フェリクス・メンデルスゾーン・バルトルディ&
ファニー・メンデルスゾーン=ヘンゼル
〜その生涯〜


1.若きマイスターの誕生 2.大バッハ復活 3.挫折、そして飛躍
4.ライプツィヒのマエストロ 5.光と影と 6.憔悴と絶望、そして死

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*ファニーに関する項目はこの色で記していますが、
フェリクスとの絡みがすこぶる多いので注意が必要です


1.若きマイスターの誕生

1805年 11月14日 *ユダヤ人アブラハム・メンデルスゾーンとその妻レアとの間に、
長女ファニーが生まれる。

 ハンブルクにて、4つ下の有名な弟に劣らぬ天性の音楽的才能をもつ娘がこの日生まれた。
1809年 2月3日 *ユダヤ人アブラハム・メンデルスゾーンとその妻レアとの間に、
長男フェリクスが生まれる。

 生地はハンブルク。父アブラハムは銀行家であり、
その父モーゼスは哲学者として知られていた。
レッシングの『賢者ナータン』のモデルはモーゼスである。
1811年
(フェリクス2歳)
  
*ハンブルク、フランス軍に占領される。
ルイ・ニコラ・ダヴー元帥により多数の資産家が逮捕される中、
メンデルスゾーン一家はハンブルクを脱出。
アブラハムの兄ヨーゼフが銀行を経営しているベルリンへと逃れる。
*アブラハムとレアに次女レベッカ生まれる。
 メンデルスゾーン家の音楽会ではソプラノ歌手として活躍することになる。
  
  
*アブラハム、対ナポレオンのために自費で義勇軍を組織。
アブラハムは解放戦争が終わると市参事会員に選ばれる。
1812年
(フェリクス3歳)
*次男パウル生まれる。
 銀行家として父の後を継ぎ、
また本人もチェロ奏者としてメンデルスゾーン家の音楽会を彩った。
1814年
(フェリクス5歳)
  *母から最初の音楽のレッスンを受ける。
1816年
(ファニー11歳、
フェリクス7歳)
 
*パリ旅行。マリー・ビゴーからピアノレッスンを受ける。
 マリー・ビゴーはハイドンやベートーフェンから高い評価を得ていたピアニスト。
*母レアは、フェリクスとその姉ファニーに音楽的才能を見出し、
ルートヴィヒ・ベルガー(クレメンティの弟子)をピアノ教師として招く。

1818年
(ファニー13歳、
フェリクス9歳)
*フェリクス、初めて公衆の面前で演奏する。
 ヨーゼフ・ヴェルフルの《2本のホルンとピアノのためのトリオ》の
ピアノパートを演奏した。
*ファニー、父の誕生日プレゼントとして、J.S.バッハの《平均律クラヴィーア曲集・第一集》の
24の前奏曲とフーガをすべて暗譜で演奏。

 凄すぎるというかなんというか。
ファニーは大バッハに傾倒すること、弟のフェリクス以上だったという。
1819年
(ファニー14歳、
フェリクス10歳)
 
*フェリクス、ベルリン・ジングアカデミー指揮者カール・フリードリヒ・ツェルターに師事する。
 
*ヴィルヘルム・フォン・フンボルト(ベルリン・フンボルト大学創設者)の推薦で、
カール・ヴィルヘルム・ルートヴィヒ・ハイゼが家庭教師となる。
 
*この年、メンデルスゾーン家を訪れたとある女性は、
フェリクスを見て「後期ゴシックの天使の絵」を想像した。
少年時代の肖像を見ても、かなりの美少年だったようだ。
*「ユーデンシュトゥルム」と呼ばれるユダヤ人迫害運動が起こり、
フェリクスとファニーにも罵声を浴びせられるなどの危害が及んだ。

この一件が、フェリクスにユダヤ人という自らの出自を深く考えさせることになった。
12月21日 *ファニー、父の誕生日のために、歌曲「楽の音よ、楽しく響け!」を作曲。
 ファニーの最初の作品。
1820年
(ファニー15歳、
フェリクス11歳)
  *ベルリン・ジングアカデミーに入会。
3月7日 *フェリクス、最初の作品であるピアノ曲《レチタティーヴォ》を作曲。
4月8日 *ファニー、歌曲《ガラテのロマンス》を作曲。
  *ジングシュピール《兵士の恋》をクリスマスの日に上演。
   *風刺的英雄叙事詩『パフレウス』を書く。
1821年
(フェリクス12歳)
  *ジングシュピール《二人の教育者》を作曲。
   *ツェルター、フェリクスをヴァイマール在住のゲーテに紹介。
文豪ゲーテは才気溢れる美少年フェリクス・メンデルスゾーンにメロメロ。
2週間の間、ゲーテは毎日午後フェリクスのピアノを聴くことを日課とし、
別れる時には自作の切り絵に詩を添えて与えた。
切り絵は五線譜の上をほうきに乗って飛び回る小さな魔法使いをかたどった物で、
詩の内容もそれに即したものとなっており、最後は、
「もしも疲れたときは、いつでも私のところに戻っておいで」
と締めくくられていた。
  *弦楽シンフォニア第1番〜第6番を作曲。
1822年
(ファニー17歳、
フェリクス13歳)
7月 *メンデルスゾーン一家、スイス旅行に。
 一家に家庭教師のハイゼが同行。
 
・旅行途上のカッセルにて宮廷楽長シュポーアと出会う。

・フランクフルト・アム・マインにてアロイス・シュミットの音楽会に招かれ、共演。
フェリクスはシュミットとともにドゥシェックのピアノ二重奏曲を演奏し、
また自作のピアノ四重奏曲を演奏。
ファニーはフンメルのロンド・ブリランテを演奏し、
この演奏会を聴いていたシュミットの弟子で11歳の天才ピアニスト、フェルディナント・ヒラーは、
フェリクスの演奏よりもファニーの演奏のほうがはるかに感銘深かった、と述べている。

ヒラーはのちにフェリクスの親友となる。

スイスでは各地を観光し、姉のファニーは、「雲に乗って天国へ運ばれていく」ようだと感動。
フェリクスもいたく感動し、そのイメージを翌年作曲した弦楽シンフォニア第9番の
スケルツォ楽章に活かし、また24年作曲の11番にもスイス民謡の旋律を用いている。

・ファニー、8月17日に歌曲「イタリアへの憧れ」を作曲。
ゲーテの有名な詩「君よ知るや、南の国・・・」に曲をつけたもの。

・帰途、ヴァイマールのゲーテを訪ねる。
ファニー、ゲーテに会い、バッハの作品を演奏。
ゲーテの詩に作曲したファニーの歌曲を演奏すると、ゲーテは大変気に入った。
また、ゲーテがフェリクスを寵愛することは前年と同じだった。
    *ハインリヒ・ハイネ、フェリクスを「音楽上の奇蹟」と語る。
   *父アブラハム、キリスト教に改宗。バルトルディの姓を加える。
*フェリクス、《マニフィカト ニ長調》を作曲。
管弦楽、合唱・ソロからなる、13歳作曲にしてはかなり出来の良い逸品。
  *アブラハム、「日曜コンサート」のために宮廷楽団のメンバーと契約。
メンデルスゾーン家で日曜日に開催される「日曜コンサート」は
その後定期的に行われるようになり、
フェリクスはそのためにさまざまな作品を作曲してゆく。
1823年
(ファニー18歳、
フェリクス14歳)
  *弦楽シンフォニア、ピアノ四重奏曲へ短調作品2などを作曲。
*フェリクスとファニー、マイアベーアの《アリメレク》序曲を四手ピアノ編曲して弾く。
おそるべき姉弟!
  *フランクフルト・聖ツェツィーリア楽友協会のために《キリエ ニ短調》作曲。
無伴奏の、ソロも交えた二重合唱曲。
12月7日 *フェリクス、《2台のピアノのためと管弦楽のための協奏曲 ホ長調》を演奏。
 ファニーの誕生日のお祝いのために作曲し、二人のピアノで演奏した。
1824年
(ファニー19歳、
フェリクス15歳)
2月3日 *誕生日にジングシュピール《二人の甥、あるいはボストンから来たおじ》を上演。
ツェルターはこのときフェリクスに宣言した。
「モーツァルト、ハイドン、そして大バッハの名において、
汝に『職人(マイスター)』の位を授ける」
6月 *ドーベランで保養。
 その途中、またもユダヤ人として石を投げられる迫害を受ける。
11月 *フェリクス、二台のピアノのための協奏曲変イ長調を作曲。
*メンデルスゾーン家で開かれていた「日曜コンサート」にて、
モーツァルトのピアノ協奏曲ハ短調K.491(24番)を演奏。

ピアニスト・作曲家のイグナツ・モシェレスは語った。
「このフェリクス・メンデルスゾーンは、十五歳にしてすでに円熟した芸術家だ」
*11月28日の日曜演奏会の演目。
・フェリクス:ピアノ四重奏曲ハ短調 作品1
・フェリクス:弦楽シンフォニア ニ長調(第8番?)、
・J.S.バッハ:ピアノ協奏曲(どれかは不明。ファニーが演奏)、
・カール・アルノルト:2台のピアノのための二重奏曲 ニ短調
12月 *12月12日の日曜演奏会の演目。
・フェリクス:ピアノ四重奏曲ヘ短調 作品2
・モシェレス:二台のピアノのための二重奏曲ニ長調(フェリクスとモシェレスの演奏)
・フンメル:ピアノ三重奏曲ト長調 作品35
12月25日 *ヨハン・ゼバスティアン・バッハの《マタイ受難曲』の写筆スコアを、
母方の祖母バベッテ・ザロモンよりクリスマス・プレゼントとして贈られる。

