II.1月1日:花の都フィレンツェ1



1.フィレンツェへ

 目が覚めた。爆竹の音はしていない。結局昨夜は眠りにつくまで爆竹の音が止むことはなかった。外はまだ暗く、小雨が降っている。良くないな。あとから申し込んだため私の部屋は他の2人とは別なので、そちらが起きてくるのを待って合流、ミラノ中央駅へ向かう・・・が、暗いのと雨のため道がわからず、乗ろうと思っていた5時40分発のユーロスター(EU圏内を走る急行列車)に乗りそこねてしまった。仕方なくチケットだけ買って帰ることにする。乗る列車のナンバーを紙に書き、窓口に見せて英語で補足し、無事購入。ミラノ発フィデンツァ、ボローニャ経由フィレンツェ・サンタ・マリア・ノヴェッラ駅までのチケット代は、ひとり48,000リラ(乗車券・急行券一体型のチケットだった。ちなみに当時のレートは、「100で割って9かけろ」)。3人まとめて購入しようとしたが、窓口とのコミュニケーション不足で2人分のチケットが出てきたので、もう1人分改めて購入した。次のユーロスターは8時ミラノ発。一旦ホテルに戻り、朝食をとることにした。道端のいたるところには爆竹の残骸が転がっている。今は本当に静かで、通りを歩いている者は私たちくらいだ。
 ホテルの朝食はバイキング形式だが、あるのはパンと飲み物くらい。食べながら、
「そろそろ天皇杯決勝が始まるころか・・・」
と考えていた。決勝のカードは横浜フリューゲルスVS清水エスパルス。準決勝は長居に観に行って、ここではフリューゲルスが鹿島を見事に破っていた。その前に行われていたJユース決勝では鹿島が市原を破って優勝していたが、アベック勝利とはいかなかったようだ。ちなみにこっちのほうを裁いたのはあの辺見だったが、相手がユースだろうがおかまいなく笛を吹きまくってイエロー乱舞と、いつもどおりだったことを付け加えておこう。
 7時はとっくに過ぎたのだが、まだ暗い。薄明るい、というのでは全くなく、真っ暗。太陽はまだ出ていない。その中を歩いて再び中央駅へ。正面の階段を上り、13番ホーム、ナポリ行きのユーロスターに乗る。
 
 8時発。イタリアの鉄道はひどくルーズなことで有名だが(ヨーロッパは大小の差はあれどこもそういう傾向なのか?あの“ピクシー”ストイコビッチも、「日本の列車はちゃんと時間どおりに来るので感動した」と言ってたしなあ)、ユーロスターなどの急行はほぼ時刻どおりに運行されている。さあ、イタリアの車窓からの風景は・・・って、まだ暗いじゃん!8時でもなお暗い。なんとか薄明るくなってきたくらい。さすがに緯度が高いだけはある。
 ユーロスターは全席指定、日本でいえば「のぞみ」にあたる。2人乗りの座席が向かい合いになり、その真ん中にテーブルが据えられており、それが通路の左右に並んでいる。私は通路側の席で、隣と斜め前には老夫婦、正面には新聞を熟読している東洋人。通路を隔てて隣に友人とその教え子の大学生、その向かいには若い夫婦というフォーメーションとなっていた。
 フィレンツェに着いてからの事を通路越しに話し合っているうちに明るくなってきた。空は曇っていたが、雨はもう降っていない。見渡す限り緑、緑。だだっ広い平原にぽつぽつと潅木が立っている。これが遠くアルプスに源を発するポー川の賜物、パダナ平原だ。家は見当たらない。時々古びた小屋が見えるくらいで、人の痕跡といえば、時々線路の上を陸橋で飛び越す道路くらい。いかにも「世界の車窓より」って感じだ。そういえば海外で地下鉄以外の電車に乗るのは初めてだった・・・日本はホントに狭苦しいところだと実感した。

