X.1月4日:水の都ヴェネツィア(その2)



4.サン・マルコ大聖堂へ

 イ・フラーリ教会を出て、またヴァポレット乗り場へと引き返す。もう12時30分を回っていた。時間食いすぎたー!急がないと。小走りに乗り場へと向かったつもりだったが、行き過ぎて魚市場まで来てしまった。年初だが、結構な盛況。海鳥が群り、各所で売り物をつついている。おいおいと言うところだが、なんだか風情があっていい光景だ。自分が買うわけじゃないし。
 ガイドブックを見て道を確認し、引き返す。途中、お土産屋みたいなところでカルチョ・セリエAの安物レプリカユニを買う。
*ラツィオの10番(ロベルト・マンチーニ)
*ペルージャの7番(中田英寿)
*インテルの10番(ロベルト・バッジョ)←アウェイユニ
名波浩はまだヴェネツィアに移籍していないので、当然そのレプリカはない。
 リアルト橋まで戻り、両替所で16,000リラを両替してもらう。と、レートがえらく良くなっていて驚いた。年明けの急速な円高のせいだったのだが、その時は計算違いじゃないかとレシートを何度も見直してしまった。
 ヴァポレットに乗る前、リアルト橋の上で、「アメリカ横断ウルトラクイズ」で被るような帽子を被った女が何やら訳のわからない金切り声を上げていた。いったい何の真似だろうか・・・自分には関係ないのでそれ以上は気にしない。
 そんなこんなでサン・マルコに関係ない事柄はすべて関心から排除しつつ、やってきたヴァポレットに乗る。10分ほど水に揺られて、サン・マルコの船着場へ。
降りてゆくみんなにくっついて河岸を東へ歩いて行くと、パラッツォ・ドゥカーレ、サン・マルコの鐘楼、そして東方的なたたずまいのサン・マルコ大聖堂が見えてきた。
 
 サン・マルコ大聖堂は、新約聖書収録の「マルコによる福音書」を書いた福音書記者聖マルコの眠るところ。聖マルコはエジプトのアレキサンドリアで殉教し、その地に埋葬されていたが、828年にヴェネツィア商人によってひそかに買収、運び出され、ヴェネツィアに移された。当時アレキサンドリアはイスラム圏だったため、彼らの目をごまかすために聖マルコの遺体はムスリムが忌み嫌う豚肉の中に隠されて運び出されたという。その頃欧州各地の町では守護聖人を戴いてその町の格を上げる、ということが流行っており、聖遺物探しが熱心に行われていた。ビザンツ帝国の勢力下にあったヴェネツィアも、帝国からの独立を目指すために何としても守護聖人を戴くための聖遺物が欲しかった。そして、聖マルコの遺体はこれ以上ないくらいの極上の聖遺物だった。聖マルコの遺体は熱狂をもってヴェネツィア市民に迎えられ、すぐさまそれを祀るための大聖堂が建立された。これがサン・マルコ大聖堂であり、同時に聖マルコはヴェネツィアの守護聖人となった。そしてヴェネツィアはビザンツ帝国から独立し、共和国として隆盛を極めていくことになる。
 大聖堂に向かって木で組まれた高台の通路が仮設されている。冬になると、昼の満潮時に海水が町を水浸しにしてしまうことがあるので(「アクア・アルタ」という現象)、その対策のためにつくられている。幸いこの日はこの通路のお世話になることはなかったが、足元の石畳はやや湿ってぬるぬるしていた。
 左手に鐘楼を見つつその前を過ぎ、大聖堂の正面に立つ。五つのアーチを持つファサードが堂々たる威容をもってこちらを見下ろしている。その合間から幾本もの尖塔が厳然とそそり立っているのが見えた。サン・マルコ広場のほうへ後ずさり、ファサードの後ろのドーム群を視界に入れる。10世紀から四百年をかけて改修、造り上げられた、ヴェネツィアの冨と技術力を注ぎ込んだ大建築物。すごい。これがヴェネツィアのシンボル。周囲に角ばった建物が並ぶ中、丸みを帯びたフォルムで屹立する大聖堂はどこか東方的な印象を与えた。モスクみたいな。
 普段、大聖堂前にはイタリア国旗、そしてヴェネツィアの紋章でもある聖マルコの有翼獅子旗との二つの旗が悠然と翻っているのだが、このときは旗はなかった。残念。
 ナポレオン「世界で最も美しい広間」と讃えたサン・マルコ広場は、観光客でいっぱいだった。日本人の団体ご一行様もそこかしこに。また、芸人の姿も見える。もっと芸を(ベーネ・ビス)!と見とれている暇はない。大聖堂へ。
 大聖堂への入場は無料。博物館と内陣への立ち入りは有料。内陣には、豪華絢爛のパーラ・ドーロ(黄金衝立)がある。中へ入ると、頭上のモザイク画に目を奪われる。黄金の下地に様々な聖人や聖書の出来事が描かれ、聖堂の隅々にまで及んでいる。それをいちいち見ながらノロノロと前へ進み、時に引き返してまたジックリ見たりするので、団体様にとっては迷惑な自分。
 相当の時間をかけ、やっと内陣前へ。黄金衝立は祭壇側に向けられており、お金を払って裏から入らないと観ることはできない。重要な祭儀のときのみ、公衆側に展示される。正面から見るには3,000リラ必要。支払って中へ。
 ―――これは華麗!黄金衝立は中央祭壇を覆うための巨大なパネルなのだが、銀製の板に金をはり、それに美しい装飾と様々なエナメル画を施し、さらに大小色とりどりの宝石を数え切れないほど嵌め込んでいる。時価いくらなのか、想像もつかない。ただ、ライトアップされてキラキラと必要以上に光り輝いているので、かえって引いてしまった。宝石のほうはほっといて、エナメル画に描かれたイエスや聖マルコの生涯、預言者や使徒達の行状を目で追っていく。
 聖堂内をぐるりと回り、出口の売店で黄金衝立の解説冊子(日本語版)を買う。サン・マルコ大聖堂の解説冊子は売り切れとのことだった。