これが、音楽史上の偉業・大バッハのマタイ受難曲蘇演への布石となる。

2.大バッハ復活

1825年
(フェリクス16歳)
*フェリクス、パリ旅行。
 フェリクス、父アブラハムの商用旅行に同行。その目的は、
イタリア出身の大作曲家ルイジ・ケルビーニに会うため。
フェリクスはパリの音楽家達とともに自作の《ピアノ四重奏曲ロ短調 作品3》を演奏した。
64歳のケルビーニはフェリクスの音楽的才能を自信を持って証明し、
かくて父アブラハムは息子が音楽家として立つことを許した。
 フェリクスはパリを巡っていろいろな作曲家や演奏家の音楽に接したが、
彼にとって、マイアベーア、ロッシーニ、リスト、オベールなどは
みな栄光に値しないものと思われた。
そして、ドイツ音楽の偉大な先人であるバッハ、ベートーフェンに対する
尊敬の念をいっそう強くした。

 フェリクスは、ケルビーニに自分の才能を証明してもらったが、
彼のことは「死火山」と評した。

 帰途、ヴァイマールのゲーテを訪ね、
ケルビーニの前で演奏した《ピアノ四重奏曲ロ短調 作品3》を献呈した。

 旅行に際して、アブラハムは息子のために名刺を作ろうと思い立ち、そこには
「フェリクス・M・バルトルディ」
と記された。しかしフェリクスは、
「僕の姓はメンデルスゾーンだ!」
と反発。
悶着の末、「フェリクス・メンデルスゾーン・バルトルディ」と名乗ることで承知した、
という話がある。
*メンデルスゾーン一家、郊外に引っ越す。
 静かで、緑に囲まれた郊外の広大な敷地に建てられた館には、
数多くの有名人が集った。
アレクサンダー・フォン・フンボルト、ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル、
エルンスト・テオドール・アマデウス・ホフマン、シュライエルマッハー・・・
フェリクスが親交を結んだ同年代の少年達の中には、
ヨハン・グスタフ・ドロイゼン、フェルディナント・ダヴィット、エドゥアルト・デヴリエント、
カール・クリンゲマンらがいた。
*弦楽八重奏曲変ホ長調、序曲《夏の夜の夢》を作曲。
 「早熟の天才・メンデルスゾーン」が語られる際には必ず引き合いに出されるこの二曲は、
ともに16歳の時に書かれた。
若き情熱の奔流と磨き上げられた美的感覚とが完全に調和した、稀有な作品。
 序曲《夏の夜の夢》はのちにピアノ二重奏曲に編曲され、
フェリクスはこれをファニーと弾いて楽しんだ。
  *歌劇《カマチョの結婚》を作曲。
 セルバンテスの『ドン・キホーテ』を原作とするドイツ語台本の歌劇。
1827年
(フェリクス18歳)
  *歌劇《カマチョの結婚》上演。
ベルリンの歌劇場で上演されたものの、
総監督のスポンティーニ(イタリア人)は最初から難色を示しており、
上演に際しては妨害もあって評判は芳しいものではなかった。
2月20日 *シュテッティンにて序曲《夏の夜の夢》初演。
 日曜音楽会で発表されてセンセーションを巻き起こしたこの作品の公開演奏の依頼が
シュテッティンより舞い込み、この日、初演された。
 同時に《2台のピアノのための協奏曲 変イ長調》を、
シュテッティンで活躍中のカール・レーヴェと演奏。
  *友人達と数週間の旅行に出る。
 バーデン・バーデンやハイデルベルクなどを周る。
ハイデルベルクにて法学者で音楽愛好家のアントン・フリードリヒ・ユストゥス・ティボーと会い、
ルネサンス音楽への興味をかき立てる。
そして、モテット《汝はペトロ》を作曲した。
また、その場にてバッハの音楽への憧れをより強く持つようになる。
*フェリクス、《12の歌曲集》を出版。
 そのうちの三曲、「郷愁」「イタリア」「ハーテムとズライカ」はファニーの作品だった。
この作品はのちに英国女王ヴィクトリアも手にして歌い、
そのうちもっともお気に入りだったのはファニー作曲の「イタリア」だった。
1828年
(フェリクス19歳)
  *ベルリン大学に入学。
 ヘーゲル、アレクサンダー・フォン・フンボルト、カール・リッター、
エドゥアルト・ガンスら錚々たる講師陣の講義を受講。
ていうか彼らはみなフェリクスとはすでに知り合いだった。
4月6日 *アルブレヒト・デューラー没後三百年祭のためのカンタータを作曲、上演。
 ベルリン・ジングアカデミー主催による演奏。演奏時間一時間強という大作。
  *ベルリンにて開催された、
アレクサンダー・フォン・フンボルト主催の自然科学者会議のための祝祭音楽を作曲、上演。
11月14日 *ファニー、父親から音楽活動を自制するよう言われる。
 誕生日に父から贈られた手紙にて。
アブラハムは、娘が上流階級の女性として相応しい振舞いをすることを望んでいた。
 ファニーもそれに従って、結婚を考えるようになっていく。
  *ヨハン・ゼバスティアン・バッハの《マタイ受難曲》の公開演奏の計画を立てる。
 師ツェルターは計画の困難なことを知っていたので初めは強硬に反対したが、
弟子の熱意に負けて、それからは積極的にサポートするようになった。
フェリクスは、原曲そのままの演奏は今の聴衆には完全に受け入れられまいと考え、
曲のカット、アリア声部変更など、可能な限り最小限の変更を加えて演奏に臨んだ。
1829年
(ファニー24歳、
フェリクス20歳)
3月11日 *ヨハン・ゼバスティアン・バッハの《マタイ受難曲》がジングアカデミーにより演奏される。
 ヘーゲル、ハイネ、シュライエルマッハー、ドロイゼンら著名人も列席した満員の聴衆の中、
フェリクスの指揮により、それまで断片的にしか演奏されなかった《マタイ受難曲》が、
初演以来百年ぶりにまとまった形で演奏され、大反響を呼んだ。
 スポンティーニはこの演奏を妨害しようとしたが、十日後の再演も大成功を収めた。
これにより、バッハ演奏の熱狂の波はあっという間に各地に広がった。
ゲーテはツェルターからの報告の手紙を読み、こう返事した。
「わたしには、まるで大海が怒号しているように聞こえた」
4月〜 *英国旅行。
 イグナツ・モシェレスの勧めによる。
 ロンドンに入ったフェリクスは、外交官としてロンドンに駐在していた友人クリンゲマンらの
力もあって特に不自由のない生活を送ることが出来た。
メンデルスゾーン銀行の名が英国でも信用が高いことも一因となった。
また、育ちが良いこともあって身なりや着こなしがひどく優雅だったフェリクスは、
社交界でもすぐに大人気となった。

 5月25日、フェリクスは自作の交響曲第一番ハ短調
(第三楽章は八重奏曲のスケルツォを管弦楽編曲して用いた)
をフィルハーモニー協会にて演奏し、大好評を博す。

5月30日、別のコンサートにピアニストとして参加、
ヴェーバーの《コンチェルトシュテュック》を演奏。

水害のための慈善演奏会を自ら主催し、そこで序曲《夏の夜の夢》を演奏、
大反響を呼ぶ。

 ロンドン滞在は彼にとって非常なカルチャー・ショックであり、
家族には矢継ぎ早にみずからの体験を手紙で書き送っている。

 フェリクスは指揮棒を使っていて、そのスタイルに英国の聴衆は感嘆した。
彼は167cmの身長で細身であったが、
楽団員と音楽を自在に操る姿はまことに堂々として華麗であった。
彼はこの地で白い指揮棒を作らせた。しかし職人はそれが何の目的の物であるかわからず、
彼の外見から彼を市会議員かなにかだと思い、指揮棒に小さな王冠を彫り込んだ。
この指揮棒はのちに、エクトル・ベルリオーズの指揮棒と交換されることになる。
 彼は暗譜で指揮をしていたが、これは不評であったので、
一応譜面を出して、見ているふりをして曲に合わせめくっていた。

 その後、クリンゲマンと共にスコットランド高地への旅に出る。
エジンバラのスチュアート王家の城の朽ち果てた礼拝堂、
ヘブリディーズ諸島のフィンガルの洞窟など・・・
この時のインスピレーションがのちに交響曲第三番《スコットランド》、
序曲《ヘブリディーズ諸島(フィンガルの洞窟)》を生むこととなる。
 その後、グラスゴー、リバプールなどに立ち寄る。
 彼は非常に感銘を受けたが、バグパイプの響きはどうしても好きになれなかった。
彼は概して民俗音楽を嫌う傾向があったようだ。


 英国での演奏の時、フェリクスはプログラムや新聞には自らの名を
「フェリクス・メンデルスゾーン」
と書かせていた。これを知ったアブラハムは怒り、「フェリクス・バルトルディ」と名乗れと言ったが、
フェリクスは終生、ユダヤ人としての姓である「メンデルスゾーン」の姓を使い続けた。
10月3日 *ファニー、ヴィルヘルム・ヘンゼルと結婚。
 以前より親交のあった宗教画家・肖像画家ヴィルヘルム・ヘンゼルと1月22日に婚約し、
この日結婚。
 ファニーは式場入場のプレリュードを自分が作曲することとし、
フェリクスには退場時のパストレッラを依頼していたが、
フェリクスは書いてよこさなかった。最愛の姉の結婚が面白くなかったのか、どうか。
そのため、ファニーは二曲とも自分で作曲した。
ファニーはこれらを自分で演奏しようと思ったがいくらなんでも無理なので、
他人によって演奏された。
12月 *フェリクス、ベルリン帰還。
 英国で馬車から落ちて負傷していたため、二ヶ月遅れの帰宅となった。
このとき、フェリクスは旅先で作曲したリーダーシュピール《異国からの帰郷》を携えていた。
これは26日の両親の銀婚式の記念として贈られた。
 ファニーも、祝祭劇《結婚式がやってきた》を作曲した。
フェリクスが指揮をし、弟のパウルもチェロで参加。
120人以上がこれに立ち会った。

