実録・魏太祖武皇帝その四
208〜213


本文・注とも主なものにとどめる。

陳寿『三国志』・魏書武帝紀より 本文への裴松之の注
208年
建安十三年
(54歳)
春正月、業βに帰還。玄武池を造って水軍の訓練を行う。
漢は三公の官を廃し、丞相と御史大夫を設置。

夏六月、公を丞相に任命した。

秋七月、公は劉表征討に南に赴いた。
八月、劉表が死去、その子の劉jが代わって襄陽に駐屯、
劉備が樊に駐屯。
九月、公は新野に到達。劉jは降伏、劉備は夏口に逃走。
公は江陵に軍を進め、荊州の官民に布告、
過去を洗い流し新たに出発することを宣言。
荊州平定の功績を判定して十五人を列侯に、
劉表配下だった文聘を江夏の太守に登用し、
また荊州の名士、韓嵩・ケ義らを任用。
益州の劉璋が役夫の徴収を受入れ、兵を派遣して軍に提供した。

冬十二月、孫権が劉備に味方し合肥を攻撃。
公は江陵から劉備征討に出撃、巴丘に赴き、
張憙(ちょう・き)を派遣して合肥を救援させた。
孫権は張憙が来たと知ると逃走。
公は赤壁に到着、劉備と戦ったが敗れる。
疫病が大流行し、官吏士卒の多数が死んだ。
そこで軍を引き揚げ帰還した。
劉備は荊州管下の江南諸郡を領有することとなった。
御史大夫は御史中丞を部下とせず、
長史ひとりを置いた。(『献帝起居注』)

『四体書勢』から、
上谷の王次仲
(隷書に巧みで、初めて楷書の書法を作った)
安定の梁鵠(字・孟黄)
(選部尚書。洛陽の令になりたかった曹操を
洛陽北部尉にあてた。のち劉表を頼った。
公が荊州を平定すると、賞金を出して梁鵠をもとめさせた。
怖れた梁鵠は自ら縄をかけて出頭した。
公は彼を軍の仮司馬に任命し、秘書の地位に置き、
書を書かせることでその力を発揮させた。
公は常に彼の書き物を天幕に吊り下げ、壁に打ち付けて愛でた。
魏の宮殿の題字はすべて梁鵠の書)
を収録。

『逸士伝』から、
汝南の王儁(字・子文)
(公が平民であったころ、彼と親交が深かった。
袁紹と袁術の母の葬儀に二人で参列した際、
公は王儁に語りかけた。
「天下の動乱の中心となるのは必ずあの二人だ。
天下人民のためにはこの二人をまず始末せねばならんな」
王儁は答えた、
「卿の言葉どおりなら、天下を救うものは卿のほかにあるまいね」
二人は笑った。
王儁は任官に応じず、武陵に移住したが、
彼についていくものは百余家あった。
献帝が許に都してから彼を尚書として
召し出したが、やはり就任しなかった。
武陵にて六十四歳で没。
公はこれを聞いて大いに悲しみ、荊州平定後に自ら長江に臨み
遺体を迎え、あらためて江陵に葬り、表彰した)
を収録。


公は軍船を劉備によって焼かれ、軍を率いて華容道を通って
徒歩で引き揚げたが、泥濘にぶつかり道路は不通、
さらに大風が吹いた。
弱兵に草を敷き詰めさせて騎兵を通した。
弱兵は人馬に踏みつけられて泥濘に落ち込み、多数が死んだ。
脱出したのち、公は喜んだ。
「劉備はわしと同等だが、ただ計略を考え付くのが少し遅い。
先に素早く火を放っていれば、わしらは全滅していただろう」
劉備はそのあと火を放ったが間に合わなかった。
(『山陽公載記』)


『呉志』によれば、劉備が先に公の軍を打ち破り、
そのあと孫権が合肥を攻撃している。が、ここでは、
孫権が先に合肥を攻撃し、のちに赤壁の戦いがあったと
なっている。これは『呉志』のほうが正しい。
(『異同評』)
209年
建安十四年
春三月、軍を[言焦]へ。水軍を訓練する。

秋七月、禍水から淮水に入り、肥水に出て合肥に陣する。
布告を出し、
「戦死した者の家族で自活できない者へ官倉からの支給を絶たないように」
と県官に命ずる。
揚州の郡県に長吏を置き、芍陂に屯田を開設。

冬十二月、軍を[言焦]へ引き上げる。
 
210年
建安十五年
春、布告を出す。貴賎、善悪に関わらず広く才能を求める内容で、
「・・・才能のみが推挙の基準である。私はその者を起用するであろう」
と締められている。

冬、銅雀台を築く。
 
211年
建安十六年
春正月、天子は曹丕を五官中郎将に任命、属官を設けて丞相補佐とする。
太原の商曜が大陵に拠って反逆。夏侯淵・徐晃を派遣し包囲撃破させる。
張魯が漢中を占拠。
三月、鍾ヨウを派遣し張魯を討伐させる。
公は夏侯淵らに河東を出て鍾ヨウと合流するよう命じる。

