アナバシス


『アナバシス』は、紀元前401年、ペルシア王アルタクセルクセス二世に反旗を翻した王弟キュロス(小キュロス)に従軍したギリシア軍傭兵一万余がキュロスの戦死によりペルシア王国の真っ只中に取り残され、そこから戦っては退き、退いては戦っての決死の退却戦を繰り広げつつ北へ逃れ、ついに6000kmを踏破しイオニアへと帰還する顛末を記したアテナイ人クセノポンの著作。
以前一度読んだが、内容忘れてしまったのでもう一回読んで要約してみる。


1.王弟キュロスの反乱 2.誓約 3.退却戦始まる 4.カルドゥコイ人の地
5.アルメニア雪中行軍 6.海だ、海だ!

1.王弟キュロスの反乱

 紀元前401年、アケメネス朝ペルシア王アルタクセルクセス二世に王弟キュロスが反旗を翻した。小アジアに勢力を持ち、ギリシア人傭兵指揮官にコネを持っていたキュロスは、自らの十万の兵の他にクセニアス、プロクセノス、ソパイネトス、ソクラテス、パシオンらの指揮官に率いられたギリシア人傭兵一万三千を率い、サルデイス(地図。イズミールの100km東、サリヒリのあたり)を発しアルタクセルクセス向け進撃した。
 途中傭兵隊長メノンの千五百の歩兵、クレアルコスの重装歩兵一千、トラキア軽装歩兵八百、クレタ弓兵二百、そしてギアスの重装歩兵一千が加わる。ギリシア兵は当初その反旗について何も知らされておらず、キュロスの領地を脅かす敵を討伐しに行くとだけ聞かされていたが、その進行方向から兵に疑念が起こった。キュロスはそれをうまく言いくるめながら進軍し、のちにマケドニアのアレクサンドロスが武勲を轟かすイッソスを通過、ここでさらにスパルタ人ケイリソポスの重装歩兵七百を加えた。しかし当初から従軍していたアブロコマスが四百の兵とともにペルシアに寝返った。さらにクセニアス、パシオンがキュロスの目的が反乱ではないかと疑い、逃亡する。キュロスはユーフラテス河畔のタプサコス地図。シリアのアル・ラカーのあたり)に至って反旗を公にした。ギリシア兵は動揺したが、キュロスは反乱が成功した暁には莫大な恩賞をとらせようと約束した。キュロスは人望があり、ギリシア人にも日頃から親しくしていたので、ギリシア人もこれに納得し、兵を進めた。
 キュロスはユーフラテス河沿いに進軍し、ついにアルタクセルクセス率いるペルシア軍とバビロン手前のクナクサ近郊(現在のバグダッド西方のユーフラテス河東岸のあたり)で対峙した。キュロスは、ユーフラテス河沿いの右翼にクレアルコス、メノンが率いるギリシア傭兵隊(一万二千五百四十人)を展開、左翼に自らの配下アリアイオスの軍を配置し、自らは中軍にあって騎兵六百とともに待機。対するペルシア軍は百二十万と号し、寝返ったアブロコマス、ティッサペルネス(これはイオニア地方でキュロスと対立していた人物で、彼の反旗を察知し報告のために都に舞い戻っていた)、ゴブリュアス、アルバケスが各三十万を率いることになっていたが、アブロコマスは徴兵に手間取り、まだこの場に現われていなかった。よって戦場には九十万の兵しかいなかった。
 戦闘が始まり、まず右翼のギリシア傭兵軍がティッサペルネス軍と激突した。この中にはエジプト兵もいたが、ギリシア軍はこれを押し返した。と、ペルシア軍から車輪に鎌を取り付けた鎌戦車が突撃してきたが、ギリシア軍は散開してこれをやり過ごし、仕留めていった。このときキュロスよりギリシア人傭兵指揮官のリーダーであったクレアルコスに「ペルシア軍の中央に向かうように」と命令が届いたが、ペルシアの広く展開した軍陣の端がギリシア軍よりさらにユーフラテス河畔のほうへ伸びているのを見たクレアルコスは、包囲されることを恐れてそれに従わなかった。ギリシア軍は相手との間隔を狭めると、軍歌(バイアーン)を歌いつつ進撃した。ペルシア軍は矢の射程距離にいたる前に逃走した。
 ペルシア軍はギリシア軍が優勢と見ると、大軍を活かして一気に包囲体勢に入った。その動きを見て取ったキュロスは、騎兵六百を率いて一気にペルシア中軍に突撃した。キュロスはペルシアの前衛に展開していたアルタゲセスの騎兵六千をあっというまに潰走させるとアルタゲセスを討ち取り、そのままペルシア軍に突入、大王アルタクセルクセスの姿を認めるやまっしぐらに撃ちかかった。その一撃は大王に命中し彼は手傷を負ったが、そのときペルシア兵の手槍がキュロスの眼の下を撃った。大混戦となり、キュロスとその重臣は乱戦の中、討ち死にした。
 ペルシア軍は右翼からキュロス軍を圧迫。アリアイオスはキュロスが討ち死にしたことを知ると真っ先に逃走した。左翼が崩れ、ペルシア軍はキュロスの陣営に雪崩れ込んだ。ギリシア軍はペルシアの左翼を突き崩し追撃中であったが、クレアルコスはプロクセノスと後方に救援に戻るかどうか思案する。そこへティッサペルネスが自ら軽装歩兵を率いて攻めかかってきたが、ギリシア軍はこれをはね返し、ティッサペルネスはそのまま河畔方向からギリシア軍を迂回するとキュロス陣営へと進み、ペルシア軍と合流した。ギリシア軍が転進するが、ペルシア軍はティッサペルネスを収容するといったん軍をまとめて引き返し、陣を組みなおして改めてギリシア軍と対峙した。ギリシア軍はこれに突撃、ペルシア軍は退却、もう一度突撃、また退却、そしてペルシア軍はそのまま去っていった。ギリシア軍はいまだキュロスの戦死を知らず、陣営に戻り休息を取った。


2.誓約

 しかしじきにキュロスの戦死と、アリアイオスが逃走し前回に宿営した場所にいるという事実が明らかになった。クレアルコスはアリアイオスに「こちらへ来るならば貴殿を王位につけることを約束する」と伝令を出す。時を同じくして大王からの使者が到着、「キュロスは死に、我々は勝利した。ギリシア人は武器を捨て出頭せよ」と告げる。ギリシア人傭兵指揮官たちは協議したが、武器を捨てたあとの待遇が保証されていないという理由で「それはできない」という結論に達した。それを伝えた後、再び伝令が来て「ここにとどまる限りは停戦、進むか退くかすれば戦いとなる」という大王よりの伝言を伝えた。クレアルコスも「われらもそれと同意見だ」と答えた。アリアイオスへ出した伝令が戻ってきて、アリアイオスの言葉を伝えた。いわく「自分より高位のペルシア人が多くいるため、自分が王になっても彼らが承服しない。退却するなら、今夜のうちに合流しよう」。
 クレアルコスは退却を決意し、朝を待って出発、合流した。このときトラキア人ミルトキュテスが騎兵四百とトラキア歩兵三百とともに大王へ投降した。合流するとアリアイオスは言った、「糧秣がない。来た道では大王が焦土戦術をとっていた。そのまま引き返せば餓死してしまう」。次の朝、戦闘隊形をとりつつ北へと向かう。大王よりの使者が来たため、密集方陣を敷いて迎える。休戦交渉の使者だった。クレアルコスは言った、「ならばまず戦わねばならぬな。朝飯も出さずに休戦交渉をしようというのか」使者は言った、「休戦が成立すれば、糧秣のあるところへ案内しよう」クレアルコスは返事をしばらく引き延ばしてから了解する。使者の案内により三日間、糧秣を調達する。次いでティッサペルネスが使者として来た。「自分はギリシア人と境を接して住んでいる。だから貴殿たちを無事にギリシアへ帰してやりたいと思う。私が王にとりなしを求めたところ、王は『ギリシアの兵が王に向かって兵を進めた理由を訊いてこい』といわれた。なるべく穏やかな返答をして欲しい」クレアルコス、「王に反逆するつもりはなかった。キュロス殿がさまざまな口実を設けてこちらへ連れて来ようとしたのだ。しかし日頃の彼の厚遇に報いるために彼を裏切らなかったのだ。今やキュロス殿は亡くなられたから、王に危害を加える気は全くない。好意には好意を返し、その恩に報いたい」ティッサペルネス、「そのように報告しよう。王の返事はまた伝える。休戦は継続とし、市場は開いたままにしよう」
 次の日、また次の日ティッサペルネスは来なかった。ギリシア人が不安に駆られる中、三日目にティッサペルネスがやってきた。彼は言った、「説得に時間がかかったが、ギリシア人を救ってもよいという許可を王より取りつけた。わが国土を有効裡に通ってもよい。市場も提供しよう、もし市場が開けぬ場合は徴発してもよい。ただ、それなりの節度を持って通過し、民に危害を加えてはならない」クレアルコスとティッサペルネスは誓約を交わし、ティッサペルネスは王の許へ帰っていった。

