日本基督教団 千歳船橋教会礼拝説教
2018年3月4日  (受難節第3主日)


聖書:ヨブ記4:7〜9、ガラテヤ書6:1〜10
説教題:「信仰による家族」

朴 憲郁(パク ホンウク) 牧師


   今朝の説教の題は、与えられましたガラテヤ書6章10節の御言葉からそのまま取られました。教会は信仰による家族でありまして、血縁・地縁や利害による絆を超えて、神に招かれ神への信仰によって結ばれた共同体であります。主イエスが地上で神の国の到来を力強く宣べ伝えたことによって、大勢の人に囲まれていました時に、彼の母と兄弟たちがやってきて、お会いしたいと言いました。その時、主イエスはこう答えられました。「私の母、私の兄弟とはだれか。私の天の父の御心を行う人が、私の兄弟、姉妹、また母である」と。これは血縁地縁を断ち切って、神の御心を行う志のある人々の結社を求める、教会を指し示す驚くべき革命的な言葉です(マタイ12:46〜50、マルコ3:31〜35、ルカ8:19〜21)。
 
  これは、いわゆる内側の仲間を固めてよそ者を排除する村社会なるものを打ち破って、他の人々に開かれており、神との契約によって成り立つ人格的な絆の集団であり、結社(バンド)であります。ここから、欧米近代の民主主義社会もまた形成されてきました。一般社会から見ればキリスト教も宗教団体の一つに違いないのですが、この宗教団体は宗教の世界に留まることなく、むしろ欧米では近代的な民主主義社会を作るあげる基盤になってきた団体です。ですから戦後の日本の民主主義社会のためにも、信仰による家族としての教会が存続することは大いに意味があります。大都会の東京の中心地にある会社や(キリスト教)学校の組織においても、しばしば驚くべき「おらが村意識」がはびこる前近代的な人間模様を呈することがあるからです。
 
  日本では、明治維新の文明開化の時代に、キリシタン禁教の高札がようやく撤去されて、欧米からキリスト教文明がどっと入ってきまして、福音伝道活動もにわかに始まりました。そのような転換期に、江戸時代から続いた封建的な家族や社会のしがらみから抜け出す人々が多く現れました。大政奉還による武家政治が終わり、社会に放り出された武士階級の人々もそのような人々に属します。彼らは宣教師を通して、一人一人の人間の尊厳と価値を求めるキリスト教の世界観と人間観を知って、身を乗り出しました。そこに、新世界と新時代を切り拓く日本の将来を見たからです。これら日本人クリスチャンの群れが各地にできましたが、よく知られていますのは、横浜バンド(結社)、熊本バンド、札幌バンドです。これに加わる人々の中から、やがてキリスト教界や政治・文化に多大な貢献をする人士たちが排出しました。このように、歴史と社会を変革する原動力となる基本的な共同体がガラテヤ書で言う「信仰による家族」です。このことを、エフェソ書2章19節では「神の家族」だと言っています。
 
  知識による大人中心の家族でもなく、子供をも含めた信仰による家族として千歳船橋教会を形作っていこうとした試みが、前任の故熊澤義宣牧師によってなされた毎週主日礼拝時の<子供の祝福>であったと伺っています。私が次の主任牧師として赴任した時からは、毎週ではなく、第二主日礼拝時にこれを行ってきました。
 
   さて、「信仰による家族」であると使徒パウロがここで言う時に、その中身をどう考えているのでしょうか。その第一は、キリストの愛によって励まし合う共同体です。その愛はただ赦し合い、仲良くすることを促すのではありません。1節で言われていますように、信徒は霊に導かれていますので、他の信徒の過ちを見つけた時には非難したりあげつらったりするのでなく、柔和な心で戒めて正しい道に立ち帰らせるようにと勧めています。自分は潔癖であり、相手は過ちを犯していると言って非難し、白黒をはっきりさせてしまうのではなく、自分も誘惑に遭い、過ちをおかしはしないかと恐れて謙遜になり、五十歩百歩の違いなのだと考えて、柔和な心で戒め、あるいは2節に書かれていますように、互いに重荷を担い合うのです。
 
   このことは、後に書かれた第一コリント書12章26節で、キリストの体である教会のメンバー間の在り方を述べた戒めとしてもう一度述べられています。25節から27節までを引用します。「それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体としての共同体であり、また、一人一人はその部分です」と。
 
   宗教改革者のカルヴァンはこれを「教会訓練」だと申しました。試合に臨むスポーツ選手と同じように、様々な試練や誘惑に打ち勝ってこの世を生きる教会は、脆弱な体ではなく、鍛えられた健全な体であることが神より求められています。日本の代表的な教義学者であり武蔵野教会を牧会された熊野義孝牧師は、もう一歩踏み込んで、教会を、武道の稽古をする道場だと申しました。信仰の修練の場という意味です。
 
