本文・注とも主なものにとどめる。
年 | 陳寿『三国志』・魏書武帝紀より | 本文への裴松之の注 | ||
200年 建安五年 (46歳) |
春正月、董承の反乱の計画が漏れ、全員死刑に処せられる。 公は自ら東に赴いて劉備を攻撃しようとした。 諸将は袁紹に背後を衝かれる事を恐れ反対したが、 公は袁紹が動かないと見た。郭嘉も公と同じ考えだった。 劉備を攻撃してこれを破り、その将夏侯博を捕らえた。 劉備は袁紹の元に逃亡した。 劉備の妻子を捕らえ、関羽を降伏させた。 昌豕希がそむいて劉備に味方したので、これを破った。 公は官渡に戻ったが、袁紹は結局動かなかった。 二月、袁紹は郭図、淳于瓊、顔良を派遣し、 白馬にいる東郡太守・劉延を攻撃させ、 自らは黎陽から黄河を渡ろうとした。 夏四月、公は白馬に救援に赴こうとした。荀攸が進言した、 「わが軍の数は少なく、対抗できません。 延津に到着されたのち、兵を渡河させて敵の背後を突く様子をお示しください。 袁紹はそれに対応して西に動くでしょう。 そのあと、白馬を急襲させれば顔良を捕らえることができましょう」 公はこれを採用した。 公は自ら白馬を急襲し、張遼・関羽を先陣に立てて顔良を攻撃させ、 これを斬った。そして西へ向かった。 袁紹は黄河を渡り、延津の南に来た。 公は南阪の下に陣を築き、これを見張った。 このとき、白馬からの輜重隊が街道を通ってきた。 袁紹の将文醜と劉備がこれを襲った。 公は騎兵でこれを急襲し、袁紹軍を打ち破って文醜を斬った。 公の軍は官渡に帰った。袁紹は陽武に進んだ。関羽が劉備のもとに帰った。 八月、袁紹は陣営を連ねて徐々に前進し、東西数十里にわたる陣を敷いた。 公は袁紹と戦ったが利あらず、一万の兵の十分の二、三を失った。 袁紹は官渡に臨み、土山と地下道を築いた。公も同じ物を作って対応した。 袁紹は矢を雨のように降らせたので、外を歩くものはみな楯をかぶった。 公は許都の荀ケに手紙を書き、帰還したい意を伝えたが、荀ケは反対した。 「・・・公は至弱をもって至強にぶつかっておられます。制圧できなければ 必ずつけこまれます。これこそ天下分け目のときです・・・」 孫策は許を襲撃する計画を立てたが、出発する前に刺客に殺害された。 汝南の劉辟が反逆して袁紹に味方し、許の近郊を荒らした。 袁紹は劉備にこれを援助させたが、公は曹仁をつかわして劉辟を打ち破った。 劉備は逃走した。 公は荀攸の策を容れ、袁紹の穀物輸送車数千台を徐晃と史渙に迎撃させて 打ち破り、すべて焼き払った。公は輜重隊の者たちに言った、 「あと十五日で袁紹を打ち破り、おまえたちにこれ以上の苦労はかけぬ」 冬十月、袁紹は穀物車を出し、淳于瓊ら五人にこれを護送させた。 彼らは袁紹の陣の北四十里に宿をとった。 袁紹の臣許攸は公のもとに逃げてきて、淳于瓊らの攻撃を進言した。 諸将は疑ったが、賈言羽と荀攸の勧めで公はそれに従った。 曹洪に留守を任せ、自ら五千の兵を率いて夜中に出発し、 明け方近くに到達した。 淳于瓊は公の軍が少数であるのを見ると陣から出てきた。 公はこれを攻撃した。 袁紹は騎兵を救援にやった。だが公の軍は必死で戦い、 ついに淳于瓊を打ち破り、彼らをすべて斬った。 袁紹は張コウ(合+おおざと)、高覧に曹洪を攻撃させたが、 彼らは淳于瓊敗北の報を聞くと降伏した。 袁紹軍は総崩れとなり、袁紹は軍を棄てて逃走、黄河を渡った。 城下や軍中の人からの書簡が入っていたが、 公はすべて焼いた。冀州の諸郡では城邑あげて降伏するものが多数あった。 |