 二十日以上が経過した。アリアイオスの許へ縁者が訪れ、王より全てを許すという命令が出た、と伝えた。安心したアリアイオスは、以後ギリシア軍に冷たくなった。ギリシア人は彼の態度に憤ったが、一方で「王は今のうちに軍勢を集結させわれらを討つつもりではないのか」と不安に駆られた。クレアルコスは彼らを宥める。そしてティッサペルネスが軍勢を率いて到着、先導して市場を提供するが、軍勢を率いてきたティッサペルネスそしてアリアイオスの変心に不信を抱いたギリシア軍は、ペルシア軍から離れて進んだ。
 三日後、「メディア人の城壁」(前六世紀にメディア人の侵入を防ぐためにバビロニアがバビロン北方に造った。この時代にはほとんど廃墟と化していた)へ到着。それから二日で二つの運河を渡り、大猟園のあるシッタケの町に到着した。ここでペルシア軍の姿が見えなくなった。アリアイオスからの使いが来て、「ペルシア軍の夜襲に注意せよ」と伝える。「近隣の猟場にペルシア軍が集結し、ティッサペルネスはティグリス河に兵を派遣して橋を落とし、橋と運河の間にギリシア人を閉じ込めようと企んでいる」とも。これを聞いたプロクセノスとクセノポンはクレアルコスにこれを伝えた。クレアルコスは恐れたが、その場にいた若者が言った、「その情報はおかしい。攻撃してくるのになぜ橋を落とすのか。戦えば勝つか負けるかだ。勝つならば橋を落とす意味はない。負けたら、退路を失うことになる。しかも援軍も送れないではないか」クレアルコスはこの辺りの地理を調べ、この地域がかなり広く、立てこもるにはよい場所であることを知った。彼らは、ペルシアがこの地にギリシア軍の立てこもることを恐れ、早くこの場を立ち去らせようと嘘の情報を流した、と判断した。
 ティグリス河東岸を北上し、ピュスコス河畔へ到達。オピスの町がある地図。ティグリス河の支流のうち、一番上に見えるのが大ザパタス河、次が小ザパタス河、その次がピュスコス河。バラドの対岸の辺り)。ここで王の一族の軍に遭遇する。その軍はギリシア軍の通過を眺めていた。クレアルコスは自軍を二列縦隊で大軍に見せかけつつ進んだので、そのペルシア軍は動けなかった。
 六日が経ち、キュロスと王母パリュサティスの所領である村落に到着。ティッサペルネスはキュロスに侮辱を加える意図で、この地での略奪を許した。
 それから四日行軍、カイナイの町から食料を提供してもらう。大ザパタス河(現在の大ザブ河)に行き当たり、ここで三日逗留。ギリシア軍の不安は増大し、クレアルコスはティッサペルネスと会見、互いの猜疑心を解きたい、と申し出る。ティッサペルネスはこれを了解、両者の仲を割こうとした者を捜して名指ししよう、と提案し、指揮官や隊長らを改めて招いた。そこでプロクセノス、メノン、アギアス、クレアルコス、ソクラテスの五人の指揮官と二十人の隊長がペルシア軍を訪ねたが、ティッサペルネスは自分の幕屋に入ってきた五人の指揮官を捕縛すると外にいた隊長たちを斬殺した。警護の兵も殺されたが、アルカディア人ニカルコスが重傷を負いながらもギリシア軍の宿営地にたどり着いて今しがたの惨劇の顛末を報告した。すぐにペルシア側からアリアイオスとアルタゾオスが来た。オルコメノス出身のクレアノス、ステュンパロス出身のソパイネトス、アテナイ出身のクセノポンがこれに応対した。
 アリアイオスは言った、「クレアルコスは休戦協定を破ったので処罰された。プロクセノスとメノンはそれを通報したので厚遇されている。王は武器引渡しを要求している。諸君は王の下僕キュロスに使えていたのだから、王の臣下である」クレアノスは激怒して言った、「おまえは極悪人だ。キュロス殿に味方していながらティッサペルネスと手を組んでわれらを裏切り、誓いを立てた人間を殺し、敵と手を組んでここに来るとは、神々や人間に恥じるところがないのか!」アリアイオス、「クレアルコスが前よりティッサペルネスや私の命を狙っていたことはすでに発覚しているのだ」クセノポン、「それが事実なら、当然の罰を受けたとしなければならない。誓いを破ったのだから。しかしプロクセノスとメノンは貴方には恩人、われらには指揮官。送り返してもらいたい。二人は双方の味方なのだから、どちらにも最善の策を講じてくれるだろう」これを聞いたペルシア側は長い間相談していたが、返答せずに去っていった。紀元前401年、10月。


3.退却戦始まる

 指揮官や隊長たちを失ったギリシア人は途方にくれた。さてその夜、アテナイ人クセノポンは夢を見た。彼は指揮官でも隊長でも兵卒でもなく、キュロス王子に紹介するためにプロクセノスが呼び寄せた者だった。その夢は、雷鳴が起こって生家に落雷し、家全体が明るく照り輝く、というものだった。真夜中に目を覚ましたクセノポンはこれが吉夢か凶夢か考え込んだが、いずれにせよすぐさま事を起こさねばとプロクセノス指揮下の隊長たちを招集した。「寝ていてはいけない。相手はすでに攻撃体勢を整えている。われわれが敵の手に落ちればどうなるか。どんな残忍な罰を受けるかわからぬ。何としても王の手中に落ちてはならない。今や相手は誓いを破った。今まで金を払って買い取った物資は、これからは戦利品だ。勝を制した者への賞品だ。審判役は神々だが、神々は必ずわれわれに味方する。敵は神々の名にかけて誓いながらこれを破ったのだから」クセノポンは隊長たちを説得し、彼らはクセノポンを新しいリーダーに推した。ただ、ボイオティア訛りのアポロニデスは大王を説得するように言って反対したが、クセノポンはすぐに彼を論破し、ステュンパロス出身のアガシアスの発言から全員一致で彼を追放した。そして全軍から指揮官、隊長百名を参集、隊長中最年長のヒエロニュモスの先導で軍議が開かれた。クセノポンがもう一度先ほどの言葉を語り、これから退却戦に入るよう説得した。スパルタ人ケイリソポスはこれに感服し、全員の了解をとりつけた。そして指揮官の再選出が行われた。そして、

クレアルコスの部隊はダルダノスのティマシオンが
ソクラテスの部隊はアカイアのクサンティクレスが
アギアスの部隊はアルカディアのクレアノルが
メノンの部隊はアカイアのピレシオスが
プロクセノスの部隊はアテナイのクセノポンが