  愛の共同体としての教会における交わりは、信徒相互に干渉するようであってはなりませんが、その反対に互いに無関心であったり、個人主義的信仰に留まったりするのであってはなりません。重荷を担い合うことが求められます。互いに重荷を担い合うことには、いろいろな場合が考えられますが、ガラテヤ書6章1節で問題にしているのは、何かの罪に陥った信徒がいて、その人を柔和な心で忠告するということです。いったいその信徒がどういう罪に陥ったのかは分かりません。ある注解者は、キリストへの信仰に生きていながら、律法に対して忠実であるために割礼を受けようかと考えている信徒のことではないかと推測します。しかし、これはガラテヤ書1章から使徒パウロがキリストの福音との対立において、ずっと取り組んでいたテーマですし、その場合には譲歩のない厳しい言葉で律法主義的な信徒を批判しました。しかしこの1節ではそれとはまったく異なります。もっと具体的で個別の過ちが考えられているように思われます。原文では「ある誘惑にとらわれて驚く」という意味を含みますので、「突然の衝動に駆られて悪を行った」のかもしれません。 
 
  いずれにしましても、私が思い起こすのは、使徒パウロのこの忠告の言葉の背後にあるのではないかと思われる(地上を生きた)主イエスの言葉です。それはマタイ福音書18章15節と16節です。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである」。
 
  考えてみますと、適切な忠告であっても、それを語る人にとっては勇気のいることですし、重荷を負うことになります。しかし誤解を恐れず勇気を出して、相手の兄弟姉妹を柔和な心で誘惑の道から正しい道に立ち帰らせるよう努めることが求められます。そして何よりも、神の御前で祈り合うことが求められるでありましょう。これは何でもない戒めのように聞こえるかもしれませんが、今の時代の風潮に抗するものとなります。と申しますのは、そもそも「罪過に陥っている者を立ち直らせる」という発想は、現代人の感覚からすれば、多少違和感を抱かせるからです。
 
  現代人の気質は、自分も好きなように生きるから他人も好きなように生きることを認めるとか、他人の問題には口出ししないので、逆に、私たち自身の問題に干渉しようとするような友達は避けるという傾向をもちます。しかし、愛の共同体の中でも、この考え方や振舞い方がまかり通るようであってよいのでしょうか。
 
  確かに聖書では他方において、兄弟姉妹の過ちを見つけた時に性急に他言したり公言することは慎み、相手が自分のことを悔いている時には、そっと覆ってあげる配慮が求められます。しかしいついかなる時も、このような姿勢を原則のように貫くことを、聖書は求めていません。従って、どこで口を閉ざし、どこで忠告すべきかを適切に判断する分別/識別(discernment)の恵みをお与えくださいと、共に神に祈り求めたいと思います。
 
  使徒パウロはガラテヤ教会で起こっていることに鑑みて、ここでは過ちを犯した人を正しい道に連れ戻すために適切な助言や忠告を惜しまないようにと、信徒たちに勧めています。それもまた重荷を負い合うことです。つまり、回復の業は挫折の痛みを共に分かち合うのです。これもまた、5章の終わりで言われた神の霊に従って生きる信仰者における愛の実践(5:22以下)に欠かせないことです。
 
  この関連で使徒パウロは、忠告する人もまた自分が安全圏にいると思いあがってはならず、むしろ自分も同じ誘惑に遭ったり悪に陥ったりはしないかと恐れ、自らの欠点と弱さとに気づいて自分をも戒め、自らの務めと責任を忘れないように気をつけなければなりません。こういうことが相互に伴う教会こそ、愛の共同体であり、信仰による家族です。ここには、世の終わりの裁きの日にも耐え得る健やかさがあります。
 
  5章16節以下の御言葉から私たちがすでに学びましたように、肉に従ってではなく、霊に従って生きる信仰者の群れが、信仰による家族だと言われる時、そこにはキリストの福音による律法からの自由があります。今上で説かれた信徒相互の戒めと忠告は、決して律法主義から発したものではありません。そうではなく、福音による罪の赦しの愛と自由に基づく新しい戒めです。これは、新しい生き方を私たちの間で、そしてこの世にもたらします。
 
  そのことについては、すでに1章から様々な仕方で論じられ、主張されてきました。律法の戒めにとらわれた人の特徴の一つは、因果応報の考えです。この言葉は仏教用語でもあります。因果応報は、過去における善悪の業(ごう)に応じて現在における幸不幸の結果を生じ、そこからさらに、現在の業において未来の果報を生ずることを意味しています。旧約聖書におけるイスラエル思想においても、律法の教えに基づく因果応報の思想が色濃く残っていました。
 
  ある日、生まれながら目の見えない人を見て弟子たちがイエスに尋ねました。「先生、この人が生まれながら目が見えないのは、だが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」と。これは、罪を犯したことに対する神の罰・裁きが結果としてその人またはその子らに降りかかるという当時のユダヤ教の因果応報思想を反映しています。両親や先祖に原因があるとなれば、それは当事者を運命論、宿命論に陥った人生観にたどり着くことになります。これに対して主イエスは、「そのどちらでもない。運命的な過去が問題ではなく、将来起こる神の救いの業に目を向けなさい」とおっしゃった後、この盲人をシロアムの池で癒されました(ヨハネ9:1~7)。神が起こす将来の御業は、人間の運命的な過去と現在における悪循環の鎖を断ち切っていきます。
 