 また、アウクスブルク信仰告白三百年祭のための交響曲《宗教改革》の作曲に着手する。
だが完成後にこの祝祭は中止が決定し、宙ぶらりんとなってしまう。

3.挫折、そして飛躍

1830年
(ファニー25歳、
フェリクス21歳)
3月〜 *フェリクス、ベルリンを旅立ち、以後2年間、各国を巡る。
 最初にデッサウ、ライプツィヒを訪れ、次いでヴァイマールのゲーテを訪ねた。
7年ぶりの再会ではあったが、ゲーテはフェリクスを非常に歓待し、
二日間の滞在予定は延長されることとなった。
ゲーテは、フェリクスを“du”(親しい間柄の場合に用いる二人称)と呼んだ。
二人は毎日、フェリクスの英国旅行のこと、芸術のこと、詩や音楽のことなどについて論じ合った。
午後、フェリクスがピアノ演奏をすることも昔どおりだった。
 ゲーテは、それまでベートーフェンの音楽をまったく軽視していたが、
それを聞いたフェリクスが「それではいけません!」と、
ハ短調交響曲(第五番)の第一楽章をピアノで弾いたところ、
ゲーテはそれに興味を覚えた。
彼はしばらく熟考し、そして最後に言った。
「この曲はとても偉大だ。全く凄い。この家が倒壊するのではないかと心配になるほどだ。
この曲をオーケストラで演奏したら、いったいどうなることだろうか!」
これがゲーテの、ベートーフェン開眼のきっかけとなった。
 ゲーテはフェリクスの曲を演奏することを望んだが、
フェリクスはベートーフェンの曲を重点的に演奏した。

 別れ際に、ゲーテはフェリクスに『ファウスト』の一刷本を贈った。
フェリクスは各地を巡りつつイタリアへ向かった。ゲーテの『イタリア旅行』を携えて。
   *この間の滞在地は、ミュンヘン、リンツ、ウィーン、プレスブルク。
 ウィーンでは、今をときめくフンメルらがもてはやされ、
ハイドン、モーツァルト、ベートーフェンが軽視されていることを悲しく思ったという。
6月16日 *ファニー、長男を出産。
 敬愛する大バッハ、ベートーフェン、そして弟にちなんで、
「ゼバスティアン・ルートヴィヒ・フェリクス」
と名づけられた。
 ヴィルヘルムは、「フェリクス」というところが気に入らなかったらしい。

 出産後、ファニーは作曲意欲が減退し、
家庭のために踏ん切りをつけようと思いつつも悩むこととなる。
このころ、ソプラノ・アルト・合唱・管弦楽のためのカンタータ《讃歌(私の魂はとても静か)》を作曲。
10月 *フェリクス、イタリア到着。
 フェリクスはイタリア音楽の退廃に苦言を呈したが、その他の芸術には感動を覚えた。
とくにヴェネツィアのサンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ教会にあるティツィアーノの『聖母被昇天』を見、
フェリクスは非常に心動かされた。後年、彼がライプツィヒに構えた住居の壁には、
この絵の模写が飾られていた。彼はティツィアーノの絵をとりわけ好んだ。
 ヴェネツィアからフィレンツェ経由でローマへ。ここでスペイン広場沿いのアルバーニ邸に五ヶ月滞在。
フェリクスはここの社交界にもすぐにとけ込み、さまざまな著名人と親交を持ち、
またヴィッラ・メディチに住んでいた奨学生エクトル・ベルリオーズとも友好関係を結んだ。

 フェリクスは、親しい人にはベルリオーズの音楽を酷評していたが、
彼の人間性は尊敬していたので、それを彼の前で口にすることはなかった。
 ベルリオーズはフェリクスを敬愛していたが、
「いささか過去の音楽家を好みすぎる」
と感じていた。そして、彼がルター派の信仰に篤いので、
しばしば聖書を笑い飛ばしてからかった。


 フェリクスはゲーテの『イタリア旅行』に書かれているゲーテの足跡をたどりつつ、作曲にいそしんだ。
   *序曲《ヘブリディーズ諸島(フィンガルの洞窟)》完成。
スコットランド旅行の体験に基づく。
また、ゲーテの詩に基づく《最初のヴァルプルギスの夜》、イタリア交響曲の作曲にも着手。
ほか、《宗教曲》作品23、カンタータ《おお血傷にまみれし主の御頭》、詩篇115などの声楽曲を作曲。
1831年
(フェリクス22歳)
*ナポリ、ペストゥムを訪れ、ローマへ戻る。
*ミラノ滞在。
 かつてベートーフェンがピアノ・ソナタ(作品101)を献呈したドロテア・フォン・エルトマンの邸で音楽会が開かれ、
フェリクスも参加、ベートーフェンのピアノ・ソナタを演奏。ミラノでも人気を得る。
ミハイル・グリンカ(27歳)とも知り合ったが、
グリンカはフェリクスの「少しばかり嘲笑的な調子」があまり気に入らなかった。
 また、モーツァルトの長男、カール・モーツァルトに会い、
自作の《最初のヴァルプルギスの夜》(まだ完成前のピアノ版)や、
《ドン・ジョヴァンニ》《フィガロの結婚》序曲などを弾いた。
〜10月 *スイス、そしてミュンヘン。
 スイスでは山中を歩き回り、気に入った風景を次々スケッチしていった。
フェリクスは絵画の才能もあり、特に風景画はかなりの腕前であった。
彼の作品のCDジャケットに使用されることも多い。ただし人物画は大の苦手。
 ミュンヘンでは前年より構想のピアノ協奏曲(第1番)を完成し、
それはバイエルン国王の列席のもと、慈善演奏会で演奏された。
他には、自作の交響曲第1番、序曲《夏の夜の夢》、
そしてモーツァルトの「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」にもとづくピアノ即興演奏があった。
 ピアノ協奏曲が献呈されたのはデルフィーネ・フォン・シャウロートという17歳の女性ピアニストで、
バイエルン国王はフェリクスに彼女との結婚を勧めたが、彼はこれを断った。
ただ、けっこうロマンス的なことはあったらしい。

 その後シュトゥットガルト、フランクフルト、デュッセルドルフを経て、パリへ。
12月 *パリ到着。
 前年の七月革命の混乱より立ち直ろうとしているフランスの首都へ。
到着いきなり数日後に代表議会に出席し、市民の打ちたてたフランス王ルイ・フィリップと対面する。
 パリ音楽院の指揮者フランソワ・アントワーヌ・アブネックも彼を歓迎して彼の演奏会を企画。
フェリクスはベートーフェンのピアノ協奏曲第四番のピアノ・ソロを担当、好評を博すが、
自らの作曲した序曲《夏の夜の夢》に対する反応ははかばかしくなかった。
 また、アウクスブルク信仰告白三百年祭が中止になったために宙に浮いていた
交響曲《宗教改革》をここで初演しようとしたが、その対位法がパリ音楽院管弦楽団から「理屈っぽい」と言われ、
演奏を拒否された。
そのため、フェリクスは少なからず落ち込んだ。
1832年
(ファニー27歳、
フェリクス23歳)
3月 *パリ滞在。
 ベートーフェンの没後5年の命日にフェリクスの弦楽八重奏曲が演奏されたが、
それは司祭が勤めを果たしている最中にも演奏されたので、
それを知ったフェリクスは非常に驚き憤慨した。
 パリでの音楽体験はどちらかというと不快なもので、
彼にはニッコロ・パガニーニの悪魔的ヴィルトゥオーゾも、マイアベーアの「冷たく無情な」オペラも、
好ましいものとは思われなかった。
 ただ、ここでフェルディナント・ヒラー、フレデリック・ショパン、リスト・フェレンツ(フランツ・リスト)との
親交を深めることとなった。
4月 *ロンドン到着。
 序曲《ヘブリディーズ諸島》第2稿を演奏、好評を博す。
また、自作のピアノ協奏曲も演奏し、さらに《無言歌 第一集》を出版、大人気となる。
 モーツァルトの《2台のピアノのための協奏曲 変ホ長調K.365》をモシェレスとともに演奏し、これも大成功。
 セント・ポール大聖堂でオルガンを弾いたときは、即興で対位法をどんどん展開していくその技量に、
聴衆はただ唖然とするばかりだった。
 ロンドンの聴衆はフェリクスに対し、崇拝ともいえる感情を抱いた。
ピアニストのチャールズ・サラマンは、「鍵盤に触れると彼の指は歌う」と書いた。
その中、師ツェルターの訃報が届く。
6月 *ベルリン帰還。
 オペラの計画が出るが、彼のイメージに合う台本はなかった。
カール・インマーマンの、シェイクスピアの『テンペスト』に基づくオペラ台本も彼の意欲を掻き立てなかった。
その代わり、《最初のヴァルプルギスの夜》を仕上げ、
またピアノ協奏曲第1番と《華麗なるカプリッチョ》ロ短調を引っさげ、ピアノ奏者として世に出た。
 ベルリンでは、《最初のヴァルプルギスの夜》《宗教改革》《夏の夜の夢》《静かな海と成功した航海》を発表。
*ファニー、コレラにかかる。
 コレラが大流行し、ファニーもそれにかかってしまう。
彼女は大事に至らなかったが、知人が多数亡くなってしまった。
さらに11月には女児を流産してしまい、彼女は非常に落ち込んでしまう。
そしてそれを紛らわせるため、彼女は日曜演奏会に力を入れていくことになった。
そして手始めに自らが所属していたベルリン・ジングアカデミーの知り合いとともに合唱団を結成し、
自作や他人の作品を演奏していく。
1833年
(フェリクス24歳)
1月 *ベルリン・ジングアカデミーの指導者選挙。
 ツェルターの逝去以来空位となっていた指導者の後任を選ぶ選挙に、
フェリクスも家族や周囲の人間の勧めを断りきれずに応募。
1月22日選挙が行われ、フェリクスは落選。
ツェルターの代理を務めていたカール・フリードリヒ・ルンゲンハーゲンが順当に選出された。
フェリクスの落選は、もちろん若すぎたということもあるが、
理由の一つには「ユダヤ人であるから」というものもあった。
彼の生涯または死後において、この「ユダヤ人」という出自は何かと足枷となった。

