日本基督教団 千歳船橋教会礼拝説教
2018年2月25日  (受難節第2主日)


聖書:イザヤ書57:14〜15、ガラテヤ書5:16〜26
説教題:「霊による果実」

朴 憲郁(パク ホンウク) 牧師


   歴史の中に神が深く介入なさり、御子キリストによって救いの御業を成し遂げてくださった出来事を、教会は一年の教会歴を定めて繰り返し思い起こしつつ礼拝を捧げますし、またそれぞれの行事を執り行います。新年を迎えて、はや二か月が過ぎて行こうとしていますが、先日14日の水曜日は「灰の水曜日」でありました。その日から3月末まで主イエスの御苦しみを覚える四旬節/受難節(レント)に入っています。灰の水曜日に決まってよく読まれる聖書箇所の一つは、へりくだる者が高められることを教訓とするために、悔い改めの祈りを捧げた一人の女性を描いたルカ福音書18章9節から14節までの聖書箇所です。神殿に上って祈る二人の人がいました。一人のファリサイ派の人は、自分が律法の戒めに従って正しく清い生活を送っていることを誇らしげに神に申し述べながら感謝しました。これとは反対に、しばしば不正な取り立ての誘惑に陥っていた一人の徴税人はうずくまって自分の胸を打ちたたき、自分の罪を告白して、「神様、罪人の私を憐れんでください」と祈りました。これをご覧になった主イエスは周りの人々に、二人の内のどちらが神に義とされただろうかと問うて、実は後者なのだとお答えになり、こうおっしゃいました。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」。これは、宗教的な高慢ということがあることを、私たちに教えてくれます。
 
   この徴税人が悔い改めて祈っていた姿は、今朝与えられましたイザヤ書57章の御言葉の15節が語る「へりくだる霊の人」と重なってまいります。ここで、神が顧みて命をお与えになる打ち砕かれた心の人のことを、霊の人・霊的な人と呼んでいます。聖書において霊の反対は肉ですので、へりくだることを知らず、心が打ち砕かれず石のように頑なで、へりくだるどころか逆に高慢・不遜な人というのは、霊の人の反対である肉の人、肉的な人であると言わざるを得ません。神を恐れず、他人を顧みず、その心の内で自らを神とする人です。
 
   このイザヤ書57章14節で預言者の(第三)イザヤは、「土を盛り上げて道を備えよ。そしてその道から民の躓きとなる障害物を取り除け」と呼びかけます。
 
  これは(第二イザヤの預言の)40章1節以下の3〜4節で、神の民がバビロン捕囚から解かれて故国帰還が間近いことを告げた希望の預言(「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。」)を引き継ぐ言葉ですが、57章では40章の言葉と異なる視点から語られています。すなわち、40章ではイスラエル全体への救いが告げられていましたが、57章ではイスラエル内部の敬虔な者(霊の人)と不敬虔な者(肉の人)との対立が生じた状況を踏まえて語られています。もう一つの違いは、40章で言う道とは捕囚からの故国帰還の道でありますが、57章の方は一般的で精神的な救いに至る道を指しています。ですから障害物も具体的な障害物ではなく、精神的な救いに至る趣味を挫折させるものを指しています。いずれにしましても57章15節では、高きにおられる聖なる永遠の神(イザヤ6:1以下)が、取るに足りない、打ち砕かれた低い人間の魂と共にあるという神の恵みの不思議さ、もしくは逆説を歌ったものでありまして、第三イザヤの一つの頂点を示しています。
 
   それを神ご自身について申しますと、偉大で超越的な神がご自身を低くされて
 
  心の砕けた霊の人の傍らにおられ、またその人の内にとどまってくださるということでありましょう。高きから低きに降る神の憐みを、イザヤは民に告げ知らせているのです。
 
   毎週水曜日の午前に祈り会を少人数で守っていますが、教団の聖書日課に従って私は聖書の御言葉を解き明かします。その場合に、質疑応答など対話形式で話を進めることがよくあります。最後に数名に方に順次祈っていただきますが、たいていは「ご在天の父なるかみさま」との呼びかけで祈りを始めます。ある時、御言葉を解き明かしながら、私から出席者にお伺いしました。「神様に向かって呼び求めて祈る時、神様との距離はどの位だと考えていますか」と。自分より少し離れた所で耳を傾けて聞いていて下さる、いや、近寄りがたく天より高い御座にいます、いや自分の心の中にいてくださるなど、いくつかの答えが返ってきて、興味深かったことを思い起こしています。
 
   確かに、神は自分のそばにおられて、馴れ馴れしく語り合うようなお方ではない、いや、近寄りがたい聖なるお方であり、高きにいますお方です。その意味では、イザヤ書6章1節以下で、若いイザヤが聖なる神に出会って、震えおののきつつ預言者への召命を体験した時などは、そのような高きにいます神を考えているでありましょう。しかし、そのような神がこの57章15節で言われますように、へりくだる霊の人に対して限りなく下ってこられる神、最も近い所にいてくださる神であられるのです。そして15節後半では、最も近い所にいてくださるだけでなく、「尽きない命をお与えくださる」というのです。何と幸いなことでしょうか。
 