それぞれ率いることとなった。
 朝が来て兵士を召集、新しい五人の指揮官が兵を鼓舞し、クセノポンがこれから退却戦に臨むこととそれに対する方策を事細かに演説した。すぐさま車や天幕を焼き、余計な物は全て捨てて軍を身軽にし、必要なものは道中調達するか、あるいは戦って手に入れること。次いで軍規を徹底させることなど・・・最後にケイリソポスが挙手を促したところ、全員が挙手した。早速陣の立案が行われ、非戦闘員や駄獣、必要な車を中央に配置しその周りを兵士が囲む中空方陣で進むこととなった。前衛は勇猛なスパルタ人ケイリソポスが担い、左右はクレアノルとクサンティクレスが、危険な後衛は若輩のクセノポンとティマシオンが固める。
 ここでペルシアよりミトラダテスという者がひそかに投降、同行を申し出るが、問答の結果密偵と知れたので追い返し、朝食後すぐに出立、大ザパタス河を渡った。先を急ぐギリシア軍に、先ほどのミトラダテスが二百の騎兵と四百の弓兵で後衛を急襲した。騎兵・歩兵の弓矢と投石兵により後衛に損害が出たが、クレタ弓兵は射程が短く方陣の中にいたので対応できず。クセノポンは兵を率いて追撃したが、ペルシア軍はさっと引き上げて損害を与えることはできなかった。その夕方、村落を見つけて宿営。クセノポンは、昼間のペルシア軍の襲撃に際して相手に損害を与えられなかったことを責められる。クセノポンは素直に謝り、その上で、こちらも機動力のある部隊・遠距離攻撃のできる部隊を作ろうと提案する。投石を得意とするロドス人の中から投石の心得のある者を探し出して投石部隊を作り、さらに軍中の馬を集めて騎兵隊を編成した。かくて夜のうちに投石部隊二百が、朝が来て五十の騎兵隊が新設された。騎兵隊はアテナイ人ポリュストラトスの子リュキオスが率いることとなった。
 その日は軍の編成のためそこにとどまり、翌日早く進発、峡谷を渡る。渡り終えた時、ミトラダテスが騎兵一千、弓・投石兵四千にて出現した。この兵はティッサペルネスに請願して与えられたものであった。ギリシア軍はこれを待ちうけ、引きつけてから一気に突撃、騎兵もどっと襲い掛かった。ペルシア軍は大敗を喫し、敗走した。ギリシア軍はペルシア軍に恐怖を与えるためにペルシア兵の死体を切り刻んだ。ペルシア歩兵は多数が戦死、騎兵十八も生け捕りにした。その日、ティグリス河畔の城壁持つ町ラリサへ到着。ここは無人の町だった。さらに一日行軍、かつてメディア人の造ったメスピラの町に到着。ここも無人の町だった。そしてまた一日行軍し、ここでティッサペルネス、オロンタスほかの率いるペルシアの大軍が後方に姿を現した。
 ペルシア軍はギリシア軍を後方から包囲するように展開、そのまま押し包みながら石と矢で攻撃してきたが、こちらもロドス兵の投石やクレタ弓兵で応戦、ペルシア軍は勝を得られぬと見るといったん退いてその日はそれ以上の攻撃を行わず、間隔を取って後を追ってきた。夕刻、村落にて宿営。ペルシア軍は夜襲を恐れていったん遠方に撤収した。ギリシア軍は次の日村々から食料を補給、その翌日出発し平地を進む。ティッサペルネスが遠距離攻撃しながら追尾してきた。行軍中、狭いところを通るとき方陣は不利になるということで、百人の中隊を六隊編成し中隊長を任命、さらに五十人隊隊長と分隊長を任命、軍の両翼に配置して、隘路などで両翼を絞る際はあとに残って両翼のあとから進み、また展開するときにはその空隙を素早く埋めるということを徹底させた。
 四日が経ち、五日目に王宮や多数の村落、道路の見える丘陵地帯に出てくる。後方のペルシア軍に騎兵がいるためにギリシア軍は高所を取ろうと丘を上ってゆく。しかし、ギリシア軍が二つ目の丘に上るために一つ目の丘を下っている時、機を見計らっていたペルシア軍がどっと襲いかかってきた。これが二回繰り返され、被害が大きくなってきたため、ギリシア軍は別働隊を出して山頂へと兵を進め、ギリシア軍が丘を下る時にまたペルシア軍が攻撃してくればこれを挟撃する構えを見せた。ペルシア軍はこれを見て追撃を思いとどまった。ギリシア軍はそのまま二手に分かれて行軍し、村落で合流。ここで八名の軍医を任命、三日の間負傷兵の治療に当たらせた。

 四日目に出発、平地に出てくると、ティッサペルネス軍が肉薄してきた。ギリシア軍は近くの村落に入り、ここを拠点にして迎撃。ペルシア軍の遠距離攻撃を一日防ぎきる。夕刻になり、ペルシア軍はまた夜襲を恐れ遠くまで退却した。それを見るとギリシア軍はすぐに出発、夜を徹して行軍した。
 翌日は敵の姿を見ず、三日目もそうであった。しかし、四日目、ひそかに夜間進撃していたペルシア軍が先回りし、道路右手の高地を占拠しているのが見えた。同時にティッサペルネスの本隊がギリシア軍の後方に出現する。ギリシア軍は危機に瀕した。このまま進めば高地の別働隊の攻撃を右側面からまともに受けてしまうし(ファランクスは右側面が最大の弱点。皆が槍を持っていて防御の術がないため)、といってこのままでは挟撃を受けてしまう。前衛のケイリソポスは後衛にいるクセノポンに高地の敵を討つための軽装歩兵を連れて来いと伝令を出したが、クセノポンは後方のティッサペルネス本隊が気になったため単身ケイリソポスのもとへ行った。軍議が行われる。この中クセノポンが右手の山上に通じる道を発見し、さらにそこからペルシア軍別働隊のいる丘への下り道があることが判明。クセノポンは、軽装歩兵にて全力で山頂を目指し、そこにポジションを取ってしまえば別働隊は丘の上にはいられないはず、と献策。自らが山頂に向かうこととし、前衛の軽装歩兵を率いて出発した。と、別働隊もその動きに気づき、こちらも丘を捨てて山頂へと上り始めた。ギリシア軍はクセノポンの軽装歩兵隊に大声で声援を送る。その後方のペルシア軍も別働隊に声援を送った。クセノポンは部隊を率いるということには慣れていなかったが、兵を督励するのに悪戦苦闘しながらも山を上り、ついにペルシア軍よりも先に山頂へと達した。高地を取られたペルシア軍別働隊は遁走、ティッサペルネス・アリアイオス軍も作戦失敗と見るといったん退却した。
 ギリシア軍本隊は山を下りて平野部に出ると村を見つけ、そこで宿営する。しかし午後になるとペルシア軍が来襲し、略奪のために外へ出てきていたギリシア傭兵数人を殺す。ケイリソポスは軍を出してこれを退散させた。そこへクセノポンが合流、協議していったんこの地を引き払いひそかに退却することにした。次の日に一日だけ退却し、軍議を開く。捕虜を集めて周辺の地理を聞きだし、この後どういうルートを取ればいいかを話し合った。西に進む案が検討されたが、西にはティグリス河があって渡河が困難なうえ、平野部にはペルシア軍が駐屯し、さらには対岸にもペルシア軍の姿が見えるために渡河は事実上不可能ということで却下。東はペルシアの勢力下であり、自ら虎穴に入りに行くようなもの。そして南は論外。結論として、北に進むしかないということになった。北はカルドゥコイ人(クルド人の祖)の地。カルドゥコイ人は大王の命に服さない勇猛な民族。危険だが、アルメニアに入ればどこへでも任意の方角に進むことができる。ギリシア軍は北の山岳地帯へと進むことを決め、次の日の早朝ひそかに出発し平野部を横切って山へと入った。