 フェリクスは、この結果を予想していたとはいえ深く傷ついた。人生初の大きな挫折だった。
ルンゲンハーゲンはフェリクスに指導者代理になってほしいと要請したが、
フェリクスはこれを断った。
同年、姉のファニーと妹のレベッカは、「家族の名誉が傷つけられた」としてジングアカデミーから退会した。
 のちにエドゥアルト・デヴリエントはこの選挙について述べている。
「この決定によって、ベルリン・ジングアカデミーは長い間並の水準にとどまることとなった」

 ファニーの合唱団はジングアカデミー会員だったが、
退会後は自前で合唱団を結成した。
3月 *デュッセルドルフのニーダーライン音楽祭での指揮を依頼される。
 また、デュッセルドルフ市音楽監督就任の契約に署名した。
5月 *ロンドンで交響曲《イタリア》を初演。
 また、モーツァルトのピアノ協奏曲第20番ニ短調を演奏。
聴衆の中にはニッコロ・パガニーニがいた。
彼はフェリクスとともにベートーフェンのヴァイオリン・ソナタを演奏しようとしたが、果たせなかった。
*ニーダーライン音楽祭。
 ヘンデルのオラトリオ《エジプトのイスラエル人》を演奏、
他にもベートーフェンの交響曲第6番や自作の《トランペット序曲 ハ長調》を演奏し好評を博す。
その後、父とともにロンドンへ旅行し、その後、デュッセルドルフに向かう。
10月 *デュッセルドルフへ。
 工業化により発展の途にあるデュッセルドルフは文化面でもその水準を上げようと考えており、
そのために市はフェリクス・メンデルスゾーンに白羽の矢を立てた。
フェリクスはここでヨハン・ヴィルヘルム・シルマーに水彩画を学ぶなど、
画家達との交流も深めている。
 彼の仕事は、演奏会だけでなく、市の劇場のためのオペラ作曲、教会音楽の作曲など、
市における音楽活動のほぼすべてをカバーすることであった。
*演奏会の内容。
 フェリクスはルネサンス・バロック時代の作品を積極的に採り上げた。
ボンやケルンなどを訪ね、ラッスス、パレストリーナ、ペルゴレージらの写本を買い集め、演奏した。
またケルビーニの《レクイエム ハ短調》や
ヘンデルの《アレクサンダーの饗宴》《デッティンゲン・テ・デウム》、
ヴェーバーの《リラと剣》という声楽曲、そしてベートーフェンのピアノ協奏曲などを次々に演奏した。
1834年
(フェリクス25歳)
*デュッセルドルフ劇場の支配人カール・インマーマン、
フェリクスにいくつかのシェイクスピア劇のオペラ化を打診。
 しかし、オペラ作曲に関して慎重なフェリクスはこれらすべてを断った。
そして、劇場経営のあまりの煩雑さに、彼はそれを投げ出してしまう。
 短い劇場での活躍の中で、彼が指揮したオペラは、
《水運び人》(ケルビーニ)、《フィガロの結婚》《ドン・ジョヴァンニ》(モーツァルト)など。

 この職を辞したのは彼の音楽活動にとって有益だったかどうかは疑問だが、
これによって作曲に割く時間が増えたことは間違いなかった。

 彼は序曲《美しきメルジーネの物語》、ロンド・ブリランテ 作品29を作曲、
そしてオラトリオ《聖パウロ》の作曲に取り掛かる。
*ニーダーライン音楽祭。
 この年はアーヘンで行われた音楽祭にゲストとして参加、
ここでショパンとヒラーに再会。
 フェリクスは二人をデュッセルドルフに連れて帰り、演奏しあったり音楽談義に花を咲かせたりした。
ショパンのピアノ演奏を聴いたフェリクスは、
ショパンについて「奇蹟のようなものだ」と述べた。
 フェリクスはシューマンやショパンのようなスタイルが好みだったようで、
逆にヴィルトゥオジティに満ちた作曲家、
たとえばベルリオーズ、リスト、パガニーニの作品については価値を見出していない。
ルネサンス・バロック時代の作品を理想としていたフェリクスらしいといえば、らしい。

 ただ、ショパンとも完全に音楽観が一致していたわけではなく、自らとショパンについて、
「(北米の)チェロキー族と(アフガニスタンの)カフィール族が会って話しているようなものだ」
と書いている。
1835年
(ファニー30歳、
フェリクス26歳)
*デュッセルドルフに対する不快感。
 フェリクスは、急激に成長するこの都市の雰囲気や、
自らの求めるレベルに一向に到達しないオーケストラのレベルに嫌気が差し
(ベートーフェンの《エグモント》序曲のリハーサルの際、激怒してスコアを破り捨てたという逸話がある)、
この職を辞する決心を固める。
 すでにミュンヘンの劇場からのオファーが届いていたが、フェリクスは父に相談して熟考し、
それは断ってもうひとつのオファーを受け入れることにした。
それは、ライプツィヒからのものだった。
6月〜 *ファニーたち、旅行に出る。
 ヘンゼル一家、父母を連れてフェリクスが指揮するケルンのニーダーライン音楽祭へ。
この年のメインはヘンデルのオラトリオ《ソロモン》だったが、
ファニーはフェリクスに頼み込んで、合唱のアルトパートの一員として参加した。

 ファニーたちは7月にパリへ行き、ファニーは旧知のマイアベーアと会ったが、
彼はフェリクスと不和であったので、この再会は芳しいものとはならなかった。

 その後ブーローニュでハインリヒ・ハイネやカール・クリンゲマンの来訪を受ける。
 それからベルギーへ向かい、ヘントやアントワープへ。
 ボンへ立ち寄った時、夫ヴィルヘルムの母が重病ということで予定を切り上げてベルリンへ帰る。
9月27日にベルリンへ帰還、10月4日のヴィルヘルムの母の死を看取る。
10月14日にフェリクスがいったん帰ってきて、またライプツィヒへ。
*ライプツィヒ市の音楽監督に就任。
 ライプツィヒ市と年明けから文書にて職務内容や年棒など細かな打ち合わせを繰り返し、
すべての条件がクリアになったのを確認した上で、フェリクスはライプツィヒへ移ることを決定した。
 ライプツィヒではシューマンやクララ・ヴィークと知り合い、意気投合して熱心に付き合うことになる。
10月4日 *ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団との初めての演奏会。
 自作の序曲《静かな海と成功した航海》に続き、
ヴェーバーの《魔弾の射手》よりシェーナとアリア、
シュポーアのヴァイオリン協奏曲第11番、
ケルビーニの《アリ・ババ》より序奏を演奏、
そしてメインとしてベートーフェンの交響曲第四番を演奏した。
この演奏会は大成功を収め、ベートーフェンでは、楽章ごとに聴衆が拍手喝采したという。
シューマンもこの演奏会を絶賛した。
ただ、本人からすると、
練習時間の不足のため自作の序曲とベートーフェンしか満足いく演奏ができなかったらしい。

 フェリクスはゲヴァントハウス管弦楽団を指揮し、
ベートーフェン、ハイドン、モーツァルトの交響曲、そしてバッハをベースに、
同時代の作曲家の作品も積極的に紹介した。
曲の新旧に関わらずその鮮やかな指揮で音楽に生命を吹き込むフェリクスのもとへ、
同時代の作曲家達は次々に自作の初演を依頼した。

 彼は始めて指揮棒を使用し、その振り方や身振り、目配せなどでオーケストラを手足のように操った。
また、膨大なスコアを全て記憶し、本番では暗譜で指揮を行った。
そのスタイルがあまりにもカッコよかったため、彼の指揮法はあっという間に広まった。
現在の指揮者の祖は、疑いなくフェリクスと言うことができる。
作曲もせずに棒振ってるだけでメシを食っている人は、みんな彼に感謝しなければならない。
11月19日 *父アブラハム・メンデルスゾーン、亡くなる。
 厳格で慎重で、フェリクスにとっては時に足枷になることもあったが、
フェリクスはそれでも父を尊敬しており、迷うことがあった場合は誰よりも先に相談を持ちかけていた。
アブラハムのよく知られた言葉としては、
「私はかつては父の息子として知られていたが、
今では息子の父親として知られている」
というのがある。
自分は、かつては高名な哲学者であったモーゼス・メンデルスゾーンの息子として知られていたが、
今では、有名な作曲家であり指揮者であるフェリクス・メンデルスゾーンの父として知られている、
ということ。
また「自分は父と息子をつなぐダッシュ(―)である」と言ったこともある。
しかし彼は一代で財を成した優れた銀行家であり、そして人格者であった。
フェリクスの姉ファニーが堅信礼を受けた際、彼は堅信礼書簡にこう記した。

「神は存在するのか?自己の一部分は永遠不滅のものであるのか?
私にはわからないし、だからお前にもそれについては教えなかった。
しかし私が知っているのは、私やお前や、すべての人間の中に、
善、真実、正しきこと、および良心を永遠に求める傾向があり、
我々が道を踏み外した時、我々に警告し、導いてくれるということだ。
私はそれを信じ、その信念の中で生きている。そしてそれが私の宗教なのだ」
 フェリクスは父の死に非常なショックを受けた。
そして、父が完成を心待ちにしていた作曲中のオラトリオ《聖パウロ》の完成に向け、
今まで以上に作曲、修正に没頭した。
父もこの仕事に関わっているのだ、ということを忘れないようにするために。

