叙事詩の発見


文明発祥の地ともいわれるメソポタミアの歴史と文化は、時と共に忘れられて砂の下に沈んでいた。これが再び日のもとに現れるのは、18世紀になってからである。
メソポタミアの人々が用いた文字「楔形文字」の解読は、ゲオルク・フリードリヒ・グローテフェントによる古代ペルシア語楔形文字の解読の試みから始まった。さらに、古代ペルシア語、バビロニア語、エラム語の三言語が楔形文字により併記されているダレイオス王のベヒストゥン刻文が、ヘンリー・クレズウィック・ローリンソンによって採集・研究されたことにより、バビロニア語(新書体楔形文字)の解読が進んだ。そして、これがアッシリア語の解読へつながっていく。

1845年、フランスのポール・エミール・ボッタがコルサバードからアッシリア王サルゴン2世(北イスラエル王国を滅ぼしたことで知られる)の城址を発掘したのを皮切りに、イギリスのヘンリー・オースティン・レヤードがニネヴェ、ニムルード、アッシュールを次々に掘り起こし(もっとも、学術的な発掘というよりは、宝捜し的なものだった)、戦利品を国に持ち帰った。この時に、楔形文字に覆われた粘土片が大量に見つかった。これがアッシリア語楔形文字らしい、ということで、学者たちが一斉に解読に取り掛かった。バビロニア語とアッシリア語は同じセム語族に属していたので、解読は容易であった。1858年に、ついにアッカド語(バビロニア語やアッシリア語などオリエント圏で使用されたセム語系言語)が解読された。

1872年のこと。ジョージ・スミスは大英博物館でいつものようにアッシリアの遺物の修理にあたっていた。彼はアッシリア学に非常に興味があり、楔形文字も博物館で働くうちにかなり理解できるようになっていた。その日も、彼は、ニネヴェから発掘された、アッシュールバニパル王宮図書館跡の粘土板文書の断片を整理していた。そこで、彼は奇妙な断片を発見した。(04.09.18、アッシュールバニパル2世と誤記していたのを訂正。アッシュールバニパル王はアッシリア王国史上ひとりしかいません。サルゴン2世と思いっきり混同してました)
その断片は半分に割れていたが、もとは6つの欄を持っていた粘土板と思われた。その第3欄のところに、こう書いてあったのが目に留まった。

方舟がニシルの山に漂着した

そのあとに、こういう記述があった。

・・・・・
私は鳩を放った。
鳩は飛んでいったが、舞い戻ってきた。
休み場所が見当たらずに、引き返してきたのだった。

・・・・

スミスはすぐさま直感した。これは、「ノアの大洪水」のカルデア版の一部であると。その年の12月にスミスはこの発見を学会に発表し、それは一大センセーションを巻き起こした。書板は不完全だったので、それより先はわからなかったが、「ザ・デイリー・テレグラフ」紙が資金を提供し、スミスは翌年ニネヴェへ向かった。そして、幸運なことに、欠落部分17行の粘土版を発見した。彼は三度ニネヴェを訪れて数多くの文書を発見したが、体の酷使のため、アレッポにて没した。

それから、この興味深い文書の解読が始まった。主人公の名は、最初はニムロデと呼ばれていた。旧約聖書・創世記10章にある「狩猟者ニムロデ」と呼ばれる英雄に比定されたのだ。当時の人名は表意文字で表されているため(漢字みたいなものと思ってくれればいい)、正しい読み方がわかりにくい。当初はイズドゥバル、ギシュティバルなどの読み方がされた(これはこれでカッコいい名前だ)。1891年に、ピンチェスによって「ギルガメシュ」という読み方がされ、以後これが正しいとされた。1930年代を迎える頃には12の書板すべてが翻訳され、人々の鑑賞にたえるものとなっていた。詩人リルケはこれを読み、「人に衝撃を与える最高傑作」であると絶賛した。

また、上記のアッシリア語版だけでなく、それより成立の古い古バビロニア語版、シュメール語版、またヒッタイト語版、フリ語版などの断片が他のところから続々発見された。これによって、アッシリア語版の欠落部分が補完されると共に、時代による内容の変遷などが明らかになり、叙事詩研究が更に進むこととなった。


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