フェリクス・メンデルスゾーン・バルトルディ&
ファニー・メンデルスゾーン=ヘンゼル
〜その生涯〜
*ファニーに関する項目はこの色で記していますが、
フェリクスとの絡みがすこぶる多いので注意が必要です
1805年 | 11月14日 | *ユダヤ人アブラハム・メンデルスゾーンとその妻レアとの間に、 長女ファニーが生まれる。 ハンブルクにて、4つ下の有名な弟に劣らぬ天性の音楽的才能をもつ娘がこの日生まれた。 |
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1809年 | 2月3日 | *ユダヤ人アブラハム・メンデルスゾーンとその妻レアとの間に、 長男フェリクスが生まれる。 生地はハンブルク。父アブラハムは銀行家であり、 |
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1811年 (フェリクス2歳) |
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*ハンブルク、フランス軍に占領される。ルイ・ニコラ・ダヴー元帥により多数の資産家が逮捕される中、*アブラハムとレアに次女レベッカ生まれる。 メンデルスゾーン家の音楽会ではソプラノ歌手として活躍することになる。 |
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*アブラハム、対ナポレオンのために自費で義勇軍を組織。アブラハムは解放戦争が終わると市参事会員に選ばれる。 |
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1812年 (フェリクス3歳) |
*次男パウル生まれる。銀行家として父の後を継ぎ、 |
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1814年 (フェリクス5歳) |
*母から最初の音楽のレッスンを受ける。 | ||
1816年 (ファニー11歳、 フェリクス7歳) |
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*パリ旅行。マリー・ビゴーからピアノレッスンを受ける。マリー・ビゴーはハイドンやベートーフェンから高い評価を得ていたピアニスト。*母レアは、フェリクスとその姉ファニーに音楽的才能を見出し、 ルートヴィヒ・ベルガー(クレメンティの弟子)をピアノ教師として招く。 |
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1818年 (ファニー13歳、 フェリクス9歳) |
*フェリクス、初めて公衆の面前で演奏する。ヨーゼフ・ヴェルフルの《2本のホルンとピアノのためのトリオ》の |
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*ファニー、父の誕生日プレゼントとして、J.S.バッハの《平均律クラヴィーア曲集・第一集》の 24の前奏曲とフーガをすべて暗譜で演奏。 凄すぎるというかなんというか。 |
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1819年 (ファニー14歳、 フェリクス10歳) |
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*フェリクス、ベルリン・ジングアカデミー指揮者カール・フリードリヒ・ツェルターに師事する。 | |
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*ヴィルヘルム・フォン・フンボルト(ベルリン・フンボルト大学創設者)の推薦で、 カール・ヴィルヘルム・ルートヴィヒ・ハイゼが家庭教師となる。 |
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*この年、メンデルスゾーン家を訪れたとある女性は、 フェリクスを見て「後期ゴシックの天使の絵」を想像した。 少年時代の肖像を見ても、かなりの美少年だったようだ。 |
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*「ユーデンシュトゥルム」と呼ばれるユダヤ人迫害運動が起こり、 フェリクスとファニーにも罵声を浴びせられるなどの危害が及んだ。 この一件が、フェリクスにユダヤ人という自らの出自を深く考えさせることになった。 |
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12月21日 | *ファニー、父の誕生日のために、歌曲「楽の音よ、楽しく響け!」を作曲。ファニーの最初の作品。 |
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1820年 (ファニー15歳、 フェリクス11歳) |
*ベルリン・ジングアカデミーに入会。 | ||
3月7日 | *フェリクス、最初の作品であるピアノ曲《レチタティーヴォ》を作曲。 | ||
4月8日 | *ファニー、歌曲《ガラテのロマンス》を作曲。 | ||
*ジングシュピール《兵士の恋》をクリスマスの日に上演。 | |||
*風刺的英雄叙事詩『パフレウス』を書く。 | |||
1821年 (フェリクス12歳) |
*ジングシュピール《二人の教育者》を作曲。 | ||
*ツェルター、フェリクスをヴァイマール在住のゲーテに紹介。文豪ゲーテは才気溢れる美少年フェリクス・メンデルスゾーンにメロメロ。 |
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*弦楽シンフォニア第1番〜第6番を作曲。 | |||
1822年 (ファニー17歳、 フェリクス13歳) |
7月 | *メンデルスゾーン一家、スイス旅行に。一家に家庭教師のハイゼが同行。 |
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*ハインリヒ・ハイネ、フェリクスを「音楽上の奇蹟」と語る。 | |||
*父アブラハム、キリスト教に改宗。バルトルディの姓を加える。 | |||
