“HELLSING”(平野耕太、少年画報社YKコミックス)
作中に出てくる聖句など

あれ?


原作中の英文の訳は主に1955年改訳の口語訳聖書による。


あちこちにある

アーメン

ヘブライ語、またアラム語で「真実に」「確かに」などの意味。
「確認する、信ずる」という意味の動詞「アーマン」の副詞形。
英語ではyesあるいはsurely、ドイツ語ではjaあるいはwahrlichにあたる。
フランス語ではouiあるいはsurementになるか。「かくあれかし」という意味ではAinsi soit-il。
新約聖書では、ギリシア語に訳されることなくそのまま音訳されて用いられた。
会話の中で相手に賛同する時、また集会で祈りに唱和する時に用いる。
それまで唱えてきたことが「そのとおりである」という確認のことば。
のちに、「かくあれかし、そうでありますように」という意味でも使われるようになった。

イエスは人々に語るとき「アーメン」あるいは「アーメン、アーメン」と語り出すことが多かった。
日本語訳では、共同訳では「よく言っておく」、新共同訳では「はっきり言っておく」と訳されている。
文語訳では、「まことに、まことに」というふうに訳されている、ハズ。
弟子達に注意を促す表現と思われる。
ヨハネ黙示録3:14では、イエスのことを「アーメンである方」と表現している。
(参照:新共同訳聖書巻末の用語解説)

Amenの発音は、
ヘブライ語・アラム語ではアーメーン、新約聖書が書かれた言語であるギリシア語ではアメーン、
それをラテン語訳した聖ヒエロニムスもそのまま使ってラテン語でもアーメン、
ラテン語の子孫であるイタリア語でもアーメン、フランス語でもアメン、
ドイツ語はアーメン、
で英語ではアーメンあるいはエイメン。ただし聖歌などの教会音楽ではアーメンと発音する。
作中ではみな「エイメン」と発音しているが、
少なくとも英語のように「A」という文字を「エイ」と発音する習慣のある言語を使う人間しかそう発音しないだろう。


1巻 P96
アレクサンド・アンデルセン神父のセリフ

「もし主を愛さない者があれば、のろわれよ。
マラナ・タ(われらの主よ、来たりませ)」
(コリント人への第一の手紙 16章22節)

のっけから、
「いいですか?暴力を振るって良い相手は悪魔共と異教徒共だけです」
「結構なコトじゃないですか 英国のプロテスタント共がたくさん死んだんでしょう」
などとのたまう、ヴァチカン第13課イスカリオテ機関所属の「聖堂騎士(パラディン)」アンデルセン神父の、北アイルランド出撃時のセリフ。
「コリント人への第一の手紙」は、聖パウロがコリントスの信徒へあてた書簡の一。新約聖書に収録。

「のろわれよ」は、ギリシア語「アナテマ」の訳。『真・女神転生V』などでおなじみの単語だろうか。
古代からの呪詛信仰のゆえか、キリスト教の信条宣言などではこの言葉を末尾につけることが多かった。
「〜〜〜を信じない者には呪いあれ」という感じで。
アリウス派を異端としたニカイア公会議にて採択された、ミサ典礼文「クレド」のもととなった「ニカイア信条」の末尾にも、
「アナテマ」の語がある。
「アナテマ」の本来の意味は「捧げ物」「上に載せられたもの」「置かれたもの」であり、
「どこからか持ってきて置く」という感じのニュアンスをもつ。
たとえばギリシア語七十人訳聖書レビ記では、「捧げ物」を意味する言葉に「アナテマ」があてられている。
「アナテマ」はヘブライ語「ヘーレム」の訳語としても用いられ、
「ヘーレム」の意味は、原意は「捧げられたもの」というもの。
これは文脈により「たち滅ぼす、殺す、ささげる、全滅させる、のろわれた者となる、奉納する、滅ぼす、没収する」
などと訳される。聖別されたものは神に捧げられて以後人が触れることは許されず、
また神が滅ぼす(呪われる)べきと定めたものは滅ぼして神に捧げられるからである。


1巻 P152
アレクサンド・アンデルセン神父のセリフ

「ちりにすぎないお前たちはちりに還れ」
(創世記3章19節、「あなたは、ちりだから、ちりに帰る」より)