 隣のほうでは、友人の元教え子が向かいの夫婦に話し掛けていた。彼はオペラが好きで、イタリア語を勉強していることもあってイタリア語を喋ってみたくてうずうずしていたみたいだ。友人はこういうことに関しては、「英語で充分だ」というタイプなので、英語で話している。私もイタリア語は「アリアリアリアリアリーヴェデルチ(さよならだ)」とか「ボラボラボラボラボラーレ・ヴィーア(飛んで行きな)」くらいしか知らず、英語も心許ないので、友人に翻訳してしゃべってもらった(横着)。そのカップルはモデナ出身で、新年ということで親戚のところに行くところらしかった。モデナといえばバレーボールのイタリアのエース、アンドレア・ジャーニが所属するクラブ(もちろんセリエA)なのだが、そのときはそれを思い出せなかったのが残念。もちろんこちらも広島や大阪・京都についてや、ペルージャで活躍中の中田英寿について話したりした(補足:名波浩はまだヴェネツィアへ移籍していない)。
 私の隣にいた老人がお手洗いに立ったので、その行き帰りに私も席を立って道を空けてあげたところ、これが喜ばれて向こうから話し掛けてきた。片言の英語で応対する。やっぱり人間たるもの、英語くらいはしゃべれないとイカンな、と思った。

 ユーロスターはロンバルディア州からアペニン山脈に沿って南東に下り、エミリア・ロマーニャ州へ入る。(カルチョではセリエAとBを行ったりきたり気味の)ピアチェンツァ、ハムとチーズの町(もちろんカルチョの強豪を抱える町でもある)パルマを経て州都ボローニャへ。かつてのセリエA得点王ジュゼッペ・シニョーリを抱える中堅クラブ・・・おっとそれもあるが、11世紀に創立された欧州きっての名門のひとつ・ボローニャ大学を擁する学芸の町だ。ここから四方に交通路が延びており、交通の要衝でもある。また食通の町としても有名らしい。モデナ出身のふたりはここで降りていった。ここから列車は南に向きを変え、アペニン山脈を越えてゆく。山沿いの急斜面に張り付くように家が並んでいる。このようなところだが畑もいたるところに見えていた。そしてトンネルに入る。
 トンネルを抜けると、まばゆい陽光が飛び込んできた。雲ひとつ無い快晴!両側の峰もキラキラと輝いて見える。山を下りてくると、オリーブ畑やブドウ畑がそこかしこに広がっているのがわかる。天気のせいもあるだろうが、なんだか空気が違う、そんな気がした。プラート(毛織物業が盛んらしい)を経て、フィレンツェ・サンタ・マリア・ノヴェッラ駅着。10時40分。
 降りるときに、
「チャオ!」
と隣の老夫婦が挨拶してこられた。私は、どうにも使ってみたかったので、
「アリーヴェデルチ!」
と答えた。二人はにっこり笑って「アリーヴェデルチ!チャオ!」と返し、降りて行かれた。イタリアの人って気さくだなあ・・・イタリアでは、とりあえず出会ったときも別れる時も「チャオ」でいいみたいだ。
 改札口には誰もいなかったので、チケットを持ったまま出てきてしまった。ええんか・・・?

