日本基督教団 千歳船橋教会教会通信
教会通信 「夏《号 2016年8月21日発行          No.16*1


◇巻頭言◇

死を見つめて今を生きる

牧師 朴 憲郁(パク ホンウク)


 今年に入ってわずか7か月の間に、愛する教会員と関係者合わせて5人もの高齢者が天に召されました。愛する身内の人を亡くし、あるいは親しき信仰の交わりの友を失った悲しみは、私たちの心を覆っています。梅雨明け前の雨が、悲しみの涙のように降ってきます。私の13年半の牧会において一度もなかった経験です。
 確かに老いによる衰弱と病によって、身体の寿命は尽きていきます。しかし御言葉に書いてある通り、罪と死に勝利した復活のキリストの霊によって、信仰者の内なる人は日ごとに新たにされ、御国への希望によって老いの日々を生き、さらに遡って、青春の時からそのように生きることが許されています。若者にとっても、生と死は人生最大の課題だからです。「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます《(第二コリント4:16)。
 ですから信仰者は、身近な人の訃報を耳にして驚き悲しみつつも、それを乗り越える希望を抱くことが許されています。むしろ死を見つめてこれを引き受けながら、それを乗り越える尊い一日一日を生きていきます。
 死を背負った命であることを肝に銘じるために、キリスト教以前の古代ローマ時代の賢人たちもまた、戦争や疫病や災いによる死と背中合わせの地上の命を自覚して、メメント・モリ(ラテン語memento mori.汝、死を覚えよ!)と言いました。しかし興味深いことに、この合言葉が否定的にも肯定的にも受けとめられたことです。前者は厭世主義的な生き方を生みます。「どうせ明日死ぬ我が身ゆえ、食べ、飲め、陽気に過ごそう《と考える生き方を生みます(第一コリント書15:12~19参照)。しかしこれとは反対に、「自分がいずれ必ず死ぬことを忘れるな《、「だから尊い命の日々を大切にして生きよ《と自他に向かって警鐘を鳴らし、寿命の長さでなく命の質に価値を置き、これを追い求める積極的な生き方を生みます。キリスト教的死生観は後者に属しますが、それを単なる人間の信念や思想とはせず、上に引用した御言葉のように、キリストによる神の祝福の現実として信じ、受けとめます。このキリスト教信仰の伝統の一つとして、中世フランスのシトー会修道院では、毎朝memento moriをもってあいさつを交わしました。これは恐ろしい言葉ではなく、平和に満たされたあいさつでした。
 ルターが宗教改革の火蓋を切ってから来年は五百周年を迎えますが、ルター神学では死の思想が中心に立っています。死が切実な問題だったからです。しかし『詩編90編の講解』においてルターは、「死の真直中で生命にありて生く《(Media morte in vita sumus)を説きました。彼が到達したこの信仰の境地は、復活と永遠の生命の確実な希望にかかわる福音の調べでした。
 多少もったいぶった言い方をしますと、これが「神学的死生学《の中心的な考えです。本教会の元主任牧師であった熊澤義宣牧師が世に残した著書『キリスト教死生学論集』の中で、ルターの死生観に注目しながら主張しましたように、神の内にその根拠をもつ生命、永遠の生命であることは、生物学・医学的に有限な生命を見据えながら展開される一般死生学との決定的な相違点です。ルターがその『詩編90編の講解』の中で示した重要な洞察は、人間の死をそれ以外の一切の生物の死から区別する独自のものとして理解したことにあります。ペットの死とは異なる人間の生と死は、神のかたちに似せて造られた人間の尊厳に関わっているからです。人間にとっては、罪ゆえの深刻な死と救いの希望が切実な問題となっています。
 キリスト教的死生観を一瞥しましたが、愛する人々を亡くして悲しむ私たちが今どこに立っているのか、またどのように生と死に向き合うべきかを再確認したいと思います。それは、神と人の前で悔いのない日々を歩みたいと願うからです。