4.カルドゥコイ人の地

地図。ティグリス河東岸に沿い北上を続ける。右手にカルドゥコイ人の住む山地が続く。
ティグリス河は西へ折れるが、北東に延びているのが支流のケントリテス河で、これがカルドゥコイ人とアルメニアの境界となっている)

 ギリシア軍は山頂に上るとそこから峠を次々に越えて山中の村へと達した。そこにいたカルドゥコイ人は村を捨てて山の中へと逃げた。ギリシア軍はこの村から食料を奪ったが、彼らの感情を可能な限り害さないためにそのほかのものには一切手をつけなかった。しかし、ギリシア軍は一万を超えるため、その最後尾が逃げてきたカルドゥコイ人と出くわしてしまい、攻撃されたと思ったカルドゥコイ人がギリシア軍に襲いかかってしまった。この小競り合いでギリシア兵数人が負傷した。ギリシア軍はその日はその村に宿営したが、カルドゥコイ人は周囲の山上に火を燃やして一晩中警戒していた。
 次の日、駄獣と捕虜を解放、身軽にして出発。戦ったり休息したりの一日だった。
 その次の日は激しい嵐となったが、食糧が少ないために強行軍となる。カルドゥコイ人の襲撃、矢や石を放って攻撃してきた。隘路であり、ケイリソポスは進軍を急がせたが、クセノポンの後衛は戦いながらの進軍となり、さらに前衛の行軍の速さについていけず、まるで敗走のような格好となってしまい多数の負傷者と戦死者を出した。ラコニア出身のレオニュモス、アルカディア出身のバシアスが戦死。
 その日の宿営地でクセノポンはケイリソポスに会い、前衛の速度が速すぎるために後衛が被害をこうむったと責める。ケイリソポスは言った、「山のほうを見よ、とうてい越えてゆかれぬのは君にもわかるだろう。あそこに険道が一本あるが、あそこにも多数の人間が群がっている。平地への出口をふさいでいるのだ。ひょっとすると彼らに先んじてあそこを確保できるかもしれないと思い、軍を急がせ君を待たなかったのだ。私の部隊にいる案内人は、あれしか道がないと言うのでな」これを聞いてクセノポンは言った、「私のところにも案内人が二人います。先日襲撃をかけられたとき、私たちは待ち伏せを仕掛けて生け捕りにしたのです」そして捕虜二人を連れてこさせて、他の道があるかどうか尋問した。
 一人は何を訊かれても、どう脅されても答えなかったので、もう一人の目の前で斬殺された。もう一人は言った、「今の男にはあなた方がこれから行く先の土地に嫁いで夫と暮らしている娘があるために、何を訊かれても知らないと言ったのです」そして、駄獣でも通れる道を案内しましょうと言った。ただ、途中に峠があり、そこを占拠しないと通れないとのことだった。
 指揮官達は隊長たちを召集、峠を攻撃する人材を募った。すると、重装歩兵隊長からメテュドリオン出身のアリストニュモス、ステュンパロス出身のアガシアス、パラシア出身のカリマコスが、軽装歩兵隊長からキオス出身のアリステアスが名乗りを上げた。アリステアスはこれまでにもこういう類の作戦を行うのにきわめて優秀だった。

 次の日、別働隊二千が案内人を伴って出発した。この日のうちに高地を襲って占拠し、その日は警備に徹して次の朝に本隊にラッパで合図し、それから平地への出口を確保している敵を攻撃、本隊と呼応して攻め落とす、という作戦。この日は激しい雨が降った。クセノポンは後衛を率いて本道を通って平地への出口に向かった。これは別働隊の動きを悟られないためだった。坂道に差し掛かる谷間へと入ると、突如カルドゥコイ人が山から大石を転がしてきた。大石は道に落ちると砕けて飛び散り、積み重なってたちまち進軍が不可能になってしまった。他の道を探そうとするも見つからず、夕刻になったのでひとまず退却した。カルドゥコイ人は一晩中落石をやめなかった。
 その頃別働隊は火を囲んで屯している敵に出会い、攻撃してその場所を占拠した。実はこれは目標の場所ではなく、本来の目標は右手の山の上方だったのだが、ここはその場所から平地への出口へと下りる道の途中だった。
 次の朝早く、別働隊は戦陣を整え静かに下って行った。濃霧のため、敵はこれに気づかなかった。至近距離に達すると、合図のラッパを高らかに吹き鳴らし、鬨の声を上げてどっと攻めかかる。不意を突かれた敵は遁走したが、その逃げ足は速く死者は少なかった。本隊はラッパを聞くと峠に向かった。落石箇所に着くと互いに槍を下ろして引き上げつつ進み、別働隊と合流してその場所を占拠した。
 そのころクセノポンは後衛の半分を率い、案内人の指した道を進んでいた。駄獣や輜重は落石箇所を進めないからである。すると、途中の道そばの小山に敵が群がっているのが見えた。ギリシア軍は縦隊を作って突撃した。ただ包囲して必死の戦いをされては困るので、逃げ場は開けておいた。敵はやがて逃走した。さらに進むと、第二の山があり、ここにも敵がいた。クセノポンは、このまま進んだ場合、第一の山を再占拠されると輜重隊が襲われる危険があると判断し、そこに守備兵を残しておくことにした。アテナイ人ケピソポンの子ケピソドロス、アテナイ人アンピデモスの子アンピクラテス、アルゴスから亡命してきたアルカゴラスら隊長と兵士がその任についた。クセノポンは第二の山を攻撃し、これも占拠した。さらに進むと、今までよりも険しい第三の山が見えてきた。これは昨晩ギリシア軍が襲った地のそばにそびえている山で、ここにも敵が群がっていた。しかしギリシア軍が接近すると、彼らはあっさりと逃走してしまった。クセノポンは高所占拠のために若い兵を率いて山に上り、残った軍には、戦闘態勢をとって停止し後続と合流するように、と言いつけておいた。そこへアルカゴラスが駆けつけ、第一の山のギリシア軍が打ち破られてケピソドロスとアンピクラテスが戦死し、兵士も、岩壁を飛び降りて後衛に合流した者以外は全滅してしまった、と報告した。第三の山のカルドゥコイ人は第一、第二の山の様子が見えていたため、あっさりとこの山を捨てて手薄な第一の山へと襲い掛かったのだった。そのカルドゥコイ人たちは、第三の山と相対する丘に移動した。
 クセノポンは通訳を通じて彼らと休戦の交渉を行い、戦死者の遺体の引渡しを求めた。カルドゥコイ側は、「村を焼かないならば」という条件で合意した。しかし、ギリシア軍後衛が続々と集結するのと同じくカルドゥコイ人も次々と合流してきており、事情を知らない者たちが、待機中の後衛に合流しようと山を下りるクセノポンに向けて石を落としてきた。クセノポンはルソイ出身のエウリュロコスに護られて帰還し、本隊に合流。全軍は村で宿営した。クセノポンとケイリソポスはカルドゥコイ人と協定をまとめて戦没者の遺体を引き取り、案内人を返してやったのちに葬礼を行い、死者を手厚く葬った。

 翌日は案内者なしの行軍に。カルドゥコイ人はまたも攻撃を仕掛けてきた。狭いところでは先回りして攻撃を仕掛けようとするので、敵が先頭を妨げる時にはクセノポンが敵よりも高所に回り込んで攻撃、後衛を妨げる時にはケイリソポスが敵よりも高所に回り込んで攻撃と、互いに助け合うようにして進んだ。カルドゥコイ人は敏捷で、弓と投石器以外は身につけていないが、優れた弓の使い手だった。弓の長さは三腕尺(ペーキュス)あり、その矢は二腕尺(ペーキュス)に近かった。弓を引くときには、弓の下部を左足で踏みながら弦を引き、その矢は楯をも貫いた。ギリシア軍はその矢を得ると、投げ紐をつけて投槍代わりに使用した。この辺りの戦いでは、クレタ弓兵が最も活躍した。その指揮者はストラトクレスといった。
 その日はティグリス河支流のケントリテス河畔の平野を見下ろす村で宿営した。この河はアルメニアとカルドゥコイ人の境界となっている。カルドゥコイ人の地での一週間は戦いの連続だったために、ギリシア軍はようやく一息つき、喜んだ。


