日本基督教団 千歳船橋教会教会通信
教会通信 「夏」号 2017年8月20日発行          No.17-1


◇巻頭言◇

君の名は

牧師 朴 憲郁(パク ホンウク)

本格的な猛暑に入っていますが、私が原稿を書いている本日7月26日から、昨年8月以降若者の間で爆発的な人気を博したアニメーション映画『君の名は』のBlu-ray&DVDが発売開始となりました。昨年の映画公開に先駆けて、新海誠作の原作小説『君の名は』が発売され、映画公開の2か月前にすでに50万部を突破し、同年11月末には119万部が販売されました。
この題名だけを聞きますと、高齢の方は、脚本家・菊田一夫の代表作で1952年にラジオドラマで放送された『君の名は』を思い起こすでありましょう。その作品も多大な人気を獲得しました。こちらは、東京大空襲の時に戦火の中を逃げ惑う人々の中で、互いに見知らぬある男女が出会うところからストーリーが展開します。
それに対して、昨年公開された方の『君の名は』では、1200年ぶりに地球に接近するという架空の彗星「ティアマト彗星」をめぐる出来事を舞台としながら、東京に暮らす少年・瀧と飛騨の山奥で暮らす少女・三葉の身に起きた「入れ替わり」という謎の現象に焦点を当てています。見知らぬ男女の出会いと愛情というモチーフは、両者とも同じですが、後者は現代的な環境設定であり、(男女入れ替わる)ジェンダーのテーマをも示唆しているように見受けられます。
ストーリーの後半では、何事もなかったかのように瀧も三葉ももとの自分に戻って、東京で暮らしますが、ただ漠然と「誰かを探している」思いだけが残っています。しかし月日が流れたある日、並走する電車の車窓でお互いを見つけた二人は、それぞれ次の駅で降り、お互いの下車駅に向かって走り出します。二人は住宅地の神社の階段でお互いを見つけ、それぞれ歩み寄ります。すれ違ったところで瀧が話しかけ、互いに探していた相手だと分かった二人は涙を流し、同時に尋ねます。・・・
「まだ会ったことのない君を、探している」というモチーフはこの作品を読む人、見る人にせつない憧れの思いを抱かせます。これは、確かに人間ドラマの一つの局面を見事に捉えています。しかし希望を失くし、生きるすべを失くした人間を探し求める神のドラマはもっと壮大で、希望に満ちています。
その一つに、愛し慕う主イエスのご遺体のない空虚な墓の前でうろたえるマグダラのマリアの名を、復活の主イエスが親しく「マリアよ!」と呼び求めます。それは、死を乗り越える命へと誘うためです(ヨハネ福音書20:16)。嫌われ者の徴税人ザアカイに向かって主は、「ザアカイよ、急いで降りてきなさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」とおっしゃり、そのようになさいました。それは、自己中心的で打算的な彼の心を解放して、救いが彼の家に訪れるためです。(ルカ福音書19:5)。ゲラサ地方の墓場を住みかとする悪霊に取りつかれた男に向かって、主イエスが「君の名は何か」と問うことによって、精神的に錯乱して自分を統合的に言い表し得ない彼は、「名はレギオンと申します。大勢だから」と答えます。こうして、悲惨な彼の姿を暴露させることによって、主イエスはそこから彼を解放して癒し、本来の自己を取り戻させます。さらに、キリスト教徒を撲滅するためにダマスコに上っていた青年サウロに、復活の主イエスが現れて、「サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びとめて、彼を回心へと導きました。
人生の様々な局面で様々な役割と重荷を負い、苦悩して生きる人々の中で、神は御子イエスの与える命と希望へと招くために「君の名」を呼んでおられます。さらに、世界の中で互いにかけがえのない「君」として出会い、励まし合うよう導いてくださいます。