*フェリクス、《マニフィカト ニ長調》を作曲。管弦楽、合唱・ソロからなる、13歳作曲にしてはかなり出来の良い逸品。 |
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*アブラハム、「日曜コンサート」のために宮廷楽団のメンバーと契約。メンデルスゾーン家で日曜日に開催される「日曜コンサート」は |
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1823年 (ファニー18歳、 フェリクス14歳) |
*弦楽シンフォニア、ピアノ四重奏曲へ短調作品2などを作曲。 | ||
秋 | *フェリクスとファニー、マイアベーアの《アリメレク》序曲を四手ピアノ編曲して弾く。おそるべき姉弟! |
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*フランクフルト・聖ツェツィーリア楽友協会のために《キリエ ニ短調》作曲。無伴奏の、ソロも交えた二重合唱曲。 |
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12月7日 | *フェリクス、《2台のピアノのためと管弦楽のための協奏曲 ホ長調》を演奏。ファニーの誕生日のお祝いのために作曲し、二人のピアノで演奏した。 |
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1824年 (ファニー19歳、 フェリクス15歳) |
2月3日 | *誕生日にジングシュピール《二人の甥、あるいはボストンから来たおじ》を上演。ツェルターはこのときフェリクスに宣言した。 |
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6月 | *ドーベランで保養。その途中、またもユダヤ人として石を投げられる迫害を受ける。 |
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11月 | *フェリクス、二台のピアノのための協奏曲変イ長調を作曲。 *メンデルスゾーン家で開かれていた「日曜コンサート」にて、 モーツァルトのピアノ協奏曲ハ短調K.491(24番)を演奏。 ピアニスト・作曲家のイグナツ・モシェレスは語った。*11月28日の日曜演奏会の演目。 ・フェリクス:ピアノ四重奏曲ハ短調 作品1 |
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12月 | *12月12日の日曜演奏会の演目。・フェリクス:ピアノ四重奏曲ヘ短調 作品2 |
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12月25日 | *ヨハン・ゼバスティアン・バッハの《マタイ受難曲』の写筆スコアを、 母方の祖母バベッテ・ザロモンよりクリスマス・プレゼントとして贈られる。 これが、音楽史上の偉業・大バッハのマタイ受難曲蘇演への布石となる。 |
1825年 (フェリクス16歳) |
春 | *フェリクス、パリ旅行。フェリクス、父アブラハムの商用旅行に同行。その目的は、 |
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夏 | *メンデルスゾーン一家、郊外に引っ越す。静かで、緑に囲まれた郊外の広大な敷地に建てられた館には、 |
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秋 | *弦楽八重奏曲変ホ長調、序曲《夏の夜の夢》を作曲。「早熟の天才・メンデルスゾーン」が語られる際には必ず引き合いに出されるこの二曲は、 |
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*歌劇《カマチョの結婚》を作曲。
セルバンテスの『ドン・キホーテ』を原作とするドイツ語台本の歌劇。 |
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1827年 (フェリクス18歳) |
*歌劇《カマチョの結婚》上演。ベルリンの歌劇場で上演されたものの、 |
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2月20日 | *シュテッティンにて序曲《夏の夜の夢》初演。日曜音楽会で発表されてセンセーションを巻き起こしたこの作品の公開演奏の依頼が |
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*友人達と数週間の旅行に出る。バーデン・バーデンやハイデルベルクなどを周る。 |
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*フェリクス、《12の歌曲集》を出版。そのうちの三曲、「郷愁」「イタリア」「ハーテムとズライカ」はファニーの作品だった。 |
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1828年 (フェリクス19歳) |
*ベルリン大学に入学。ヘーゲル、アレクサンダー・フォン・フンボルト、カール・リッター、 |
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4月6日 | *アルブレヒト・デューラー没後三百年祭のためのカンタータを作曲、上演。ベルリン・ジングアカデミー主催による演奏。演奏時間一時間強という大作。 |
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*ベルリンにて開催された、 アレクサンダー・フォン・フンボルト主催の自然科学者会議のための祝祭音楽を作曲、上演。 |
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11月14日 | *ファニー、父親から音楽活動を自制するよう言われる。誕生日に父から贈られた手紙にて。 |
