日本基督教団 千歳船橋教会礼拝説教
2018年2月18日 四旬節/受難節第1主日


聖書:イザヤ書53章7節、ヨハネ福音書18章38節b−19章16節a
説教題:「この人を見よ」

須田則子 牧師


  2月14日の灰の水曜日から受難節を迎えました。これまで、イエス様が逮捕されてから、一晩の間に目まぐるしく色々なことが起こったことを読み進んできました。一隊の兵士と千人隊長、ユダヤ人の下役たちは、主イエスを大祭司のしゅうとであるアンナスのところに連れて行き、アンナスは尋問の後、主を婿である大祭司カイアファのもとに送りました。そこで何があったかヨハネ福音書には詳しく書かれていませんが、他の福音書では、最高法院のメンバーが集まり、イエスを死刑にすべきと決議したと書かれています。罪状は、主がご自分を神の子と言われたことでした。神でもないのに、神の子と言って、神を冒涜したとされたからです。本来の裁判なら、判決を下すためには、イエス様の言ったことが本当かどうかを調べるはずです。神の子か否かを知ろうとします。ですが、はじめに死刑判決ありき、イエスは神の子などではない、神ではないという結論ありきでした。なんとしてもイエスを殺したいという思いありきでした。
 
   そのため人々は、次に、主イエスをローマ帝国から遣わされた総督ポンテオ・ピラトの官邸に連れて行きました。イエスを死刑にしたいけれども、ローマ帝国の支配下にあって人を死刑にする権限がない、だから、ピラトの法廷で死刑判決を出してもらうためでした。詳しい事情を知らないピラトは、はじめ、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言います。「いちいちわたしをわずらわすな」ということでしょう。大事(おおごと)でない裁判は、例えば懲役刑や鞭打ち刑は、ユダヤ人が自分たちで判決を下し執行できたのでしょう。
 
  けれどもユダヤ人たちがピラトに持ち込んできたのは、死刑に関わること、自分たちではできないことでした。
 
   ここまでのところは既に礼拝で申し上げてきたのですが、実は、この一連の流れについては今も議論があるようで、本当にユダヤ人たちには死刑の執行権がなかったのかと問いがあります。なぜなら、聖書を読んでも、たとえば、使徒言行録では、ユダヤ人たちがステファノを最高法院に引いて行き、判決も出さないうちに、都の外に引きずり出し、石を投げて殺してしまいます死刑の執行権があるかないか以前の無秩序ぶりが描かれています。また、同じく使徒言行録には、ヘロデ・アグリッパがベダイの子ヤコブを剣で殺したとあります。今日読んだ、19章の6節でも、ピラトが、「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない」と言っています。ユダヤ人たちで殺そうと思えばできた。けれども敢えてそうしなかった。これを示唆するものとして、マルティン・ルターは、「主イエスは聖人たち、聖なる者たちに殺された」と言ったとのことです。どういうことか。主を殺そうとした人々は、前回読んだところにある通り、主イエスを総督官邸に連れて行きながら、自分たちは官邸に入りませんでした。外国人の家に入ったら汚れてしまう、そうしたら、過越の食事ができなくなってしまう、だから官邸に入らない、そのような人たちです。言い方を変えれば、自らはきよいと思っている人たち、誰かは汚れていると思っても、自分はきよいと思っている人たちです。そのような人たちは自分の手を汚したくありません。だから、死刑の執行まで外国人に任せようとしたのではないかという見方があります。死体に関わると汚れてしまうので、自分たちは汚れずに祭りを迎えたかったのかもしれません。イエス様を殺したのは、いわゆる悪人ではなく、自らを聖人とする人、そこまで言わなくとも、誰かに、「あんなことするなんてわたしにはとても考えられない」と自分と他者を区別する人、「わたしはあんな人とは違う」と思う人たちだという見方には示唆を与えられます。主イエスはそのような考えを間違っているとおっしゃったからです。
 