◇行事報告◇

❖特別伝道集会


報 告

田中 英俊


祈りと準備を重ねて、5月28日(日)に特別伝道集会を行うことができました。感謝です。準備・運営に関わってくださった方々も、当日参加していただいた方々も、本当にありがとうございました。
午前中の伝道礼拝では朴 憲郁牧師により「命に至る狭い門」と題して説教を伺い、午後はシュテルン弦楽四重奏団をお招きしたチャペルコンサートを行いました。
シュテルン弦楽四重奏団は2010年にクリスチャンの弦楽器奏者によって結成された弦楽四重奏団です。イエス様を指し示す「ベツレヘムの星」をイメージして命名されたそうです。シュテルン弦楽四重奏団の方々がクリスチャンとしてきちんとした信仰をお持ちで、メンバーの方が午前中の礼拝から参加していただいたために、曲紹介の中にも朴先生の説教の内容を取り入れてくださり、メンバーのひとりに信仰の証しをしていただいた点も大変良かったと思います。音楽も、クラシックの名曲や讃美歌など、大変親しみやすいものでした。教会のチャペルコンサートとしてふさわしいコンサートだったと思います。
今回の参加者は合計74名(教会員37・来会者37)でした。前回のチャペルコンサートよりも参加者が少なかったというご意見もありましたが、前回のチャペルコンサートは著名な方をお招きしたので、事前の申し込みの詳細なデータが残っています。事前申し込み149名のうち、当日参加されたのは127名で、参加率は85%でした。そのうち、ファンの方でホームページを見て参加した方が11名、ポスティングをしたチラシを見て参加した方が26名でした。それを除いてデータを分析すると、当教会としての動員力は80名(+-10%)くらいではないかと思います。
コンサートのCDを作成いたしました。ご興味のある方は伝道・教育委員会にお申し出ください。


神様と向き合う日々

保坂 実智子

久しぶりに教会通信の原稿を書く機会を頂きましたことを感謝いたします。
身の引き締まる思いで5月28日、この日の説教を聞いていました。昨年度はほとんど教会に来ることができず神様から離れた一年を送ってしまった私ですが、むしろそれは昨年だけのことではなく、これまでの信仰生活を振り返ると、説教にあった「神の恵みに安住してまどろみ、家庭や社会や職場で御言葉に信頼してそれを証しすることを怠った者」なのだとグサリと心に突き刺さる思いでした。「多忙であった」。それは言い訳に過ぎないのかもしれませんが、神様を中心とした生活を送れていないことは事実でしたし、ずっと自分の中でも引っかかっていて、このままでは身も心も健康ではいられない!と思い、一旦仕事を離れようと決めました。そのような事があり、この日与えられたマタイ福音書7章13〜14節「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、そこから入るものが多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出すものは少ない。」そして、その先の21節以下で「私に向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。私の御心を行う者だけが入るのである…」とイエス様がお語りになった言葉を読んで、もう一度原点に立ち返らされたような思いでした。
そして離れてしまっていた教会にまた心新たに通うようになり、今度はまた違った思いが突然自分の中に生まれてきました。正直なところ「私って生まれてからずっと教会に通っているのに本当に心から神様と向き合った瞬間って実はほとんどないのではないか?」「クリスチャンとしての自分とは?」と、この日の説教を聞いてからなんだか漠然とした不安のような、反発心にも似た疑問がもくもくと渦巻いているのです。本当にお恥ずかしい話なのですが、思い返すと洗礼を受けてからなんだか勝手に安心してふわふわとぬるま湯に浸かったような8年を過ごしていたように思います。そんな自分を悔いて、「洗礼がゴールではない」ということを今更ながらに自覚し、痛感しています。まさに自分の中の壁にぶち当たっているとろなのですが、不思議と苦とは感じていないのです。きっともう一度神様と向き合うチャンスを与えられたのだなと感謝して、もうこうなったらガツガツこの気持ちに向き合ってやろうと思っています。誠に不信仰極まりない私ですが、日々祈り狭い門に続く細い道を歩んでいきたいと思います。