◇活動報告◇

■特別伝道集会


概 要

津下 絜


  それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。《(マルコ16:15)
  教会の伝道集会は、毎日曜日に定期的に行われる「礼拝説教《と上定期に行われる「特別伝道集会《があります。「特別伝道集会《は、当日午前の「伝道礼拝《と午後の「キリスト教講演会《から成っています。他に伝道集会としては「チャペルコンサート《や「教会修養会《「バザー《「クリスマス讃美礼拝《、そして「まなびの会《等を開催しています。伝道・教育委員としても主な催し物についてポスター貼付、チラシのポスティング、ハガキの送付等を行っています。
 「伝道《は教会の使命の中でも、最も大切な事の一つです。しかし、決して私たち信徒へのノルマとして捉えるのではなく、自らが信仰生活の中で自主的に行動すべきものと考えています。教会の催し物を通じて、友人・知人・家族等を教会へ誘い、教会の外では、信徒の一人として、キリストの御業、教え、そして福音を友人へ話すなど、日ごろの積極的な働きかけで十分「伝道《になると思います。また、「教会修養会《「まなびの会《は、伝道にも欠かせない知識の積み重ねと信徒間の交流にとても役立つ貴重な時間です。
  5月29日の特別伝道集会は、講師に在日大韓基督教会吊古屋教会牧師・在日大韓基督教会総会長の金性済(キム・ソンジェ)牧師をお招きして開催致しました。どのような集会も準備が大切ですが、4月11日(日)には、司会、受付、誘導、茶話会の司会・準備・片付け、チラシ・プログラム・ハガキの作成者、送付、配布担当などの役割を決め、スケジュールに沿って準備致しました。
  今回も十分な準備をした上で、当日を迎えることができましたのは《素晴らしいことですが、集会への参加人数が伸びなかったことは極めて残念でなりません。
  午前には、「岩の上に土台を置く人《(詩編27:4~6、ルカによる福音書6:46~49)と題して、金牧師がご自分の経験を基に解りやすい言葉で説教をしてくださいました。午後のキリスト教講演会では、「神の寄留者、寄留者の神《(創世記12:1~3)と題して、金牧師が最近話題となっている問題などを含めながら、予定時間を超えて熱心に講演をしてくださいました。キリスト教講演会終了後には茶話会があり、金牧師との質疑を熱心に行い、「特別伝道集会《に一定の成果が見られましたことは喜ばしく思いました。
  これからも、いろいろな伝道活動を通じて、一人でも多くの人々に教会を訪れていただけるような千歳船橋教会になりますように願っています。


主の前にへりくだる

神学生 渡辺 信一


  若葉や花々の香りに満ち溢れる5月の第5主日。金性済牧師をお招きして、特別伝道礼拝が行われました。
  「岩の上に土台を置く人《と題して取り次いでいただいたメッセージは、「岩《とは救いの神様の代吊詞である。砂の上や泥の上に家を建てることは愚かなことであり、岩の上に家を建てることは皆が知っている当たり前のことである。また岩の上に建てるのは家や建物だけではなく、心や生き方、信仰のあり方も同じである。岩の上に建てる生き方、信仰のあり方をルカによる福音書の御言葉「地面を深く掘り下げる《に光を当てて、神様を信じて生きることの解き明かしを頂きました。
  地面を深く掘り下げる行為は、穴を掘れば掘るほど自分が低くなるということであり、「自分を低くする《とは、「へりくだる《や「謙遜《に言い換えることができるでしょう。
  自分はどうなのだろうか。へりくだった上に生活や信仰の基礎を建ててきただろうか。改めて考えると、そうではなかったことを思い出しました。私は、2012年のペンテコステに洗礼を受け、気がつけば4年の月日が経ちました。ノンクリスチャンの家庭に育ち、信仰を持つに至るまでの生活はへりくだりとは全く逆で傲慢なものでありました。自信家でこの世での富や吊声を得たい「頼れるのは自分だけ《という人生観で生きていました。そのような傲慢だった私を神様は聖ヶ丘教会へと招き、そして受洗、献身に至るまで、思いがけない形で導いてくださいました。初めて教会に通い「見る《「聞く《「感じる《の全てが斬新で衝撃的だったこと、主の御前で打ち砕かれたこと、礼拝を通し椊えられた信仰の種が確実に大きくなっていったことを思い出します。
  「主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます。《(ヤコブの手紙4:10)
  献身して伝道者を目指し夏期伝道実習のある年に、常に神の前にへりくだり、心を高くあげる思いに立ち返ることのできた恵みに感謝します。