公は諸将に言った、「劉備は人傑である、云々」 (『魏志春秋』) 許攸は袁紹に進言した、「軍を分けて対峙しつつ、他の路を通って まっすぐに天子をお迎えなされませ」 しかし、袁紹は従わなかったので、許攸は腹を立てた。 (『漢晋春秋』) 裴松之は考える: 魏武帝は旗揚げの時五千の兵をもっていた。 それから敗れた戦はわずか。青州黄巾軍三十万を受入れ、 併呑したものは数え切れない。 よって官渡における公の兵がこれほど少ないはずはない。 理由としては、 *数千の兵で細長く伸びた袁紹の陣営に対抗できたはずがない *袁紹の兵数が勝っていたなら当然包囲にかかるはずだが、 公は徐晃に袁紹の輸送車を攻撃させているし、自らも淳于瓊を 攻撃して往復しているがまったく妨害にあっていない。 これは袁紹が公の軍を制御できなかったということを意味する *公が穴埋めにした袁紹軍の数は八万、また七万というが、 公の軍が八千と少なかったならば、どうして逃げ散ったこれらの兵を 捕らえることができただろうか これは、記述した者が数の少なさによって見事さを示したいと 考えたもので、事実ではない。 公は許攸が来降したと聞くとはだしで彼を迎え、手を叩き、 笑いながら言った、「子遠(許攸の字)、卿が来ればわが事は成った」 許攸は故市・烏巣に袁紹の輜重があることを教え、 これを急襲することを奨めた。 公は精鋭をそろえ、夜中に間道を通って出撃、袁紹の軍を装って 接近し、火を放って急襲した。 督将の[目圭]元進、騎督の韓キョ(くさかんむりに呂)子、 呂威コウ、趙叡らの首を斬り、将軍淳于仲簡の鼻をそいだ。 士卒千余人を殺し、全員鼻をそぎ取り、牛馬は唇や舌を切り取って 袁紹の軍に誇示した。袁紹の軍は皆恐れおののいた。 捕らえられた淳于仲簡が公の前に引き出された。 公は殺さないでおこうと思ったが、許攸が、 「明朝鏡を見れば、絶対に我々への恨みを忘れないでしょう」 と言ったので、これを殺した。 (『曹瞞伝』) 公は書簡を焼いた時言った、 「袁紹の強力なときには、私ですら安全とはいえなかった。 ましてや一般の人は当然のことだ」 (『魏氏春秋』) |
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201年 建安六年 |
夏四月、黄河のほとりに兵を上陸させ、 袁紹の倉亭の駐屯軍を攻撃、打ち破る。 袁紹は離散した兵卒を収容すると、そむいた諸郡県を平定した。 九月、公は許に帰還した。 袁紹は先年より劉備に汝南を攻撃させていたが、 これに汝南の賊・共都らが呼応した。 公は蔡揚を派遣したが、彼は打ち破られた。 そこで公は劉備征討のため南下した。 劉備は公が自ら来ると聞くと劉表のもとに逃走、共都らはちりぢりとなった。 |
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202年 建安七年 |
春正月、故郷の言焦に駐留し、布告を出した。 「私は義兵を起こし天下のために暴乱を除いたが、 故郷の人民はほとんど死滅してしまい、 町を歩き回っても旧知に出会わない。蒼然たる思いだ。 義兵をあげて以来、死んで後継ぎのない将兵には その親戚を探し出して後継ぎとし、 田地・耕牛を与え、教師をつけて教育を与えるように。 後継ぎのいる者に関しては廟を立ててやり、先人を祀らしめよ。 霊魂が存在するならば、わが死後になんの思い残すことがあろうか」 公は浚儀に赴き、[目隹]陽渠を修理し、 使者をやって太牢の犠牲を捧げて橋玄を祀り、 軍を官度に進めた。 夏五月、袁紹が病で死去した。末子の袁尚が代わり、 兄の袁譚は車騎将軍と称して黎陽に駐屯した。 秋九月、公は彼らを征伐し、連戦した。 袁譚と袁尚は度々敗れて退却、守りを固めた。 |