   さて15節後半で、神の前で打ち砕かれた心の人のことを霊の人といっていますので、その意味は神の霊に捉えられた人という意味ではなく、謙虚な心/魂の人という意味です。神の前でそれとは反対の生き方をする人は(この箇所でそう言われてはいませんが)肉の人、肉的な人であります。
 
   今朝は新約聖書のガラテヤ書5章16節から26節までのみ言葉も与えられています。そこでは、イエス・キリストによる神の霊に従って生きる人と、その反対に、キリスト者になってもなお律法の戒めにとらわれた肉的な生き方をする人がいることを、使徒パウロは語っています。もちろん前者の場合のように、イエス・キリストによる神の霊に従って生きる人とは、十字架の福音によって自分本位や我欲から解放された信仰者でありますゆえに、おのずから神と人の前で謙遜な人、へりくだった魂の人ですから、イザヤ書57章15節でいう意味の「霊の人」とされた人でもあります。
 
   今までも使徒は、ガラテヤ書1章から5章15節まで、キリストへの信仰による自由と愛を訴えて、それをないがしろにする律法主義を警戒し、律法の戒めに固執したりそれに縛られたりするような生き方にひき戻ってはならないと、ガラテヤの信徒たちに注意を促してきました。しかし今またしても、ガラテヤ書5章16節冒頭で「私が言いたいのは、こういうことです」と切り出して、使徒は身を乗り出して別の視点から「霊と肉」という対立概念を用いて、こう語り出します。「霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです」と。
 
   肉(サルクス)というのは、地上の肉体をもち、血縁関係を結んで生きる自然的なものを表す語でありまして、それ自体悪でも罪でもありません。むしろ、神が創造なさった自然世界の一部としてよきものです。このような理解とはまったく異なるギリシャ的な霊肉二元論によれば、地上の物質/肉は悪であり、一時的かつ可変的であるのに対して、天上の霊に由来するものは善であり不変なものであります。しかしこのようなギリシャ的な霊肉二元論は、聖書的な創造信仰や世界観・人間観とは相反します。もちろん人間が神から与えられた自由を乱用して罪を犯してからは、関係するすべてが罪の勢力下に置かれてしまいましたが、本来は全被造物が罪悪から解放されて、神の創造の栄光を取り戻すべきであります。ローマ書8章19節以下で語られている通りです。
 
   こういうわけで、イエス・キリストの福音によって律法と罪の呪いから贖い出された信仰者であっても、地上で肉体をもって生きる意味を真剣に受けとめるのですから「肉において」生きることが許されています。信仰的な食事の仕方があるわけではありません。一般の市民と同じように普通の生活をし、労働しています。しかし「肉に従って」、つまり物質的・現世的なものに究極的な価値を置き、人生の拠り所とし、肉を原理とするような生き方はしないのです。では「肉にあって」、肉体をもって生きつつ、いったい何に従って、何の原理に従って歩むのでしょうか。それは「死者の中から復活なさった主イエス・キリストの霊に従って」、その霊の支配と導きの下で、信仰の証とよき戦いを続けるのです。
 
  これらをもう一度整理して申します。キリストにあって、律法の割礼やその他の戒め、迷信や諸霊(4:3、9参照)から解放されて自由とされた信仰者は、「肉にあって」地上を生きますが、「肉(の原理)に従って」、あるいは「肉の力の支配によって」生きるのではなく、「主の霊に従って」生きるのです。
 
   今まで1章から5章半ばまで律法主義の問題について論じられていましたが、この16節からは霊と肉の対立によって、肉的な生き方と決別すべきであることが、信仰者に求められます。この関連で大切なことは、肉的な生き方を誘発するものは何かと申しますと、それは律法の要求です。つまり律法の要求によって心に潜んだ罪が現れ出て、次に、罪は肉的な生き方を引き起こすのです。このことを、使徒パウロは後のローマの信徒への手紙の中で詳細に論じています。「むさぼるな」という戒めが命じられると、心の奥に潜んでいた罪がムクッと起きてきて、「むさぼってみたい」との肉的な誘惑にかられるのです(ローマ7:7)。つまり、律法の戒め(割礼、食物規定など)が罪を誘発し、罪は肉を足掛かりにして実行に移るのです。こう意味において、律法主義的な生き方は肉的な生き方に連動するのです。肉に従う時、どういう結果をもたらすのでしょうか。また主の霊に従う時、どういう結果をもたらすのでしょうか。それについて、この16節以下では肉の業がもたらす悪徳と、それとは反対に霊の結ぶ果実である徳目(美徳)が対照的に描かれます。
 