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*ヨハン・ゼバスティアン・バッハの《マタイ受難曲》の公開演奏の計画を立てる。師ツェルターは計画の困難なことを知っていたので初めは強硬に反対したが、 |
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1829年 (ファニー24歳、 フェリクス20歳) |
3月11日 | *ヨハン・ゼバスティアン・バッハの《マタイ受難曲》がジングアカデミーにより演奏される。ヘーゲル、ハイネ、シュライエルマッハー、ドロイゼンら著名人も列席した満員の聴衆の中、 |
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4月〜 | *英国旅行。イグナツ・モシェレスの勧めによる。 |
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10月3日 | *ファニー、ヴィルヘルム・ヘンゼルと結婚。以前より親交のあった宗教画家・肖像画家ヴィルヘルム・ヘンゼルと1月22日に婚約し、 |
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12月 | *フェリクス、ベルリン帰還。英国で馬車から落ちて負傷していたため、二ヶ月遅れの帰宅となった。 |
1830年 (ファニー25歳、 フェリクス21歳) |
3月〜 | *フェリクス、ベルリンを旅立ち、以後2年間、各国を巡る。
最初にデッサウ、ライプツィヒを訪れ、次いでヴァイマールのゲーテを訪ねた。 |
*この間の滞在地は、ミュンヘン、リンツ、ウィーン、プレスブルク。ウィーンでは、今をときめくフンメルらがもてはやされ、 |
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6月16日 | *ファニー、長男を出産。敬愛する大バッハ、ベートーフェン、そして弟にちなんで、 |
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10月 | *フェリクス、イタリア到着。フェリクスはイタリア音楽の退廃に苦言を呈したが、その他の芸術には感動を覚えた。 |
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*序曲《ヘブリディーズ諸島(フィンガルの洞窟)》完成。スコットランド旅行の体験に基づく。 |
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1831年 (フェリクス22歳) |
春 | *ナポリ、ペストゥムを訪れ、ローマへ戻る。 |
夏 | *ミラノ滞在。かつてベートーフェンがピアノ・ソナタ(作品101)を献呈したドロテア・フォン・エルトマンの邸で音楽会が開かれ、 |
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〜10月 | *スイス、そしてミュンヘン。スイスでは山中を歩き回り、気に入った風景を次々スケッチしていった。 |
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12月 | *パリ到着。前年の七月革命の混乱より立ち直ろうとしているフランスの首都へ。 |
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1832年 (ファニー27歳、 フェリクス23歳) |
3月 | *パリ滞在。ベートーフェンの没後5年の命日にフェリクスの弦楽八重奏曲が演奏されたが、 |
4月 | *ロンドン到着。序曲《ヘブリディーズ諸島》第2稿を演奏、好評を博す。 |
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6月 | *ベルリン帰還。オペラの計画が出るが、彼のイメージに合う台本はなかった。 |
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夏 | *ファニー、コレラにかかる。コレラが大流行し、ファニーもそれにかかってしまう。 |
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1833年 (フェリクス24歳) |
1月 | *ベルリン・ジングアカデミーの指導者選挙。ツェルターの逝去以来空位となっていた指導者の後任を選ぶ選挙に、 |
3月 | *デュッセルドルフのニーダーライン音楽祭での指揮を依頼される。また、デュッセルドルフ市音楽監督就任の契約に署名した。 |
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5月 | *ロンドンで交響曲《イタリア》を初演。また、モーツァルトのピアノ協奏曲第20番ニ短調を演奏。 |
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*ニーダーライン音楽祭。ヘンデルのオラトリオ《エジプトのイスラエル人》を演奏、 |
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10月 | *デュッセルドルフへ。工業化により発展の途にあるデュッセルドルフは文化面でもその水準を上げようと考えており、 |
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*演奏会の内容。
フェリクスはルネサンス・バロック時代の作品を積極的に採り上げた。 |
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1834年 (フェリクス25歳) |
春 | *デュッセルドルフ劇場の支配人カール・インマーマン、 フェリクスにいくつかのシェイクスピア劇のオペラ化を打診。 しかし、オペラ作曲に関して慎重なフェリクスはこれらすべてを断った。 |
春 | *ニーダーライン音楽祭。
この年はアーヘンで行われた音楽祭にゲストとして参加、 |
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1835年 (ファニー30歳、 フェリクス26歳) |