5.アルメニア雪中行軍

地図。11月から12月に入り、アルメニアは雪に覆われる。ヴァン湖の西を過ぎ、さらに北へと))

 次の朝、ギリシア軍は出立しようとして愕然とした。河の向こうに軍勢が展開していたのである。河沿いに完全武装の騎兵が布陣、その後方の高台には歩兵隊が戦列を組んでいた。これは、先にもティッサペルネスとともにギリシア軍を脅かしたアルメニア総督オロンタス、そしてアルトゥカイらの軍隊で、アルメニア人、マルドイ人、カルダイオイ人から成る傭兵隊だった。カルダイオイ人は独立した民族で、勇猛で知られている。歩兵隊のいる高台の後ろには道が続いており、まさにギリシア軍の渡河予定地点に向かい合わせに布陣していた。ギリシア軍は河岸にやってきたが、その地点は水が胸にまで達し、下は石が滑りやすく歩きづらい。装備を外して頭上に掲げながら用心して渡るしかないが、それは対岸のペルシア軍に虐殺されに行くようなもの。ギリシア軍は引き返して河畔に宿営した。背後では、前夜宿営した村にカルドゥコイ人が集結しているのが見えた。まさに前門の虎、後門の狼。ギリシア軍は前夜の安堵から一転、落胆してしまった。ギリシア軍は進むも退くもできず、その日はそのままそこにとどまった。
 その夜、クセノポンは夢を見た。それは、自らを縛めていた足枷がひとりでに外れて自由になり、思うように歩けるようになった、というものだった。目を覚ましたクセノポンは夜の明けないうちにケイリソポスのもとを訪れ、夢の内容を話して聞かせた。ケイリソポスは大いに喜び、朝日の出とともに指揮官を集め犠牲式を行った。すると、いきなり吉兆が表れた。彼らは式を終えると全軍に朝食を命じた。
 朝食中、クセノポンのもとへ二人の青年が走ってきた。クセノポンは、戦いに関する情報であればいつでも、たとえ食事中や睡眠中でも伝えに来てほしいと常々言っていた。二人は言った。「火をおこすために粗朶を集めていたところ、対岸の岸に迫って切り立った岸壁で老人と女と二人の少女が衣類の包みのようなものを岩穴へしまっているのを見ました。ひょっとしてここは渡河に安全な地点ではないか、と思い、泳ぐつもりで裸になり短剣だけ持って渡ってみましたが、腰までも漬からずに渡ってしまいました。渡ったあと、例の衣服を取って戻ってまいりました」クセノポンは大いに喜んでその場所で神々に献酒し、青年たちにも倣わせた。そしてケイリソポスのところに連れて行った。話を聞いたケイリソポスもすぐに献酒した。ケイリソポスは全軍に出発の用意をさせ、軍議を開いた。まずケイリソポスが全軍の半数を率いて渡河し、クセノポンが半数を率いて残る。非戦闘員や輜重は両部隊に挟まって渡河する、と決められた。
 ギリシア軍は二人の青年の案内で上流へ急行した。ペルシア軍騎兵もこれを見ると上流へと向かった。ケイリソポスは渡河地点に来ると全軍を戦闘態勢のまま止め、戦に臨むスパルタ人の慣習によって枝を編んだ冠を額に被り、上着を脱いで武器を取り、さらに全軍にもそうするよう指示した。隊長らに命じて各隊を縦隊に組んでから自らの左右に配置させ、占者に命じて河神に生贄を捧げた。敵は矢や石を放つもギリシア軍は動かず、やがて吉兆があらわれたと同時にギリシア軍は軍歌(バイアーン)を歌って鬨の声を上げた。合わせて非戦闘員として従っていた娼婦達も一斉に声を上げた。そしてケイリソポス率いるギリシア軍は河に足を踏み入れ、同時にクセノポンが後衛の中で最も敏捷な隊を率いて全力で引き返し始めた。これは、山々へ入る道に対する渡河地点を目指しここを渡って騎兵を挟撃すると思わせる疑兵だったが、ペルシア騎兵は目の前のギリシア軍がいともやすやすと渡河してくるのに驚いたうえにクセノポンの動きにも動揺し、あわてて逃走し始めた。いち早く河を渡ったギリシア軍騎兵隊のリュキオスとケイリソポス配下の軽装歩兵隊長アイスキネスが兵を率いてこれを猛追する。ケイリソポスは河岸の堤を目指し、それから高地へと向かった。高地にいた歩兵隊は騎兵が総崩れになったのを見ると戦わずして高地を放棄、騎兵隊とともに敗走した。ケイリソポスは高台を確保、リュキオスらは戦利品を獲て帰還してきた。
 さてクセノポンは対岸の状況を見るとまた本来の渡河地点へと全力で引き返した。カルドゥコイ人が平地に下りてきたのが見えたからである。輜重隊・非戦闘員は渡河中だった。クセノポンは兵を反転させカルドゥコイ人に対した。この状態に気づいたケイリソポスも救援の兵を差し向けたが、クセノポンは彼らには対岸で待機するように命じ、自らの軍は分隊レベルにばらし、どんどん左側へ展開させるとその左側からカルドゥコイ人に向かわせた。カルドゥコイ人はギリシア軍が少数と見くびって攻撃を仕掛けたが、平地での戦いでギリシア重装歩兵にかなうわけがない。たちまち蹴散らされて敗走した。クセノポンは追撃のラッパを吹かせると、追撃はせずに一気に渡河に向かった。今度は最初から展開せずに河岸に残っていた戦列の右端を先頭にして、細い縦隊は整然と渡河してゆく。カルドゥコイ人のうち少数はこれに気づいて引き返してきて攻撃をかけたが損害は軽微で、逆に対岸に待機していた救援軍のうち血気盛んな者達が河を渡ってこれに攻撃をかけ、これを追い散らしてからクセノポンの後衛に付いて戻ってきた。
 全軍が合流したのは正午前、ギリシア軍はそれから丘の続く平原を戦闘隊形のまま進んだ。アルメニア人とカルドゥコイ人は交戦状態のため、河の近くには村はなかった。やがて総督の宮殿のある大きな村に到着した。ここには食糧が豊富に蓄えられていた。

 ギリシア軍はそこを出ると二日行軍、ティグリス河の水源(ヴァン湖に発するビトリス河のこと?)を越えた。
 さらに三日行軍、テレボアス河(東ユーフラテス河支流のカラ・スー河?)に達した。河畔には多くの村があった。この辺りは西アルメニア地方である(現在のアルメニア共和国の領域とは異なる。ユーフラテス河より東、ヴァン湖より西の山岳地帯が古代の西アルメニア地方)。この時、アルメニア副総督のティリバゾス、これは大王の寵臣で、王の乗馬を側にいて助けることができる人物だったが、彼が騎兵を率いてギリシア軍に近づき、通訳を通して話をしたい、と申し入れてきた。ギリシア軍はとりあえずその言い分を聞いてみた。ティリバゾスはこう言ってきた。「自分はギリシア軍に危害は加えないから、ギリシア方も家を焼かないという条件で必要なだけの食糧を取ってよい」ギリシア軍は協議してとりあえずそれに合意、協定を結んだ。