2.大聖堂〜ウフィツィ美術館〜ポンテ・ヴェッキオ

 フィレンツェは、ルネサンスの旗手として欧州の文化に絶大な影響を与えた輝かしい都市。古代ローマ時代の地名「フロレンティア(花咲ける地、の意)」が転じた地名で、「花の都」という美称もこれに由来する。町の紋章はユリの花。リグリア海に面したトスカーナ州の州都で、周囲を丘に囲まれ、町の中央をアルノ川が流れている。
 ルネサンス時代、政治ではロレンツォ・イル・マニフィコなど歴代メディチ家の面々やニッコロ・マキャヴェッリが、文学ではダンテ・アリギエーリが、建築・彫刻ではレオン・バッティスタ・アルベルティフィリッポ・ブルネッレスキギベルティドナテッロヴェロッキオ(もっとも彼らの多くは美術も手がけた)らが、美術では古くはチマブーエジオットマザッチオ、下ってはパオロ・ウッチェッロピエロ・デッラ・フランチェスカ、続いてフィリッポ・リッピボッティチェッリギルランダイオ、そしてレオナルド・ダ・ヴィンチミケランジェロ・ブオナローティラファエロ・サンツィオ(ミケランジェロなどは建築・彫刻も手がけた)らが・・・歴史に不朽の名を残す人たちがここで生まれ、またここに集い活躍した。2001年現在、「現存する史上初のオペラ」として知られるヤコポ・ペーリ《エウリディーチェ》もフィレンツェで上演された。このCDはARTSレーベル[品番:47276−2]から発売されている(2枚組)。ちなみに、文献に残る最古のオペラは同じくペーリが《エウリディーチェ》の2年前に作曲した《ダフネ》。この楽譜は見つかっていない。これもフィレンツェで上演されている。

 閑話休題(それはさておき)。駅を出たわれら一行はバス停の近くにある案内所で市内観光用パンフレットをもらった。駅のそばに教会が見えるが、これが駅名のもとになったサンタ・マリア・ノヴェッラ教会だ。駅からは後方しか見えず、レオン・バッティスタ・アルベルティの手になる美しいファサード(前面)は見ることが出来ない。ここは後で来ることにして、まずは町のシンボル、ドゥオーモに向かうことにした。ここからでもその巨大な円蓋が見えるので、迷うことはない。

 フィレンツェのドゥオーモ、正式名称はサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂。花の聖マリア、という意味。フィレンツェの威信をかけて造られた大建造物で、1296年に着工され、完成は1434年。1436年に献堂式が行われた。アルノルト・ディ・カンビオ、ジオット、ブルネッレスキら名匠の手になるイタリア、いやキリスト教世界最大級の聖堂である。
 ・・・でかい。とりあえず言うことはそれだけだ。町のどこからでも見えるというのも誇張ではない。遠くから見ると白く見えた壁は、「フィオーレ」の名に恥じず、白、緑、桃色の幾何学的模様で細やかに装飾されていて、とても美しい。一部修復中で、空高く足場が組まれている。ミレニアム・イヤーに向け急ピッチで作業中らしい。正面の階段には、老若男女問わずたくさんの人々が思い思いの場所に座り込んでいた。
 入り口には張り紙がしてあり、坊さんが一人立っていた。今、新年のミサやなんやいろいろやってて、入れるのは15時30分かららしい。それでは、ということで、ウフィツィ美術館へ行くことにした。新年1月1日は休みらしいが、場所は押さえておかねばなるまい。

 てくてく歩いていったが、両側を住宅で挟まれた、曲がりくねった石畳の小道を進んでいくうちに、ひとまず立ち止まる。どこかで道を間違えた。シニョーリア広場へ出てこない。地図をよーく見る。大聖堂から出る道を間違えてしまったのか、美術館の裏のほうまで来てしまっている。手近な道を選び、メンターナ広場からアルノ川へ出た。
 アルノ川には新年からたくさんのカヌーが繰り出していた。なんか大会でもあるのか?遠くに見えるヴェッキオ橋には、
“Buon Anno’99!”
の垂れ幕が掛かっていた。英語で言えばハッピーニューイヤー’99、というところか。
 今歩いているジェネラーレ・ディアス河岸通りは新年のせいか人通りは少なく、のどかな雰囲気だ。空は晴れ、日差しはやわらかく、川を渡る風が実に心地いい。とはいえ、現在の装備は下着の上に厚手のシャツ、セーターにジーパン、そして黒のコートに手袋。気温自体は低いのだ。そのうち右手にウフィツィ美術館が見えてきた。回廊へ入る。売店は開いていたので、日本語版の作品カタログを買った。
 トイレへ行ったら、入ったところにおっさんがいた。その前にリラ札の入った箱がある。トイレは有料らしい。にゃんとまあ。しかしトイレでこういう仕事するおっさんも大変だ。払って用を足し、戻る。
 それからヴェッキオ宮やミケランジェロのダヴィデ像のレプリカ(オリジナルはアッカデミア美術館に移されている)を見てシニョーリア広場をぶらぶらし、ヴェッキオ橋(ポンテ・ヴェッキオ)へ向かった。