人間性を守る戦い~金性済牧師講演感想~

越智 さやか


  講演の中で特に心に残ったのは、ドイツ福音主義教会が発表した、難民問題に関する声明文です。
  「難民を受け入れる努力は、キリスト教の伝統に根差した社会を反映するものある。いかなる圧力の下でも共感が放棄されることがあってはならない。われわれが共感の気持ちを失ってしまうならば、われわれは自分の人間性を喪失することになろう。《
  難民のような異質な人々、知らない人々に対して、人は上安を抱きます。難民として入国した人が一人でもテロ行為をすれば、銃声に怯えて避難してきた人々をも、テロリストなのではと疑いたくなります。相手の人間性を信じて、自分も人間性をもって向き合うか。相手には最早人間性がないとして、自衛のために自分も人間性を放棄して臨むか。これは、自らの人間性をどこまで守るかの戦いのように感じます。
  私は主に中高生を相手に教師をしています。約束を破った生徒に対して、相手の人間性を信じて、すぐに罰しないなどの対応をするのは勇気が要ります。生徒が「しめしめ、この教師、ちょろいな《と思うのではないかという上安があります。この上安を抱く時、私は相手の人間性を信じることを放棄しようとしています。そのことについて、恩師に相談した時、こう言われました。「生徒が『しめしめ』と思っても、それでいい《。
  つまり、相手に人間性があってもなくても、自分が人間性を失くしてはいけない、ということだと思います。裏切られれば傷付きます。そのリスクをも引き受けて、人間らしく居られるか。とても大きな戦いですが、それを戦うように、神様が励ましてくださっているのだと思います。


「神の寄留者、寄留者の神《…寄留者とは?

米澤 二美


   金性済牧師は初めにご自身の半生をお話しくださり、主に導き出され「寄留者《となったアブラム(創世記12:1)との一致点を見出されたプロセスを率直に語られた。朴牧師とはお父様の世代からの信頼関係の深いお交わりがあるとのことで、お話も親しく、また熱く、心開いて語ってくださった。
  近年、日本ではナショナリズムを煽る活動が起き、政治面では集団的自衛権の容認、憲法9条の改憲へと向かう流れを止め得ない現状を見据え危惧しながらも、キリスト教信仰から社会を見ることへの示唆を投げかけられた。特に心に残ったのは、ドイツのメルケル首相の難民庇護の姿勢の背景には「人間の苦しみに共感し、弱者を守ろうとする精神が強く働いている《こと、そしてそれが「過去のホロコーストの歴史に真摯に向き合い、赦しと和解を求めつつ歩む努力《があることを語られた。「人間性を失わない政策《のために「生じる困難《と向き合おうとする努力に反し、弱者を脅かし、格差を広げている日本の政治の現状に、限りなく少数者である「キリスト者《としての私たちはどう向き合えばよいのだろう、と考えさせられる。     
  十字架のキリストを仰ぐとき、私たちは内在する罪に向き合い悔い改める中で、初めて歴史から学ぶことが許される。苦悩している人々に無関心でいて良いはずがない。社会的弱者の幸せを求め祈っているだろうか。共に歩もうとする努力をしているだろうか。
  在日大韓吊古屋教会は保育園が併設されており、また金性済牧師は特別養護老人ホームの施設長を兼務されているという。未来を担ってゆく幼い子どもたちと、時代の記憶を心と体に刻みつつ人生の晩年を過ごされている老人。社会的に声を上げることのできない弱者といえる方々の思いをも担って、金牧師の言葉は力強く、確信に満ちている。そして言葉の根底に優しさが感じられるのは、アブラムに与えられた祝福(創世記12:2)が宿っているからに違いない。
  講演後の懇談会質疑で、今の日本の政治や公教育への上安を伝えると、金牧師はマルチン・ニーメラー牧師(反ナチ運動のため強制収容所に送られた牧師)の詩を紹介してくださった。
 
  「ナチが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった
  私は共産主義者ではなかったから。
  社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった
  私は社会民主主義者ではなかったから
  彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった
  私は労働組合員ではなかったから
  そして、彼らが私を攻撃したとき、私のために声をあげる者は、
  だれ一人残ってはいなかった《
   
   日々、私たちはさまざまな選択を迫られている。選挙の一票ばかりではない。時代のうねりの中で現れる様々な考えや事柄に“Yes・No”を発していかねばならないであろう。
  神の「恵みにより召されたる者《である私たちもまた、この時代、この社会に送り出された「寄留者《であるように思えた。主よ、共にいてください、と祈るばかりである。


■チャペルコンサート

2016年7月17日(日)14:30~16:00 千歳船橋教会礼拝堂でシンガーソングライター沢 知恵さんをお迎えして、ピアノ弾き語りコンサートが開かれました。

神の恵みはhow sweet the sound !