 三日行軍。ティリバゾスは軍を率い10スタディオンの距離をとって並んで行進した。王宮のあるところへ着く。周囲には数多くの村があった。ギリシア軍はここに宿営したが、その夜に大雪が降った。時は11月だった。
 次の日、とりあえず動けないためにギリシア軍は周囲の村に分散して宿営することにした。ここは食糧や酒などが豊富で、ギリシア軍は存分に疲れを癒した。しかし外へ出た数人が、夜中に多数の火が赤々と燃えているのを見たと報告してきた。ギリシア軍は全軍をまとめた。天気も回復し、出発できそうだったからだが、その晩、また大雪が降った。人が埋まってしまうくらいの雪で、次の日ギリシア軍はまた分散宿営を余儀なくされた。その日の夜、ギリシア軍はテムノス出身のデモクラテスに兵をつけ、火が見えたという山へ向かわせた。デモステネスは帰ってきて、火は見なかったが、一人の男を捕まえたと報告した。その男はペルシア兵の装束だった。その男に厳しく問いただすと、ティリバゾスとカリュベス人・タオコス人の傭兵隊が山の峠、ほかに通路のない隘路で待ち受けていると白状した。これを聞いた指揮官達はすぐに全軍を参集し、警備隊とそれを指揮するステュンパロス出身のソパイネトスを残して出発した。捕虜に道案内させ、山越えにかかるとき、先発の軽装歩兵隊が敵を発見した。彼らは後続を待たずに奇襲をかけ、不意を突かれた敵は驚いて逃走した。軽装歩兵隊がティリバゾスの陣を略奪していると、遅れて重装歩兵隊が到着した。合流したギリシア軍は、村が襲われることを懸念し、ひとまず全軍を撤退させ、村へ戻った。
 次の日、ギリシア軍は昨日の隘路をティリバゾス軍より先に再占拠しなければと思い、輜重や非戦闘員も加えた全員の出発の用意を整え、深い雪の中を行進した。隘路のある高地を無事に越えて宿営する。そして次の日から三日行軍、ユーフラテス河(テレボアス河の北に位置する東ユーフラテス河の本流。ユーフラテス河はアルメニアに発し、そこから西に流れた後南、そして南東に折れてメソポタミアへと向かう。現在の地図ではムラト川がそれにあたるか)到達。ここよりユーフラテスの源流はさほど遠くないとのこと。臍まで冷たい水に漬かりながら河を渡り(地図ではマラズギルト〜カラケセ間のどこかか?)、さらに深い雪の平地を三日行進。三日目は北風が強く、まともに吹き付けてきて将兵は凍えてしまった。ここで占者が風に犠牲を供えようといい、供儀を執り行った。すると、風の勢いが衰えた。雪の深さは1オルギュイア(6フィート)あり、駄獣や捕虜が多数死んだ。兵士も約三十名が凍死した。その日の宿営では一晩中火を焚き続けた。薪は豊富にあったが、遅れて来た者は薪を持っていなかった。そこで、先に火を起こしていた者は彼らからいくらかの食糧を受け取る代わりに火にあたらせてやった。

 次の日もギリシア軍は雪の中を一日行軍し、日の暮れるころ前衛のケイリソポスは村へと到着した。城壁の前の泉のほとりに女が幾人かおり、誰何してきた。通訳がペルシア語で、自分達は大王に遣わされ総督を訪ねるところだ、と答えると、女達は、総督はここではなく1パラサンゲス離れたところにいる、と言った。ケイリソポスは村長に会うべく、彼女達とともに村へ入った。こうして前衛は村で一晩を過ごしたが、まだ村に到着しない後方では食事もとらず火の気もなしで進軍を続け、そのために凍傷で死ぬ者がいた。また、ペルシア軍の中には一団となってギリシア軍からの落伍兵や駄獣を襲うものもあった。
 クセノポンは、後衛部隊の落伍兵たちが温泉の周りに群がって動こうとしないのに気づいた。彼はそこへ向かい、ペルシア軍が追撃していることを告げなんとか前へ進ませようとしたが、彼らは、もう歩けない、いっそ殺してくれと言った。クセノポンは困ったが、ここはペルシア軍が彼らを襲わぬように威嚇するのが最善、と思い立ち、略奪品の奪い合いで騒々しく進んできたペルシア軍に対し後衛部隊を突撃させ、同時に喚声を上げた。ペルシア軍は驚いて遁走した。
 夕暮れとなり、ひとまずペルシア軍が再び襲ってくる気遣いはなくなったので、クセノポンは彼ら病兵には明朝見舞いを送ると言い残して部隊を前進させた。しかし4スタディオン進んだところで、前方で休止している部隊を見つけた。敵が前方にいるのかと、クセノポンは精兵を出して状況を探らせたが、彼らの復命によると、全軍が休止しているとのこと。そのため、彼らの部隊もその場で火もなく、食事もとらずに宿営することになった。
 夜明けになり、クセノポンは若い兵士を病兵のところにやり、何があっても彼らに行進させるよう命じた。ほぼ同時に、ケイリソポスが村から数人の兵士を派遣してきた。互いに大いに喜び、クセノポンは病兵を村へと運んでくれるよう彼らに託すと部隊を進発させ、20スタディオン足らずの行軍でケイリソポスの部隊と合流した。協議を行い、各部隊が村ごとに分かれて宿営することに決定、各部隊は籤で割り当てられた村へと向かった。
 この時アテナイ出身のポリュクラテスという男が、自分に自由行動をとらせてくれとクセノポンに願い出た。彼は兵士を連れてクセノポンの部隊に割り当てられた村へと向かうと、村人を村長にいたるまであらかた捕らえてしまった。この村には家畜や穀物が豊富にあり、大麦酒も貯えられていた。また、馬も数多く飼われていた。クセノポンは村長を食事に招き、ギリシア軍が他の民族の地に行くまでに道案内としてよく尽くしてくれれば、略奪は行わぬし、消費した分の食糧は補充して立ち去るから心配せぬように、と話した。村長はその通りにしようと約束し、善意の証として、地中に埋められている酒の貯蔵場所を教えた。全軍はその村の家々に分宿し、食事をとって安らかな眠りについた。ただ、村長とその子等には見張りをつけておいた。

 翌日、クセノポンは村長とともにケイリソポスを訪ねた。途中通過した村では、どこでもギリシア軍が宴会を行っていた。ケイリソポスのもとに到着すると、ペルシア語の通訳を通して村長への質問が始まった。彼によれば、ここはアルメニアで、村で馬を飼っているのは大王への年貢のためである、とのこと。また彼は、隣接する土地はカリュベス人の国であるといい、そこへ通ずる道路の位置も教えた。クセノポンは村長を家人のもとへ送り届け、また自分の老馬を、肥らせてから生贄に捧げよと彼に与えた。
 村へ来て八日目、クセノポンはケイリソポスに道案内として村長を渡した。その時、道案内が無事に済んだあとは一緒に帰すということで彼の息子を一人連れて行かせていた。村長の家にはできる限りの物資を運び込み、それからギリシア軍は荷造りをして出発した。村長は雪の中を縄をかけられずに案内していったが、三日めの夜中に逃亡してしまった。これは、その日の日中、村に案内してくれないとケイリソポスが村長に腹を立て、このあたりには村はないと主張する村長を殴りつけてしまったからである。彼は息子を置いたまま逃亡してしまったので、その息子は、彼を監視していたアンピポリス出身のプレイステネスのもとに留まった。プレイステネスは彼を気に入って国に連れ帰り、彼もよくプレイステネスに仕えたという。この事件によりクセノポンとケイリソポスが口論をする一幕もあったが、ともかくギリシア軍は先へ進んだ。案内者はいなくなり、手探りでの進軍となったのだが。


6.海だ、海だ!