婦警(セラス・ヴィクトリア)を追い詰めるアンデルセン神父の言葉。
もとは、蛇の甘言に乗って善悪を知る木の実を食べてしまった人(アダム)に主なる神が言った言葉。

地はあなたのためにのろわれ、
あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。
地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、
あなたは野の草を食べるであろう。
あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、
あなたは土から取られたのだから。
あなたは、ちりだから、ちりに帰る。
(創世記3章18〜19節)

「アダム」とは、ヘブライ語で「人」をあらわす言葉。
ヘブライ語で「土」は「アダマー」といい、
「アダマー」から「アダム」が生まれたという、発音が似た言葉による起源伝承となっている。


2巻 P143
アーカードに向かって歩くアレクサンド・アンデルセン神父が唱える:

「我に求めよ。さらば汝に諸々の国を嗣業として与え地の果てを汝の物として与えん。
汝、黒鉄の杖をもて彼らを打ち破り、陶工の器物のごとくに打ち砕かんと。
されば汝ら諸々の王よさとかれ、地の審判人よ教えを受けよ。
恐れをもて主につかえ、おののきをもて喜べ。
子に接吻せよ。恐らくは彼は怒りを放ち、汝ら途に滅びん。その怒りは速やかに燃ゆベければ。
全て彼により頼む者は幸いなり」
(詩篇2、8−12節)

これは本編でも日本語で書かれている。
イスラエルの2代目の王ダヴィデ作と伝承される、旧約聖書収録の「詩篇」より。
詩篇2のテクストは、ヘンデルのオラトリオ《メサイア》にも使用されている。
バスのアリア「何ゆえもろもろの国人は」
合唱「われらその枷を壊し」
テノールのレチタティーヴォ「天に座する者は笑い」
テノールのアリア「彼は黒鉄の杖もて彼らを打ち砕き」(レチタティーヴォ・バージョンあり)

つまり、名高い「ハレルヤ」の前に置かれる一連の曲。


2巻 P183
ハインケル・ウーフーが唱える:

「わたしたちはさまざまな議論を破り、
神の知恵に逆らって立てられたあらゆる障害物を打ちこわし、すべての思いをとりこにしてキリストに服従させ、
そして、あなた方が完全に服従した時、すべて不従順な者を処罰しようと、用意しているのである」

(コリント人への第二の手紙、10章4−6節)

ヴァチカン13課イスカリオテ機関のハインケル・ウーフー(注:軍用機でなくて人名)が、
共産主義テロリストのリーダー・イリューシン(注:人名です)を射殺する前に唱える。

「コリント人への第二の手紙」は、聖パウロがコリントスの信徒へあてた手紙で、
無秩序に陥り自分を非難する彼らに対し、パウロが雄弁に自己の立場を述べ、
キリスト者としての行いに従うようすすめている。

わたしたちは、肉にあって歩いてはいるが、肉に従って戦っているのではない。
わたしたちの戦いは、肉のものではなく、神のためには要塞をも破壊するほどの力あるものである。

わたしたちはさまざまな議論を破り、
神の知恵に逆らって立てられたあらゆる障害物を打ちこわし、すべての思いをとりこにしてキリストに服従させ、
そして、あなた方が完全に服従した時、すべて不従順な者を処罰しようと、用意しているのである。
(中略)
しかし、わたしたちは限度をこえて誇るようなことはしない。
むしろ、神が割り当ててくださった地域の限度内で誇るにすぎない。
(中略)
誇る者は主を誇るべきである。自分で自分を推薦する人ではなく、主に推薦される人こそ、
確かな人なのである。
(コリント人への第二の手紙、10章3−6、13、17−18節)

このあたりのパウロの言葉には力がこもっている。


3巻 P20
アーカードのセリフ

「ちりは・・・ちりに帰る。」
(創世記3章19節、「塵にすぎないお前は塵に返る」より)

アンデルセン神父のセリフ参照。


3巻 P82
トビラ絵

「われわれの知ったことではない。お前の問題だ」
(マタイ福音書27章4節)