5.昼食、散策

 外に出ると、目が回った。腹減った。右のほうに出て行くと、日本語メニューを出していたリストランテが。ちょうどいい、と入る。入ったら「イラッシャイマセ」と言われた。せっかくだからコース行ってみよう。ちょっとメニューとにらめっこ。
 決めた。
*前菜 海の幸のマリネ
*第一の皿 イカスミのパスタ
*第二の皿 アドリア海の魚のフライ
*野菜サラダ
*ジェラート
*カプチーノ
*トスカナ産シャルドネの白ワイン
前菜、意外に量がある。前菜のクセに。そしてパスタ。イカスミなのは単にジョジョ第2部の影響。もちろん飛ばしたりはしなかった。これもかなり量がある。それほど塩味がきつくなくあっさりしていて助かった。ワインを飲んで間を取りながら片付けてゆく。そして魚のフライ。細かく切った白身魚、イカリングや小エビの盛り合わせ。これも軽い塩味がきかせているだけのさっぱりしたもの。満腹状態になっていたのでちょっと苦しかったが、美味しかった。ジェラートとカプチーノでひと息。お代は2万リラ。

 アカデミア美術館はもう閉じてしまったので、パラッツォ・ドゥカーレをゆっくり見よう、と戻ってきたが、
開館17:00まで
チケット販売は15:30まで
と書いてあった。今15時40分。しまったー!先に見とくんだったー!めまいを起こしそうになった。ヴェネツィアにはまたいつか来ないと・・・嘆息。「ため息の橋」を左手に見ながら橋を渡り、スキヤヴォーニ河岸通り(ラ・リーヴァ・ディ・スキヤヴォーニ)を歩いてゆく。右手遠くには、サン・ジョルジョ島に建つサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会が見える。この河岸通りには、昔はアドリア海東岸地域の人々(スラブ人、スラボニア人=イタリア語でスキヤヴォーネ)の船が停泊していたため、スキヤヴォーニの名がついている。このころには霧も晴れ、太陽は見えないものの青い空もところどころ見えていた。河岸通りには売店が並び、サン・ジョルジョ島への渡しのタクシーやゴンドラが何隻も停泊している。
 河岸通りから左の小道に入る。すると、河岸通りの喧騒からは離れた、ひっそりとした広場に出てきた。ここはサン・ザッカーリア広場で、ここに静かに立っているのがサン・ザッカーリア教会。洗礼者ヨハネの父、預言者ザカリアの名を冠している。これは塩野七生の『レパントの海戦』の冒頭部分にも出てくる教会で、その記述どおり、すぐ向こうの河岸通りの賑わいが嘘のような、本当に静かなところ。
 教会の中は絵画で占められていた。この中で最も有名なのが、ジョヴァンニ・ベッリーニ『聖母と四聖人』。中央に聖母子が座り、その傍らに、向かって左より使徒聖ペトロ、アレキサンドリアの聖カテリーナ、聖ルキア、聖ヒエロニムスが立ち、聖母子の座の下には弦楽器を弾く少女が座っている。教会に入って左手の祭壇にあり、この前ではすべての人がしばし立ち止まる。側にはコインを入れてライトアップする機械があったが、この画は次々に光を浴びていた。
 16時を過ぎたので、外に出てもと来た通りを引き返し、再びサン・マルコ広場を目指す。