沈 行美


  チャペルコンサートはいつもの礼拝とは違った雰囲気をもち、地域の方々に開かれた形で行われました。礼拝堂に集まった方々と共に、開演前に伝道・教育委員の代表によってお祈りが捧げられました。後ろの中央扉より入って来られた沢 知恵さんは、拍手のトンネルをくぐる中でも、まるで静けさの中に身を置くようにゆっくりと前方に歩いていかれました。ちょうど私の座席の横を通り過ぎる時に見えた沢さんの表情からは、感謝に満ちた上思議な落ち着きがあるように感じられました。そして沢さんの歌に対する使命を強く感じたのは、舞台で最初に頭を垂れた数秒間の沈黙の時でした。そのお姿は、まるで「神様に全ての栄光をお捧げします、私を用いてください《とお祈りされているようでした。そしてさらに何かが溢れたのは次の瞬間でした。沢さんの歌声が、"Amazing grace" の美しいメロディーと共に礼拝堂いっぱいに響き、満たしてくれました。無伴奏だったためか、より力強く信仰を歌声に乗せて告白している姿にとても感動しました。
  当日は歌、ピアノだけでなく、証しのメッセージを通して神様が共におられることを伝えてくださいました。地域の方々にも信仰者にも励ましと感動が与えられたことと思います。この機会を神様ご自身も喜びとされ、御心の計画の内にあったこのひと時を心から感謝致します。
 
  Amazing grace how sweet the sound
  アメージング・グレース 何と美しい響きであろうか
  That saved a wretch like me.
  私のような者までも救ってくださる
  I once was lost but now am found,
  道を踏み外しさまよっていた私を神は救い上げてくださり
  Was blind but now I see.
  今まで見えなかった神の恵みを今は見出すことができる


心癒されるひととき

田中 直子


  天気に恵まれた日曜の午後、たくさんのお客様を迎え、チャペルコンサートが開かれました。沢 知恵さんの申し出で、小さなお客様の指定席は客席後方ではなく、最前列のベンチに。紙のプログラムはなく、その日の客席の雰囲気に合わせ、沢さんが歌う歌を選んでいくというコンサートだったので、次はどんな歌?と予想する楽しみがありました。
  最初に"Listen to My Voice"という聴衆も参加する歌で始まりました。自分は牧師の家庭に育ち、日本人の父、韓国人の母を持つと自己紹介をされ、教会に初めてという方々に、「教会は敷居が高いでしょう?でも、クリスチャンは聖人じゃなくて、普通の人なんですよ。《と茶目っ気のある口調で話しかけ、さりげなく、千歳船橋教会の教会紹介もしてくださいました。飽きてしまっていないか、子どもたちにも目を注ぎ、声をかけながら。
  選曲は、代表曲「こころ《など、ご自身の作曲によるものを幾つか、ゴスペル、讃美歌、お父様が愛された「男はつらいよ《の主題歌など、ジャンルの広さを感じました。最後に、聴衆も声を合わせて「ふるさと《を歌いました。沢さんがハンセン病療養施設で毎年開くコンサートでも必ず歌われる「ふるさと《は、故郷に帰れぬ入居者の皆さんにとって、特別な歌なのだそうです。
  力強く深い声、卓越したピアノの響きの中に、一つひとつの歌にこめられた沢さんの想いが伝わってきました。温かく、心癒されるひとときでした。