 ファニーも非常なショックを受け、日曜演奏会を続ける意欲をなくしてしまう。

4.ライプツィヒのマエストロ

1836年
(ファニー31歳、
フェリクス27歳)
2月 *ベートーフェンの交響曲第9番を指揮する。
 彼の前任がこの曲を演奏したことがあったがその演奏会は大失敗で、
ライプツィヒの人々はこの作品に対して何ら価値を見出さなかった。
しかしフェリクスの指揮によって、ライプツィヒの聴衆はこの作品が偉大であることを認識した。
5月22日 *ニーダーライン音楽祭にて《聖パウロ》初演。
 古巣・デュッセルドルフで行われたこの大きな音楽祭で、
フェリクスは新作のオラトリオ《聖パウロ》を演奏。
ハイドン以来の大作オラトリオに聴衆は熱狂、
シューマンは「現代の至宝」と絶賛した。
フェリクスは演奏を終えるとこの作品にいくつか不満な点を見つけ、
次回作ではもっと良いものを作ろう、と思った。

 他には、《レオノーレ》序曲(のどれか)やベートーフェンの交響曲第9番が演奏された。

 ファニーもこれに駆けつけ、リハーサルに立ち会って語り合った。
演奏も聴き、ベートーフェンの交響曲に対しては、
「・・・陶酔的にと指示され、しかしその頂点で急変し、
どん底へ、茶番喜劇へと落ち込んでゆく結末部を持った、巨大な悲劇」

と評している。

よくわかる。
  夏
*フランクフルト・アム・マイン滞在。
 ニーダーライン音楽祭後にフランクフルトを訪れたフェリクスは、
チェチーリア協会の依頼に応じ、病床の指揮者ヨハン・ネポームク・シェルブレの代理として、
バッハのカンタータ第106番《神の時はいと良き時》を演奏した。
チェチーリア協会はフェリクスの《マタイ受難曲》蘇演に刺激されて同曲を演奏し、
また、バッハ音楽の収集家であったシェルブレにより、
このカンタータも1833年5月に彼の指揮により蘇演され、その後毎年演奏していた。

 フェリクスは、バスのアリオーソ「今日、汝はわれと共にパラダイスにあるだろう」から
コラール「安らぎと喜びもてわれは逝く」への部分をとりわけ好んでいた。
またこの曲については、
「この作品はバッハのほかの作品とは著しくスタイルが異なっているので、
最初期か、そうでなければ最晩年の作品でしょう」
と述べている。
現在では、このカンタータは現存する最初期のカンタータとされている。

 また、ヘンデルのオラトリオ《サムソン》も演奏した。

 この地でフェリクスは、やっと父の死という痛手から立ち直った。
そして、ジャンルノー家の未亡人の娘・セシル(20歳)と出会い、恋に落ちる。

 引退していたロッシーニ(44歳)とも会う。
ロッシーニはフェリクスの《カプリッチョ嬰ヘ短調 作品5》を聴いて、
「これはちょっとスカルラッティのソナタの感じがするね」
と言った。
フェリクスはあとでヒラーに不満を述べたが、ヒラーは、
「それのどこが悪いんだい」
とロッシーニに賛成した。
 ロッシーニは、フェリクスが器楽曲や管弦楽曲に染まらずオペラを書くように期待した。
7月、
11月
*ファニー、作品集の出版を望む。
 知人のカール・クリンゲマンにそのことをもらし、
またフェリクスには自作出版の許可を求める手紙を出す。
しかしフェリクスは否定的であった。
1837年
(ファニー32歳、
フェリクス28歳)
1月 *ファニー、自作を出版する。
 夫の勧めに従い、歌曲「舟遊びをする女」を、
シュレージンガー社出版の歌曲集『アルバム』の中の一曲として世に出した。

1月24日、フェリクスはファニーに手紙を書き、ライプツィヒではファニーの歌曲が大人気で、
『新音楽時報』の編集者はファニーに夢中になっている、と書きながらも、
あまり好意的ではなかった。
ライプツィヒでは3月にファニーの歌が演奏され、好評を得た。 
3月28日 *フェリクス、セシル・ジャンルノーと結婚。
 ジャンルノー家のあるフランクフルトのワロン・フランス改革派教会で挙式。
フェリクスは《フランクフルトのワロン教会のためのカンティク》を作曲し、
披露宴で演奏した。
 しかし、メンデルスゾーン一家はこの独断の結婚に不満だったのか出席せず、
奔放な伯母のドロテーアのみが出席した。

新婚旅行のあと、10月にライプツィヒに着き、ルルゲンシュタインス・ガルテンの新居に移る。
セシルは音楽的素養はあまりなかったものの、かろうじて彼のピアノ曲は好んでいた。
 フェリクスは喜びの中、いくつかのピアノ曲やピアノ協奏曲ニ短調、
詩篇42《谷川慕いて鹿のあえぐごとく》などを作曲した。
12月25日 *ファニー、自作をセシルに贈る。
歌曲「ズライカ(ああ、おまえの湿った翼が)」など。
1838年
(ファニー33歳、
フェリクス29歳)
2月19日 *ファニー、公のコンサートに出演。
 アマチュア・コンサートではあったが、公衆の面前で演奏した。
曲は、フェリクスのピアノ協奏曲第1番ト短調。

 英国の批評家、ヘンリー・F・チョーリーはメンデルスゾーン家の演奏会で彼女の演奏を聴き、
「もし彼女が貧しい生まれで、自分の腕で稼がなければならなかったとしたら、
きっとクララ・ヴィーク・シューマンやマリー・プレイエルのような大ピアニストになっていただろう」
と書いた。
*ニーダーライン音楽祭に出演。
 その後、セシルと共にベルリンへ。
しかし、ジングアカデミーで自作の合唱曲を聴いた時、フェリクスはマジ切れした。
さらに、ベートーフェンの交響曲第7番を聴き、「粗野で傲慢な演奏」と切って捨てた。

この年には、ケルンの音楽祭にも出演している。
1839年
(ファニー34歳、
フェリクス30歳)
3月21日 *フランツ・シューベルトの交響曲第8(9)番ハ長調《グレイト》初演。
 作曲当初は「天国的に長く、難しい」として演奏を拒否された作品をシューマンが発掘、
フェリクスに演奏をゆだねた。
フェリクスはライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団を指揮してこの大作を初演、
その真価を明らかにした。
この演奏は大反響を呼び、12月に再演が行われた。
*ニーダーライン音楽祭に出演。
ヘンデルのオラトリオ《メサイア》、自作の詩篇42《谷川慕いて鹿のあえぐごとく》を指揮。
その後、ブラウンシュヴァイクの音楽祭にも出演。
*ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団員の給料をアップさせる。
 優れた実力を持つ手兵が生活に苦しんでいるのを知っていたフェリクスは、
各地を奔走し書類を何度も書き直すという苦労の末、楽団員給料アップを実現させた。
また、楽団員を50名に増員する。

 コンサートマスターとしてフェルディナント・ダヴィットを招聘した。
そして彼とともに「ゲヴァントハウス室内演奏会シリーズ」を企画し、
さまざまな室内楽曲を演奏した。
秋〜 *ヘンゼル家、イタリア旅行へ発つ。
 ファニーの音楽人生最良の時となるイタリア旅行。
夫妻、長男ゼバスティアン、そして料理番のイェッテという四人での旅となった。
 まずライプツィヒでフェリクスと《エリヤ》の構想について話し合い、
それからミュンヘンで、かつてのフェリクスのロマンス相手、
デルフィーネ・ハンドレイ(旧姓フォン・シャウロート)と会う。
デルフィーネはファニーの前で演奏し、ファニーは(過去のことはともかく)
その技量については高く評価した。
 それからアルプスを越え、ミラノ、ヴェネツィア、フィレンツェを観光し、
11月26日、ローマに着いた。
 
 ローマのサロンには、かつて日曜音楽会にも参加していたランツベルクがおり、
そのつてでピアノ演奏を行うことになる。
 7日にはフランスアカデミーのヴィラ・メディチを訪問。
フランスの芸術家との交流を深めていくことになる。
 また、サン・ピエトロ大聖堂に足を運び、宗教曲を耳にした。
1840年
(ファニー35歳、
フェリクス31歳)
*フェリクス、ライプツィヒ音楽院の設立を申請する。
*ファニーとシャルル・グノー。
 ファニーはフランス・アカデミー会員である作曲家シャルル・グノー、ジョルジュ・ブスケや
画家のシャルル・デュカソーらと親交を深めた。
 ファニーはバッハ、モーツァルト、ベートーフェン、シューベルトそしてフェリクスの曲を中心に
自作も交えて演奏し、三人は彼女の演奏に傾倒した。
とくに21歳とまだ若いグノーの心酔ぶりは、まるで聖母に対するかのようだった。

 5月2日、ファニーは自宅でグノーとブスケの前でピアノを演奏、
彼らはバッハの演奏に感動した。彼らは自作をファニーに見せ、批評を乞うた。
 ランツベルクのサロンに招かれ、バッハの3台のピアノのための協奏曲を演奏した。
 16日、ファニーとその仲間たちは深夜を散歩中、バッハの協奏曲を大声で歌いながら
ローマの町を練り歩き、ファニーはあとで後悔した。
 20日、ファニーがローマをもうすぐ離れることを知ったフランス・アカデミーの面々は、
彼女のために音楽や絵画をプレゼントした。ただしグノーは病気で欠席した。
 30日の夜、デュガソー、ブスケ、グノーらが来て、ファニーのピアノを聴いた。
ヴィルヘルムはその三人の肖像画を描いた。
グノーは感極まってファニーの足元にまろび伏し、バッハのアダージョを弾いてくれと願った。
外ではランツベルクたちが歌曲を歌い、彼らも招き入れられて音楽会の様相を呈した。
 そして31日、フランス・アカデミーでファニーの演奏会が行われた。
ファニーはアカデミー院長アングルと連弾し、
バッハのプレリュードやアダージョを演奏した。

