本文・注とも主なものにとどめる。
年 | 陳寿『三国志』・魏書武帝紀より | 本文への裴松之の注 | ||
193年 初平四年 (39歳) |
春、ケン城に陣を敷く。荊州牧劉表は袁術の糧道を断つ。 袁術は兵を率い陳留郡へ入り、封丘に駐屯。 以前太祖に敗れた黒山賊の残党や匈奴の於夫羅がこれを援助。 太祖は袁術の将劉詳の駐屯する匡亭を攻撃してこれを打ち破り、 さらに救援にきた袁術を大破する。 封丘に退却した袁術を包囲するが、その前に袁術は襄邑に逃走。 さらに追撃すると大寿へ逃げ込んだ。 そこで城を水攻めにすると、さらに寧陵へ、また九江へ逃走。 夏、引き帰して定陶に布陣。 下丕(+おおざと/かひ)の闕宣が数千人の兵を集め、天子を自称した。 徐州牧陶謙はこれに加わって挙兵、泰山郡の華と費を奪い、任城を攻撃。 秋、陶謙征討、十余城を陥落させる。 陶謙は固く城を守って出てこず。 孫策、袁術の指示により長江を渡り、 これから数年のうちに江東を手中に収める。 |
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194年 興平元年 (40歳) |
春、徐州より帰還。 以前、父曹嵩が董卓の乱の際に瑯邪へ避難した時、 陶謙によって殺害されていた。 太祖はその復讐のために再び東へ兵を向ける。 夏、荀ケと程cにケン城を守備させ、陶謙を征討。 五城を陥落させ、東海まで進む。 帰還の途中、タン(炎+おおざと)を通過。 陶謙の将曹豹が劉備と共にこれを迎え撃ったが、 太祖はこれを撃破し、さらに進んで襄賁を攻略。 通過地域では多数の者を虐殺した。 張バク(貌+しんにょう)が陳宮と共に反逆、 呂布を迎え入れ、郡県はすべて呼応した。 荀ケと程cはケン城を守っていた。他に残ったのは范と東阿の二県のみ。 呂布はケン城を落とせず濮陽に駐屯。 太祖はこれを攻撃したが、呂布は騎兵を繰り出して青州兵を突き崩し、 太祖の陣を混乱させた。太祖は火傷を負い、司馬の楼異に救い出されて退いた。 太祖は攻撃用の兵器を作らせて再び戦いを仕掛け、対峙すること百余日。 折りしも蝗が大発生し、飢餓が起こる。呂布の糧食も尽き、双方引きあげた。 秋九月、ケン城に帰還。呂布は乗氏に到着したが、その県の人李進に撃破され、 東に向かって山陽に駐屯。袁紹が使いして和議を結ぼうとした。 兵糧の少ない太祖はこれを受けようとしたが、程cがそれを引き止めた。 冬十月、東阿へ赴く。 この年、穀物は一石が五十余万銭に高騰、人間同士が食い合うほどとなった。 そのため軍吏や兵士の新規採用を見送る。 陶謙が死に、劉備が彼に代わった。 |
曹嵩は泰山の華県に滞在していた。 太祖が彼をエン州へ迎えたとき、陶謙は数千騎を発して彼を襲い、 太祖の弟曹徳と曹嵩を殺害した。(世説新語) 太祖が曹嵩を迎えにやったとき、陶謙は部下に二百の騎兵を与えて 護送させたが、彼は華県と費県の間で曹嵩を殺害し、財物を奪って 淮南へ逃げた。(呉書) 太祖が濮陽を包囲した時、豪族の田氏が内通し、太祖の兵を 引き入れた。太祖は東門に火をかけて引き返す意思のないことを 示して戦ったが敗れた。呂布の騎兵が太祖を捕らえたが、 彼とは気づかず曹操の所在を尋ねた。太祖は、黄色の馬に乗って 逃げていくのがそうだと言い、騎兵はそれを追っていった。 門は燃えさかっていたが、太祖はそれを衝いて脱出した。 (献帝春秋) |
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195年 興平ニ年 |
春、定陶を襲撃。 済陰太守の呉資がこれを防いでいるうちに呂布の軍が到着したので、 鉾先を変えてこれを攻撃し、呂布を破る。 夏、鉅野に駐屯する呂布の将・薛蘭と李封を攻撃する。 呂布が二将の救援に駆けつけたが、 薛蘭は敗れ、呂布は逃走。薛蘭らを斬る。 呂布は陳宮と共に東緡より来て攻撃をかけた。 太祖の兵は少なかったが、伏兵を設け、奇襲の兵を放って大勝した。 呂布は逃走。 再び定陶を攻撃して陥落させ、諸県を平定。 呂布は劉備の下に走る。張バクは弟・張超に命じ雍丘を守らせる。 秋八月、太祖は雍丘を包囲。 冬十月、天子は太祖をエン州の牧に任命した。 冬十二月、雍丘を陥落させる。張超は自殺。 張バクの三族を処刑。 超バクは袁術のもとに救援要請に赴く途中、部下に殺害された。 エン州の平定成る。 東に向かい、陳の地を攻略。 長安に動乱が起こり、天子は東に移動したが、 曹陽で打ち破られ、黄河を渡って安邑に行幸した。 |