シンプルで豊かな弦楽四重奏の響き

高澤 亜美子

今年の伝道集会、午後のチャペルコンサートは「シュテルン弦楽四重奏団」をお招きしました。
 ピアノやオーケストラのコンサートは聴く機会がありますが、そういえば弦楽四重奏の生演奏を聴く機会は初めてです。
1stバイオリン、2ndバイオリン、ビオラ、チェロ4人だけの演奏。どの楽器も主人公であり、脇役であり。ビオラやチェロなど普段オーケストラの中では単独の音を聴くことが難しい音色もじっくり味わい、また4つの音色のまじりあったときの豊かな響きも味わえました。シンプルな編成ゆえに楽しみ方もたくさんあるのだなあ、と驚きました。
1stバイオリン永井さんのわかりやすい解説で、ハイドンやベートーヴェンなど有名な作曲家が弦楽四重奏曲をたくさん作曲していることも初めて知りました。その当時は教会や貴族のサロンなど小さな空間でこの曲をお披露目したのかなと想像も膨らみます。そう思うと今回は教会という小さな空間で繊細な音色をじっくり味わうことができ、現代ではなんとも贅沢なひとときです。
 演奏会後半では2ndバイオリン杉山さんの証しも伺うことができました。自分の力で生きようとしてきたけれど限界を感じ、神様にすべてを明け渡したと語られました。そのメッセージに自分の姿も重ね、そのあとに演奏された「アメージング・グレイス」がより心に響いてきました。      
一番印象に残った演奏は、最後の「サウンド・オブ・ミュージック」のメドレーです。次々と紡ぎだされるテーマに、小さい頃、家族でこのビデオを繰り返し観たことや、中学・高校のクラブ活動や合唱コンクールでよく歌ったことなどあれこれと思い出され、なんだか甘酸っぱい想いで不覚にも涙が出てきました。音楽のもつ力にあらためて気付かされ、礼拝堂いっぱいに豊かな恵みに包まれていることを実感したひとときでした。この機会を下さった神様と「シュテルン弦楽四重奏団」に感謝します。


タンゴ好きの私が…

宮崎 慶子

タンゴが好きだ。南米の港町アルゼンチンで生まれたあのリズムだ。1930年代にベルリンに渡って優雅に変化したコンチネンタル・タンゴもいいけれど、すこし荒削りなアルゼンチン・タンゴもいい。バンドネオンのズンチャ、ズンチャというリズムを感じるとどんな時でも血が騒ぎ体の芯がしびれる。アルゼンチン・タンゴの踊りは、長い、女っ気なしの航海で仕方なく男同士で踊ったのが始まりと聞いた。音楽はなんでも好きだが録音よりライブがいい。
昨年旅したロシアの教会で天使の歌かと思う声を聞いた。女性二人のデゥエットだったがあまりの美しさにしばし茫然とした。教会はどこでも音楽を最高に生かせる構造と聞くがそれにしても素晴らしい声だった。
そして今回は友人に誘っていただいて、千歳船橋教会でカルテットを聴いた。四人の女性が弾く音色は清らかで、優しく人の心を包み、香り豊かな花園へと導き入れてくれた。四人共クリスチャンという自己紹介があった。十字架につけられ、うつむくキリストが刻まれたステンドグラスを背にした演奏はこの場所に相応しく、静かに聴き入る方々と共に私は身をゆだね美しい午後のひと時を過ごした。
「凩(こがらし)や 古きタンゴのよみがえる」 
などと詠む私が、また聴いてみたいと思ったほど…


◇部会報告◇

❖壮年会


壮年会の現況について

津下 

2017年6月末現在の、壮年会会員総数は23名。毎月第3日曜日には、6〜7名がCSホールの奥のテーブルに集合して、勉強会を中心に活動します。
近年、天に召された方、ご病気療養中の方がおられますので、出席の会員数が若干少なくなりました。いつも居られた方々が、急に居られなくなるのはすごく寂しいものですね。
さて、壮年会は礼拝終了後に集まり、皆で同じおにぎり弁当を頂きながらニュースやトピックスなどの話に花を咲かせます。昼食後に谷川会長のお祈りに始まり、すでに決められた当日の発表者が選んだ、「好きな讃美歌」を全員で歌い、その後にテキストに基づいた発表が行われます。
本年度のテキストは、東方敬信牧師著の『地球共生社会の神学〜シャローム・モデルの実現をめざして〜』です。真の平和への道しるべとしての当著書の第1回目の勉強会は、著者の東方牧師が直接解説してくださいます。大変に有難く深く感謝申し上げます。
勉強会のほかの主な活動としては、一つ目に毎年1回、経堂緑岡教会との合同壮年会があります。本年度は、来年1月21日に開催予定です。二つ目に、教会バザー当日のヒムプレイスにて合唱の発表を予定しております。昨年は「この世の波風さわぎ」⇒(ダニ-ボーイ)でした。三つめは「新年会」を例年、千歳船橋駅近くのレストラン・アルビコロで行なっています。
本年度は壮年会に、新しい方が出席してくださることを心からお待ちいたしております。


「まなびの会」に出席して (続編・完)