 ポンテ・ヴェッキオ(古い橋、の意)は、文字通りフィレンツェ最古の橋。アルノ川の川幅が最も狭い場所に架けられている。ただの橋ではなく、その上には金銀細工店がずらりと建ち並んでいて、さらにその上にはピッティ宮へとつながる回廊が建てられている。かなり妙ちきりんな橋だ。ここも新年のため店は軒並みお休みで、観光客たちがくつろぎながら記念写真を撮ったりしている。
 他の観光客に「写真をとってくれ」と頼まれたので、快く応じ、こちらも撮って貰う。アルノ川下流方面の中央部には店が建っておらず、ここから河畔の町並みを一望できた。それにしても、静かでのどかで・・・こういうところに住みたいなあ、と思った。でも観光地を出りゃどこの町も一緒さ、と誰かが言っていたっけ・・・

3.昼食

 さて、橋を渡って下流方面へ向かう。左手の丘の上にはピッティ宮が見える。右手を見ると、ここからでも大聖堂の円蓋とジョットの鐘楼が聳え立っているのが見えた。
 これから向かうのは昼食。目指すのはトラットリア・アンジョリーノというレストラン。てくてく歩いていくと、そのうち石造りの外見の古風な建物が見えた。木造の入り口の上には、“TRATTORIA”と記されている。ここでよさそうだ。

 中は木造の落ち着いた造りだった。昼時ということもあり結構にぎわっている。正面にはピザを焼く窯があり、その手前のテーブルが空いていたのでそちらに案内された。隣のテーブルには、見た感じ日本人らしいおっさんたちがいた。壁を見ると、ブリューゲルの『婚礼の宴』(だったか?)の複製画が架かっている。
 さて、メニュー注文。とりあえずセットメニューはあるがそれは無視。事前にフィレンツェに来たからにはフィレンツェ風ステーキを食う!という目標を掲げていた。
 というわけで、まずはワイン、それからラビオリのグリーンソースがけ、次いでメインのフィレンツェ風ステーキ、食後のジェラート、カプチーノ・・・と注文。ワインとパスタは、何かと詳しい友人がチョイスした。ジェラート以下は、各自の好みで。

 ワインと、バスケットに入ったおつまみの乾燥細切れパンが出てくる。
 ワインが美味しいっ!友人の見立てに加えて喉が渇いていたこともあるけど(あとシチュエーションも)、ワインがこんなに美味しく感じたことはなかった。パンをついぽりぽりと食べていくうちに、バスケットがはや空になってくる。ペースを落としてぽりぽりやっていると、やっとこさラビオリがやってきた。
 ラビオリがどんな味だったかはよく覚えていない。次に来たシロモノが強烈だっただけに・・・

 ステーキがやってきた。大皿いっぱいに結構な厚みの肉がのっかっている。ああ、これを3人で分けるのか・・・と思っていたら、同じものが後から2皿来た。これがひとり分か!どうみても500gは絶対に下らない。こんなクレイジーなステーキなんて日本じゃめったに食えねえよ、となんだかうれしくなってきた。一方で、全部食えるんか、と不安になったが。
 攻略Go!肉はミディアムで焼かれていて、味付けは塩コショウのみ。うむ、男らしい(というか何というか)。肉は日本のそれのように霜降りではないので、適度にあっさりしていて食べやすい。こんなデカいステーキ、もし霜降り肉だったら、半分ぐらいで絶対気持ち悪くなって吐くね。ワインを飲みながら快調に切り取っていき、ついに皿上の全領土を征服した。うまかった。フィレンツェに行ったらまずステーキを食え、といいたい。あとは甘いジェラートと濃いエスプレッソでお口直し。
 お代は3人でしめて172,500リラだった。ちなみに当時のレートで89.09ユーロ。当時の日本円に直すと、一人当たり5000円ほど。安い。