 いつの間にか空は晴れており、太陽は西に傾いているのが見えた。夕暮れだ。薄赤色に染まった空はとても美しく、運河の対岸に位置するサンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会の美しいフォルムを際立たせていた。河岸通りをサン・マルコのほうへと歩いてゆくと、サンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会をほぼ正面に見ながら歩くことになる。青い運河、教会の白亜の大小のドーム、そして薄紅の夕空―――自然と人工物の何と素晴らしい調和。自分もそうだがしばらく立ち止まってそれに見入っている人も少なくなく、感嘆の声を上げながら写真を撮る年配の日本人の方もいらっしゃった。
 サン・マルコ広場は相変わらず人々で一杯だった。ハトもあちこちにいる。餌を毎日たくさんもらっているのだろう、どいつもこいつも丸々と太っている。行政長官府を左右に見ながらコッレール市美術館の下をくぐり、一応アカデミア美術館の前までは行ってみるかな、と「アカデミア行き」の小道に入った。
 地図では、先年火災で焼け只今再建中のフェニーチェ劇場が近くにあるようだったが、行くのはやめた。こういう入り組んだところでは消火活動は難しいな・・・ここには車もないし。しばらく行くと、縦長い広場に出てきた。右手に教会が立っている。サンタ・マリア・デル・ジリオ教会だ。中に入ってみたが、夕方で薄暗く、絵画はよく見えなかった。外へ出ると、日本人観光客の一団がガイドのおばさんに連れられて通り過ぎていくのにぶつかった。さっさと追い越して西へ進む。
 左手の袋小路にCD・楽譜の店があったので、ぶらりと寄ってみる。CDは、ヴェネツィアゆかりのヴィヴァルディやモンテヴェルディが多い。フェニーチェ劇場のライヴCDもたくさん置いてあった。どうしてもほしい、というのはなかったので(CDはかさばるし)、ひと通り見て店を出る。また歩いて、やっとサント・ステファノ広場に出てきた。左に曲がり、アカデミア橋を渡って運河を越え、美術館の前までやってきた。ここか。また来たいな・・・橋の真下に御手洗があったのでそこに入り、出てきたときにはすっかり日は落ち、また霧が出てきた。

 ここら辺が潮時だな、と帰りのヴァポレットを待ち、乗り込む。サン・マルコですでに多くの人を乗せているので、アカデミアでの人を加えると船内は一杯になった。水上バスは運河をゆっくりと走ってゆく。と、ひとりの少年がいきなり歌を歌い始めた。どういう歌を歌っているかはよくわからなかったが、これがなかなかムーディーに歌うので、船内がどっと沸いた。その少年は調子に乗って歌い続ける。子供といっても喉声ではなく頭のほうで響きをつけたかなりしっかりした歌声で、「鼻が高い西洋人は歌うのに有利だよなー、子供でこれかよ!」とちょっとうらやましく思った。歌が終わるごとに拍手が起きる。
 やがて水上バスが止まり、人がぞろぞろ降り始めた。満員だったので駅を確認できなかったが、降りる人の量からてっきりリアルトに着いたんだな、と思った。もう少しぶらぶらするかな、と思って急いで続いたが、なんだか雰囲気が違う。確かめてみると、サンタンジェロ駅だった。まだ先だった!しょうがないので、人の流れにそってリアルトへと向かう。この時間になるともう真っ暗で、脇道には誰もいないので少々怖い。それでも、広場では露店が並んで賑やか。途中の書店に立ち寄り、パラッツォ・ドゥカーレ写真集を買って出る。そうしてやっとリアルトに着いたものの、ぶらぶらするのも面倒になったのでそのまま水上バスに乗り、フェローヴィア駅で降りてサンタ・ルチア駅に戻ってきた。そして帰りの列車を待ち、乗り込んでミラノへと帰る。

 しかし、アカデミア美術館とパラッツォ・ドゥカーレ、この二か所はまたいつか行きたい・・・

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