春 | *デュッセルドルフに対する不快感。フェリクスは、急激に成長するこの都市の雰囲気や、 |
6月〜 | *ファニーたち、旅行に出る。ヘンゼル一家、父母を連れてフェリクスが指揮するケルンのニーダーライン音楽祭へ。 |
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秋 | *ライプツィヒ市の音楽監督に就任。ライプツィヒ市と年明けから文書にて職務内容や年棒など細かな打ち合わせを繰り返し、 |
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10月4日 | *ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団との初めての演奏会。自作の序曲《静かな海と成功した航海》に続き、 |
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11月19日 | *父アブラハム・メンデルスゾーン、亡くなる。
厳格で慎重で、フェリクスにとっては時に足枷になることもあったが、 フェリクスは父の死に非常なショックを受けた。 |
1836年 (ファニー31歳、 フェリクス27歳) |
2月 | *ベートーフェンの交響曲第9番を指揮する。彼の前任がこの曲を演奏したことがあったがその演奏会は大失敗で、 |
5月22日 | *ニーダーライン音楽祭にて《聖パウロ》初演。古巣・デュッセルドルフで行われたこの大きな音楽祭で、 |
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夏 |
*フランクフルト・アム・マイン滞在。ニーダーライン音楽祭後にフランクフルトを訪れたフェリクスは、 |
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7月、 11月 |
*ファニー、作品集の出版を望む。知人のカール・クリンゲマンにそのことをもらし、 |
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1837年 (ファニー32歳、 フェリクス28歳) |
1月 | *ファニー、自作を出版する。夫の勧めに従い、歌曲「舟遊びをする女」を、 |
3月28日 | *フェリクス、セシル・ジャンルノーと結婚。
ジャンルノー家のあるフランクフルトのワロン・フランス改革派教会で挙式。 |
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12月25日 | *ファニー、自作をセシルに贈る。歌曲「ズライカ(ああ、おまえの湿った翼が)」など。 |
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1838年 (ファニー33歳、 フェリクス29歳) |
2月19日 | *ファニー、公のコンサートに出演。アマチュア・コンサートではあったが、公衆の面前で演奏した。 |
夏 | *ニーダーライン音楽祭に出演。その後、セシルと共にベルリンへ。 |
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1839年 (ファニー34歳、 フェリクス30歳) |
3月21日 | *フランツ・シューベルトの交響曲第8(9)番ハ長調《グレイト》初演。作曲当初は「天国的に長く、難しい」として演奏を拒否された作品をシューマンが発掘、 |
*ニーダーライン音楽祭に出演。
ヘンデルのオラトリオ《メサイア》、自作の詩篇42《谷川慕いて鹿のあえぐごとく》を指揮。 |
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*ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団員の給料をアップさせる。優れた実力を持つ手兵が生活に苦しんでいるのを知っていたフェリクスは、 |
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秋〜 | *ヘンゼル家、イタリア旅行へ発つ。ファニーの音楽人生最良の時となるイタリア旅行。 |
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1840年 (ファニー35歳、 フェリクス31歳) |
春 | *フェリクス、ライプツィヒ音楽院の設立を申請する。 |
*ファニーとシャルル・グノー。ファニーはフランス・アカデミー会員である作曲家シャルル・グノー、ジョルジュ・ブスケや |
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6月25日 | *交響カンタータ《讃歌》初演。
ヨハネス・グーテンベルクによる活字印刷発明400周年記念行事のために依頼された作品で、 |
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6月〜9月 | *イタリア旅行後半。
イタリア南部を回るが、海上の天気がすぐれないことで船に弱いファニーは体調を崩し、 |
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12月 | *ファニー、日曜音楽会を再開。
イタリアでの経験で、創作意欲が大復活した。 |
1841年 (ファニー36歳、 フェリクス32歳) |
4月4日 | *ライプツィヒ聖トーマス教会にてJ.S.バッハ《マタイ受難曲》を演奏。枝の主日における演奏。 |
*ファニー、ピアノ連作集《一年》を作曲。イタリア滞在の経験にもとづき、 |
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*フリードリヒ・ヴィルヘルム四世、フェリクスを招聘。プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルムは、 |
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10月 | *劇付随音楽《アンティゴネー》上演。