『褒賞令』には橋玄に捧げた公の祭文を載せている。 「元大尉の橋公は優れた徳性を大いに発揮し広い愛情と 大きな包容力を持っていた・・・私は幼年の時、堂室に入ることができ、 特に頑迷固陋な資質ながら彼に受入れられた、云々」 |
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203年 建安八年 |
春三月、彼ら(袁譚、袁尚)の守る城郭を攻撃。二人は城を出て戦ったが、 公は大いにこれを打ち破った。二人は夜陰にまぎれて遁走した。 夏四月、業β(ギョウ)に軍を進めた。 五月、許に帰還。賈信を黎陽に残して駐屯させた。 秋七月、布令を出して学問を奨励した。 八月、劉表を征討、西平に駐屯。 袁譚と袁尚は冀州の支配権を争って戦い、 袁譚は敗れて逃走、平原に拠った。 袁尚は袁譚を攻撃、袁譚は辛[田比]をつかわして公に降伏を乞い、 救援を要請した。 荀攸がこれを許すよう勧めたので、公は西平から軍を引き揚げた。 冬十月、黎陽に到着。子の曹整のために袁譚の家と縁組みした。 袁尚は公が来たことを聞くと平原の囲みを解き業βに帰った。 東平の呂曠と呂翔が袁尚に背き陽平に駐屯していたが、 これが公に降伏し列侯に封じられた。 |
荀攸の進言を受けて公は言った。 「私が呂布を攻撃した時、劉表は侵略してこなかった。 彼は自己保全のみを願う賊徒であり、後回しにして良い。 袁譚と袁尚は狡猾ゆえその乱れにつけこまねばならぬ。 たとえ袁譚が不誠実で最後までおとなしくしていることがないにしろ、 わが軍が袁尚を打ち破り、その領土を手に入れることができれば、 利益は当然多い」 そしてその策を受入れた。 (『魏書』) |
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204年 建安九年 |
春正月、黄河を渡り、淇水の流れをせきとめ白溝(運河)に水を入れ、 糧道を通じた。 二月、袁尚は再び袁譚を攻撃、蘇由と審配を業βの守備に残した。 公がシ亘(カン)水に到ると蘇由は降伏した。業βに到ると攻撃に移った。 土山と地下道を築いた。 しかし武安の長、尹楷が毛城にあって上党からの糧道を確保していた。 夏四月、公は曹洪を業β攻撃に残すとみずから尹楷を攻撃、打ち破って帰った。 袁尚の将・沮鵠が邯鄲を守っていたが、これをも攻撃して陥落させた。 易陽の令・韓範と渉の長・梁岐が県をあげて降伏、関内侯の爵位を与えられた。 五月、土山と地下道を壊し、城の周囲に濠を掘り、 シ章(ショウ)水を決壊させて城に潅いだ。 城内では半数以上が餓死した。 秋七月、袁尚は業β救援に引き返してきた。 公は言った、「彼が西山を通ってくれば、それは負けに来ることだ」 はたして袁尚は西山を越え、シ釜(フ)水を前にして陣を張った。 袁尚は夜襲をかけたが、公は迎撃してこれを打ち破り、 逆に袁尚の陣営を包囲した。 袁尚は陳琳らを派遣して降伏を乞うが許されず、 囲みが完成する前に逃走した。 祁山に逃れたが、公は追撃した。馬延・張は戦を前にして降伏、 袁尚の軍勢は総崩れとなった。袁尚は中山に逃亡した。 その輜重をことごとく捕獲、袁尚の印綬と節鉞を手に入れた。 袁尚の降兵を見せると、城内は戦意を喪失した。 八月、審配の甥・審栄が夜中城門を開け、公の兵を入れた。 