  グノーはその回想録で、ファニーのことを絶賛している。
彼女がいなければ、グノーが大バッハの平均律クラヴィーア曲集の巻頭を飾るプレリュードに
旋律をつけた、あの名高い《アヴェ・マリア》は決して生まれなかっただろうし、
一説には、それはファニーの作曲であるとさえいわれている。
 またファニーはグノーにドイツ文学、ことにゲーテについてもレクチャーしており、
それも《ファウスト》の誕生にもつながっていると思われる。

 6月2日、一家はナポリへ向かう。
6月25日 *交響カンタータ《讃歌》初演。
 ヨハネス・グーテンベルクによる活字印刷発明400周年記念行事のために依頼された作品で、
ライプツィヒ・聖トーマス教会にて《祝典歌》とともに演奏された。
この作品はその後同年9月23日にイングランド・バーミンガム音楽祭で、
また12月3日と16日にライプツィヒ・ゲヴァントハウスでも演奏された。
6月〜9月 *イタリア旅行後半。
 イタリア南部を回るが、海上の天気がすぐれないことで船に弱いファニーは体調を崩し、
ひとりナポリにとどまる。そこへ、ブスケとグノーがやってきた。
三人は節度を持った交友で気分を紛らわせ、ヴィルヘルムとゼバスティアンの帰りを待つ。
そして合流後、8月11日から海路でナポリからジェノヴァへ向かい、14日着。
ミラノを経由してコモでヒラーに会い、9月3日にライプツィヒでフェリクスに会う。
そして11日、ベルリンに戻った。
12月 *ファニー、日曜音楽会を再開。
 イタリアでの経験で、創作意欲が大復活した。

5.光と影と

1841年
(ファニー36歳、
フェリクス32歳)
4月4日 *ライプツィヒ聖トーマス教会にてJ.S.バッハ《マタイ受難曲》を演奏。
 枝の主日における演奏。
1829年演奏のものに更にアリアとコラールをいくつか追加、全部で40曲とし、
レチタティーヴォ・セッコの伴奏をピアノフォルテからチェロとコントラバスに変更。
かつて大バッハがこの曲を演奏した同じ場所での演奏、感慨深いものがあっただろうか。
*ファニー、ピアノ連作集《一年》を作曲。
 イタリア滞在の経験にもとづき、
イタリアの一年間の行事や風景を一月〜十二月という十二曲のピアノ連作集として作曲した。
  *フリードリヒ・ヴィルヘルム四世、フェリクスを招聘。
 プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルムは、
芸術アカデミー音楽部門の主任として
「新音楽院の設立」を任せる、という申し出でフェリクスをベルリンに招こうとした。
ベルリンに良い思いをしていなかったフェリクスは、
ライプツィヒの住居や職務はそのままにしてベルリンに赴いた。

 フェリクスは、早速音楽院の機構について提案を行ったが、それらは全て無視された。
《聖パウロ》《讃歌》の演奏は、ほとんど支持を得られなかった。
ベルリンの音楽家と自作のピアノ三重奏曲ニ短調を演奏したが、それは大失敗に終わった。
10月 *劇付随音楽《アンティゴネー》上演。
 ギリシア古代悲劇復興運動の一環。ソポクレスの悲劇への作曲。
10月末、ポツダムの新宮殿において上演され、
翌年にはベルリン一般市民の前でも公開上演された。
これによりフェリクスには感謝決議が送られた。しかし、反対勢力もあった。
ただ、《アンティゴネー》は、まもなくアテネ、ロンドン、パリに広まった。
1842年
(フェリクス33歳)
1月20日 *交響曲第3番イ短調《スコットランド》完成
 若い頃に作った第1番、それに続く第5番《宗教改革》、第4番《イタリア》
そして第2番《讃歌》につづく、フェリクス5番目の交響曲。
しかし、フェリクスは第1番はその内容における満足度から習作と捉えており、
《宗教改革》も同じ理由から事実上の破棄状態、さらに《イタリア》も気に入らず改作中で、
《讃歌》は純粋な交響曲ではない、と認識していたため、
これが実質上フェリクスの「最初の交響曲」となった。
当時も演奏会のメインとなるのは交響曲であったので、
そこに自作のレパートリーを持つことは彼の長年の念願だった。

 《スコットランド》という通称は《イタリア》と同じく彼の死後につけられたもので、
生前はシューマンのようにこの交響曲から「イタリア的」なものを見出す者もいた。
フェリクスは確かに20歳の時の英国旅行の際のイメージをもとにこれを作曲していたが、
シューマンの評を訂正することはなく、自らの着想について明かすことはしなかった。

 フェリクスは2月にライプツィヒに戻り、
3月3日にゲヴァントハウス管弦楽団を率いてこの作品を初演した。
ベルリンへ帰還したフェリクスは、すぐに改訂の指示を出し、改訂版はライプツィヒで17日に再演された。
*ニーダーライン音楽祭出演。
 メインイベントともいえるヘンデルのオラトリオ《エジプトのイスラエル人》を演奏。
最後の演奏会ではフェリクス自身がピアノの即興演奏を披露した。
そのときの騒ぎは大変なもので、
演奏が終わるや婦人達は全てフェリクスに「襲いかかり」、
彼のハンカチはズタズタに引き裂かれ、その細かい切れ端は記念品として婦人達の所有物となった。
まさに聖遺物というところか。ここではフェリクスは聖人のごとき崇拝を集めていた。
6月 *英国訪問。
フィルハーモニー協会の演奏会に出演。
序曲《ヘブリディーズ諸島》は喝采を浴び、アンコールを要求された。
交響曲イ短調も英国初演。この時の演奏会にはアルバート公も列席した。
また、教会でオルガンの即興演奏を行った。
 バッキンガム宮殿に招かれ、ヴィクトリア女王とアルバート公に謁見する。
このとき、交響曲イ短調を女王に献呈。
他人には明かさなかったものの、この曲がスコットランドに着想を得たもの、
という意識を確かに持っていたことは、この行為と、この後に書いた母への手紙でわかる。
フェリクスは自作(そして姉ファニーの曲も含む)のピアノ曲やオルガン曲、声楽曲を披露。
ヴィクトリア女王やアルバート公も歌った。
女王は《聖パウロ》の中の合唱「いかに麗しきかな、よき知らせを告げ知らせる者は」を好んだという。

 この曲はフェリクスにより四手ピアノ連弾用に編曲され、
12月にヴィクトリア女王に献呈された。女王はアルバート公と共にこれを弾いて楽しんだ。
10月 *プロイセン王への謁見。
 フェリクスはベルリンでの職務を辞することを申し出た。
プロイセンとの間で話し合いが行われ、
*フェリクス・メンデルスゾーンはプロイセンの音楽総監督に就任すること
*王が仕事を委任した時はそれを引き受けること
などの条件で、ライプツィヒに帰ることとなった。
ライプツィヒに戻ったフェリクスは、前年ザクセン王から設立許可が下りていた
音楽院の設立に取りかかった。
*ベルリオーズ来訪。
 旧交を温め、互いの指揮棒を交換した。
フェリクスはベルリオーズ・プログラムを組み、
《リア王》《宗教裁判官》序曲、
幻想交響曲、《ロメオとジュリエット》抜粋、そして《レクイエム》を演奏した。
ただ、ライプツィヒの聴衆にはベルリオーズの音楽はいまいち馴染まなかった。
12月12日 *母レアが亡くなる。
音楽会はまた一時中断。
1843年
(ファニー38歳、
フェリクス34歳)
2月 *ヘンゼル一家、ライプツィヒへ旅行。
 ファニーはベルリオーズと知り合い、シューマンの演奏を聴く。
クララとも会ったが、このときは理解しあうまでには至らなかった。
4月3日 *ライプツィヒ音楽院開校。
ローベルト・シューマン(ピアノ・作曲担当)、トーマス・カントルのモーリツ・ハウプトマン(対位法)、
フェルディナンド・ダーヴィト(ヴァイオリン)、カール・フリードリヒ・ベッカー(オルガン)など、
一流の音楽家が教官として採用され、第一期生の生徒は42名を数えた。
フェリクスは作曲部門を担当した。
のちにモシェレスがピアノ、ニルス・ゲーゼが作曲マスタークラス担当として加わった。

 フェリクスの先生ぶりは、大変簡潔でわかりやすい一方、
課題の出来が悪かった生徒を必要以上に怒ったり、あとで同僚間で嘲笑したりした。
彼の性格そのままといえばそのまま。
そのせいで、自分は教師には向いていない、と思っていた。
ただ、生徒が音楽に集中できるように、との信念は持っていて、
生徒への奨学金の増額を申請して、そのつどアップさせていた。
4月 *グノー、ベルリン来訪。
 欧州遊学中、ただファニーに会うためだけにベルリンにやってきた。
市内観光などせず、ひたすらメンデルスゾーン家に通い、ファニーのピアノを聴き、
音楽について語り合った。
前半 *上半期の音楽活動。
《最初のヴァルプルギスの夜》完成。
ライプツィヒではニルス・ゲーゼの交響曲第一番初演、
ドレスデンでは《聖パウロ》の上演。
エクトル・ベルリオーズとの再会。
10月14日 *劇付随音楽《夏の夜の夢》上演。
プロイセン王の依頼により、
シェイクスピアの同名戯曲のための付随音楽を作曲しなければならなくなったフェリクスは、
16歳の時に作曲した序曲《夏の夜の夢》のモチーフを駆使して急ピッチで仕上げ、
この日、ポツダムの新宮殿で上流階級・知識人らの前で演奏した。