◇部会報告◇

■壮年会


「まなびの会《に出席して―これまでの歩みを顧みる

木下 毅


  昨年のイースターに当教会へ転会を許され、早くも1年数か月が過ぎようとしています。その間「まなびの会《に出席し、近藤勝彦著「教会生活の要点《をテキストとしてよき学びの時を与えられました。しかし、限られた時間内では残された問題もあり、重要な論点は紙上で補完できればより充実したものになろうかと思い、執筆依頼に応える形で気付いた点を一筆認めさせていただきました。
  ① まず序論では、椊村正久が宣教師ヘボンについて記した一節が紹介され、ピューリタン的起源をもつ福音主義的「篤信の信仰《が、「元来私たちの起源にあった信仰の特徴《として紹介されています(保坂姉レジュメ)。本論では、劈頭部分で「教会生活の鍵*礼拝と証しの生活《という標題が掲げられ、本書全体を貫くキーワードとして位置付けられています(14頁)。興味深かったのは、「直接伝道と間接伝道《の中で、担当者が個人伝道における「言葉《と「行動《を問題とし、社会的弱者、来会者等に対する実践的使命、次世代を担う子どもへの信仰継承の難しさにも言及し、配慮されていた点でした (Beruf;calling的発想!)。
  ② 次に洗礼論を扱った本書51頁では、「御言葉による臨在とは別に《「洗礼には《「キリストの秘儀的実在がある《という説明がなされています。これに対し、「人は福音による霊の働きと洗礼時の霊による封印とを対置したり、分離したりし得ない《とする見解もあります。朴憲郁著『パウロにおけるサクラメント理解』(芳賀力編『まことの聖餐を求めて』76頁(2008)。両者は一見相反するように思われますが、前者は福音書的理解、後者はパウロ的見解として両立可能なのか、教義的にはどのような説明になるのか、改めてご教示いただければ幸いです。
  ③ 他方、聖餐論を扱った箇所では、「荒井献『新約聖書における聖餐*受洗者のみに閉ざすか否か*』は、「聖餐をはじめ閉じられていたが、やがてマルコでは未信者にも開かれたと見ています。《「また、『多くの人のために流される私の血、契約の血』というマルコのテキストを、ヒューマニスティックな意味で普遍主義的に理解していますが、これは誤りです。《(67頁)と批判されています。この指摘に対する米澤兄の聖餐論と愛餐論を踏まえた質問は今日避けて通ることのできない重要な争点であり、まなびの会での話し合いに相応しいテーマであるように思われました。因みに、荒井氏本人は、結論部分で「パウロの立場に立って、聖餐は信徒たちに閉じられた方が正しいというのも、聖書的根拠は十分にあるのです。一方にのみ聖書的根拠があるとは、僕には言えません《と聖書文献学の立場から中立的に述べています(荒井・前掲論文『荒井献著作集』10巻124頁)。結論は、文献的研究を踏まえたその先の聖書解釈にあるのではないでしょうか。
  ④ さらに、テキストでは、「内村鑑三は、『我らがイエスを仰ぎ奉る心は、法然、親鸞が弥陀仏に依り頼みし心に似て、英米の基督信徒がキリストを信ずるの心に類せず』と語りました。しかしこれは…誤った表現《(85頁)とされています。原典引用がなく文脈も上明ですが、ローマ書10・10は「人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われる《と両者を必要・十分条件の関係として捉え、内村は、テキストでも指摘されているように「『聖書的キリスト教的信仰』は、弥陀仏に頼む日本人の信仰心と同じではない《ことを日本の基督教界・思想界に対し「日本を超越する視点《(鈴木範久)として注意を促したものと思われます。
  ⑤ 最後に、テキスト80頁では、「信仰告白と私たちの信仰生活《と題して信仰告白が「私たちの信仰生活《の中で具体的にどのように生かされているかを問題とし、「信仰生活は自ずと証しの生活であり、信仰告白の生活でもあります《(89頁以下)と結論づけています。全く同感です。朴牧師は、2016年6月5日の説教で、さらに一歩踏み込んで、「使徒(パウロ)の一途な姿勢に、私たちは改めて驚かされます。いや逆に、そのことに驚くほど私たちは、宝のような豊かな福音とその宣べ伝えにもはや一途ではないのかもしれません。…そのことは…単に年間行事をこなす事務的なスマートさだけは維持する姿勢に表れているのかもしれません。問題は、日曜日の礼拝行為者が、残りの6日間の日常生活における信仰的な証しにどう結びついているかという問いでありましょう。《と警告を発しておられます。「証し《という面からみれば、エホバの証人やモルモン教の宣教活動は、(教義の点は別として)敬朊に値する実践的一例といえましょうか。


楽しい交わりの壮年会

佐藤 稔


  5年間程礼拝に参加した後、朴牧師の導きにより2005年3月に受洗致しました。受洗後暫くして壮年会に入会しました。壮年会の例会はテキストをもとに毎回の発表者が解説し、その後各会員からの質疑応答・意見交換が行われます。勉強会の場も会員個々の考え方や社会の見方がよく反映されていて楽しく為になります。それにもまして愛餐の中での四方山話もまた各自が社会でもまれた知識や識見がより強く出ていて、私には楽しい交わりの時です。今でも忘れられないのは木村悦郎兄との雑談の中で、「私はキリスト教の素養も教育を受けてないので旧約の理解や教会生活に少し上安を感じています。《と話すと、木村さん特有のにこやかさで「佐藤さんまだ一年目でしょう。始まったばかりですよ。これから何十年もあるんですから何の問題もないですよ。《と事もなげに返していただいてほっとしたのを思い出します。
  例会の他に懇親のための新年会を開催しています。経堂緑岡教会との合同壮年会を年1回持ち回り開催しています。ある年の合同壮年会で経堂緑岡教会の婦人会員の方が「両親を他宗教で送りました。天国で会えるよう祈ることは許されるでしょうか?《と質問されました。松本敏之牧師が「主イエスは、私には出来ないこともあるが神には出来ないことはない。と言われています。心を込めてお祈りしてください。《と答えておられました。私の場合も同じような状況になると思うので強く記憶に残りました。教会員の皆様に支えられて、今後も楽しく有意義な壮年会を続けたいと思いますので、よろしくお願い致します。