木下 毅

2016年度・教会通信「夏」号に掲載された近藤勝彦『教会生活の要点』(@~D)に続く後半部分(92頁以下)E~Gです
E「信仰告白による教会形成」(102頁) 日本基督教団の信仰告白には、『使徒信条』は含まれていますが、「もう一つの古代教会の代表的な信条である『ニカイア信条』は含まれていません」と説明されています。しかし、使徒信条は古代教会の素朴な信仰を反映したもので、イエスの神人二性を認めるアタナシオスの教義は315年のニカイア公会議で正式に認められたものではないでしょうか。
F「讃美」(120頁) ボンフェッファによれば、「礼拝で用いられる教会の讃美歌は、…御言葉に結びついているので、本質的に斉唱(ユニゾン)で歌われる。…音楽的に耽溺するような無関係な動機によって乱されない斉唱の清純さ…こそ、地上の教会の歌というものの本質である」(『共に生きる生活』森野善右衛門訳改訳新版66頁(2004))とされています。しかし、神は人を「男と女に創造され」(創世記1章28節)、男女の声帯の差異から生じる和声(ハーモニー)により「全体が『一つの声』になる」(近藤説)ように造られていると解することにも、一理あるように思われます(事実、斉唱のために男性がソプラノを歌うのは困難!)。
G「献金」(150頁)マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』に引用されているジョン・ウエスレーの説教「金銭の使用」によれば、「われわれはすべてのキリスト者に、できるかぎり利得するとともに、できるかぎり節約することを勧めねばならない。が、これは、結果において、富裕になることを意味する。」「できるかぎり利得するとともに、できるかぎり節約する」者は、また恩恵を増し加えられて天国に宝を積むために、「できる限り他に与えねばならぬ」(大塚久雄訳)と勧告する。しかし「与える」ことの理由は、「私たちのためにご自分の命を十字架上に捨てられた方を、私たちは知っている」(入谷姉レジュメ)からに他ならない。かかる信仰の結果であると理解したい。


❖婦人会

風香り、こころ騒ぐ日々の思い出

会長 丸山 久美子

かつて「マルタとマリア」に関する問題を喧々諤々(けんけんがくがく)と論じた日々を思い出す。当時、教会では「シオン会」別名「働く女性の会」が精力的に活動していた。結婚して子どもをもうけ、立派に育て上げ、家事に邁進し、夫には外で不自由な思いをさせないよう気遣いする主婦が一般的だった時代である。
シオン会の女性たちはマリアで、婦人会の女性たちはマルタであるという思い込みの故に婦人会は台所を、シオン会は図書室をその居場所とした。要するに、マリアは常にイエスの話を熱心に聞いているが、マルタは客の接待や炊事に心奪われ、イエスの話を十分に聞くことができない。それに不満の婦人たちは当時の北森嘉蔵牧師に提訴した。この物々しい現状に弱り果てた先生は「マルタを通してマリアへ」が最も理にかなっていると苦し紛れに婦人たちを宥めた。
壮年会は常に学びの会を聖日の午後に行っているが、婦人会はそれを金曜日の午後に行い、聖書を詳細に学び直すために牧師の協力を得てきた。シオン会は聖日の午後に長時間、様々な書物を読んで語り合い、充実した気分で帰途に就くという具合であった。年齢を重ね、人数が不足してシオン会は休会になって久しい。
今日、婦人会では「聖書研究会」を年に5回は行っている。日曜例会では年に1回講演会を催し、著名な方々にいま最も話題になっているお話を聞いてきた。最近では牧師に自伝風にこれまでの歩みをお話しいただいた。「お仕事会」はバザー用品の手作業を通して相互の親睦をはかるための場ともなっている。
牧師に甘えていた時代に比べると現在の婦人会は極めて独立的である。今日の若い働く女性たちは結婚して子どもを生み、夫にも子育てに参加してもらって貴重な聖日を過ごす。自分たちはマリアではなくマルタであることに不満を抱くことなどありえない。かつてのシオン会のメンバーが婦人会会長になるように時代は推移した。台所は今や誰もがやってくる場所であり、堂々と議論する場所となった。壮年会の方々がお茶碗を洗っている光景は、なぜか頼もしく見える。
風香り、太陽は輝く。四季折々の草花が教会の会堂へ入る道々を飾る。 いかにしてキリスト者としての日々を真っ当に過ごすことができるのか、それが唯一無二の課題であり、それを思いやることが、こころ騒ぐ日々を穏やかな日々に変えるのである。


出会いが恵み

H.S. 