イエスを裏切ったことを後悔したイスカリオテのユダは、祭司長、長老たちの下を訪れ、イエスを売った代価・銀貨三十枚を返して言った。
「わたしは罪のない人の血を売るようなことをして、罪を犯しました」
それに対して祭司長たちが言った言葉。
ユダはそれを聞くと、銀貨を聖所に投げ込むと出て行き、首を吊って死んだ。
扉絵でマクスウェル局長の持っているのは、それを表す銀貨なのだろう。

「死よ、お前のとげは、どこにあるのか。
死よ、お前の勝利は、どこにあるのか」
(コリント人への第一の手紙、15章55節)

ヘンデルの《メサイア》にも採用されている一節(第三部、アルトとテノールの二重唱)。そこでは2行目の“Hades”は“grave”となっている。
原典では、「死よ、お前の勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」と、逆になっている。
自己再生能力と回復法術を持つ、ほとんど不死身のアンデルセン神父にはぴったりですね。


5巻 P158
アンデルセン神父のセリフ

「すべて肉なるものは草に等しく、
人の世の栄光は草の花のごとし。
何となれば、草は枯れ、花は散るものなれば」

(ペテロの第一の手紙、1章24節)

このあとは、「されど主の言葉はとこしえに変わることなし」と続く。
「貴様ら、いい気になっていられるのも今のうちだ」っていうアンデルセンの心象をあらわしたものか。


6巻 P55
アンデルセン神父が唱える

アンデルセン神父キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━!!!!! 時に唱えている聖句は・・・・ちょっと字が汚くてよくわからない。
右端に“Behold, I tell you a mystery, we shall not all sleep(見よ、われ汝らに奥義を告げん。われら皆眠り続けるにあらず)…”
と読み取れるが、聖書でこのフレーズが用いられるのは、
コリント人への第一の手紙・15章51節のみ(たぶん)。

なので、その周辺を記しておく。

「兄弟たちよ。私はこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことが出来ないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことはない。
ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終わりのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。
というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちないものによみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。
なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。
この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである、
   死は勝利にのまれてしまった。
   死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。
   死よ、おまえのとげは、どこにあるのか。

死のとげは罪である。罪の力は律法である。しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、
私たちに勝利を賜ったのである」
(コリント人への第一の手紙・15章50節−57節)


7巻 P138〜140
第9回十字軍ロンドン到着時の聖歌

ローマ・カトリックの聖歌。聖歌集625番。
1933年、チェコの作曲家ヤン・クンツ(レオシュ・ヤナーチェクの弟子。チェコスロバキア国立ブルノ音楽院長)により作曲。
教皇ピウス(ピオ)12世の戴冠式に使用、またラジオ・ヴァチカンの導入曲にも使われていた。
教皇の戴冠時、神聖な儀式や大司教、司教の招待の機会などに歌われる。
旋律はここを参照のこと。

*Christus vincit, Christus regnat,
Christus,Christus imperat.


(・・・教皇名・・・),
Summo pontifici et universali Papae
pax, vita et salus perpetua.

(*繰り返し)

(・・・枢機卿大司教名・・・),
Eminentissimo Cardinari Archi Episcopo
et omni clero ei commisso
pax, vita et salus perpetua.

(*繰り返し)

 (・・・司教名・・・)
 Reverendissimo Episcopo
 et omni clero ei commisso
 pax, vita et salus perpetua.

 (*繰り返し)

Tempora bona veniant,
pax Christi veniat,
regnum Christi veniat.

(*繰り返し)

*キリストは勝ち、キリストは支配し、
キリストは君臨される。


(教皇名)、
最高の司教、すなわち全世界の教皇に
とこしえの平和と生命と救いとあれ。
*キリストは勝ち・・・

(枢機卿大司教名)、
いとも優れた枢機卿大司教、
及び彼に委ねられたすべての聖職者に
とこしえの平和と生命と救いとあれ。
*キリストは勝ち・・・
(司教名)、いとも尊敬すべき司教、
及び彼に委ねられたすべての聖職者に
とこしえの平和と生命と救いとあれ。
*キリストは勝ち・・・
幸福な時が来るように、
キリストの平和が来るように、
キリストの御国が来るように。
*キリストは勝ち・・・

