実録・魏太祖武皇帝その一
155〜192


本文・注とも主なものにとどめる。

陳寿『三国志』・魏書武帝紀より 本文への裴松之の注
155年
(1歳)
沛国・[言焦]県にて生まれる。姓は曹、名は操、字は孟徳。
前漢の曹参の子孫。祖父は中常侍・曹騰で、父はその養子曹嵩。
曹嵩は大尉にまで昇格した。
一名は吉利。幼名は阿瞞。(曹瞞伝)
先祖は黄帝。(魏書)
父曹嵩は夏侯氏の出自で、夏侯惇の叔父。(曹瞞伝、世説新語)
少年時代は機知権謀に富み、やりたい放題だったので、
世間の人は評価しなかった。
橋玄ほか一人(漢字が変換されんのよ)のみが評価した。
大尉の橋玄は太祖を評価して言った。
「私は多くの天下の名士に会ったが、君のような者は初めてだ。
自分を大切にするのだ。私は歳をとった。妻子をよろしく頼みたい」
これで曹操の声望が高まった。(魏書)

あるとき中常時・張譲の館に忍び込み、見つかったので戟を振り回し、
土塀を超えて逃亡した。その凄まじい武技のゆえに誰も彼を
止められなかった。
また書物好きで、兵法を好んだ。孫武の兵法十三巻に注をつけ、
諸家の兵法の選集を作り『接要』と名づけた。
許子将に自分がどういう人間か問うた。彼は無言だったが、
太祖がしつこく訊くので、こう答えた。
「君は治世の能臣、乱世の姦雄だ」
太祖は哄笑した。(異同雑語)
176年
(22歳)
考廉に推挙され、郎となる。洛陽北部尉に任じられ、
頓丘の令に昇進。また中央に呼び戻され議郎に任じられる。
洛陽北部尉に任じられた太祖は四つの門を修理、五色の棒を
作らせて門の左右に十余本吊り下げ、禁令を犯すものは
誰であろうと撲殺した。霊帝の寵厚い宦官・蹇磧の叔父が
夜間通行の禁を破ったので、即座に殺した。禁令を犯すものは
いなくなった。蹇磧ら寵臣はこれを憎んだが、太祖に付け入る隙はなく、
仕方なく頓丘の令に推挙、洛陽から追い出した。(曹瞞伝)

たびたび上奏し、不正な者が朝廷に満ちていることを告発したが、
効果がないことを知ると再び献策しなかった。(魏書)
184年
(30歳)
黄巾の乱勃発。騎都尉に任命され、潁川の賊を討伐。
済南国の相に昇進。汚職が流行していた諸県の長吏の八割までを免職させ、
民を惑わす宗教を禁止。悪人は逃亡し、領内は治まる。
召還され東郡太守に任じられるも、就任せずに病気と称して郷里に帰る。
貪婪な長吏をすべて免職し、領内の六百余の祠をすべて取り壊し、
邪教淫祀を禁止した。(魏書)

郷里での太祖は、場外に家を建て、春と夏は書物を読み、
秋と冬は狩猟に出かけ、毎日を楽しんだ。(魏書)
189年
中平六年
(35歳)
金城の辺章・韓遂が十万余を率いて反乱。これにより召し出され、
典軍校尉(西園八校尉の一つ)となる。

霊帝崩御。少帝即位。大将軍何進、袁紹とともに宦官殺害を計画し、
董卓らを洛陽に召し寄せるも、逆に宦官らに殺害される。袁紹、宦官殺戮。
董卓、洛陽入城。少帝を廃し献帝擁立。

董卓、太祖を召し出し登用しようとするが、
太祖は逃亡、陳留で兵を集め、十二月、己吾にて挙兵。
宦官殺害の計画を聞いた太祖は言った。
「宦官はいつの世にもあって当然。処断するなら張本人一人を
処刑すればよく、獄吏一人あれば充分。外にいる将軍を
召し寄せる必要などない。皆殺しにするとなれば、事は露見するに
決まっている・・・」(魏書)

東へ走る途中、旧知の呂伯奢の家に立ち寄ったが、
彼は留守で、その子らは太祖を襲ったので、剣を手にして
数人を撃殺した。(魏書)

旧知の呂伯奢の家に立ち寄ったが、彼は留守で、その子らは
太祖をもてなした。太祖はその夜、彼らは自分を売るまいかと
疑心暗鬼に駆られ、八人を斬り殺して逃亡した。(世説新語)