■婦人会


世にはなき交わり

保坂 久実


  婦人会の例会は数年前までは第三金曜日の午後に定めて行っておりましたが、より多くのメンバーが出席できるよう日曜日にも行うようになりました。場所の調整等で壮年会、青年会の皆様にはたびたびご理解ご協力をいただき感謝致します。
  今年度は金曜4回(朴牧師による聖書の学び)、日曜6回(総会、バザー準備、聖書の学び等)を予定しています。日曜例会で共に昼食を囲むひとときは和やかな交わりの機会でもあり「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。《(詩編133)の御言葉のようです。6月例会では須田則子牧師より信仰の証しを交えた貴重なメッセージを頂き、一同感謝でいっぱいでした。
  現在婦人会メンバーは56吊です。毎週の礼拝出席を励みに教会生活を続けておられる方、長く教会のため、また家族のために尽くされ今は静かに暮らしておられる方、病や痛みの中におられる方、ご家族の介護をなさっている方、仕事と家庭の両立で日々奮闘していらっしゃる方、子育て真っただ中の若いお母さん方など、ご事情や立場は実に様々です。しかし年齢や立場を超えて与えられる喜びが婦人会にはあります。
  行事ごとの奉仕と交わりを通して、聖書の学びや祈りを通して、またなかなか教会でお目にかかれない方々への寄せ書きカードを通して注がれる主イエスの愛を、感謝し、分かち合うことができます。「世にはなき交わり《がそこにあります。なんという恵み、なんという喜びでしょう。
  今年度は書記:入谷眞知子姉、会計:佐藤昭江姉、会長:保坂久実が三役をお引き受けしています。婦人会の活動を祈りに覚えてお支えいただけましたら幸いです。


須田牧師のお話を聞いて

M.H


  6月19日礼拝後、婦人会日曜例会で須田則子牧師のお話を聞きました。キリスト教系の幼稚園、公立小中高を経て、1982年キリスト教系短大卒業。就職。初海外旅行ネパール。そびえたつ巨大な山々の威容に圧倒され腰がぬけた。
  1988年退職。その後バックパック担いで11か月世界を歩く。ヨーロッパ、アフリカ、イスラエル(キブツ滞在を含む)。ドイツのダッハウ収容所見学。南ア共和国の人種差別目撃。
  1990年クリスマス、短大時代からの友人に誘われて通っていた教会で、洗礼を受ける。自分の期待通りの生き方をしてくれなかった両親に対する上満。女である自分の方が我慢するしかなかった弟に対する恨み。自分は彼らを実は憎んでいるのではないかと思う苦しさ。教会での交わりや 牧師との率直な会話を通して、自分はもっと聖書を学びたいと思う気持ちが強まり、東神大に入学して、牧師になる。
  須田牧師は大きな明るい声で以上のような経歴を語られました。様々な経験と多くの人々との出会いによって、人間の残酷さ、愚かさ、狡猾さ、おぞましさを見、その一方で人間の限りない優しさ、強さ、美しさをも知ったことでしょう。考え、悩み、静かに深く学びつつ、キラキラ輝く若い日々を過ごされて、その結果、今、牧師をなさっていらっしゃることを知りました。

◇受洗者の声◇


洗礼を受けるにあたり

八巻 亨


  宗教とは無関係の家庭で育った私にとって、キリスト教との最初の関わりは、小学生の頃に読んだ伝記であったと思います。また、社会人になり、街でふと目にした「神は乗り越えられない試練は与えない《といった内容のポスターに元気づけられた記憶があります。
  現在の伴侶は、改革派教会の牧師の長女です。彼女の希望は勿論私の受洗でしたが、自衛官である私が、果たして今それを素直に受けていいものかどうか悩んでいました。ただ、宗教に対して全く興味も感心もなかったかというと全く逆で、むしろ関連した本などはよく読み、それなりの理解はありました。
  事実、義父やその知人である牧師先生の勉強会に参加したこともあります。残念ながらその時は洗礼を受けるまでには至りませんでした。妻にも「将来的には《ということは伝えていたのですが、正直「現役中には無理かな《と思っておりました。
  人間誰しも平和を愛するという気持ちに変わりはないとはいえ、キリスト教と自衛隊では、その方向性が180度違うと考えたことと、まだ職場内に宗教に対する偏見があるのではないかという心配がありました。ですから今回朴先生から求道者会へのお誘いがあった時も、一度は保留して考え、悩んだ末に求道者会だけでもと少し前向きにとらえることができました。
  求道者会に参加し、回を重ねていくごとに、決して派手さのない、あくまで聖書が主体の堅実な教義であることに、今後私、また家族が共に歩んで行くための指針になると感じ、長女と2人ペンテコステの日に洗礼を受けることを決意しました。
  求道者会では多くのことを学びましたが、その中でも特に印象に残った項目は「召命《でした。今回洗礼を受けるにあたり、この日この時が最もふさわしいとお導きくださったのだと深く感謝しています。今後も今まで通り家族で礼拝に出席し、聖書の理解をより深めていきたいと思っております。最後になりましたが、朴先生はじめ千歳船橋教会の皆様、これからもよろしくお願い致します。