列席していた姉のファニーはオーケストラのピアニシモの響きに感動していたが、
指揮していたフェリクスは、間奏曲の途中に王の仕切り席から聞こえてきた
紅茶カップのカタカタ音にキレる寸前だったらしい。
10月末 *日曜音楽会再開。
 ほどなくフェリクスがベルリンへ戻ってきて顔を出すようになったため、大盛況となった。
リストも顔を出していたようだ。
11月 *再びベルリンへ。
 大聖堂の教会音楽の指揮と、王立管弦楽団のシンフォニー・コンサートの指揮(分担制)
をゆだねられたフェリクスは、条件面で合意し、ベルリンへと引っ越した。
1844年
(ファニー39歳、
フェリクス35歳)
1月1日 *フェリクス、自作の《詩篇98》をベルリン大聖堂で演奏。
3月31日  *ポツダム・ガルニゾン教会でヘンデルのオラトリオ《エジプトのイスラエル人》を演奏。
 ファニーもリハーサル・演奏会に立ち会った。
枝の主日の演奏会は、教会が満席になるほどの盛況となった。
しかし、ベルリンには「教会音楽はアカペラで演奏されるべき」という一派があり、
ほどなくフェリクスと対立した。
 フェリクスは相変わらず自らに敵対する勢力が多いことで、すぐにベルリンがいやになってしまった。
5月 *英国旅行。
 第8回。
4月にライプツィヒでベートーフェンのピアノ三重奏曲変ロ長調作品97の演奏会を終えたあと出立。
ロンドン・フィルハーモニーは、すでに彼のような一流の指揮者を呼ばなければ
利益を得られないほど逼迫していた。
フェリクスは六回の演奏会を行い、450ポンドの利益を協会にもたらした。
このとき、シューベルトの交響曲第8番やゲーゼのハ短調交響曲を演奏しようとしたが、
楽団員が演奏を拒否したので、怒ったフェリクスは持ってきていた自作の序曲《ルイ・ブラス》を演奏しなかった。
7月 *バート・ゾーデンでの休養。
 疲れた体と心を休める。
9月16日、1838年より練り上げていたヴァイオリン協奏曲ホ短調をついに完成させる。
11月30日 *ベルリンへ戻る。
 フェリクスは、再びベルリンでの職を辞することを申し出た。
王も半ばあきらめていたのかこれを了承、
依頼があったときのみ作曲すればよい、という条件でその任を解いた。
フェリクスはベルリンを去る。
*ファニー、鼻血の発作に襲われる。
 ヘンゼル家は冬のフィレンツェ旅行を行うことになっていたが、その出発寸前、
ファニーは三十六時間も鼻血が出続ける発作に襲われ、出発は年明けまで遅れた。
これが、のちの悲劇の発端だった。
 一家は45年1月に出発、フィレンツェで妹レベッカを看病してその娘の出産を見届け、
ローマまで行ったのち8月にベルリンに戻る。

6.憔悴と絶望、そして死

1845年
(ファニー40歳、
フェリクス36歳)
3月13日 *ヴァイオリン協奏曲ホ短調初演。
 フェルディナンド・ダーヴィトのヴァイオリン、
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団にて演奏。
フェリクスはフランクフルトでオラトリオ《エリヤ》、ピアノ三重奏曲ハ短調、
弦楽五重奏曲変ロ長調、オルガン・ソナタ、
そしてソポクレスの劇付随音楽《コロノスのオイディプス》(もちろんプロイセン王の依頼!)
の作曲に多忙のため
これを指揮することができず。指揮は副指揮者ニルス・ゲーゼに委ねた。
*フランクフルト滞在。
 多忙な作曲活動。新大陸のニューヨークからの招待があったが、これを断る。
またオペラ台本を捜したが、気に入るものは見つからなかった。
8月 *ライプツィヒに戻る。
 ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮は、ニルス・ゲーゼと分担となった。
友人のデヴリエントはこの頃のフェリクスをこう評した、
「生気溢れたみずみずしい明るさは、現世の疲労に取って代わられている」
この頃の肖像を見ると、見た感じ額がひどく広くなっているので、若禿・・・?とか思う。
12月4日 *ジェニー・リンド、ライプツィヒで演奏会を開く。
 ジェニー・リンドは25歳で、自らピアノ伴奏しながら歌うことができ、
非官能的なクリアな声を持つ優れたソプラノ歌手。
ハインリヒ・ハイネは彼女を「歌われる処女性」と表現している。
フェリクスは彼女を絶賛し、ライプツィヒに招いて演奏会を開き、また自邸に招待した。
彼女とセシルの関係は少しばかり冷ややかだった、とジェニー・リンドの伝記は記す。

 この日歌われたのは、《ノルマ》より「清らかな女神よ」、
《ドン・ジョヴァンニ》より、「言わないで、あなた」。
1846年
(ファニー41歳、フェリクス37歳)
  *ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏会で《タンホイザー》序曲を採り上げる。
 フェリクスは元来速いテンポを好み、指揮でもそうだった。
この序曲も速いテンポで演奏したため、聴衆の反応は冷ややかだった。
それまでヴァーグナーとフェリクスの関係は良好だったが
(44年、ベルリンでの《さまよえるオランダ人》初演時に
フェリクスは舞台に駆け上ってヴァーグナーに祝辞を述べ、
ヴァーグナーも一年後の《聖パウロ》の演奏に賛辞の文を著した。
また、彼のことを「音の風景画家」と讃えていた)、
この一件がヴァーグナーの心にフェリクスに対する疑念を起こすことになったかもしれない。
フェリクスの死後、ヴァーグナーはユダヤ人である彼への激烈な批判を開始することになる。
4月 *ジェニー・リンド、ライプツィヒで演奏会を開く。
二度目。フェリクスやクララ・シューマン、ダヴィットも参加した。
5月 *アーヘンでのニーダーライン音楽祭に出演。
 ジェニー・リンドも参加し、ハイドンの《天地創造》からアリア三曲を歌った。
フェリクスは《エリヤ》初演には彼女にソプラノを歌ってほしかったが、
彼女が宗教曲をあまり歌った経験がないために、ここで《天地創造》を歌わせたという。
  *リエージュで《ラウダ・シオン》初演。
  *ケルン音楽祭に出演。
祝祭歌《芸術家たちに》を初演。
8月26日 *バーミンガムにてオラトリオ《エリヤ》初演。
 バーミンガム音楽祭より依頼されていたオラトリオ《エリヤ》を完成させたフェリクスは、
ウィリアム・バーソロミューとともに歌詞を英訳。音楽祭で満を持して初演した。
聴衆は熱狂し、いくつかのアリアと合唱曲がアンコールされた。
このオラトリオは大反響を呼び、英国では《メサイア》《天地創造》と並び称される人気を得た。
現在でも、この三曲をまとめて「三大オラトリオ」と呼ぶことがある。

 公演前から大反響だったため、プログラムには、《エリヤ》の前に、
モーツァルトの《悔悟するダヴィデ》とチマローザの《アブラハムの犠牲》からの抜粋、
ヘンデルの《戴冠式アンセム》より「王は喜び」が追加された。
ただ、フェリクスはこれが気に入らなかった。
  *体調の不良。
 フェリクスは扁頭痛に悩まされながら英国より帰国。
医者より「これ以上ピアニストとして演奏会を開かないこと」を強く勧められる。
フェリクスはこれを了承。
指揮からは事実上身を引き、春と秋はフランクフルト、夏はスイス、
冬はベルリンでほぼ作曲に専念することにした。
ライプツィヒの音楽監督、ベルリンのプロイセン王からの依頼、
そして毎年のように招待される音楽祭などの激務により、
それほどまでに彼の体は消耗、衰弱していた。
11月5日 *シューマンの交響曲第二番ハ長調を初演。
 一線からは身を引いたものの、友人シューマンの新作交響曲の初演には自らタクトを振った。
しかし、41年の第1番初演時ほどの反響が得られなかったため、
シューマンとフェリクスの関係はしばし悪化した。
12月 *ファニー、作品集出版。
 ボーテ・ウント・ボック社より、《ピアノ伴奏つき六つの歌曲 作品1》を出版、
フェリクスの妻セシルに献呈された。
 フェリクスはこれに対して沈黙していた。
ファニーはさらに《ピアノフォルテのための四つの歌曲 作品2》を出版。

 翌年には「庭の歌曲集 ソプラノ・アルト・テノール・バスのための六つの歌曲 作品3》を出版、
さらにシュレージンガー社から《ピアノのための六つのメロディー 作品4・5》を出版。
そして彼女の死後、ボーテ・ウント・ボック社より歌曲集の作品6・7が出版された。
1847年
(ファニー41歳、
フェリクス38歳)
2月 *シューマン夫妻、ベルリン滞在。
 前年末からベルリンを訪れ、ファニーと親交を深める。
クララとファニーは2月の日曜演奏会で競演した。
3月18日 *ライプツィヒで最後の指揮台に立つ。
4月11日 *ファニー、ピアノ三重奏曲ニ短調を演奏。
4月13日 *英国演奏旅行。
 10度目の渡英。ロンドン、バーミンガムとマンチェスターで《エリヤ》を演奏。
ロンドンではアルバート公が列席、
「彼こそ第二のエリヤである」
と評した。
 フィルハーモニック・ソサエティで《夏の夜の夢》《スコットランド》や
ベートーフェンのピアノ協奏曲第4番を演奏。