今年度は初めて教会婦人会の三役(会計)を引き受けました。長い間“幽霊会員”であった私にできるのかしらと不安を覚えつつも、諸先輩方の協力、助言を得てやっと役目に慣れてきたところです。
6月の婦人会例会では東方先生をお迎えして「私の歩んできた道」と題してお話をうかがいました。先生のお話に耳を傾けつつ、私が歩んできた道はどんな道だったのだろうか、と考えました。
東方先生がお話の中で、人との出会いが恵みであったと言われたことが印象に残りました。先生は、ご自身と北森先生や朴先生、米国の神学者スタンリー・ハワーワス、そして学生たちとの出会いを語られました。まさに出会いの恵みによって、この私も今生かされているのだと思いました。
自分の歩んできた道を考えてみると、千歳船橋教会に通うようになったのは恵泉の同級生に誘われたからで、キリスト教主義学校の恵泉に入学したのもある人に勧められたからでした。入学してから「あなたが恵泉を選んだのではなく、神様があなたを選んだのですよ!」と当時の園長が繰り返し話されたことを今でもよく覚えています。十代の私は批判的にその言葉を聞いた時も度々ありましたが、神様と自分との関係を考えるきっかけとなり、やがて洗礼を受けることになるのです。しばらく教会から離れた時期もありましたが、現在は教会生活を続けています。今まで歩んできた道で様々な人との出会いがあり、そして何よりも、キリストに出会い、受け入れられて今の私がいるのだと思います。恵みに感謝です。


◇家庭集会◇

礼拝と交わり

高澤 美津子


2017年5月12日(金)、14:00から田中薫姉宅で催された家庭集会に初めて参加した。朴牧師ご夫妻をはじめ当教会員、近所の方、他教会の方、そして女子大生と21名が集まった。今年で11年目という長く続けられた家庭集会にも驚いたが、人数の多さにも圧倒された。
〈礼拝〉ではヒムプレイヤー伴奏の讃美歌、信徒の祈り、そして「召されて生きる」(コリントの信徒への手紙一7:17〜24)と題した朴牧師の解き明かしがあった。「この箇所には召されるという言葉が何度も出てくる。誰でも神の召命(calling)、によって生かされている。召命とは天来の声を聞くことで、その時、その場で主の聖なる御言葉を聞いて、それにどれだけ応えられるかを考えよう。神に召されている尊い存在であることに感謝し、生きるにも死ぬにも主のため、イエスの愛を証しして、自分のつとめを果たすことが求められている。」そして自分(朴牧師)は少年時代、空飛ぶひばりの鳴き声が天来の声に聞こえた、というエピソードを話された。
短い時間だったが、主日礼拝と同じように御言葉を学ぶことができ、恵まれたひとときだった。〈交わり〉はまず自己紹介から始まった。他教会の方が「私はまだ天来の声を聞いたことがないのですが…」と質問し、牧師が「耳の掃除をしたら?」と答え、参加者全員その当意即妙な言葉に感心し場が一気に和んだ。
この会のため準備と当日のおもてなしをしてくださった田中薫姉、プログラム作成、写真撮影などの奉仕をしてくださった米澤二美姉、原岡寛子姉他の皆様ありがとうございました。
2月以来心身の不調に悩まされ、過度の緊張と疲労そして外出が不安だった。日曜日の朝も何度も深呼吸をして、どうか途中で具合が悪くならないように、無事一日過ごせますようにと祈りながら教会に通っていた。そんな私が自分から集まりに出ようという気になったことに心から感謝し、一歩踏み出せた気がした。