呂布の来攻時、兵は麦を奪いに出かけており、 残りは千人足らずだった。 太祖は婦女子に垣を守らせ、全兵力で防いだ。 翌日再び呂布が来攻した際、太祖は西の堤に半数の兵を伏せ、 残り半数で迎え撃った。呂布が前進してくるころあいを見計らって 伏兵を一斉に突撃させ、大いに敵を打ち破り、呂布の陣営まで 追撃した。(魏書) |
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196年 建安元年 |
春正月、武平を攻撃、袁術が任命した陳国の相・袁嗣を降伏させる。 太祖は天子を迎え入れようとする。 荀ケと程cは賛成し、曹洪に兵を与えて迎えに行かせたが、 衛将軍・董承が袁術の将・萇奴とともに抵抗、曹洪の前進を阻んだ。 汝南・潁川の黄巾党、何儀・劉辟・黄邵・何曼らがそれぞれ数万の軍勢を擁し、 袁術に与していたが、今度は孫堅に近づいていた。 二月、太祖は軍を進めて彼らを撃破、劉辟・黄邵らを斬る。 何儀とその軍兵は降伏した。 天子は太祖を建徳将軍に任命した。 夏六月、鎮東将軍に昇格、費亭侯に封じられる。 秋七月、楊奉と韓暹が天子を擁して洛陽に帰った。 楊奉は韓暹と別れ梁に駐屯した。 太祖は洛陽に赴き首都を守護、韓暹は逃亡。 天子は太祖に節鉞を仮し与え、録尚書事とする。 董昭らの進言により、秋九月、都を許に移す。 天子は太祖を大将軍とし、武平侯に封じた。 冬十月、公(太祖)は楊奉を征伐、楊奉は袁術のもとに逃亡。 公は梁を陥落させる。 袁紹が大尉に任命されたが、公の下につくことを好まず受けなかった。 そこで公は大将軍の位を袁紹に譲り、司空の位に就く。車騎将軍を兼務。 棗祗・韓浩らの意見を採用し、屯田制を実施する。 呂布が劉備を襲撃、劉備が公のもとへ逃げてくる。 程cはこれを殺すように進言するが、公は受け入れなかった。 張済が関中から南陽に逃走。 張済が死に、甥の張繍がその軍勢を収める。 |
天子は洛陽に到着した時、城の西にあったもと中常侍の 趙忠の邸宅に行幸した。張楊に宮室を修理させて楊安殿と名づけ、 八月に移住した。(献帝春秋) 録尚書事とともに司隷校尉も担当した。(献帝記) 公は言った、 「秦は農業重視で天下を併合し、考武帝は屯田によって 西域を平定した。これが前の時代の優れた手本である」 この年、民を募集して許の近辺で屯田させ、百万石の穀物を 収穫した。(魏書) |
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197年 建安二年 |
春正月、公は宛に赴き、張繍は降伏。 張繍は降伏を悔やみ、反逆。 公は彼と戦ったが敗れ、流れ矢に当たって負傷、 長男の曹昂と弟の子の曹安民が戦死した。 公は舞陰に退く。張繍が追撃してきたのでこれを撃破する。 張繍は穣に走り、劉表と連合。 公は諸将に言った。 「敗戦の原因がわかった。諸卿、見ていてくれ、これから後は二度と負けぬ」 許に帰還する。 袁術が帝位を僭称しようとし、呂布に知らせる。 呂布はその使者を捕らえて書簡を奉る。 袁術は怒って呂布を攻めるが、打ち破られる。 秋九月、袁術が陳に侵入。公は自ら討伐に東へ赴く。 袁術は公が自ら来たと聞くと軍を捨てて逃走、 配下の将の橋ズイ・李豊・梁綱・楽就を残留させる。 公は彼らを撃破し、全員斬り殺した。袁術は逃げて淮水を渡った。 公は許に帰還。 公が舞陰から帰還したのち、南陽・章陵の諸県はふたたび張繍に味方した。 公は曹洪を派遣したが勝てず、曹洪は葉に駐屯。 たびたび張繍・劉表に攻撃される。 冬十一月、公は自ら南征、宛に達する。 劉表の将ケ済が湖陽にいるのを攻撃して陥とし、生け捕りにする。 次いで舞陰を攻撃し、陥落させる。 |
公が乗っていた馬は絶影という名だったが、 流れ矢に当たって頬と足を怪我し、公も右ひじに矢を受けた。 (魏書) 曹昂は馬に乗ることが出来なくなり、公に馬を提供した。 公はおかげで逃れたが、曹昂は命を落とした。(世説新語) 古いしきたりでは、三公が軍を統率している場合、 参内して謁見する時に必ず近衛兵が戟を交錯させ、 首をはさんで進ませた。 初め公が張繍を討つときに参内した時、この制度が復活された。 (曹操は三公のひとつ、司空の位にある) 公はこのために二度と参内しなかった。(世説新語) 冬十一月、宛に達した時、イク(さんずい+育)水に臨み、 戦死した将兵を祭った。公がすすり泣き涙を流すと、 人々は皆感動した。(魏書) |