讃える対象(教皇or枢機卿or司教)により歌詞を変えて歌われる。
この回では、教皇名に“Joannes Paulo secundo”が入っている。
枢機卿大司教名には、おそらく“Henrico”(エンリコのラテン語形Henricusの与格。読みは結局エンリコ)が入るだろう。

第二次世界大戦時、ヴァチカンはナチス・ドイツの行為を黙認。
時の教皇ピウス(ピオ)12世は「ヒトラーの教皇」と呼ばれた。
今、その汚名を雪ぐべく、新たなる十字軍がミレニアムに対し戦端を開く。


7巻 P169

「俺達はただの暴力装置のはずだ 俺はただの人切り包丁だ
神に司えるただの力だ
マクスウェル おまえは今神に司えることをやめた
神の力に司えている!!」

聖句ではないけれど。
使徒行伝19章11節以下にこういうエピソードがある。

神はパウロの手によっていろいろな癒しの業を行った。
これを見た遍歴のユダヤ人のまじない師が悪霊につかれている者に向かって主イエスの名を唱え、
「パウロの宣べ伝えているイエスによって命じる、出て行け」
と試しに言ってみた。ユダヤの祭司長スケワという者の七人の息子らもそのようなことをしていた。
すると悪霊は言った。
「イエスなら自分は知っている。パウロもわかっている。だが、おまえたちはいったい何者だ」
そして悪霊につかれた人は彼らに飛びかかり、皆を押えつけて負かしたので、
彼らは傷を負ったまま裸になって、その家を逃げ出した。

パウロが癒しの業を行うことができたのは、彼がそういう能力を持っていたわけではなく、
あくまで「神がパウロの手によってそのことを行った」にすぎない。
神に仕える者は、その信仰により神の御業をあらわすだけで、
自らの意思により奇跡を起こすのではない。
人間は自らの意思で神の力を使うことなどできないのだ。
それをしようとする時、その者はユダヤのまじない師と同じとなり、
つまりは神を侮る者となる。
マクスウェルは言った、
「これが我々の力だ!!」「これがヴァチカンの力だ!!」
新約聖書・ローマ人への手紙12章19節にはこうある。

主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する

神の力や権威を人間の意思や権威で行使するなど、神に仕える者にとってはあってはならない。
それゆえアンデルセンは激怒したのだ。

そしてアンデルセンは、2005・4月号において、神を侮辱したマクスウェルに神罰を下した。


アワーズ2005・11月号
アンデルセン神父?が唱える

「そして兵卒たちは、いばらで冠をあんで・・・」
(ヨハネによる福音書第19章2節)

エレナの聖釘で胸を刺し変質を遂げるアンデルセン神父の頭部をアーカードがジャッカルで完全破壊。
いかな再生者といえど頭部を完全に吹き飛ばされては死ぬしかないところだが、
このとき神父の胴体から無数の茨が生い出でて頭部を再構成しはじめた。
その姿を見てハインケルが「あなたは一体何になったのですか!」と叫んだ時、
アンデルセンが唱えた?一節。
このコマはベタで塗り潰されており、発言者がいまいちはっきりしない。
フキダシの形を見ると、左の明らかにアーカードが語っているものと右の聖句のものとは発言の方向が違っており、
また吸血鬼のアーカードが聖句を口にすることはめったにないと思われるので、
頭を再構成したアンデルセンが唱えたものか。
でも流れ的にはアーカードのセリフでもおかしくない。
あの状態のアンデルセンが、なお人間としての意識を持っているかどうかが定かではないので。

そこでピラトは、イエスを捕らえ、むちで打たせた。
兵卒たちは、いばらで冠をあんで、イエスの頭にかぶらせ、紫の上着を着せ、
それから、その前に進み出て、「ユダヤ人の王、ばんざい」と言った。そして平手でイエスを打ちつづけた。
するとピラトは、また出て行ってユダヤ人たちに言った、
「見よ、わたしはこの人をあなたがたの前に引き出すが、それはこの人に何の罪も見いだせないことを、
あなたがたに知ってもらうためである」
イエスはいばらの冠をかぶり、紫の上着を着たままで外へ出られると、ピラトは彼らに言った、
「見よ、この人だ」
祭司長たちや下役どもはイエスを見ると、叫んで「十字架につけよ、十字架につけよ」と言った。
ピラトは彼らに言った、「あなたがたが、この人を引き取って十字架につけるがよい。
わたしは、彼にはなんの罪も見いだせない」
ユダヤ人たちは彼に答えた、「わたしたちには律法があります。
その律法によれば、彼は自分を神の子としたのだから、死罪に当る者です」
(ヨハネによる福音書第19章1−7節)