4.午後

 ワインのおかげでほろ酔いになりつつ外に出る。サンタ・トリニータ橋を渡ると、そこはブランド品通り。サルヴァトーレ・フェラガモ、ジャンニ・ヴェルサーチ、イヴ・サンローラン、カルティエ、ルイ・ヴィトン・・・平日ならばかなりの賑わいを見せるかもしれないこの通りも、新年は静かなものだ。ストロッツィ宮のところで左に曲がり、てくてく歩く。古書店みたいなのがあって、そこのウインドーにアリオストの『狂えるオルランド』があって、かなり欲しかったが閉まっていてはどうしようもない。もっともイタリア語は読めないが。でも挿絵とか装飾とかで楽しめるし。
 散策しているうちに、再びドゥオーモ界隈に出てきた。サン・ジョヴァンニ洗礼堂が左前方に姿を現す。ここでしばらく休憩(主にトイレ休憩)となり、しばらく解散。私は洗礼堂のほうに向かった。ちょうど日本からのツアー団体がやってきていて、洗礼堂の前でツアコンさんが解説をはじめる。
 
 サン・ジョヴァンニ洗礼堂は八角形で、隣の大聖堂と似通った白と緑の幾何学的模様で装飾されている。建物自体は11世紀から12世紀に渡って建てられたもので、1128年、洗礼堂となった。その名のとおり、フィレンツェの守護聖人であるサン・ジョヴァンニ・バッティスタ(洗礼者聖ヨハネ)に捧げられている。宗教的建築物としては大聖堂よりも歴史は古く、フィレンツェ最古といわれている。この洗礼堂を有名たらしめているのは、大聖堂に向き合う東の扉。黄金に輝くその扉は、かのミケランジェロが「天国の扉」と絶賛したもので、天地創造、出エジプトほか、旧約聖書より選び出された10の情景が黄金の浮き彫りにされている。作者はギベルティ。シニョーリア広場のダヴィデ像と同じように、オリジナルは保護のためにドゥオーモ博物館に安置され、ここにあるのはレプリカだ。

 大学がキリスト教系で入ったときに聖書を買わされてしまい、しょーがないから読んでみたらこれが結構波乱万丈で面白かった。それで筋はだいたい頭に入っていたので、その扉の情景はあらかたどのエピソードかはわかった。ていうかギリシア神話やキリスト教の知識無しにヨーロッパへ行ってもつまんないっすよ、これホントの話。
 見終わると、辺りのみんなにならって大聖堂の階段に腰掛け、そこらに群がっているハトと遊んでいると、友人が戻ってきた。もうひとりがなかなか戻ってこなかったが、そのうち戻ってきた。ちょうどいい具合に15時30分となり、大聖堂の扉が開いた。たちまちみんながそこに列をなす。

 大聖堂の中は、だだっ広い空間になっていた。昔はいろんな装飾品や彫刻で飾られていたらしいが、今ではそれらは取り払われていてほんとに簡素で、外面の華麗さに比べるとひどく地味に感じる。しかしとにかく広い。なんでも3万人は収容できるそうだ。
 入り口付近に、聖夜の情景を表した人形たちが飾られていた。馬小屋の中の聖マリア、ヨセフ、そして幼子イエス・・・日本では、クリスマスが終わったらさっさとそれ関連のものは片付けられてしまうが、キリスト教圏ではクリスマス・シーズンはまだ終わってはいない。東方三博士が幼子イエスを礼拝したとされる(また、イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けた日でもある)「公現の祝日」1月6日まで続くのだ。つまり12月25日から1月6日までがクリスマス・シーズンとなる。シェイクスピアの戯曲の題で知られる「十二夜」とは、この間のことである。
ちなみに、1月1日はイエスがユダヤの定めに従い割礼を施された「割礼の祝日」。(八日が過ぎ、割礼をほどこす時となったので・・・ルカ福音書2:21)
淡い光に照らし出された人形たちは、とても暖かい雰囲気を持っていた。
 先ほどまでミサをやっていた関係かロープが張ってあり奥のほうへは入れなかったので、円蓋の内側の画を見ることはできなかった。
 壁には数箇所、寄付を募る箱が備え付けられていた。