◇教会と私◇

恵み 感謝 讃美

西牟田 和子


千歳船橋教会との出会いは、1950年私が恵泉女学園に就職のため、創立者・園長の河井道先生に面接に行ったとき、恵泉の講堂を借りて当時の西原教会が設立式をしていたのを偶然見たことから始まりました。その後経堂の愛珠幼稚園で教会活動を始められましたが、その数か月後から出席するようになり、1951年に正式に転会いたしました。
音楽教師、家事、声楽の勉強など多忙をきわめた時期で、日曜日くらいは家庭での生活をと思うのですが、神様はそんな弱い私に対して大きな責任を与えられました。それはオルガニストという奉仕でした。現在はパイプオルガンも与えられ、オルガニストも数名おられ毎週よく準備された奏楽に感謝のときを過ごさせていただいていますが、当時はお茶の水大の学生・小松信子姉だけで、学業との両立はご無理とのことで、私一人が責任をもつことになりました。私が奏楽をしなければ礼拝は始まらないので、休むわけにはいきません。前以て讃美歌の番号を知らされることもなく、当日北森嘉蔵牧師から紙に読みにくい字で書いた番号を見せられ、初見で伴奏したものです。幸い主人も「信仰の自由」から了解してくれ、教会生活を続けることができました。神様のご命令は強いられたものでしたが、ほんとうに大きな恵みであり、賜物でした。
恵泉を退職後、教会員だけでなく、外部の方も讃美歌に親しみ、歌う会をもちたいという希望が出て、「讃美歌を歌う会」が始まり、現在は米澤二美姉にあとを引き継いでいただいて立派に活動をしておられます。
また昔は月1回私の家で、主人が亡くなりシニア・マンションに住むようになってからは年1回家庭集会を開き、朴先生のお導きで教会員や近隣の方々と交わりの時をもちました。
主人は、学問として多くの宗教を学んでおり、キリスト教もその一つであり信仰の対象ではなかったのですが、朴先生とお交わりを頂き、次第に心が開かれていきました。ガンを患い闘病中の2010年2月14日に有隣病院の病室で、厳粛な空気の中で洗礼を授けていただきました。私共二人の60年の結婚生活の中で一番素晴らしい一瞬でした。この祝福の時から約1か月後の3月31日に安らかに天に召され、4月2日に教会で告別式をしていただきました。
2013年米寿の記念に『恵み 感謝 讃美』という自分史を書きましたが、その中にもあるように息子・創一は、赤ん坊のときから教会に連れていきました。あるときベンチに寝かせ奏楽をしていましたら這い這いして講壇まで行き、北森先生のズボンの裾を引っ張って「おじちゃん」と言ったのは有名な話です。中学生になって部活動など忙しく、教会に出席しなくなりました。しかし、結婚式は千歳船橋教会で挙げていただいたことは大きな喜びでした。順調に結婚生活を送っていたにもかかわらず、数年前の年末、妻の順子がくも膜下出血で倒れ、1週間後に亡くなりました。あまりにも突然の不幸に私には祈ることしかできませんでした。今は毎日曜日、車で私を教会まで送ってくれますが、中には入りません。私も90歳を過ぎ、最後の願いは息子がキリスト者になってほしいということです。そのためにも聖日礼拝を守り、祈り、聖書を学んで日々を過ごしてまいりたいと思っています。