 フェリクスはこの旅行に天才少年ヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒムを連れてきていた。
5月13日 *ファニー、絶筆となる歌曲「山の喜び」(詩:アイヒェンドルフ)を作曲。
5月14日 *ファニーの死。
 フェリクスの四歳年上の姉ファニー・メンデルスゾーンは、
音楽においては弟にも劣らぬ才能を秘めていた。
ゲーテも彼女の歌曲を好み、
フェリクスへの手紙でファニーのことを「等しく才能のある姉君」と記している。
また彼女はフェリクスが幼い頃から大変仲が良く、
作品を作る際にはいつも相談を持ちかけ、また完成するとまっさきに批評してもらっていた。
ファニーは作曲家として立つことは許されなかったが、その歌曲やピアノ曲は秀作揃いで、
フェリクスは自分の曲集に姉の作品を交えて発表することもあった。
 シャルル・グノーは、フェリクスの無言歌について、
「それらの多くは姉ファニーの作曲したものだ」という噂を記している。
 ファニーがプロイセンの宮廷画家ヴィルヘルム・ヘンゼルと、
そしてフェリクスがセシルと結婚したあとも親密な関係は続いており、
セシルも少しばかり嫉妬していたようだ。
フェリクスが多忙のため家を空けている間は、
ファニーがメンデルスゾーン家の「日曜音楽会」を取り仕切っていた。

  フェリクスがヴィクトリア女王に招聘されてともに歌曲を演奏した際、
女王はある歌曲を「これが一番素晴らしい曲です」と言ったが、それはフェリクスのものではなく、
ファニー作曲の「イタリア」だった。

 フェリクスは姉の才能を認めていたが、彼女が作品集を出版することは反対していた。
彼女が「作曲家」となってしまうと、どうしても自らと比較され競うこととなってしまい、
今までの関係が崩れてしまうと考えたからである。
「自分だけの姉さん」がそうでなくなるのがイヤだった、ということか。
しかしファニーは自分の意志を貫き、自作のピアノ曲集を出版。大好評を得た。
フェリクスも姉の意思を認め、これを応援することを約束した―――矢先のことだった。

 この日、ファニーは朝からの来客を応対し、
午後は昼寝を返上して「日曜演奏会」のためのリハーサルを行っていた。
曲はフェリクスの《最初のヴァルプルギスの夜》だった。
ファニーはピアノを弾いていたが、突如手が麻痺してしまい、いったん休憩した。
そして彼女抜きで行われていたリハーサルに聞き惚れつつホールに戻る途中、
再び発作を起こして意識を失い、回復しないまま、23時に息を引き取った。
脳溢血による急死だった。享年41歳。

 彼女の机の上には、前日に書き上げられた楽譜が置かれたままだった。
その歌曲の最後の二行、

思いと歌は
天上へと届く

 
は、彼女の墓碑に記されることとなった。
 彼女は、ベルリンの聖三位一体教会に埋葬された。

 これを聞いたフェリクスは、恐るべきショックを受けた。
ただでさえ心身ともに衰弱しているところに最愛の姉の死の知らせを聞いたことで、
叫び声を上げるや気を失って倒れてしまった。
それ以来、彼の仕事は機械的になり、一人でいることを好み、
とくに森を一人で散策することが増えた。
その足取りは老人のように重く、また極度に興奮しやすくなり、
知人達は、フェリクスがもはや別人のようになってしまったと感じた。

 フェリクスは、姉の未公開の遺稿を整理して作品8から11にまとめ、
ライプツィヒのブライトコプフ・ウント・ヘルテル社に引き渡した。
それらは、フェリクスも亡くなった後の1950年に出版された。
*スイス滞在。
 静養のためにスイスへ赴いたフェリクスは、
激情に駆られて弦楽四重奏曲ヘ短調(第六番)を作曲。
「姉へのレクイエム」とも言われるこの作品は、第一楽章から凄まじい激情と絶望が荒れ狂う、
およそ弦楽四重奏曲のイメージから逸脱したもの。
フェリクスの精神状態がそのまま叩きつけられた、
心の叫びともいえる作品。気分が沈んでいる時にこの曲を聴くことはおすすめできない。

 英国の批評家チョーリーはインターラーケンに滞在中のフェリクスを訪ねた。
フェリクスは意外にもロッシーニをほめ、ドニゼッティにも好意的で、ヴェルディに興味を示していた。
二人はリンゲンベルクの無人の教会に行き、フェリクスはオルガンを演奏した。
バッハの作品や、自身の主題にもとづく即興演奏だった。
11月4日 *死去。
 ベルリンを訪れ、それからライプツィヒに戻ったフェリクスは、
さし当たって11月の《エリヤ》国内初演への準備を行わなければならず
(ソプラノ・ソロはジェニー・リンドが務めることになっていた)、
また、作曲中の歌劇《ローレライ》と、
オラトリオ《クリストゥス(キリスト)》の作業を続けることに集中しなければならなかった。
 さらに、ロンドンから翌年演奏予定の交響曲、
リバプールから新ホールこけら落としのための新作の依頼があり、
またケルン大聖堂から献堂式のための作品、
フランクフルトからは新しいカンタータを依頼されていた。
 彼は沈鬱する精神を何とか奮い立たせながら作曲を続けたが、
10月9日、強い不快感にとらわれ、病床に着く。
一ヶ月の間に三度の発作が起こり、二度目で体が麻痺し、三度目で意識を失った。
混濁する意識の中、彼はハミングをしたり、手で拍子をとったりしていた。
やがて彼は意識を取り戻し、部屋に人がいるのを認めた。
妻のセシルが痛むか、と訊ねたが、フェリクスは「いや」と答えた。
「お疲れなのね?」と声をかけると、彼は言った。
「うん・・・疲れた。とても疲れた」
これが最期の言葉となった。
 21時24分、フェリクス・メンデルスゾーンは息を引き取った。
享年38歳。

 彼の死の知らせに、ライプツィヒは呆然となった。
埋葬はベルリンの姉の墓の隣になされることとなり、葬送列車が用立てられた。
ベルリンへ向かう葬送の列車は途中何度か停車したが、その地の住民たちは松明を持って集まり、別れの歌を歌った。

 英国のヴィクトリア女王は弔意の手紙を送り、ザクセンやプロイセンの王もそれにならった。

 ゲヴァントハウス管弦楽団は定期演奏会を取りやめ、
ベートーフェンの《英雄》とフェリクスの作品からなる追悼演奏会を開いた。
フェリクスの友人リディア・フレーゲは、フェリクスが死の前に作曲し好んでいた歌曲「夜の歌」を歌った。
 ロンドンでは追悼公演として《エリヤ》が演奏された。
11月12日、ウィーンでのオラトリオ《エリヤ》の原語初演は、彼が立つはずであった指揮台に黒い幕を被せて行われた。
追悼演奏会や儀式は、バーミンガム、マンチェスター、パリ、ベルリン、ハンブルク、フランクフルトなど欧州諸都市だけでなく、
1848年2月14日にはニューヨークで、市内の主な音楽団体の総力を結集して行われた。
そこでは、ベートーフェンの《英雄》第二楽章、
モーツァルトの《レクイエム》より「レコルダーレ」、
フェリクスの《讃歌》《エリヤ》《聖パウロ》よりの抜粋が演奏された。
ジェニー・リンドも追悼演奏会を開き、エリヤのソプラノ・ソロを歌った。
その収益は、彼を記念して英国に設立された「メンデルスゾーン奨学金」にあてられた。


 彼の葬儀は盛大に行われ、皆その死を惜しんだが、彼の死後間もなくから彼への攻撃が始まり、
かつて友好的であったヴァーグナーは、フェリクスがユダヤ人であることも交えて激しい批判を加えた。
 ナチスが政権を取った後はその傾向に拍車がかかり、
1936年、トマス・ビーチャムがロンドン・フィル楽団員と共にライプツィヒのフェリクスの記念碑に花環を捧げようと訪れた時、
彼らはそれが粉々に打ち砕かれ、銅像は無くなっているのを見た。
フェリクスの作品には中傷が加えられて価値のないものとされ、その存在を音楽史から抹消する者もいた。
 さらに彼の作品の演奏は禁止された。しかし、ヴァイオリン協奏曲ホ短調だけは作曲者名を伏されて演奏され続けた。

 ナチスが倒れた後でもメンデルスゾーンの音楽は、
「富裕の生まれで人生において苦労することが少なく、そのためにその音楽は浅薄で深みがない」
と評されることが多い。
 日本でもそういう評価が多く、音楽学校によっては、
フェリクスが「音楽史上何の貢献もしていない」として最初から教えないとかいう話も。
 ドイツ音楽を最も尊重し、その価値観に引きずられ気味な日本では、ナチス時代の評価がまだ生き残っているといえる。
富裕な人間がよい音楽を生み出すことが出来ないのならば、現代にはもう優れた音楽家は生まれなさそうだ。

メンデルスゾーンは、常に純粋な様式の模範であり続け、際立った音楽的個性の持ち主として一般に認められるであろう。
その個性は、ベートーフェンのような天才の輝きの前では確かに見劣りするが、
ドイツの職人的音楽家の巨大な群れからは、はるかに抜きん出て際立って見える。
(ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー)

1997年の没後150年を機にCDがぼつぼつ出始め、
ピリオド楽器による演奏はそれほど珍しくなくなり、
2004年にはなんと廉価版レーベルから宗教曲(ほぼ)全集が出るなど、
メンデルスゾーン・ルネサンスはひと通り達成された?次は2009年の生誕200年。
マイナーな曲でもっと凄い演奏がたくさん出てきてくれることに期待。


参考文献:
『メンデルスゾーン』(ハンス・クリストフ・ヴォルプス著、尾山真弓訳、音楽之友社、「大作曲家」シリーズ)