イエス受難の一幕より。
ユダヤ人の祭司長や律法尊重主義のパリサイ派の人々がイエスを捕らえてローマ当局に引渡し、死刑にするよう要求する。
ローマ帝国のユダヤ総督ピラトがこれを取り調べるが、彼はイエスに罪を見出すことができなかった。
そこでピラトはイエスを赦そうとして、
「過越しの時の恩赦に彼を赦してやろう」と言うが、ユダヤ人たちは、「その人ではなく、バラバを」と言った。
このバラバは強盗だった。
この聖句は、それに続く場面になる。
当時の皇帝は、アウグストゥスの後を継いだ第2代のティベリウス帝(ティベリウス・クラウディウス・ネロ・カエサル)。

つまり、神父はイエス・キリストと同じく、
どのような致命傷を負おうが完全再生して復活する体になってしまったということだろう。
それはまさに、アーカードと同じ「化け物」。
アーカードは言う、もはや双方とも死ぬには心臓を抉るしかないと。
人間をやめて「ザ・ニュー神父」となったアンデルセンとアーカードの戦いの結末は・・・


付:リップヴァーンウィンクル編《魔弾の射手》歌詞について:

5巻でアーカードと対戦するリップヴァーンウィンクル中尉のあだ名は「魔弾の射手」。
これはカール・マリア・フォン・ヴェーバー(1786-1826)作曲の歌劇、
《Der Freiscütz(デア・フライシュッツ)》(台本:フリードリヒ・キント)
に基づく。
日本では「魔弾の射手」と訳されるがこれは意訳で、直訳すると「自由射撃」。
ドイツの古い伝説に着想を得、時代と舞台設定を三十年戦争の直後のボヘミアに設定した幻想的な筋立てで、
「狼谷」の場面などに見られる特異な舞台設定に圧倒的なオーケストレーション、活躍する合唱、
そして何よりもドイツ語で語られ歌われる台詞やアリアによって、自国ドイツ国民に圧倒的な支持を得た。
なぜなら、歌劇といえばイタリア語が主流で、ドイツ語で上演される優れた劇など数えるほどしかなかったから。

 物語の筋は・・・
悪魔ザミエルの力を借りたカスパールの力により射撃が全く当たらなくなってしまった狩人マックス。
彼は森林官クーノーの娘アガーテを娶るために「自由射撃」に臨まなければならなかったが、
今のままではとても成功するとは思えない。
そこへ同僚のカスパールが、魔弾の力を借りるよう甘言をもってマックスを誘惑する。
カスパールは、自らの命を存らえるためにいけにえを必要としており、
マックスとアガーテをその標的としていたのだ。
カスパールの言葉に乗って狼谷へ向かい、魔弾を鋳造するマックス。
これで自由射撃も成功間違いなし、と安堵するマックス、
しかし、七つの魔弾は、「六つは当たるが、七つ目は欺く」という力を持っていた。
カスパールはマックスが自弾四発のうち三発を撃ったのを見計らって自分もひそかに三発を撃ち、
七つ目をマックスのために残した。
七つ目の弾、マックスはもちろん獲物を狙うのだが、魔弾の力により実際に命中する標的は、
彼の最愛のアガーテ。
はたして物語の結末はいかに・・・

・・・と、ごたくはそれまでとして、それでは。

5巻 P35
リップヴァーンウィンクル中尉が歌う

これは、直後に解説があるが、
第1幕第2場より、狩人たち・村人たちの合唱。
射撃が当たらなくなり苦悩の極みに立った主人公・マックスが
「おお太陽の昇りゆく事こそ我が恐怖なり・・・」と歌い、
それを森林官のクーノー(ヒロイン・アガーテの父)が力づける場面。
中尉が歌うのは、それに応じて狩人や村人たちがマックスを励まそうと歌う合唱の出だしの部分。