関中の軍閥は鍾ヨウの遠征に疑心を抱き、攻撃をかけようとした。
馬超は韓遂・楊秋・李堪・成宜らとともに反乱。
曹仁を派遣して彼らを討伐させる。
馬超らは潼関に陣した。公は諸将に言った、
「関西の兵は精悍、堅く守って戦ってはならぬ」

秋七月、公は征西、馬超と潼関を挟んで対峙。
一方で徐晃・朱霊に命じて夜中に蒲阪津を渡り黄河の西に陣営を作らせた。
公は潼関から北に渡河したが、軍が渡りきらないうちに馬超がこれを襲った。
校尉の丁斐が牛馬を解き放つと、賊軍は混乱してそれらを奪いに行った。
公は渡河すると河に沿って甬道(両側に塀を築いた道)を築きつつ南進。
賊軍は退却、渭口で防禦。公は疑兵を多数配置、
ひそかに兵を出して舟で渭水を渡り、
浮橋を作らせると夜中に兵を分割して渡らせ、渭水の南に陣を築かせた。
賊軍は夜襲をかけたが、伏兵を出してこれを撃破。
馬超らは渭水の南に陣し、書簡にて河西を割くことを要求し講和を願ったが、
公は承知せず。
九月、軍を進めて渭水を渡る。馬超はたびたび挑戦したが、これに応じず。
馬超はさらに河西を割くことを要求し講和を願ったが、
公は賈[言羽]の計略を採用、これを表向き受諾した。
韓遂が公との会見を要請してきた。公は韓遂の父と同年の孝廉で、
同じ時期に旗揚げした仲だった。
公は韓遂と馬を交えてしばらく語り合ったが、軍事には言及せず、
ただ昔の都でのことを語り、ともに楽しんだ。
帰ってきた韓遂に馬超が公の話の内容を問うたが、韓遂は「何もいわなかった」
と答えた。馬超は韓遂を疑った。
別の日、公は韓遂に書簡を送った。消したり書き改めた箇所を多く作り、
韓遂が改定したかのように見せた。これを見た馬超らは韓遂に対する疑いを強めた。
公は日を定めて合戦した。まず軽鋭の兵にて戦いを挑ませ、
次いで騎兵隊を放って挟撃し、大いに打ち破って李堪・成宜を斬った。
馬超・韓遂は涼州に逃走、楊秋は安定に走る。かくて関中は平定された。
諸将のうち公にこの戦の戦略について尋ねた者があったが、
公は明快に説明してみせた。

冬十月、軍を長安から北へ向けて楊秋を征討、安定を包囲。楊秋は降伏。
楊秋の爵位は元通りに与え、その地にとどまらせて住民を鎮撫させた。
十二月、安定から帰途につく。夏侯淵を残して長安に駐留させた。
 
212年
建安十七年
春正月、[業β]に帰還。
天子は公に対し、蕭何の前例にならい、拝謁の際に名前の称呼をとりやめ、
朝廷においては小走りの歩き方でなく帯剣し履物をはいて登殿してもよいという
特権を許した。
馬超の残余の軍、梁興らが藍田に駐屯。夏侯淵に討伐させる。
魏郡の領域を変更。

冬十月、孫権征討。
 
213年
建安十八年
春正月、軍勢を濡須口に進め、孫権の長江西岸の陣営を攻撃し撃破、
都督公孫陽を捕虜とし、帰還する。
詔勅により十四州を併合し九州とする。

夏四月、[業β]に帰還。
五月二十二日、天子は[希β]慮に節を持たせ、
公を魏公に任命する辞令を渡した。

秋七月、魏の社稷と宗廟を建立。天子は公の三人の娘を迎え入れ貴人とした。
ただ一番年少の娘は国で成長を待つことになった。
九月、金虎台を造る。運河を掘って[シ章]水に導き、
白溝に入れて黄河に通じさせる。

冬十月、魏国に尚書・侍中・六卿を設けた。
馬超は漢陽におり、羌族を利用して害をなし、
テイ(氏の下に一)族の王・千万がこれに呼応し反逆、興国に陣する。
夏侯淵に命じて討伐させる。
 

 関中征討における渭水南岸への築陣は、当初は馬超の騎兵により失敗続きであった。
そこへ従軍していた婁圭(字は子伯)が「今は寒い時ですから、砂で城を造り水を注ぎかければ一夜にして完成いたします」と献策、
これにより曹操は渭水南岸へ進出、馬超を追いつめることになった。(崔[王炎]伝より)
『蒼天航路』では婁圭の従軍は描かれているがこの献策はカットされているのが残念。
なお婁圭は、のちに曹操親子が車で外遊に出かけるところを車で同乗の者とともに見かけ、
同乗の者が「父子がこのような状態であることはすばらしいことだ」と感嘆したところ、
「この時勢に生まれたのだから、おまえがそうなればよいではないか。なのにただ見ているだけなのか?」と言ったことで、
のちにそれを聞いた曹操により反逆を口にしたかどで捕縛され、誅殺された。(崔[王炎]伝より)


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