  信仰による家族は、こうした律法主義による因果応報の思想を乗り越えて、御子による神の赦しによって結成された共同体です。先に述べた互いの戒めや忠告は、互いに裁き合うことをやめた上で成り立っている愛と自由の言葉なのです。
 
  今朝のヨブ記4章7〜9節は、律法に忠実に正しく生きた一人の信仰者ヨブがまったく不可解な幾重もの苦しみに喘いていた時に、友人の一人エリファズは伝統的な知恵の教えに従って、ヨブの様変わりを責めたあとで、因果応報を説きます。7節で彼は「罪のない人が滅ぼされたことがあるであろうか」と問いかけて、それに対する答えを8節で、農夫の譬えによってこう示します。<災い>ないし<悪>の種を蒔き、労苦の畑を耕した者がそれ相応の収穫を得るのだと。エリファズはこう説いて、不幸に陥ったヨブに自分の非を認めさせようとします。
 
  しかし、因果応報が人間生活の現実に基づいて把握された知恵であっても、これによって個々の現実を説明しようとする時、限界があります。身に覚えのない災難が降りかかった時の現実は、因果応報の枠を超えていす。ヨブの苦悩がこれです。この現実にヨブの友人は気づかず、因果応報の思想に取りつかれています。
 
  ヨブ記のテーマは何でしょうか。律法を忠実にも守り、神に信頼して生きた人がなぜ神の祝福をいただくことなく、かえって災いと苦しみに遭遇するのか、神が義なるお方であるならばなぜ義人は苦しむのかという神義論が最大のテーマです。詩編一編に詠まれた素朴な祝福観は、ヨブのように辛苦を味わう信仰者には妥当しないように思われるのです。ここで、麗しい詩編一篇1〜6節をお読みします。「いかに幸いなことか。神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。神に逆らう者は裁きに堪えず、罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る」。
 
  主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさんだ人、ヨブは、この詩編の御言葉通り、流れのほとりに植えられた木のように実を結んでいた人です。しかし今や見るべくもなく哀れな姿に変わり果てたヨブにとって、単純な祝福観によっては持ちこたえられなくなっています。実はこれはヨブ一人の問題にとどまらず、神の契約の民が十戒と律法の遵守によって、神の選びと祝福をいただいていたのですが、周辺の強大な国々の脅かしと侵略によって滅びていく苦難を味わいながら、神の祝福の問題を自ら経験する民族的な苦難のただなかで深めていったのです。その結果、イザヤ書53章の苦難の僕の歌となって、最も深いメシア思想へと変貌することになります。やがてそのメシア待望の先に、メシアとしてナザレ人イエスの出現とご生涯があります。
 
  神の律法に忠実であっても被ることのある義人の苦悩の問題は、因果応報思想ではとうてい覆い尽くすことができません。その義人には、ヨブの場合と同じく、この苦難の謎を根本的に解くことができません。不可解なのです。教会もまた福音信仰に立って歩んでいましても、しばしば思いがけない試練に遭遇することがあり、疑念が生じます。しかし、それにもかかわらず唯一慰めと希望が私たちに与えられています。それは真に義なる神の御子が私たちのために苦しみの十字架にかかって死なれたこと、そしてその死から復活なさったことです。御自身にとっては言われなく神の裁きを受けて十字架の死を遂げました。しかし私たちのために、主イエスは父なる神に打たれて死なれました。ここに義人の苦しみによる最大の希望が隠されており、喜ばしき音づれ、すなわち福音が備えられています。
 
  このお方を頭として仰ぐ信仰者の家族は、罪と肉の因果律の連鎖を打ち破る愛と自由の福音に生かされています。それは、復活なさった主の霊に生きる信仰者の群れを形づくります。すでに前の聖書箇所から共に確認しましたように、主キリストの霊に捉えられた人は愛の果実(重荷を負い合うことも含めて)をもたらして律法を満たし、教会の新しい秩序を生み出します。それゆえに、本来キリストと律法を対立的に語ってきた使徒パウロは、6章2節であえて「キリストの律法」という刺激的な言葉を語るのです。キリストによる愛は、律法を全うします。
 
  教会は罪と肉のあらゆる因果律の連鎖を断ち切りますが、ただ一つの因果律が教訓として残っています。それは、8節に書かれていますように、自分の肉に蒔く者は、必ず肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、必ず霊から永遠の命を刈り取るという法則です。肉的に振舞う者が霊的な永遠の命を刈り取ることは決してなく、またそれとは逆に、霊的に振舞う者が滅びを刈り取ることも決してないのです。ヨブ記4章8節で言われたように、肉的な災いと労苦を振舞った人だけが、災いと滅びを刈り取ることになります。
 
  十字架にかかり復活なさった方を主と仰ぐ信仰による家族には、血縁地縁関係に優る無地蔵の宝が隠されています。その宝を探り当てて共に驚き、それを実践する喜びに生きる私たち兄弟姉妹でありたいと願います。