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198年 建安三年 |
春正月、許に帰還。軍師祭酒を設置。 三月、張繍を穣に包囲。 夏五月、劉表が兵を繰り出して張繍を救援、公の背後に回った。 公はゆっくりと退却し、安衆に着くと地下道を掘って伏兵を配置、 劉表・張繍軍を撃破する。 秋七月、許に帰還。 呂布が再び袁術につき、高順に命じて劉備を攻撃させる。 公は夏侯惇を派遣して救援させたが、劉備は高順に打ち破られる。 九月、公は呂布討伐に東へ向かう。 十月、彭城を陥とし、その相侯諧を捕らえる。 下(丕+おおざと)(かひ)まで進撃すると、呂布が自ら迎撃に来た。 これを破り、呂布の将成廉を捕らえる。 城下まで進撃すると呂布は降伏しようとしたが、 陳宮らはこれを止め、袁術に救援を要請し、城を出て戦うように勧めた。 戦ってまた敗れたので、籠城した。 公は攻撃したが陥ちなかった。 公は連戦による兵の疲弊を気遣い引き揚げようとしたが、 荀攸・郭嘉の計略を採用し、泗水・沂水を決潰させて城に潅いだ。 一月あまりして、呂布の将宋憲・魏続が陳宮を捕らえ、城をあげて降伏した。 呂布と陳宮を捕らえ、ともに殺した。 太山の臧覇・孫観・呉敦・尹礼・昌豕希は呂布に従っていたが、 公は彼らを手厚く待遇し、青州・徐州に海岸地帯をつけて割き、彼らに委ねた。 以前張バクに人質を取られて脅迫され、 公の許しを得て呂布側についた畢ェが生け捕りになったが、 公は彼を許し、魯国の相とした。 |
袁紹にそむいた兵卒が公のもとに来て言った。 「田豊が袁紹に、早く許を襲って天子を擁するべしと 進言しております」 そこで公は張繍の包囲を解いた。(献帝春秋) |
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199年 建安四年 (45歳) |
春二月、昌邑まで帰る。張楊の将楊醜が張楊を殺し、 [目圭]固がまた楊醜を殺し、軍勢をまとめて袁紹に投じ、射犬に駐屯した。 夏四月、公は軍を進めて黄河に臨み、 史渙と曹仁に黄河を渡らせて[目圭]固を攻撃させた。 [目圭]固は薛洪と河内太守の繆尚に射犬を守らせ、 自らは袁紹に救援を求めるべく北上したが、 犬城にて史渙・曹仁はこれを捕捉、大破して[目圭]固を斬った。 公は黄河を渡って射犬を包囲、 薛洪・繆尚は降伏した。二人を列侯に封じ、引き揚げて敖倉に駐屯。 かつて公に背いた魏[禾中]が生け捕りとなったが、 公は彼の才能を惜しんでこれを許し、 河内太守にとりたて、河北の軍政を委ねた。 袁紹は北方四州(青・冀・幽・并)を手中にし、 十余万の兵を抱え、許を攻撃しようとしていたが、 公は袁紹の狭量な人柄を指摘し、これを恐れなかった。 秋八月、黎陽に軍を進める。 臧覇らを青州に侵入させて斉・北海・東安を打ち破り、 于禁を黄河の岸に駐屯させた。 九月、許に帰還、その際官渡に兵を裂いて守らせた。 冬十一月、張繍が降伏し、列侯に封じられる。 十二月、公は官渡に陣取る。 袁術は陳での敗戦の後行き詰まっていた。 袁譚(袁紹の長子)が青州から彼を迎えにいかせたが、 公は劉備と朱霊を派遣して袁術の行く手を遮らせた。 袁術は病死した。 程cと郭嘉は、公に「劉備を自由にしてはならぬ」と進言した。 はたして劉備は徐州刺史車冑を殺し、沛に拠って反旗を翻した。 公は劉岱と王忠を派遣して攻撃させたが、勝利を得られなかった。 廬江太守劉勲が軍を引き連れ降伏、列侯に封じられる。 |
劉備は劉岱らに向かって言った。 「おまえらが百人来たとしてもわしをどうすることもできぬ。 曹公が自ら来たらどうなるかわからないがな」 (献帝春秋) 劉岱は字を公山といい、沛の人。司空長史として 曹公に付き従い、列侯に封じられた。(魏武故事) 王忠は扶風の人。若いころは亭長だった。 三輔が動乱に陥った時、彼は飢えに苦しんで人を食った。 のちに千余人の兵を率いて公に投じ、中郎将となって 公の征伐に従った。 五官将(曹丕、のちの文帝)は彼が以前人を食ったことが あるのを知っていたので、芸人に命じて墓場に転がっている 髑髏を取ってこさせて王忠の馬の鞍に結びつけ、 笑いの種にした。(魏略) |
文帝陛下、于禁といい王忠といい、人をタチの悪い冗談でからかうのが好きね。