 大聖堂を出ると、近くにあるサン・ロレンツォ教会へと向かった。付属するメディチ家礼拝堂の外側をぐるりと見て回った後、教会へ入る。
この教会はメディチ家によりブルネッレスキ、ドナテッロ、ミケランジェロらの名匠たちを起用して建てられたもので、ここにメディチ家の人々が葬られている。
大聖堂よりも小型なこともあって、内部は起伏に富んだ、意匠を凝らしたものになっていた。
壁面には、ブロンツィーノの手になる壁画「聖ロレンツォの殉教」があった。ローマ皇帝デキウスの御前にて、鉄格子の上で炭火に焼かれて殉教する聖ラウレンティウス(イタリア語でサン・ロレンツォ)を描いている。壮絶な場面ながら聖人は穏やかな表情で後ろを振り向いている。伝説では、皇帝に向かって「どうですか、片面はもうよく焼けています。今度はもう一面も焼いて、それからお召し上がりなさい」と晴れやかな顔で語ったといわれるが、その場面だろう。数多くの男性の肉体が躍動する動的な絵なのだが、中央の聖人が静謐さを醸し出しており、なんだか不思議な感じがした。
彼は聖ステパノ、聖ウィンケンティウスとともに三大殉教聖人に数えられている。

 まだ16時も半分くらいだが、緯度の高いイタリアは早くも暗くなり始める。そこで今日最後に、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会へと足を向けた。
駅の方からぐるりと回ってファサード(前面)側へ。ファサードの前には緑の芝生が広がっている・・・のだが、ここもミラノと同じように大晦日には大騒ぎがあったのか、ゴミでいっぱいでちょっとイヤだった。
レオン・バッティスタ・アルベルティの手になるファサードは緑と白の大理石で奇抜な幾何学的模様が描かれていて非常に斬新な感じを受けた。後から付け足された上半分の形も変わっていて、少なくとも日本人でこのファサードをぱっと見せられて、これが教会だと一目でわかる人間はそんなにいないんじゃないだろうか。
 中に入ると、正面の祭壇後ろの壁一面を飾る画にまず目を奪われた。ドメニコ・ギルランダーイオの手になるフレスコ画で、聖母マリアの生涯や洗礼者聖ヨハネの生涯が描かれている・・・んだが、惜しいことに修復中で、ところどころ足場が組まれてシートで覆われ見えないところがある。もうひとつ、夕暮れなので暗く、いまいち見えづらい。昼時なら背後のステンドグラスから陽光が差し込み、きっと荘厳な雰囲気をたたえているんだろうに・・・
 左側には、ルネサンスの先駆けとなった夭折の天才画家マザッチオの「三位一体」がある。絵の前にコインを入れる機械があり、これにコインを入れれば絵がライトアップされる仕組みになっていた。
左翼の礼拝堂へ向かう通路壁面にはナルド・ディ・チオーネによる「最後の審判」が描かれている。その奥の聖具室はみやげ物屋になっていて、坊さんが絵葉書とかいろいろ売っていた。
 そのうち、「もう時間でスよー」と他の坊さんが入ってきて言ったので、教会を出てサンタ・マリア・ノヴェッラ駅へ。
駅の構内にマクドがあったので、どこにでもあるね、と思いつつマックベーコンファンタオレンジ(しめて7,100リラ)を平らげてミラノへと帰還。

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