W.1月3日:ミラノの休日



1.別行動

 1月3日は日曜日。5日は帰る日なので、目的地に定めていたヴェネツィアを3日にするか4日にするか、という話になっていた。日曜日は店が開いていないので、ミラノにいてもしょうがない。買い物ができないからだ。ミラノ市内は月曜日にして、日曜日はヴェネツィアに、という案があったが、私は、
「月曜日は『最後の晩餐』が見られんで?」
レオナルド・ダ・ヴィンチの傑作で、当時復元作業中だった名画『最後の晩餐』が描かれているサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会は、月曜日は公開されていない。ミラノに来たからにはこれを見て帰らんと・・・ということで、買い物を取るか最後の晩餐を取るか、ということになったが、結局、私が3日ミラノ4日ヴェネツィア、ほかの二人が3日ヴェネツィア4日ミラノとなった。

 7時ごろ(まだ真っ暗)起きてゆっくりしていると、もう行ってしまったと思っていた二人が来た。ぐっすり寝てしまっていたようだ。一緒に行こうかと思ったが、初志貫徹でやめた。
明るくなるまで待ち、それからホテルを出る。目的地はもちろんサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会。日曜日の早朝ということもあってか、がらんとしていた地下鉄の駅の中をひとりで歩くのはちょっと怖かったが(<臆病)、自販機で券を買って自動改札を通る。自動改札といっても、日本のようなものとは違って、刻印機で刻印を押したら回転式のバーを押して入ればいいだけのものだ。
無事に乗り込み、そ知らぬ顔でしばらく列車に揺られていると、カドルナ駅に着いた。地上に出てみると、霧が当たりに立ち込めているものの、空はきれいに晴れていた。近くにあった小さな公園に入り、地図を見る。あんまり見ていたら旅行者ということがバレバレなので、さっさとしまい、頭に叩き込んだ地図を頼りに歩き出す。通りには本当に人が少なく、とても静かだ。日本とは大違い。
 歩いていくと六叉の交差点があってしばらく迷ったが、こっちだ、と見当をつけて歩き出す。ちょっと間違えたようで、やや大回りになって教会の裏手に出てきてしまったが、とにかく目的地に着いた。ここにあの絵があるのか・・・

2.教会前にて

 サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会は、元は礼拝堂だった。「慈悲(グラツィエ)の聖母」という壁画が描かれていることで知られていたが、この土地がフランチェスコ・スフォルツァに仕えた練兵隊長ガスパーレ・ヴィメルカーティ伯によってドメニコ派修道会に寄進されると(1463)、修道士たちは建築家ジュンフォルテ・ソラーリに依頼してここに修道院と教会を建築した。さらに1492年に、ルドヴィゴ・“イル・モーロ”・スフォルツァが建築家ブラマンテに命じてこれをさらに雄大に改築させた。1943年の爆撃によって一部損傷したものの、復元され今にいたっている。

 赤い煉瓦造りで、暖かい感じを受ける建物だ。窓枠の周りは白く縁取られ、美しく整った幾何学模様を形成している。
表に回ってみると、すでに長蛇の列。しかも日本人が多い。さすがだ。列の後ろに並んだが、あとからどんどん人が加わってくる。ほとんどが日本人じゃないだろうか。教会のほうでは日曜のミサが行われている気配で、中には入れない。教区の人が三々五々入っていく。
 それをぼーっと見ていると、三人の老婆がやってきた。ジプシーのようだ。一人が近づいてきて、何か恵んでくれと言ってきた。もちろん断ろうとしたが、そのとき私の後ろに並んでいた日本の人が鋭い叱責の声を上げた。そして三人を追い払う。
「カバン開けられてるよ。気をつけなきゃ」
見ると、私のカバンが開けられていた。一人が話しかけ、それに気を取られた隙にあとの二人が「仕事」をするらしい。危ないところだった・・・お礼を言う。
 その人は、何でも長期休暇をとってヨーロッパめぐりをしているらしい。しかもよくやっているとか。
・・・・・暇とお金のある人はいいなあ・・・・

 やがて修道院への入り口が開き、人数制限しながらの入場が開始された。しばらく待ったのち、中へと入る。

3.修道院内

 修道院内はガラス窓で仕切られ、エアコンで空調が整えられており、さらに自動ドアが備え付けられている。現在修復中の『最後の晩餐』は、テンペラ画という非常に傷み易い画法で描かれているため、環境には厳重な注意が払われているのだろう。ガラス窓から見える構内の庭園を見ながらぶらぶら進んでいくと、再び入場制限の入り口に。この奥が、『最後の晩餐』の描かれている修道院の食堂だ。

 『最後の晩餐』は、ルドヴィゴ・イル・モーロの依頼を受けたレオナルドが、1495〜97年にかけて修道院食堂の壁に描いたもの。
オリーブ山上での捕縛を間近に控えたイエスが十二弟子と晩餐の席にいたとき、
「この中の一人が、私を裏切る」
と言った瞬間の緊張に満ちた場面を、完璧な構成を用いて鮮やかに描き出した、人類の至宝とも言うべき傑作。1943年の爆撃においてこの食堂も破壊されてしまったが、この絵だけは奇跡的に破壊を免れた。
しかし、この絵はテンペラ画という、描きやすいというメリットはあるものの非常に耐久性の低い手法で描かれていたため、描かれた直後から剥落・破損が始まっていた。『芸術家列伝』を書いたジョルジョ・ヴァザーリが70年後にこれを見たときには、すでにこの名画は見る影もなくなっていたという。そこで過去幾度か修復の試みが行われたが、それは修復というよりも浅慮による加筆ともいうべきもので、かえってこの画の本来の輝きを覆い隠し、貶めるものであった。そこでこの世紀末に、『最後の晩餐』の加筆部分を洗い流し、レオナルドの描いた本来の姿を浮かび上がらせるという一大プロジェクトが組まれた。描かれた当時の輝かしさを再現することは、レオナルドならぬ現代の人間には不可能。ならば、加筆部分を取り除くことで、レオナルドの実際に描いたタッチを可能な限り明らかにする・・・モーツァルトの《レクイエム》でたとえるならば、ジュスマイヤーが加筆した部分を取り除き、合唱と通奏低音、伴奏のわずかな断片からなる不完全で簡素なスコアを復元する作業、といったところか。私が来たときには、その試みはいよいよラストスパートに差し掛かっていた。
 