(狩人たち)
森々の獣ども 牧場の畜生ども
空を駆ける荒鷲どもにいたるまで
勝ち鬨は我らが物なるぞ・・・

(村人たち)
角笛よ 高々と鳴れ

(狩人たち)
角笛よ 森々にひびけ・・・

(Jäger)
Das Wild in Fluren und Tritten,
der Aar in Wolken und Lüften,
ist unser, ist unser der Sieg, ist unser Sieg...

(Landleute)
Lasst lustig die Hörner erschallen!

(Jäger)
Wir lassen die Hörner erschallen...


5巻 P63
リップヴァーンウィンクル、アーカードの独白?


これは第2幕第3場、カスパールの口車に乗せられて狼谷に向かおうとするマックスと、
それを引きとめようとするアガーテ、そしてそのメイドさんのエンヒェンの三重唱より。
主語の置換やテクストの入れ替えなどがあるので、
原文どおりに戻して記す。

(アガーテ)
何ですって? 恐ろしい!あの恐怖の谷で?
(エンヒェン)
あそこには魔の猟師がいて狩りをしているとか。
その音を聞いた者はすべて逃げうせるの。
(マックス)
猟人たる人なにを恐れる事がある?
(アガーテ)
でも、神を試すものは罪を受けます!
(マックス)
猟人たる者の心に恐れなぞあるものか
私は夜の深遠に現れ出でる
あらゆる恐怖をものともしない
樫の木が嵐の中にうねる時でも
鳥どもが泣きわめく時でも・・・・
(アガーテ)
私は心配です、行かないで。
そんなに急ぐことはありません。
私は心配です、行かないで・・・
(エンヒェン)
彼女は心配しています、行かないで・・・
(マックス)
月影はまだ確かなもので
月光はまだ薄明かりの様
やがてその光も消える。
 (中略)

(マックス)
あそこから声がする
義務がこのわたしを呼ぶ!
 (中略)

(アガーテ、マックス、エンヒェン)
さようなら!さようなら!
(アガーテ)
私の心は震えるばかり・・・
私の警告を忘れないで!
(エンヒェン)
狩人の生き様はこんなもの!
昼も夜も休みなし!
(マックス)
やがて日の光も失うだろう
運命は私を駆り立てた!

 (後略)
(Agathe)
Wie? Was? Entsetzen!
Dort in der Schureckensschlucht?
(Ännchen)
Der wilde Jäger soll dort hetzen,
Und wer ihn hört, ergreift die Flucht.
(Max)
Darf Flucht im Herz des Weidmanns hausen?
(Agathe)
Doch sündigt der, der Gott versucht!
(Max)
Ich bin vertraut mit jenem Grausen,
Das Mitternacht im Walde webt,
Wenn sturmbewegt die Eichen sausen,
Der Häher krächzt, die Eule schwebt.
(Agathe)
Mir ist so bang, o bleibe!
O eile nicht so schnell!.....
(Ännchen)
Ihr ist so bang, o bleibe!
O eile nicht so schnell!.....
(Max)
Noch trübt sich nicht die Mondenscheibe,
Noch strahlt ihr Schimmer klar und hell,
Doch bald wird sie den Schein verlieren.


(Max)
Mich ruft von hinnen Wort und Pflicht!


(Agathe, Max, Ännchen)
Leb wohl! Leb wohl!
(Agathe)
Nichts führt mein Herz als Beben,
Nimm meiner Warnung acht!
(Ännchen)
So ist das Jägerleben!
Nie Ruh' bei Tag und Nacht!
(Max)
Bald wird der Mond erblassen,
Mein Schicksal reißt mich fort!


5巻 P74
アーカードのセリフ


ふたつとも、狼谷の悪魔ザミエルのセリフ。

Hier bin ich!