 その後の七日間を日に5パラサンゲスのペースで進み、パシス河畔に達する(パシス河はカスピ海に注ぐアラクセス河上流のこと。現在のアラス河。黒海東岸にも同名の河があったため、ギリシア軍はそちらの河と勘違いしてこの河沿いに進んでしまい、大きく回り道をすることになる)。川幅は1プレトロン。この河を渡りさらに二日、10パラサンゲスを進んだが、平野に通ずる峠にさしかかる時、カリュベス人、タオコイ人、パシス人の部隊が前方に姿を現した。
 ケイリソポスは敵30スタディオン手前で軍を止めると戦闘隊形をとるよう命じ、それから指揮官と隊長を集めて軍議に入った。ケイリソポスは、まず全軍に朝食をとらせ、その上で山越えを今日にするか明日にするか協議しようと提案する。しかしクレアノルは、朝食後すぐに武装してあの敵を攻撃しようと言う。そこでクセノポンが提案した。現在越えようとしている山は60スタディオン以上の広さがあるが、敵が監視しているのはこの道のみである。よって、敵のいない山中のいずれかの地点を「盗み」、そこから攻撃をかけるのがいい。夜に兵を進めればそれも不可能ではないだろう。陽動作戦としてこの道から攻めれば、敵の増援がさらにあそこに集中するため、山はそれだけ手薄になるだろう、と。
「・・・ところで窃盗作戦については、私がでしゃばって言うことではありません。ケイリソポスよ、スパルタではあなたのような上層階級(ホモイオイ、直訳は「平等者」)の人間は子供のころから盗みの稽古に励み、法が禁じていないものなら何でも盗むことは恥辱ではなく手柄になると聞いています。巧みに盗み人に捕まらぬようにという趣旨から、盗みをして捕まった者は鞭で打たれる法律があるとか。ですから今こそあなたは幼児からの鍛錬の成果を発揮し、われらが山を盗んで捕まり、鞭で打たれぬようにしてほしい」
 最後にクセノポンがそう冗談を言うと(話の内容は事実)、ケイリソポスも冗談で返した。
「わたしのほうでも、君たちアテナイ人は公金を盗むことにかけては名人だと聞いているぞ。しかもいわゆる最高級の人間が一番敏腕だそうだな、君たちの国でそのような最高級の人間が政治を行うのに相応しいと考えられているなら、だが。したがって君にとっても、君の受けた教育の成果を示すには今が絶好の機会なのだ」
 見事に返されたクセノポンは、それでは自分が山の占領に向かおうと言ったが、ケイリソポスは後衛部隊の長がその任にあたるには及ばないとそれを退け、志願者を募った。すると、メテュドリオン出身の重装部隊隊長アリストニュモス、キオス出身の軽装部隊隊長アリステアス、同じく軽装部隊隊長であるオイテ出身のニコマコスが名乗り出た。高地を占領したら火を燃やすという取り決めがなされ、朝食後ケイリソポスは全軍を率いて峠へ10スタディオンの距離を進み、この道から進撃するように見せかけた。そしてその日の晩、別働隊が出発して高地を占領、多数の火を燃やし続けた。
 夜が明けると、ケイリソポスは犠牲を捧げたのち軍を率いて道路を進んだ。これに呼応して山を占領した部隊は尾根伝いに進撃する。敵軍の一部が別働隊のほうに向かったが、別働隊はこれを打ち破って追撃に入った。道路のギリシア軍は、まず軽装歩兵部隊が突撃、そして重装歩兵部隊がそのあとに続く。峠の敵は、山上の分遣隊が敗れたのを見ると逃走した。ギリシア軍は打ち棄てられていた編楯多数を切り刻んで使えぬようにし、峠の頂上で生贄を捧げ戦勝記念碑を建てると平野へ下り、物資の豊富ないくつかの村に到着した。

 その後、タオコイ人の国に向かって行程五日、30パラサンゲスを進んだ(河の勘違いで道を間違え、東に向かっている)が、食料が底をついてきた。タオコイ人は防御を固めたところに住んでおり、食料もすべてそこに運び込んでいたからである。そのような要塞のひとつに着いたとき、ケイリソポスはこれに攻撃をかけた。要塞の周りは切り立った崖になっており一斉攻撃はできず、部隊を入れ替えながら攻撃していたが、なかなか陥とせない。砦へ至る道はひとつしかなく、そこを通ろうとすると傍の岩山から敵が石を転がしてくるからである。そうしているうちに後衛部隊とクセノポンが到着した。二人は協議し、砦を防御する人数はごく少ないので、先に石をうまく使い尽くさせればよいということになり、ケイリソポスとクセノポン、そして、後衛部隊先導の当番だったパラシア出身の隊長カリマコスが七十人の兵士とともに続いた。林の茂みに身を隠し、カリマコスが時々そこから飛び出して落石を誘うと、たちまち車十台分以上の石が消費された。
 これを見ていたステュンパロス出身のアガシアス(カリマコスと同僚の後衛部隊隊長)は、一番乗りの功績を他の者に奪われることを恐れ、やにわに走り出すや砦に向かった。カリマコスはそうはさせじと彼の楯の縁をつかんだが、その間にこれも同僚のメテュドリオン出身のアリストニュモスとルソイ出身のエウリュロコスがそれを追い抜いて砦へと走る。この四人はいつも武勇を競い合う仲であったが、彼らはここでも競い合って砦を占領した。彼らが突入すると、もはや石は降ってこなかった。
 占領時の光景は凄惨を極めた。女たちはわが子を投げ落としてから自らも身を投じ、男たちも同様だった。ステュンパロス出身のアイネイアスは美しい衣装を着けた一人の男が身を投げようとするのを見、止めようとしてその体に手をかけたが、男は彼を引きずっていき、二人とも岸壁から墜落して死んだ。ここでは捕虜の数は少なかったが、鹵獲した牛と驢馬と羊は多数にのぼった。

 ここを出るとようやく踵を返して西に向かい、カリュベス人の国を通ること七日、50パラサンゲスを進む。カリュベス人は、ギリシア軍がこれまで通過してきた国々の住民の中では最も剽悍で、白兵戦を挑んできた。彼らは下腹まで届く麻の胸当てをつけ、裾布の代わりに綱を固く編んだものを使っている。脛当てや兜も着け、帯にはラコニア(スパルタ)人の用いる短刀ほどの大きさの短剣を挟む。相手を倒すとこの短剣で息の根を止め、首を切り取って行進する。敵に姿を見られそうになると、必ず歌をうたって踊る。また長さ15腕尺(ペーキュス)で穂先のひとつしかない(穂先の反対側の端に槍を地面に立てる石突のようなものがない)槍も持っている。彼らは小部落に住んでいるが、ギリシア軍が通過するときは必ず戦闘態勢で追尾してきた。彼らも堅固な場所に住み食料をみなそこへ運び込んでいるので、ギリシア軍は彼らから食料を調達できずにタオコイ人から奪った家畜で食いつないだ。

 カリュベス人の国を離れ、ハルパソス河畔に達する(現在のアラス河に沿ってアルメニア共和国に入るまで行き過ぎたあと引き返し、北へ向かってアルダハンのあたりで西へ折れ、近隣の川沿いに西へと向かっている)。川幅は4プレトロン。ここからスキュテノイ人の国を通り、平坦な道を四日の行程、20パラサンゲス進みいくつかの村落に到着。ここに三日間逗留し食料を補給。出発して行程四日、20パラサンゲス進み、ギュムニアスという大きな町に着いた。ここの支配者はギリシア軍に一人の道案内を送り、自分たちに敵対する勢力の中を通って案内してやろうと言った。道案内の男は「五日のうちに海の見えるところまで案内できなければ殺されてもいい」と断言した。
 ギリシア軍は彼の導きで先へ進み、やがて彼らの敵地へと入った。すると、彼はその土地を焼いて荒らしてくれとしきりに頼んだ。彼らが道案内を申し出たのはこれが理由だった。ギリシア軍は道案内してもらっていることでもあり、これに従った。
 五日目、ギリシア軍はテケスという山に着いた。ギリシア軍は山を登っていったが、先に山頂に達した先頭部隊が凄まじい叫び声を上げた。それを聞いたクセノポンと後衛部隊は新手の敵が攻撃してきたのかと思った。彼らの焼き打ちした地域からは追尾の兵が来ており、後衛部隊は先立ってそれと交戦していたからである。叫び声は次第に大きく近くなり、叫び続ける部隊を目指して後続の部隊が次から次へと駆け登ってゆく。頂上の人数が増えるにつれて声はいよいよ大きくなり、クセノポンは容易ならぬ事態が起こったものと馬に飛び乗ってリュキオスと騎馬隊を率い救援に駆けつけた。すると、彼らの耳に兵士たちが後ろへと伝え送る叫び声が聞こえてきた。