   そうやって、誰かを下に見ることによって自らを保つ人、生きる人は、自分より優れている相手には、ねたみを持ってしまいます。自分が下だと思いたくない、下にいたくないからです。これまで何度もご紹介してきたように、マタイ、マルコ福音書は、詳しく事情を知らないピラトでさえ、ユダヤ人たちが主イエスを訴えてきたのは、ねたみのためだと分かっていたと記します。もしも、ピラトがユダヤ人たちに、「あなたたちがわたしのところに来たのは、イエスをねたんでいるからでしょう。イエスは、あなたたちにできない奇跡は起こすし、立派なことを言うし、人気もあるし、うらやましいんでしょう」と言ったら、きっと彼らは、「そんなことはない」といきり立ったでしょう。誰かをうらやましがっているなどというのは、プライドが高ければ高いほど、認めがたいものです。「なぜわたしがあの人のことうらやましがらなきゃいけないの」と否定するでしょう。相手を上と認めることになるし、わたしは不幸だ、駄目だと思っていることになります。旧約聖書も新約聖書も、ねたみを深刻に取り上げるのは、このように人がなかなか認めようとしない罪だからだと思います。相手は何も悪いことをしていないのに、反対に優れているのに、憎らしく思うというのは全く不条理だからです。
 
   ピラトは、ねたみねたまれの関係にないので主イエスに罪などないと分かるので、釈放しようとします。しかし、ただ釈放するのでなく、妙な提案をします。「過越祭には、誰か一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている」と言って、「イエスを釈放してほしいか」と問います。他の福音書では、イエスと強盗を働いたバラバのどちらを釈放してほしいかと問うたことになっています。そんなことをせずに、総督なのだから一方的にイエス様を釈放すればいいのにと思いますが、この先を読んでいくと、ピラトはユダヤ人たちの意向を完全に無視することはできなかったようです。とにかくピラトはユダヤ人たちがイエスを釈放するよう求めると予想していました。過越祭なんだから、それに免じて、訳の分からない訴えを退けて釈放しようと持ちかけたのでしょう。ところが人々は「バラバを」と求めます。強盗を働いた人ですから、被害者のいる犯罪者です。まさかそんな人間を釈放しろと民が求めるとは思っていなかったでしょう。ピラトの妙な提案が思わぬ方向に向かってしまいます。
 
   しかし、そこにこそ神様の計画が表れます。過越祭は、文字通り過ぎ越す、イスラエルの人々がエジプトで奴隷だった時、神の御使いが、エジプト人の家に入って災いを下し、家の入口の柱と鴨居に小羊の血を塗ったイスラエルの家には入らず過ぎ越して、災いを下さなかったことを記念するお祭りです。小羊が殺され、その血を塗った家の者が裁きを免れる。主イエスの方が殺され、そのことによって強盗のバラバが釈放される。これは、バラバ一人のことではありません。
 
  イエス様という小羊が殺され、その血は全ての人のために与えられ、わたしたちは罪をきよめられ、罪を取り除かれ、裁きを免れます。イエス様は、このご計画に従っていらっしゃいました。
 
  自分の提案にそのような意味があるとは知らないピラトは、とにかく主イエスを釈放しようとします。祭りを理由に、人々がイエスの釈放を願うよう仕向けたのに、そうはならなかったので、次には、鞭で打たせて辱め、もうこれだけ痛めつけたのだから気も済んだだろうと思わせようとしました。こんな無力な者をいきり立って殺す必要などないではないか、何もできない者ではないかと示すことによって、人々を思いとどまらせようとしました。
 
  5節でピラトの言った「見よ、この男だ」、「この人を見よ」という言葉のラテン語である「エッケ・ホモ」は、そのままキリスト教絵画のテーマの一つになりました。多くの構図は、主イエスが総督官邸のバルコニーに引き出されている場面です。イエス様は茨の冠をかぶらされ、体には鞭打たれた傷があり、手は縛られ、立っておられます。その周りにピラトや、主イエスを嘲り、愚弄し、憎む人たちの姿が描かれます。人々の悪意、殺意の中で、主イエスはあくまで静かに立っておられます。それでも人々は気が済みませんでした。「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫びます。もう、こうなるとねたみだけでなく、いじめです。惨めな姿にされて、もうねたむ必要などないのに、今度は弱い者いじめになります。と言うよりもっと大きく、人間にある殺人衝動、破壊衝動、人を愛さないとどうなるか、その罪の根っこが噴き出してくるような、もう誰も止められない、そのような事態であったかもしれません。
 
   ピラトは、主イエスを、王を名乗る政治犯のように思い、その割には、無力ではないか、無害そうなので無罪と思ったという解釈もありますが、7節、8節には、主が「神の子」と自称したことを知って、ますます恐れたとあります。ということは、もともと恐れていたということです。イエス様がただ者ではないと思っていたのでしょう。だから関わりたくなかった、さっさと釈放したかったのかもしれません。「神の子」と自称したとなると単なる政治犯かどうかという問題ではありません。「お前はどこから来たのか」つまり、「お前は何者か」と問います。主は答えません。答えない主にイラついたのでしょう。脅しをかけます。「わたしに答えないのか。
 