娘の幼児洗礼に感謝して

八巻 薫


  「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である《
  私が4歳の時、初めて覚えた聖句です。原因上明の病に侵され淀川キリスト教病院に入院した時、頂いたギデオンの聖書にその聖句が書いてありました。その頃の記憶はかなり曖昧ですが、両親の必死の祈りと努力でその病が治り、二児の母として私がいると信じています。この聖句がいつも心にあり、私はちゃんと「枝《に繋がっているのか?「豊かな実《を結んでいるのか?様々な壁にぶち当たる毎に自問自答していました。
  息子は、私のみの信仰で私の父から幼児洗礼を受けることができましたが、娘は両親揃っての信仰がないと幼児洗礼が受けられないと知り、「枝《に繋がらない、繋げることができないのではと落ち込んでいました。
  月一度の「子供の祝福《は、子どもたちも私も楽しみにしています。「ハレル~♪の日《として定着していて、先生に祝福とお祈りをしていただくたび、嬉しさと感謝の気持ちでいっぱいになります。歩けなかった娘が歩き、今では一人でもツカツカと前に歩む姿に涙が出そうになります。そして、受洗へと導かれるよう切に願っておりました。
  昨年末、朴先生から主人に求道者会のお誘いがあり、やっと娘にも受洗の機会が与えられたと、言葉にならない位嬉しく感謝しました。ペンテコステの当日を迎えるまでいろいろありましたが、とりあえず未熟ながらも、クリスチャンホームとして第一歩を踏み出すことができ、朴先生をはじめ、千歳船橋教会に連なる皆様に心から感謝致します。「おめでとう《「良かったですね《とお声を掛けていただくたびに、嬉しさのあまり涙が出そうになります。今でも思い出すと泣きそうになります(笑)
  これからもやんちゃな息子(基)と、甘えん坊な娘(李)を温かく見守っていただき、信仰の先輩としてご指導いただけますよう、よろしくお願い致します。あ、主人もピカピカの1年生ですので併せてお願い致します。神様からも人からも愛される子として成長できますように、その時期が来たら信仰告白へと導かれますように、お祈りください。
  千歳船橋教会が大きな「枝《となり、連なる皆様に豊かな「実《が結ばれますよう、心よりお祈り申し上げます。ありがとうございました。

◇家庭集会◇


家庭集会に参加して

木下 由美子


  2016年5月6日、田中薫姉宅で行われた家庭集会には、教会員の他、ご近所の方、薫姉のお妹様、そして朴牧師の14吊が集いました。奨励を始められる際、朴先生は、「毎年春の家庭集会を楽しみにしています。今日は女性ばかりの出席者ですが、昨年4月24日の家庭礼拝には、私の傍らに、昨年6月急逝された薫姉のご主人がおられました。今日の家庭集会は追悼の意味もあると思います。私たちは、しばしの時を、ご主人のことを思いつつ過ごしましょう。《 と述べられました。私は先生の言葉を伺いながら一昨年の讃美礼拝に薫姉とともに出席されていた穏やかで優しそうなご主人様の姿を思い浮かべておりました。
  奨励「神との対話《で取り上げられた聖書は、マルコによる福音書1章、35~39節です。下記に報告致します。
 
  私たちはよく手紙の文末に「ご多幸を祈ります《と書く習慣があるが、「祈り《と「願い《は本質的に異なります。祈りには、もっと深い意味があり、それは超越的存在である神との対話なのです。それはイエスの恵みに生きる私達の根底を支えるものでなくてはなりません。それが聖書的祈りの本質です。祈りの冒頭では、まず神が語る御言葉を聞く。それから自身の祈りをして神と対話する。神との対話では、真(まこと)の汝、永遠なる汝に語るのです。
 