“Heil den ich!”となっているが、上のセリフの誤りと思われる。
第2幕第6場。狼谷の場の壮絶なるクライマックス、
七つ目の魔弾を鋳造し、ザミエルの名を呼ぶカスパールとマックスの前にザミエルが出現する時のセリフ。
「我ここに在り!」という意味。

Es sei! bei den Pforten der Hölle!

少し前の第2幕第4場、狼谷でのカスパールとザミエルの対話より。
ザミエルの力を借りた引き換えに自らの命を売り渡していたカスパールは、
命を存えるために「六つは当たるが、七つ目は欺く」という魔弾のいけにえにアガーテを捧げるから、
その代わりに命を三年延ばしてくれと嘆願する。
しかし自らと何のかかわりもないアガーテの命に対してザミエルはさほど興味を示さない。
「また三年間延ばしてくれるなら、彼(マックス)を獲物として連れて来よう」
というカスパールの言葉に、ザミエルは、
よかろう!地獄の門にかけて!明日は彼か、お前かだ!」
といって消える。

2005年5月号

辺獄(リンボ)
 地獄は九層の漏斗状になっており、上から下に行くにつれて狭くなっているが、
その第一層(第一圏)が一般的に「辺獄」と呼ばれる。
「リンボ」とは、「縁」「帯」を意味するラテン語に由来する言葉。
ここには、生前良い行いをしながらもキリスト教の洗礼を受けなかった者、
またキリストの出生以前に生まれた善人ではあったが、神を正しく礼拝しなかった者がいる。
彼らは地獄の責苦を受けることはないが、さりとて救われているわけでもなく、ため息をつきながら暮らしている。
新約聖書外典「ニコデモ福音書」には、
「イエスが十字架上で死んだあとに冥府に下り、栄光とともに冥府の門を打ち破ってイスラエルの族長や預言者たちを率い上っていった」
という「キリストの冥府下り」の話があり、ダンテの「神曲」(地獄篇・第四歌)では、その時に救われた人間は、
「人(アダム)、アベル、ノア、モーセ、アブラハム、ダヴィデ、イスラエル、ラケルその他大勢」
と記されているが、後世、彼らはかつてこの辺獄にいたとされた。

 ヘンデルのオラトリオ《メサイア》の第2部、合唱「門よ、こうべを上げよ」に始まる一連の曲は、
この冥府下りの場面を現している。実際、ニコデモ福音書のキリスト冥府下りにおいて、
イエスが死んだ時に冥府に明るい光が差し込み、それとともに
「門よ、こうべを上げよ、とこしえの戸よ、あがれ。栄光の王入りたまわん」
という詩篇24の言葉が冥府に響いた、と書かれている。
この時に「冥府(タルタロス)」が、
「この栄光の王とは誰だ?」
とイスラエルの預言者たちにたずね、それに対して詩篇作者(とされている)ダヴィデが、
「それは私がかつて聖霊に満たされ歌ったこと。それは強く勇ましい主、戦いに勇ましい主。これこそ栄光の王である」
と詩篇24を引用して答えた、といううまい作りとなっているのが面白い。
詳しく知りたい人はこっちを読むがよろし。第2部がキリストの冥府下りの話。

 さてダンテの「神曲」では、辺獄にいる人物として、

ホメロス、ホラティウス、オウィディウス、ルカヌスという偉大な詩人(あとダンテを導くウェルギリウスもそう)、

エレクトラ(アトラスの娘、トロイアの創立者ダルダノスの母)、ヘクトール、アイネイアス、ユリウス・カエサル、
カミッラ(『アエネーイス』に登場する女戦士)、ペンテシレイア(トロイア戦争においてトロイアに味方したアマゾン族の女王)、
ラウィニア(アイネイアスがイタリアで娶った妻)とその父ラティヌス王、ルキウス・ユニウス・ブルトゥス、
貞女ルクレティア、ユーリア(カエサルの娘)、マルキア(小カトーの妻)、賢母コルネーリア(大スキピオの娘、グラックスの妻)、

彼らからただ一人離れている男としてイスラムの英雄・アイユーブ朝のサラディン、

アリストテレス、ソクラテス、プラトン、デモクリトス、シノペのディオゲネス、アナクサゴラス、タレス、
エンペドクレス、ヘラクレイトス、ゼノンという古代ギリシアの哲学者たち、

