎視し、その強勢さは無敵であった。
太祖は策略をめぐらせ計画を立て、天下を鞭撻督励し、
申不害・商鞅の法術をわがものとし、韓信・白起の奇策を包み込み、
才能ある者に官職を授け、各人の持つ機能を利用し、
自己の感情を抑えて冷静な計算に従い、昔の悪行を念頭に置かなかった。
最後に天子の果たすべき機能を掌握し、大事業を成し遂げ得たのは、
ひとえにその明晰な機略がもっとも優れていたためである。
そもそも並外れた人物、時代を超えた英傑というべきであろう。