旧知の呂伯奢の家に立ち寄ったが、彼は留守で、その子らは
曹操をもてなした。食器の音を聞いた太祖は、彼らは自分を
始末するつもりだと思い込み、夜、彼らを殺害した。
そして事実を知ったのだが、
「われ人を裏切るとも、人のわれを裏切ることなからしめん」
と言い捨てて去った。(雑記)
190年
初平元年
董卓討伐軍編成。奮武将軍に任ぜられる。

董卓、長安遷都。董卓は洛陽に残る。

諸将が進軍しないので、単身進軍、董卓軍の徐栄と交戦、敗北するも、
徐栄も太祖の軍の戦いぶりに進軍をあきらめ引き返す。
諸将の前で董卓攻略の策を示すも受け入れられず、
募兵のため夏侯惇らと揚州へ。
四千人を集めるも、士卒の反乱もあって残ったのは千人。
河内に駐屯。
董卓討伐軍の内紛、解散。
募集された兵士たちは反乱を計画し、夜中に太祖の軍幕を
焼いたが、太祖は剣を手にして数十人を殺害、皆恐れをなして
道を開けた。(魏書)
191年
初平二年
袁紹、幽州の牧劉虞を皇帝に擁立しようとする。劉虞は固辞。
誘いを受けた太祖はこれを拒絶。

董卓、長安へ移る。
袁紹、冀州を奪う。


黒山の賊于毒、白繞、[目圭]固らが十余万の軍で魏郡を侵略。
東郡太守王肱は防ぎきれず。
太祖、兵を率いて東郡に入り、賊軍を破る。
袁紹、太祖の東郡太守任命を上奏。東武陽に政庁が置かれる。
袁紹の、劉虞を皇帝に擁立しようとする企てを聞いた太祖は
これを拒絶。
「諸君は北方(幽州)を向いているがいい。
私は西方(長安)を向いているよ」(魏書)
192年
初平三年
(38歳)
黒山賊との戦い継続。頓丘に布陣。
賊軍が東武陽を襲うが、太祖は賊軍の本拠、
黒山を急襲。引き返してくる賊軍を大破する。
また内黄で匈奴の於夫羅を撃破。

四月、王允・呂布が董卓殺害。
董卓の残将ら、王允を殺害、実権を握る。

青州黄巾党百万がエン(出てこない〜)州に侵入。
任城国の相鄭遂を殺害、次いで東平に侵入。
エン州刺史(牧)劉岱はこれを討とうとして返り討ちにあう。
鮑信は太祖をエン州牧に迎える。
寿張の東で黄巾党軍を破る。この戦いで鮑信は戦死する。
済北に黄巾党を追い詰め、降伏を受諾。
降兵三十万余、人民百万余を受け入れる。
青州黄巾党の精兵を再編し、「青州兵」と名づける。

袁術と袁紹が仲たがい。
袁術は公孫伯珪(サンの字が出てこない)を動かし、
公孫伯珪は劉備・単経・陶謙を動かして袁紹を圧迫するも、
袁紹は太祖に救援を要請、太祖は転戦してすべてを打ち破る。
於夫羅とは、南匈奴の単于の子。匈奴兵の徴発によって
中国に入っていたが、南匈奴内の反乱で父が殺されたので
中国にとどまり、西河の白波黄巾党とともに各地を
荒らしていた。(魏書)

劉岱が死んだ後、陳宮は太祖に献策し、自らエン州の役人に説いて
太祖を迎え入れさせた。(世説新語)

寿張での戦いの折、千人余を率いて戦場の巡視中に、
偶然黄巾党の陣営に出くわした。戦いになり、数百人を失って退却した。
黄巾党はこれを追撃したが、太祖は新兵の多い自軍を督励し、
隙を見て反撃し、打ち破った。黄巾党は文書を送っていわく、
「あなたが以前に済南国の相であったとき、神檀を打ち壊されましたが、
その道は中黄太乙に一致し、道をご存知とお見受けしました。
しかし今は惑乱しておいでです。漢の命運は絶え、黄家が立つのが
当然。あなたの才能で漢を存続させることは不可能です」
太祖はこれを読むと使者を怒鳴り、それから度々降伏を勧めた。
伏兵を設け、昼夜分かたず攻撃を仕掛け、かくて賊軍は退却した。
(魏書)

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