審配は迎え撃ったが敗れ、捕らえられて斬られた。 かくして業βは平定された。 公は袁紹の墓に赴いて祀り、哭して涙を流した。 袁紹の妻をいたわり、その下僕と宝物を返し、扶持米を与えた。 九月、布告を出し、この年の河北の租税を供出しないようにさせた。 天子は公に冀州の牧を担当させ、公はエン州の牧を辞退して返上した。 公が業βを包囲していた時、袁譚は甘陵・安平・勃海・河間を攻略した。 袁尚が敗れて中山に逃げると、袁譚はこれを攻撃。袁尚は故安に逃亡、 袁譚は彼の軍勢を併合した。 公は袁譚に書簡を送って約束にそむいたことを責め、縁戚関係を絶ち、 彼に向かって軍を進めた。 袁譚は恐怖して平原を脱出し、南皮に逃れた。 冬十二月、公は平原に入城、諸県を平定した。 |
沮姓は河北に今なお存在する姓。沮鵠は沮授の子である。 (裴松之・注) |
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205年 建安十年 |
春正月、袁譚を攻撃。これを打ち破り、袁譚を斬ってその妻子を処刑する。 冀州の平定なる。 布告を出していう、 「さあ袁氏の悪事に加担した者も一緒に新時代へ出発しよう」 袁熙(袁紹の次子)の大将焦触・張南らが袁熙・袁尚に背いて彼らを攻撃、 袁熙と袁尚は三郡(遼西、遼東、右北平)の烏丸族(トウ頓、蘇僕遠、烏延) のもとへ逃亡。 焦触らは県をあげて降伏、列侯に封じられた。 袁譚を討伐した時、 凍った川や運河の氷を割る労務に従事していた人民のうち 逃亡した者が出た。そのうちで自首してきた者があったが、 公は彼に向かって言った。 「お前を許せば布令に違反するし、 お前を殺せば自首した者を処刑することになる。 帰って深く隠れていろ、役人に捕らえられるのではないぞ」 民は涙を流しながら去ったが、のちに結局捕らえられた。 夏四月、黒山賊の張燕がその軍勢十余万をあげて降伏、 列侯に封じられた。 故安の趙犢・霍奴らが幽州刺史と[シ豕]郡太守を殺害した。 三郡の烏丸族が_平の鮮于輔を攻撃した。 秋七月、公はこれを征討し、趙犢らを斬り、 [シ路]河を渡って_平を救助、烏丸は国境を出て逃亡した。 九月に布告を発する。 冬十月、公は業βに帰還した。 その昔、袁紹は甥の高幹に并州の牧を任せたが、 公が業βを陥とした時に高幹は降伏、そのまま刺史に任命された。 公が烏丸征討に向かった時、 高幹は反乱を起こして上党太守を捕らえ、兵を率いて壷関の入口を守った。 公は楽進と李典に命じてこれを攻撃させた。 高幹は引き返して壷関城を守った。 |
公が袁譚を攻めたとき、明け方から真昼まで戦ったが決着はつかず、 公は自らばちと太鼓を手にとって叩いた。 士卒は皆奮い立ち、たちまちのうちに袁譚を撃破した。 (『魏書』) _平は県名で魚陽郡に属する。 (『続漢書・郡国志』) |
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206年 建安十一年 |
春正月、公は高幹を征討、高幹は別将に城を守らせ匈奴へ逃走、 単于に救援を求めたが単于は受入れず。 公は三ヶ月間壷関城を包囲した後これを陥落させ、高幹は荊州へ逃亡。 上洛都尉の王[王炎]がこれを捕らえて斬った。 秋九月、公は東に赴き海賊の管承を征討、淳于に来ると楽進と李典を派遣して 彼を攻撃させ打ち破った。管承は海中の島へ逃げ込んだ。 公は烏丸族を征討しようと思い、運河を掘らせた。 |
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207年 建安十二年 |
