本文・注とも主なものにとどめる。
年 | 陳寿『三国志』・魏書武帝紀より | 本文への裴松之の注 | ||
155年 (1歳) |
沛国・[言焦]県にて生まれる。姓は曹、名は操、字は孟徳。 前漢の曹参の子孫。祖父は中常侍・曹騰で、父はその養子曹嵩。 曹嵩は大尉にまで昇格した。 |
一名は吉利。幼名は阿瞞。(曹瞞伝) 先祖は黄帝。(魏書) 父曹嵩は夏侯氏の出自で、夏侯惇の叔父。(曹瞞伝、世説新語) |
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少年時代は機知権謀に富み、やりたい放題だったので、 世間の人は評価しなかった。 橋玄ほか一人(漢字が変換されんのよ)のみが評価した。 |
大尉の橋玄は太祖を評価して言った。 「私は多くの天下の名士に会ったが、君のような者は初めてだ。 自分を大切にするのだ。私は歳をとった。妻子をよろしく頼みたい」 これで曹操の声望が高まった。(魏書) あるとき中常時・張譲の館に忍び込み、見つかったので戟を振り回し、 土塀を超えて逃亡した。その凄まじい武技のゆえに誰も彼を 止められなかった。 また書物好きで、兵法を好んだ。孫武の兵法十三巻に注をつけ、 諸家の兵法の選集を作り『接要』と名づけた。 許子将に自分がどういう人間か問うた。彼は無言だったが、 太祖がしつこく訊くので、こう答えた。 「君は治世の能臣、乱世の姦雄だ」 太祖は哄笑した。(異同雑語) |
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176年 (22歳) |
考廉に推挙され、郎となる。洛陽北部尉に任じられ、 頓丘の令に昇進。また中央に呼び戻され議郎に任じられる。 |
洛陽北部尉に任じられた太祖は四つの門を修理、五色の棒を 作らせて門の左右に十余本吊り下げ、禁令を犯すものは 誰であろうと撲殺した。霊帝の寵厚い宦官・蹇磧の叔父が 夜間通行の禁を破ったので、即座に殺した。禁令を犯すものは いなくなった。蹇磧ら寵臣はこれを憎んだが、太祖に付け入る隙はなく、 仕方なく頓丘の令に推挙、洛陽から追い出した。(曹瞞伝) たびたび上奏し、不正な者が朝廷に満ちていることを告発したが、 効果がないことを知ると再び献策しなかった。(魏書) |
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184年 (30歳) |
黄巾の乱勃発。騎都尉に任命され、潁川の賊を討伐。 済南国の相に昇進。汚職が流行していた諸県の長吏の八割までを免職させ、 民を惑わす宗教を禁止。悪人は逃亡し、領内は治まる。 召還され東郡太守に任じられるも、就任せずに病気と称して郷里に帰る。 |
貪婪な長吏をすべて免職し、領内の六百余の祠をすべて取り壊し、 邪教淫祀を禁止した。(魏書) 郷里での太祖は、場外に家を建て、春と夏は書物を読み、 秋と冬は狩猟に出かけ、毎日を楽しんだ。(魏書) |
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189年 中平六年 (35歳) |
金城の辺章・韓遂が十万余を率いて反乱。これにより召し出され、 典軍校尉(西園八校尉の一つ)となる。 霊帝崩御。少帝即位。大将軍何進、袁紹とともに宦官殺害を計画し、 董卓らを洛陽に召し寄せるも、逆に宦官らに殺害される。袁紹、宦官殺戮。 董卓、洛陽入城。少帝を廃し献帝擁立。 董卓、太祖を召し出し登用しようとするが、 太祖は逃亡、陳留で兵を集め、十二月、己吾にて挙兵。 |
宦官殺害の計画を聞いた太祖は言った。 「宦官はいつの世にもあって当然。処断するなら張本人一人を 処刑すればよく、獄吏一人あれば充分。外にいる将軍を 召し寄せる必要などない。皆殺しにするとなれば、事は露見するに 決まっている・・・」(魏書) 東へ走る途中、旧知の呂伯奢の家に立ち寄ったが、 彼は留守で、その子らは太祖を襲ったので、剣を手にして 数人を撃殺した。(魏書) 旧知の呂伯奢の家に立ち寄ったが、彼は留守で、その子らは 太祖をもてなした。太祖はその夜、彼らは自分を売るまいかと 疑心暗鬼に駆られ、八人を斬り殺して逃亡した。(世説新語) 旧知の呂伯奢の家に立ち寄ったが、彼は留守で、その子らは 曹操をもてなした。食器の音を聞いた太祖は、彼らは自分を 始末するつもりだと思い込み、夜、彼らを殺害した。 そして事実を知ったのだが、 「われ人を裏切るとも、人のわれを裏切ることなからしめん」 と言い捨てて去った。(雑記) |