   悪徳であれ美徳であれ、これらは道徳の教えとしても通じますが、見誤りますとこれは再び道徳的な律法主義に陥って、人を縛り上げていくことになります。しかし22節と23節の徳目は、福音がもたらす、律法からの自由に基づく愛の果実であります。
 
   昔、キリスト教教育の分野で指導的な役割を果たした高崎毅先生は私の恩師でしたが、戦前戦後の日曜学校、教会学校での説教や分級での聖書のお話が、いつの間にか道徳主義、道徳教育になってしまっていると批判されました。教会学校に通う子は良い子になります、嘘をつきません、人を憎んだり騙したりしませんと教訓的に語り聞かせます。しかし本来は、もっと福音を説いてイエス様と共に生きる自由と喜びに子供たちを与らせる必要があるのですと、盛んに述べておられました。なるほど問題点をよく突いていると、私なりに受けとめていました。しかしその上でなお、問わなければなりません。福音を説いてイエス様と共に生きる自由と喜びに子供たちを与らせるということは大切であり、律法主義や道徳主義に陥ってはならないのですが、こんどは逆に、福音を受け入れる信仰とそれによる自由と愛によって、どのように生きたらよいのかを子供たちに具体的な指標として示す必要があるのです。その意味で、信仰者が避けるべき悪徳を挙げ、逆に受け入れるべき徳目表を挙げることが、とても大切に思われます。自由にされた信仰者の具体的な指標となるからです。
 
   霊の結ぶ果実としての愛の徳目が22節と23節に挙げられたもう一つの意義がございます。それは、霊の果実としてこれらの徳目が挙げられなければ、コリントの教会で問題となった(律法主義の反対側にある)霊能主義者たちのように、無律法主義と無秩序を生み出してしまうからです。愛は秩序をもたらす力だからです。誤った霊の理解と振る舞いに走るコリントの信徒たちには、宗教的な高揚による高慢の罪に陥って、イザヤ書が語るへりくだりの心を失っているのです。
 
  秩序にはいろいろな種類があります。家庭や社会や国家における法律がありますが、教会には教会の規則などに見られる教会法が古代・中世・近現代の教会の歩みの中で形成されました。私どもの教会にも規則があります。しかしこのガラテヤ書では、人の徳を高める霊による愛の徳目は一人一人の人間の秩序、すなわち品性をもたらし、人の徳を高めます。神の霊を受けて神がかり的になるのではありません。
 
   ところで、22節の初めに霊の結ぶ果実としての愛が述べられたあとに、数々の徳目が挙げられていますが、これは愛も徳目の一つだという意味ではありません。そうではなく、愛がそれに続く数々の徳目、別の言葉で申しますと、律法の戒めのすべてを結果的に満たすことになるという意味です。このことを、同じ5章の14節はこう述べていました。「律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです」と。
 
  この関連で、私たちは第一コリント書13章の愛の讃歌を思い起こすのではないでしょうか。その4節から7節にこう書かれています。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」
 
  このような素晴らしい愛の倫理のことを聞いて、私たちの多くは感嘆しつつも、心の内では「いや、こんな完璧な愛に生きて、結果的に律法を全うすることなど、私にはできやしない」と思うでありましょう。しかし夜の月が遠くの太陽の光を受けて地球の夜の部分に照らし返すのと同じように、私たちは神が御子キリストによって差し出してくださった無償の愛を受け、それによって罪の闇夜から贖い出されて光の子らとされたことにより、この世を照らすのです。確かにそれが完全には実行できないかもしれません。また肉の弱さのゆえに心の中で不安や迷いが生じるかもしれません。
 
  福音書の中で、主イエスが暗がりのガリラヤ湖水の上を歩いていました。それを見て舟に乗っていた弟子たちは幽霊だと思って恐れましたが、それが先生であることを確認しますと、ペトロは舟から身を外に乗り出し、先生の招きに答えて勇気を出して水の上を歩き、先生のもとに近づいていきました。しかし途中で怖れを抱いて、水の中におぼれそうになり、助けを求めました。主イエスは彼の不信仰をお叱りになりました。このように、私たちも先に歩み出し、実行に移すのですが、途中で失敗してしまうことがあるのです。 
 
  しかしそれにもかかわらず、25節で勧められていますように、主の霊の導きに従って、失敗を恐れず大胆に前進することができます。そうすることが許されているのです。御子キリストがすでに肉と罪と律法による攻撃に対して、十字架からの復活によって勝利してくださったからです。その復活の主の霊に従い、霊に生かされて、しかも誘惑に遭遇し病弱になりがちなこの地上の「肉にあって」、私たちは霊の果実である愛に捉えられ、その愛がもたらす徳目の一つでも実行に移す勇気と知恵を、上より授かるのです。
 
  すでに打ち立てられた神の恩寵に基づいて、私たちは律法の束縛から自由にされた者として、愛の業に励んでまいりたいと願います。主の霊が私たちの歩みに伴ってくださいます。