◇特別寄稿◇

礼拝の社会的意味

牧師 東方 敬信

礼拝の英語はworshipですが、そこには価値を意味する“worth”という言葉も含んで「価値を讃える」という意味があります。つまり、英国の神学者アラン・リチャードソンによると「価値あるものを讃える」ために集うのが礼拝です。最高の価値との出会いが礼拝です。つまり、新しい新鮮な実在に触れて生まれてくる、信頼や連帯という絆のあり方も礼拝の賜物です。翻って、そのために集う教会(エクレシア)は、宗教儀式だけでなく、集う人々に「社会的想像力(social imagination)」を与え、価値あるものを讃えるワザをなさせ、証しによって注目作用を起こさせ、新しい物語世界に参加するように人々を招くのです。礼拝式をリタジー(liturgy)と言いますが、それは「民の業」という意味です。いまや、9・11以降混乱しているグローバル社会において市民社会の行方を深く洞察する宗教社会学者ロバート・ベラーは、現代社会において「礼拝共同体」を重視する神学者スタンリー・ハワーワスに対して「神学と倫理学と教会論を一つにして」語り実践することに賛意をあらわし、理論だけでなく実践的なキリスト教共同体の証しの力を推奨しています。
ところで、聖書の物語は、ドグマにはない「人格的影響力」のある最高の価値を用います。良い物語とは、私たちにある出来事と経験を報告するだけでなく、その物語を通して私たちの経験を再解釈する力を与えてくれます。ロバート・M・ブラウンは、この物語との出会いについて次のように言っています。「これは、教えたり、伝えたり、挑戦したり、解放したりする文書に、私たちがアプローチしなければならないことを示している。私たちにとって重要なことは、それが私たちに触れてくることです。もちろん、私たちと聖書物語の重なり合いは、私たち個々の人生の過程で異なる。」私たちと聖書という「二つの物語は、ある地点で出会えるようになり、私たち自身の物語を再検討することになる」と言います。
この自分自身の物語を再検討すること、つまり変革することは、私たちの性格形成について考えると言っても良いのです。21世紀の神学者W.カヴァナーは礼拝(レイトルギア)を「民の業」として理解する礼拝論で次のように主張します。「聖餐は、・・・人々を見事に神の体の成員にする『レイトルギア』によって『公共的人間』を正しく回復する。」と言います。彼は、聖句も引用して「生きておられる父がわたしをお遣わしになり、また私が父によって生まれたように、私を食べる者もわたしによって生きる。」(ヨハネ6:57)という宣言に耳を傾けさせます。そして、これを近代社会の理論家ジョン・ロックの所有論のイメージと対比すると、つまり人は労働によって自然状態にあるものを所有するというイメージと対比すると、極めて示唆的になります。つまり聖餐共同体においては、「私のもの」と「貴方のもの」という根本的断絶が徹底的に消去される(使徒2:44〜47)のです。そして「聖餐共同体というキリストの体への参加によって私たちの分断を克服し、まさに聖餐において個々人を完成される」というのです。「聖餐は、国家的境界線をこえ、私たちの市民仲間が誰であるかを再定義する」 のです。それは聖餐共同体において、キリストが中心であると当時に、「この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイ25:40)とイメージして周辺の福祉にもキリスト論的同一化が起こり、中心と周辺の二元論も克服されるからである。社会の多数派と少数派の分裂(ヘイト・スピーチ等)の克服もあるのです。ここに寛容をこえたキリストの和解の力による「ホスピタリティー」 が生じるのです。礼拝に奉仕することは、このような連帯の愛に参加することなのです。ですから、キリストの体の物語の実践は、グローバル化する「超資本主義」とは異なったイメージを提供して人々を「惹きつける」というソフト・パワーで空間バリアを突破します。聖餐のグローバリゼーションは、世界中の人々を同じ時間空間でイメージしますが、その空間における並べ方は多様な地域性を互いに競争させるだけの市場化に放置する「新自由主義の世界観」と全く違います。世界の人々をただ珍しい新奇な(novelty)だけの商品にするイメージの捏造を助長しないようにしたいのです。聖餐(ユーカリスト)の場では、人々を地理的に並べるだけでなく、キリストの愛に参加して連帯させ、まさに「地球的連帯者」にします。キリストの体においては、「一つの部分が苦しめば、全ての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、全ての部分が共に喜ぶのです。」(Tコリント12:26)となります。この空間バリアの徹底的克服は、競争の完成ではなく、質的変革を実現した「連帯の共同体」となり、パウロが言うように、そこに新しい希望を生じさせます。なぜなら、愛の実践で苦闘することは、キリストと一体となる(コロサイ1:24)ことで、さらにキリストは教会に対していつまでも贖罪の愛によって導き続けるからです。聖餐的空間の物語は贖罪愛によって希望を与え続けるのです。この希望の共同体に奉仕することは賛美とハーモニーによって礼拝共同体を包むことになるのです。21世紀に聖餐に象徴される礼拝共同体は重要です。そこに地球的連帯があるからです。

編集後記

今年度、書記、そして「教会通信」編集委員として初めて奉仕します。華々しくデビュー…できたら良かったのですが、現実には、早い時期に次々集まる原稿に口を開けて感心するうちに始まっていた電子メールでの編集会議に乗り遅れ、「今回は編集会議を傍観していれば良いから」と言われたことに安心したのも束の間、編集作業が本格化してからは日に何通も飛び交う電子メールに「次回からはこれに乗り遅れてはいけないのか」と圧倒され…華々しさとは無縁の日々の末に、「最も編集作業をしていない編集委員による『編集後記』」を書いています。寄せられた原稿を最初に読める特権にニヤニヤしながら、5月のコンサートの感動を思い起こし、信仰の先輩方の歩みと想いに感じ入りました。8歳の頃、友人3人程と小説を書く計画を立て、その仕事内容もよく分からぬままに「へんしゅうがかり」に立候補したことを思い出しました。その計画はノート10頁程で頓挫しましたが、当時の小さな憧れが、今になって思わぬ形で叶った…のかな?(書記委員)


発行者  朴 憲郁
編 集   書記委員会
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