ギリシア古代悲劇復興運動の一環。ソポクレスの悲劇への作曲。 |
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1842年 (フェリクス33歳) |
1月20日 | *交響曲第3番イ短調《スコットランド》完成。若い頃に作った第1番、それに続く第5番《宗教改革》、第4番《イタリア》 |
春 | *ニーダーライン音楽祭出演。
メインイベントともいえるヘンデルのオラトリオ《エジプトのイスラエル人》を演奏。 |
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6月 | *英国訪問。フィルハーモニー協会の演奏会に出演。 |
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10月 | *プロイセン王への謁見。
フェリクスはベルリンでの職務を辞することを申し出た。 |
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*ベルリオーズ来訪。旧交を温め、互いの指揮棒を交換した。 |
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12月12日 | *母レアが亡くなる。音楽会はまた一時中断。 |
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1843年 (ファニー38歳、 フェリクス34歳) |
2月 | *ヘンゼル一家、ライプツィヒへ旅行。ファニーはベルリオーズと知り合い、シューマンの演奏を聴く。 |
4月3日 | *ライプツィヒ音楽院開校。ローベルト・シューマン(ピアノ・作曲担当)、トーマス・カントルのモーリツ・ハウプトマン(対位法)、 |
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4月 | *グノー、ベルリン来訪。欧州遊学中、ただファニーに会うためだけにベルリンにやってきた。 |
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前半 | *上半期の音楽活動。《最初のヴァルプルギスの夜》完成。 |
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10月14日 | *劇付随音楽《夏の夜の夢》上演。プロイセン王の依頼により、 |
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10月末 | *日曜音楽会再開。ほどなくフェリクスがベルリンへ戻ってきて顔を出すようになったため、大盛況となった。 |
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11月 | *再びベルリンへ。大聖堂の教会音楽の指揮と、王立管弦楽団のシンフォニー・コンサートの指揮(分担制) |
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1844年 (ファニー39歳、 フェリクス35歳) |
1月1日 | *フェリクス、自作の《詩篇98》をベルリン大聖堂で演奏。 |
3月31日 | *ポツダム・ガルニゾン教会でヘンデルのオラトリオ《エジプトのイスラエル人》を演奏。ファニーもリハーサル・演奏会に立ち会った。 |
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5月 | *英国旅行。第8回。 |
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7月 | *バート・ゾーデンでの休養。疲れた体と心を休める。 |
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11月30日 | *ベルリンへ戻る。フェリクスは、再びベルリンでの職を辞することを申し出た。 |
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*ファニー、鼻血の発作に襲われる。ヘンゼル家は冬のフィレンツェ旅行を行うことになっていたが、その出発寸前、 |
1845年 (ファニー40歳、 フェリクス36歳) |
3月13日 | *ヴァイオリン協奏曲ホ短調初演。フェルディナンド・ダーヴィトのヴァイオリン、 |
春 | *フランクフルト滞在。多忙な作曲活動。新大陸のニューヨークからの招待があったが、これを断る。 |
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8月 | *ライプツィヒに戻る。ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮は、ニルス・ゲーゼと分担となった。 |
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12月4日 | *ジェニー・リンド、ライプツィヒで演奏会を開く。ジェニー・リンドは25歳で、自らピアノ伴奏しながら歌うことができ、 |
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1846年 (ファニー41歳、フェリクス37歳) |
*ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏会で《タンホイザー》序曲を採り上げる。フェリクスは元来速いテンポを好み、指揮でもそうだった。 |
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4月 | *ジェニー・リンド、ライプツィヒで演奏会を開く。二度目。フェリクスやクララ・シューマン、ダヴィットも参加した。 |
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5月 | *アーヘンでのニーダーライン音楽祭に出演。ジェニー・リンドも参加し、ハイドンの《天地創造》からアリア三曲を歌った。 |