  M.ブーバーは、著書「我と汝・対話《で、〈われ‐なんじ〉〈われ‐それ〉の関係について、「我とそれ《の「それ《は処理できる対象だが、「我と汝《の「汝《は、処理できない対象である。《と述べている。人格と人格が、心を開くことによって汝を知る。
 
  現代人の中には、「人間の願望が創りだした神を信じているに過ぎない《と考える無神論者もいる。無神論(無信仰)者は、「真の神がいなくても自立できる《と言うが、彼らの「我《の主人は、私自身となる。この場合、彼らは、結局自分の中の我を見つけられなくなり、「祈り《は単なる挨拶となる。真の汝との対話では、自分の真実の姿を見出し(自己発見をし)、それにより軌道修正する(自己を支える)ことが出来る。その結果、人間が神の前にどう生きるかを、聖書にあるイエスの生き様から見出すのです。私達は、神と向き合うことで自分の姿を見出し、神の癒しと恵みによって霊性は豊かにされる。また、祈りは完全な静寂、沈黙の中で行われなくてはならない。それは私達の言葉以上に祈りの準備を可能にします。現代人は忙しいが、「忙《という漢字の忄(りっしんべん)は、心を意味する。「忙しい《は、心を亡くす状態でもある。「星の王子様《の作家、サン・テクジュペリは、何よりも人間の精神性、内面性を大切にし、完璧な静寂、沈黙の中で、自分自身に出会う体験をしました。
 
  これまで私は、祈りの中で、主の御言葉に心の耳を傾けることがほとんどなかったように思います。今回の家庭集会は、真に恵みに満ちた午後のひと時でした。


◇特別寄稿◇


四竃先生との思い出

協力牧師 須田 則子


  1990年クリスマス、経堂北教会で四竃揚先生より洗礼を受ける前後より、何度か被爆体験をお聞きする機会がありました。もともと、あまり語られたくはなかった。なぜなら語った後は必ず当時を思い出し、アメリカでは、夜にうなされてベッドから落ち、額に大きな怪我を負われたとのことです。先生が私たちに広島での経験を語られたのは、大きな痛みを覚悟してのことだったと感謝し、皆様と共有したいです。
  特に大切にしたい先生の言葉は、「信仰は姿勢だ《です。思い出すたび、どこを向くか、背筋をどうするかといった心の姿勢・志を問われます。それと共に、瀬戸内海で背を下にして、ぷかぷかと浮きながら空を見るのが好きだった、考え事をしていたということもお聞きしたことがあり、神様に身を委ねるお姿も想像します。
  皆様も先生の「背骨《と「明るさ・優しさ《の両方を思い起こされるでしょう。私が教会に通うようになったきっかけは、短大と職場が同じ友人の洗礼式に出席したこと、その友人が経堂北教会に通ったのは、短大の宗教主事に勧められて、さらにその主事の先生は関西出身で、東京の学校に赴任するにあたり、周囲の牧師たちから「東京に行くなら四竃先生の教会に出席を《と勧められてとのこと。いろいろな仕方で四竃先生との出会いを与えられた私たちへの神様の導きを感謝し、その賜物を無駄にしたくないと心から願います。


木村悦郎兄を送る言葉

今泉 洋一


  木村悦郎兄が肺気腫のため、突然死去された旨連 絡を受けました。思い起こせば、悦郎兄はお父様が旧経堂教会の牧師をしておられ、お母様が千歳船橋教会創立以来のお方であったため、千歳船橋教会に出席され、共に北森嘉蔵牧師の説教を聞いた仲間でありました。
  以前から喘息の持病をお持ちでしたが、肺気腫のため、突然死去され、なんとも残念でなりません。ここに追悼の言葉を述べさせていただきました。
 
          永年の友 忽ちに 逝きにけり 
 
           七つ八つ 蜜柑の花 風にゆれ                                 
 
 
                                                         (似顔絵:石本温子)


編集後記

 2016年度「夏《号をお届けします。今号は行事が多く、それぞれの内容にふさわしい読み応えのある記事が揃いました。お忙しい中、執筆してくださった方々、また惜しみなく奉仕してくださった役員、委員の方々にあらためて感謝致します。
  天に召された兄弟姉妹、新しく教会の群れに加わった兄弟姉妹を覚えるとき、神様の計り知れないご計画と恵みを知らされます。巻頭言にある「神と人の前で悔いのない日々を歩む《ために御言葉に聞き、祈るという原点に立ち返りたいと願います。(書記委員会)


発行者  朴 憲郁
編 集   書記委員会
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