「海だ、海だ(タラッタ、タラッタ)!」

 後衛部隊はそれを聞くと全員駆け出した。頂上に着いた者は遠くに広がる黒海を見ると、指揮官も隊長も一般兵の区別もなく泣きながら互いに抱きついた。突然、誰が言い出したのか兵士たちが石を運んできてそれを積み上げ、大きな石塚を作った。そしてその上に牛皮や杖、鹵獲品の楯を積み上げた。道案内した男は楯を切り刻み、他の者にもそうしてくれ、と言った。ギリシア軍は道案内の男に全軍共同の蓄財の中から、馬一頭、銀製の皿一枚、ペルシア風衣装一式とダレイコス金貨10個を与え、国元へ帰してやった。この男は特に指輪を欲しがり、兵士たちから指輪をたくさんもらっていた。男はギリシア軍の宿営地についての指示を与え、マクロネス人の国へ行く道を教えると、日暮れを待って夜の道を立ち去った。

 行程三日、マクロネス人の国を10パラサンゲスを進んだ。
 一日目に、マクロネス人の国とスキュテノイ人の国の境になっている河に到達した。渡ろうとする河岸は木立で覆われていたのでギリシア軍がそれを伐採し始めると、毛の肌着をまとった人たちが対岸に集まり、投石してきた。もっともギリシア軍までは届かず、それらはみな河中に落ちた。
 その時、軽装歩兵隊の一人で、アテナイでは奴隷であったと自称している男がクセノポンのところに来てこう言った。自分はおそらくここの出身だと思う、差し支えなければ彼らと話し合ってみたい、と。クセノポンはそれを許し、彼らが何者であるか、なぜ自分たちに敵対するのかを問うようにと命ずる。その兵士が対岸の人々に向かってその旨を聞いてみると、彼らはマクロネス人であり、ギリシア軍が自分たちの国に入ってきたから攻撃しようとしたのだ、と答えた。指揮官たちが「自分たちに攻撃の意思はない、自分たちは大王と戦ってギリシアへ帰るところで、海岸へ出たいだけだ」と兵士に言わせると、向こうはその保証がほしいと言う。ギリシア側もマクロネス人が自分たちを襲わない保証をほしいと言い、かくて双方が保証の印として槍を交換し、神々にかけて誓約した。
 誓約が終わると、マクロネス人たちはギリシア軍と一緒に木を伐るのを助けたり、ギリシア軍が通れるように道を作ってくれたりした。また物資のほうも可能な限り調達の便をはかってくれ、自らの国を三日間にわたり誘導してくれた。

 マクロネス人の国を過ぎ、コルキス人の住む山岳地帯へと達する。
 マクロネス人たちと別れて進むギリシア軍は、進路の山上にコルキス人が戦列を敷いているのを見た。彼らとどう戦うかについて協議が行われる。当初は、相手の戦列に合わせてこちらも戦列を展開させ山を登る案が出ていたが、クセノポンは、山道を登る途中で道の状態により戦列が切れ、軍の足並みが乱れることを懸念した。そして現在の戦列を崩して中隊単位で縦隊を組み進撃するのがよいと提案する。中隊同士は全体として敵軍の戦列の幅よりもやや広くなるくらいの間隔をとって各々通りやすい道を進み、敵の攻撃があれば各々連携して事に当たるようにと。これが採用され、ただちに各隊は縦隊に組み直された。重装歩兵隊が約八十中隊となり、各中隊は約百名。軽装歩兵と弓兵は三部隊に分け、両翼の外側、そして中央に配置される。各隊の兵力は約六百名。クナクサの戦いでは(クセノポンの記述によれば)一万二千五百四十人だったので、ここに来るまでに投降・脱走者含めて三千人近くが脱落したことになる。
 ギリシア軍は祈願し、戦歌を歌って進軍した。ケイリソポスおよびクセノポンそれぞれの率いる軽装歩兵は敵の戦列の外側に出て進んだ。ケイリソポスが右翼、クセノポンが左翼を担当。敵はそれを見ると、これを迎え撃つために一部は右へ、一部は左へと走ったために中央に穴ができてしまった。これを見てギリシア軍中央の隊が一斉にそこへ殺到する。アカルナニア出身のアイスキネスが指揮するアルカディア人部隊の軽装歩兵隊が一番に山頂を占拠し、オルコメノス出身のクレアノル率いるアルカディア人重装歩兵隊がそれに続いた。敵軍は完全に分断されたことを知ると、散り散りになって逃走した。
 ギリシア軍はその後、豊富な食料を貯えていた多数の村で宿営。ここには蜜蜂の巣が多数あったが、この蜜を食べた兵士が嘔吐や下痢を起こし、中には重体に陥る者もあった。多数の者が倒れ士気の沈滞ははなはだしかったが、ただ死人は一人も出ず、日を追うごとに容態は良くなり、四日目には全員快復した。
 ここから行程二日、7パラサンゲスで海岸に達し、住民のいるギリシアの町トラペズス(現在のトラブゾン)に入った。黒海に臨み、シノペ人がコルキス人の国に建設した植民市である。ここでコルキス人の村落に宿営し約三十日間逗留。ここを基地としてコルキス地方を掠奪して回った。トラペズス市民はギリシア人のために市場を開き、また牛や大麦粉や葡萄酒などの歓待の贈り物もした。また、近隣の平地に住むコルキス人のために、彼らとギリシア軍との交渉にも加わり、そのお礼としてコルキス人から友好の印として牛が届けられた。
 ギリシア軍は神々に対する犠牲式を執り行った。多数の牛を調達し、ゼウスには無事脱出の、ヘラクレスには道中の導きを謝し、またその他の神々にもそれぞれの祈願に応じて犠牲を捧げた。犠牲式が終わると、宿営地の山中で体育競技会を催した。この総監督に当たったのはスパルタ人のドラコンティオスで、子供のころ心ならずも友人の少年を短刀で切り殺し国を離れた男だった。ドラコンティオスに犠牲の牛皮(競技会の賞品)を渡し、競技会の場へ案内させようとしたところ、彼は、この丘が絶好の場所です、と言った。こんなに下が硬く草の茂ったところでレスリングができるのか、と質問が出たが、彼は言った、「投げられた奴がそれだけ痛いということですよ」
 かくてその場で競技会が行われた。少年たち(大部分は捕虜)が短距離走を走り、クレタ人六十人以上が長距離走を走った。レスリング、拳闘、パンクラティオンも行われたが、戦友たちの見守る中であったので出場者の勝利への執念は凄まじく、その光景は壮観であった。また競馬も行われた。急な斜面を駆け下りて海中でターンし丘を駆け上って祭壇へ戻ってくるというもので、多数の馬が下りでは転倒、上り斜面では悪戦苦闘し、見物人の叫び声と笑い声、応援の声で騒然とした雰囲気だった。


 『アナバシス』は全七巻で、ギリシア軍が黒海沿岸のギリシア人植民市トラペズスに到着するのは第四巻。
やっとの思いで黒海へたどり着いたものの、彼らの本拠であるイオニア地方はまだまだ遥か彼方。
ここから黒海沿いに陸路・海路で異民族の地を進みながらギリシア植民市でひと息つく、ということを繰り返しつつ西へ向かう。
しかしギリシア圏内に入ったにもかかわらず様々なトラブルに見舞われ、
食料に窮しやむなく傭兵として使われたりするなど、数多くの苦難を体験することになる。
そこが知りたい人は原作を読んでもらうとして、このページはとりあえずここまで。


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