・・・・・・暗い部屋だった。わずかな光が入り口右手の壁を照らし出している。壁には作業台が組まれ、修復作業用具が置かれていた。この日は年始、また日曜ということもあってか、作業者はいなかった。普段は、修復作業中も見学できるらしかったが。 
その壁に、『最後の晩餐』はあった。
 薄明の中、おぼろげに浮かび上がるイエス、そして力なく倒れかかる聖ヨハネ、その彼に裏切者の名を問いただそうとする聖ペトロ、イエスを売った代価・銀貨三十枚の入った袋を握り、師を見返るイスカリオテのユダ・・・ざわめくその場の情景。J.S.バッハの《マタイ受難曲》中の当該箇所の合唱、
Herr, bin ich's?(主よ、私ですか?)」
が脳裏に浮かぶ。画自体がぼんやりとしており、また薄暗いせいもあるのかもしれないが、画が何か霊妙なオーラをまとっているような感じを受けた。これ以上の感想は月並みな褒め言葉になってしまうのでやめ、ベレンソンの引用で終わりにする。
「彼が触れたもので、永遠の美に変身しなかったものはない」
反対側の壁には、対照的に力強いモントルファノ作の「磔刑」の画があった。

 往生際悪くぶらぶらしてやっとこ外に出ると、出口にはみやげ物屋が。日本語で「イラッシャイ」とか言ってくる。手馴れたもんですね。ミラノのガイドブックや、インテルのキーホルダーとか買ってその場を去った。

4.スフォルツェスコ城

 教会を出たあと、近くにあるスフォルツェスコ城へ。左手に木々の茂る庭園を見つつ、ぐるりと回って正面へ。
そして、入口に聳え立つ、時計台も兼ねたフィラレーテの塔の、
「これが欧州の城だ!」
と言わんばかりの威容に思わずため息。

 スフォルツェスコ城の起源は、その名が示すようにスフォルツァ家にあるのではなく、その時代より遡ったヴィスコンティ家にある。14世紀後半にガレアッツォ二世、ジャン・ガレアッツォによって兵営、そして城砦と拡張され、1412年にフィリッポ・マリア・ヴィスコンティがここに居を定め、宮廷としてさらに施設を充実させた。彼の死後、城は他人の手に渡り破壊されてしまったのだが、新しくミラノの支配者となったフィリッポ・マリアの女婿フランチェスコ・スフォルツァが再建の命令を出し、以後歴代スフォルツァ家の人物により城は威容を増し加えていった。レオナルド・ダ・ヴィンチも、ルドヴィゴ・イル・モーロの依頼によりフランチェスコ・スフォルツァの騎馬像を制作した。だがこれ以後、たびたび外部からの攻撃を受け(1501年のフランス軍の攻撃でレオナルド作の騎馬像は破壊された)、さらにナポレオンの到来に伴い破壊の危機を迎えたがなんとか回避。修復・復元を経て今にいたる。

 フィラレーテの塔は、その設計者アントニオ・ディ・ピエトロ・アヴェルリーノの通称フィラレーテからその名を採られている。その塔下の門をくぐり、城内へ入った。そこにはピアッツァ・ダルミ(練兵の中庭)が広がっている。人はまばらで、ところどころにある石のベンチに人が座り、飛んでくる鳩にお菓子の餌をやっていた。小春日和のせいもあって、とてものどかだ。
 石と煉瓦を積み上げた周りの城壁を見回しながら、蔓草が纏い付いた城館へと向かう。
 城館には歴史資料室や絵画館など、ミラノに関する様々な遺物や芸術品が収められている。やっぱり新年のためか絵画館などは閉まっていた。開いているところを回っていく。
 博物館では、ミケランジェロの未完成の逸品「ロンダニーニのピエタ」やまたローマ時代の古遺物、ラテン語古碑文、また武器展示室など、なかなか面白いものを見ることができた。とりわけ古碑文はよかった。日本語訳があればよかったのに(<ないよ)。
 それから中庭でしばらくのんびりする。フィレンツェでは二日間歩き回ったから、けっこう体が疲れていた。いかんな・・・私は体力がないから、このままでは明日のヴェネツィアはくたくたかもしれない。よし、もう少し散策して早めに帰るか・・・どうせ開いてる店もないしな。

5.中央駅にて

 それからしばらく地下鉄を乗り継ぎながらミラノ市内を散策。でも本当に開いてる店がない。飯も食えないよ!しょうがないから中央駅に行き、構内の売店で食物を買い込む。お、マンガもあるじゃん。どんなんがあんのよ?・・・日本のイタリア訳版があるな。
『うる星やつら』メジャーですな。
『北斗の拳』イタリアではこの描写はOKなんか。
『うしおととら』こーゆーのもイタリア人は好むのか?イタリア語でも題は一緒だった。
そして、
『少女革命ウテナ』
・・・・・・・・さすがローマよりの伝統を受け継ぐ国ィィィ!懐が広いィィィ!
 早めにホテルに帰ってメシをパクつきながらTVでNHKを見つつ、そのままグーと寝てしまった。爆睡。

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