  お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」主は、お答えになります。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」「あなたに権限などもともとない。敢えてわたしのほうでここにいるのだ」という意味です。
 
   ピラトは、ますます主イエスを釈放しようとします。しかし、今度は人々がピラトを脅します。
 
  「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」そう言われて、ピラトはもはや身を守る方を優先し、裁判を始めます。このように無茶苦茶な仕方で裁判が始まります。しかし、聖書は、この時が過越祭の準備の日の正午ごろであったとわざわざ記します。ヨハネ福音書は、他の福音書より一日早く過越祭の準備の日に主が十字架につけられたと記します。その日、その時は、過越祭のために、小羊が屠られる時でした。混乱の中で裁判が始まりますが、これも、神様の計画によるのだ、主イエスは、犠牲の小羊が屠られる時に、このようにして十字架につけられることになるのだと示します。
 
   ピラトは裁判で、主を示し、「見よ、あなたたちの王だ」と呼びかけます。人々は、「殺せ、殺せ、十字架につけろ」と叫びます。
 
  ピラトは、なおも主を釈放しようとねばって、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と問います。祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えます。ここに、ユダヤ人の不信仰は極まってしまいました。「ローマ皇帝がわたしたちの王だ」と宣言してしまいました。神を信じる者はそんなことを言ってはなりません。ローマ皇帝は、皇帝礼拝を強要する存在です。祭司長たちは神を礼拝する代表ですが、その神を捨てました。主イエスが神の子と自称している、神を冒涜しているといきまいていましたが、実は、まことの神様のことなど、どうだってよかったのです。ここでは主イエスを殺すための方便として、「わたしたちの王は皇帝です」と言いましたが、時に応じて、こうやって色々なものを神にして自らの欲望をかなえていくのでしょう。わたしも宗教、神様を自分の欲望をかなえるための道具にしようとしているのではないかと問われます。
 
   人々は、主イエスを拒否しました。ピラトは、十字架につけるために、主イエスを彼らに引き渡しました。
 
  まともな裁判ではありませんから、小見出しにあるように「死刑の判決を受ける」と言っても、判決文が書かれているわけでもなく、ただ、十字架につけてもかまわないとピラトは主を彼らに引き渡しました。このように書いてあると、結局、ピラトは主イエスをユダヤ人に引き渡して、ユダヤ人が死刑を執行したように読めますが、実際の執行はローマの兵士が行いました。引き渡したというのは、ユダヤ人たちの思うようにさせたということであり、彼らに引き渡したの「彼ら」を広くとるなら、主イエスを亡き者にしようとする全ての人に引き渡したということになるでしょう。いざという時、自己保身に走って責任を負わない人には、人を裁く権限・資格などない、裁けないことが明らかになりました。
 
   ここには今、申し上げてきたように、さげすみや、ねたみ、弱い者いじめ、集団ヒステリー、無責任、自己保身、様々な人の罪が明らかになり、主はそれら全てを受けておられます。この時、主は何もなさっていませんが、最も尊いことをしてくださっていました。
 
  わたしたちの罪に耐えていてくださいました。
  わたしたちに怒らないでいてくださいました。
  わたしたちを裁かないでいてくださいました。
  わたしたちに復讐しないでいてくださいました。
  わたしたちへの愛、わたしたちへの赦しを貫こうとしておられました。
 
  「エッケ・ホモ」に描かれる主イエスは無力なお姿、弱いお姿です。けれどもそのお姿こそ最も強いお姿でした。耐える強さ 罪人を受け入れる強さ 怒らない強さ 裁かない強さ 復讐しない強さ 罰しない強さ 愛し抜く強さ 赦し抜く強さです。本当の強さがどのようなものか示してくださいます。主イエスに悪を行う者を一瞬にして滅ぼされてもおかしくない。けれども、それをなさらない。
 
   「この人を見よ」とピラトに言われ、人々は、主を見て、罪なき人を見て、それなのに、「十字架につけろ」と叫びました。無力なイエス様をいいようにあしらい、自分たちの思い通りにしてやると力を誇示しているつもりだったかもしれません。けれどもそれは弱い姿でした。愛することができないという意味で全く弱い姿でした。イエス様は、そのようなわたしたちという人を見ます。弱い。この人は愛することにおいて全く弱い。そして、「わたしが死ぬしかない。わたしが救うしかない」と見てくださいます。強さと弱さを正しく弁えたいと願います。主に倣い、主のように強くしていただきたいと願います。お祈りいたします。