植物学者ディオスコリデス、楽人オルフェウス、政治家マルクス・トゥリウス・キケロ、
詩人リノス、哲学者ルキウス・アンナエウス・セネカ、

幾何学者エウクレイデス(一般的には英語読みのユークリッドで知られる)、
天文・地理学者クラウディオス・プトレマイオス、医学の父ヒッポクラテス、
アラビアの哲学者アヴィケンナ(イブン・スィーナー)、医学者・解剖学者ガレノス、
スペインのアラブ系哲学者アヴェロエス(イブン・ルシュド)という様々な学芸・技芸の徒たち

が挙げられている。
実際に彼らがいるかどうかはさておき、こういった人間が辺獄にふさわしいという認識がなされていた、ということ。
たとえ異教徒でも名声が高い人物はしっかりリストに挙げられている。
 13課の人間は死後辺獄へ下り、地獄の悪鬼どもと戦いを繰り広げるのだろう。最後の審判の日まで。
アントーニオ・サリエーリが、《辺獄のイエス(Gesu al limbo)》というオラトリオを作曲している。
このCDは、レビューにもあるとおり、演奏精度に難あり。もっといい演奏団体がやってくれたらもっといい曲に聞こえると思う。
作品そのものは、そんなに悪くない。カップリングは《最後の審判》と《テ・デウム)》。

 

2005年9月号

エレナの聖釘(せいてい)
 エレナとは、ローマ皇帝コンスタンティヌス(大帝)の母、聖ヘレナのこと。
ラテン語圏(イタリア語、フランス語、スペイン語etc.)では語頭のHは発音しないため、エレナと発音される。
 伝説によれば、彼女はエルサレムに赴き、イエス・キリストの架けられた聖十字架や、彼を十字架に打ちつけた聖釘を発見したとされる。
 彼女はユダヤ人のユダという男の言葉によりゴルゴタの丘で聖十字架を発見した後、さらに彼に聖釘のありかを尋ねた。
キリスト教に回心しクィリアクスと改名、司教となっていたユダ(聖ユダ・クィリアクス)が聖十字架の発見された場所に立って主に敬虔な祈りを捧げると、
聖釘が黄金のように地中から輝き、彼はそれらを拾い集めて母后ヘレナに献呈した。

 聖釘は三本あり、カイサリアのエウセビオスによれば、コンスタンティヌス大帝はそのうちの二本で軍馬の手綱の金具をつくらせ、
残りの聖釘は兜に打ちつけさせたという。
 また、聖釘は四本あったという説もあり、二本は皇帝の手綱の金具になり、一本はローマ市のコンスタンティヌス帝立像に打ちつけられ、
最後の一本はアドリア海に投じられたという。この海は航海には非常に危険な海であり、それを鎮めるためであった。
 聖アンブロシウスは、「一本は手綱の金具、一本は皇帝の王冠につけられた」と記している。
(以上、ヤコブス・デ・ウォラギネ『黄金伝説』(前田敬作・山口裕訳、人文書籍)より
 
 「聖遺物」とは、聖十字架や聖釘のほか、聖骸布、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書かれた罪状書きの札、
聖槍(ロンギヌスの槍)など、イエスやその周辺の聖人たちにまつわる遺物のこと。
8〜9世紀の公会議により、「すべての教会の祭壇には聖遺物が祀られねばならない」と定められたため、
各地の教会は聖遺物探しに躍起になり、中には「聖母マリアの乳の滴」などというとんでもないものまで聖遺物となった。
もちろん、それらは限りなく全部でっちあげの贋物。
 現在、「聖釘」と伝えられるものは十本以上あるらしい。イエス様の手足はいったい何本あったんスかね。
聖十字架の破片にいたっては、全部集めるとマジでウルトラマン用の十字架が作れるかもしれない、とか?
 聖遺物崇拝についてはカトリックや東方正教会はこれを認めているが、プロテスタントは認めていない。



 これを刺すと「ザ・ニュー神父!」になれるってどこかに書いてありました。
ちなみに、イエスが磔になった場所は「ゴルゴの丘」であって、「ゴルゴの丘」ではない。ラテン語表記は“Golgotha”。



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