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190年 初平元年 |
董卓討伐軍編成。奮武将軍に任ぜられる。 董卓、長安遷都。董卓は洛陽に残る。 諸将が進軍しないので、単身進軍、董卓軍の徐栄と交戦、敗北するも、 徐栄も太祖の軍の戦いぶりに進軍をあきらめ引き返す。 諸将の前で董卓攻略の策を示すも受け入れられず、 募兵のため夏侯惇らと揚州へ。 四千人を集めるも、士卒の反乱もあって残ったのは千人。 河内に駐屯。 董卓討伐軍の内紛、解散。 |
募集された兵士たちは反乱を計画し、夜中に太祖の軍幕を 焼いたが、太祖は剣を手にして数十人を殺害、皆恐れをなして 道を開けた。(魏書) |
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191年 初平二年 |
袁紹、幽州の牧劉虞を皇帝に擁立しようとする。劉虞は固辞。 誘いを受けた太祖はこれを拒絶。 董卓、長安へ移る。 袁紹、冀州を奪う。 黒山の賊于毒、白繞、[目圭]固らが十余万の軍で魏郡を侵略。 東郡太守王肱は防ぎきれず。 太祖、兵を率いて東郡に入り、賊軍を破る。 袁紹、太祖の東郡太守任命を上奏。東武陽に政庁が置かれる。 |
袁紹の、劉虞を皇帝に擁立しようとする企てを聞いた太祖は これを拒絶。 「諸君は北方(幽州)を向いているがいい。 私は西方(長安)を向いているよ」(魏書) |
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192年 初平三年 (38歳) |
黒山賊との戦い継続。頓丘に布陣。 賊軍が東武陽を襲うが、太祖は賊軍の本拠、 黒山を急襲。引き返してくる賊軍を大破する。 また内黄で匈奴の於夫羅を撃破。 四月、王允・呂布が董卓殺害。 董卓の残将ら、王允を殺害、実権を握る。 青州黄巾党百万がエン(出てこない〜)州に侵入。 任城国の相鄭遂を殺害、次いで東平に侵入。 エン州刺史(牧)劉岱はこれを討とうとして返り討ちにあう。 鮑信は太祖をエン州牧に迎える。 寿張の東で黄巾党軍を破る。この戦いで鮑信は戦死する。 済北に黄巾党を追い詰め、降伏を受諾。 降兵三十万余、人民百万余を受け入れる。 青州黄巾党の精兵を再編し、「青州兵」と名づける。 袁術と袁紹が仲たがい。 袁術は公孫伯珪(サンの字が出てこない)を動かし、 公孫伯珪は劉備・単経・陶謙を動かして袁紹を圧迫するも、 袁紹は太祖に救援を要請、太祖は転戦してすべてを打ち破る。 |
於夫羅とは、南匈奴の単于の子。匈奴兵の徴発によって 中国に入っていたが、南匈奴内の反乱で父が殺されたので 中国にとどまり、西河の白波黄巾党とともに各地を 荒らしていた。(魏書) 劉岱が死んだ後、陳宮は太祖に献策し、自らエン州の役人に説いて 太祖を迎え入れさせた。(世説新語) 寿張での戦いの折、千人余を率いて戦場の巡視中に、 偶然黄巾党の陣営に出くわした。戦いになり、数百人を失って退却した。 黄巾党はこれを追撃したが、太祖は新兵の多い自軍を督励し、 隙を見て反撃し、打ち破った。黄巾党は文書を送っていわく、 「あなたが以前に済南国の相であったとき、神檀を打ち壊されましたが、 その道は中黄太乙に一致し、道をご存知とお見受けしました。 しかし今は惑乱しておいでです。漢の命運は絶え、黄家が立つのが 当然。あなたの才能で漢を存続させることは不可能です」 太祖はこれを読むと使者を怒鳴り、それから度々降伏を勧めた。 伏兵を設け、昼夜分かたず攻撃を仕掛け、かくて賊軍は退却した。 (魏書) |
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