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*リエージュで《ラウダ・シオン》初演。 | ||
*ケルン音楽祭に出演。祝祭歌《芸術家たちに》を初演。 |
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8月26日 | *バーミンガムにてオラトリオ《エリヤ》初演。バーミンガム音楽祭より依頼されていたオラトリオ《エリヤ》を完成させたフェリクスは、 |
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*体調の不良。フェリクスは扁頭痛に悩まされながら英国より帰国。 |
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11月5日 | *シューマンの交響曲第二番ハ長調を初演。一線からは身を引いたものの、友人シューマンの新作交響曲の初演には自らタクトを振った。 |
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12月 | *ファニー、作品集出版。ボーテ・ウント・ボック社より、《ピアノ伴奏つき六つの歌曲 作品1》を出版、 |
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1847年 (ファニー41歳、 フェリクス38歳) |
2月 | *シューマン夫妻、ベルリン滞在。前年末からベルリンを訪れ、ファニーと親交を深める。 |
3月18日 | *ライプツィヒで最後の指揮台に立つ。 | |
4月11日 | *ファニー、ピアノ三重奏曲ニ短調を演奏。 | |
4月13日 | *英国演奏旅行。10度目の渡英。ロンドン、バーミンガムとマンチェスターで《エリヤ》を演奏。 |
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5月13日 | *ファニー、絶筆となる歌曲「山の喜び」(詩:アイヒェンドルフ)を作曲。 | |
5月14日 | *ファニーの死。フェリクスの四歳年上の姉ファニー・メンデルスゾーンは、 |
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夏 | *スイス滞在。静養のためにスイスへ赴いたフェリクスは、 |
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11月4日 | *死去。ベルリンを訪れ、それからライプツィヒに戻ったフェリクスは、 |
彼の死の知らせに、ライプツィヒは呆然となった。
埋葬はベルリンの姉の墓の隣になされることとなり、葬送列車が用立てられた。
ベルリンへ向かう葬送の列車は途中何度か停車したが、その地の住民たちは松明を持って集まり、別れの歌を歌った。
英国のヴィクトリア女王は弔意の手紙を送り、ザクセンやプロイセンの王もそれにならった。
ゲヴァントハウス管弦楽団は定期演奏会を取りやめ、
ベートーフェンの《英雄》とフェリクスの作品からなる追悼演奏会を開いた。
フェリクスの友人リディア・フレーゲは、フェリクスが死の前に作曲し好んでいた歌曲「夜の歌」を歌った。
ロンドンでは追悼公演として《エリヤ》が演奏された。
11月12日、ウィーンでのオラトリオ《エリヤ》の原語初演は、彼が立つはずであった指揮台に黒い幕を被せて行われた。
追悼演奏会や儀式は、バーミンガム、マンチェスター、パリ、ベルリン、ハンブルク、フランクフルトなど欧州諸都市だけでなく、
1848年2月14日にはニューヨークで、市内の主な音楽団体の総力を結集して行われた。
そこでは、ベートーフェンの《英雄》第二楽章、
モーツァルトの《レクイエム》より「レコルダーレ」、
フェリクスの《讃歌》《エリヤ》《聖パウロ》よりの抜粋が演奏された。
ジェニー・リンドも追悼演奏会を開き、エリヤのソプラノ・ソロを歌った。
その収益は、彼を記念して英国に設立された「メンデルスゾーン奨学金」にあてられた。
彼の葬儀は盛大に行われ、皆その死を惜しんだが、彼の死後間もなくから彼への攻撃が始まり、
かつて友好的であったヴァーグナーは、フェリクスがユダヤ人であることも交えて激しい批判を加えた。
ナチスが政権を取った後はその傾向に拍車がかかり、
1936年、トマス・ビーチャムがロンドン・フィル楽団員と共にライプツィヒのフェリクスの記念碑に花環を捧げようと訪れた時、
彼らはそれが粉々に打ち砕かれ、銅像は無くなっているのを見た。
フェリクスの作品には中傷が加えられて価値のないものとされ、その存在を音楽史から抹消する者もいた。
さらに彼の作品の演奏は禁止された。しかし、ヴァイオリン協奏曲ホ短調だけは作曲者名を伏されて演奏され続けた。
ナチスが倒れた後でもメンデルスゾーンの音楽は、
「富裕の生まれで人生において苦労することが少なく、そのためにその音楽は浅薄で深みがない」
と評されることが多い。
日本でもそういう評価が多く、音楽学校によっては、
フェリクスが「音楽史上何の貢献もしていない」として最初から教えないとかいう話も。
ドイツ音楽を最も尊重し、その価値観に引きずられ気味な日本では、ナチス時代の評価がまだ生き残っているといえる。
富裕な人間がよい音楽を生み出すことが出来ないのならば、現代にはもう優れた音楽家は生まれなさそうだ。
メンデルスゾーンは、常に純粋な様式の模範であり続け、際立った音楽的個性の持ち主として一般に認められるであろう。
その個性は、ベートーフェンのような天才の輝きの前では確かに見劣りするが、
ドイツの職人的音楽家の巨大な群れからは、はるかに抜きん出て際立って見える。
(ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー)
1997年の没後150年を機にCDがぼつぼつ出始め、
ピリオド楽器による演奏はそれほど珍しくなくなり、
2004年にはなんと廉価版レーベルから宗教曲(ほぼ)全集が出るなど、
メンデルスゾーン・ルネサンスはひと通り達成された?次は2009年の生誕200年。
マイナーな曲でもっと凄い演奏がたくさん出てきてくれることに期待。
参考文献:
『メンデルスゾーン』(ハンス・クリストフ・ヴォルプス著、尾山真弓訳、音楽之友社、「大作曲家」シリーズ)