春二月、公は淳于から業βに帰還した。 封爵を行い、功臣二十余人を列侯に取り立て、 戦死者の孤児にも特別待遇を与えた。 北方に赴き烏丸族を討伐しようとしたが、 諸臣は、劉備が劉表に説いて許を突くことを恐れ、皆反対した。 ただ郭嘉のみが、劉表は劉備を信用できぬと見て公に遠征を勧めた。 夏五月、無終に到達。 秋七月、大洪水があって海沿いの道路は不通となった。 田疇が道案内を願い出、公はそれに従った。 盧龍のとりでを出ると、道路は断絶していた。 山を掘り谷を埋め五百余里にわたって道をつけ、 白檀を通り平岡を過ぎ、鮮卑族の領土を通って東方の柳城を目指した。 二百里手前で敵はそれに気付いた。 袁尚・袁熙はトウ頓、遼西の単于楼班、右北平の単于能臣抵之と共に 数万の騎兵隊を率いて迎え撃った。 八月、白狼山に登ったところで突然敵に遭遇した。 兵は恐怖したが、公は高みに登って敵陣が整っていないことを確認すると、 張遼を先陣として兵を放ち、これを攻撃した。 敵は総崩れとなり、トウ頓らを斬った。 蛮族・漢族の降伏者は二十余万に及んだ。 遼東の単于速僕丸らは袁尚・袁熙らと共に遼東へと逃亡。 数千騎の戦力を保持していた。 さて遼東太守・公孫康は遠方にあることをいいことに服従していなかった。 そこで公に公孫康征討を進言するものがあったが、公は、 「私は今、公孫康に袁尚・袁熙の首を斬らせて送らせる。兵を煩わせはしない」 と言って九月、柳城から帰途についた。 公孫康は袁尚・袁熙、速僕丸らの首を斬って送ってきた。公は言った、 「やつはかねてから袁尚を恐れていた。私が厳しく当たれば力をあわせるだろう。 緩めれば自分で始末をつける。勢いからいってそうなるのだ」 冬十一月、易水に到着。 代郡の烏丸族で単于代行の普富盧と上郡の烏丸族で単于代行の那楼が 配下を引き連れ祝賀にきた。 |
(柳城よりの帰還の時) 気候は寒い上に日照りであった。 二百里に渡って水が無く、食料に欠乏し、 数千匹の馬を殺して食に当て、三十余丈も土を掘って水を得た。 帰還後、烏丸征伐をいさめた者の名を報告するよう命じた。 皆は心配したが、公は彼らに恩賞を与えて述べた、 「私の先の遠征は、幸運によって危機を乗り切った。 うまくいったのは天が助けてくれたからで、 これを常例とするわけにはいかない。 諸君の諫言は万全の計である。そのために恩賞を取らすのだ。 今後、発言を控えたりしないでくれよ」 (『曹瞞伝』) |
*袁兄弟および北伐において大いに戦功を挙げたのが曹仁の弟・曹純。
彼は曹操軍の精鋭部隊「虎豹騎」を率いて建安十年に袁譚を打ち破って斬り、
さらに十二年の北伐においては白狼山の戦いで烏丸族のトウ頓を捕らえるという大活躍を見せた。
(『蒼天』では張遼の戦功となっているが、史実では曹純の戦功である。
ただし張遼伝では張遼が「トウ頓を斬った」という記述があり、どっちなんだよという感じ。
曹純がとっ捕まえたのを張遼が斬ったのか、張遼に斬られたところを曹純が捕らえたのか)
彼は惜しくも十五年に若くして病没してしまったが、彼の後任を選ぶ時、曹操は、
「彼ほどの良将がまた得られようか。私はこれを率いるにふさわしくないであろうか」
と言い、後任を選ばずに以後自らの直属とした。
なお、「虎豹騎」の長は曹純以前は曹休、曹真と、いずれものちに魏の方面司令官として活躍した人物が務めている。
曹純の死後彼らの復帰がなかったことを考えると、曹純の能力は彼らを上回っていたということだろうか。