日本基督教団 千歳船橋教会礼拝説教
2018年1月28日  (降誕節第5主日)


聖書:創世記21:1〜5、ガラテヤ書4:21〜5:1
説教題:「自由の子ら」

朴 憲郁(パク ホンウク) 牧師


  ルターによる宗教改革の火ぶたが切られてから500周年を迎えた昨年10月を中心に、世界各国の諸教会はプロテスタント福音主義がどのような歩みをたどり、またどのような意義と役割を担っていたのかを確認してまいりました。さらに、袂を分かったローマ・カトリック教会との一致と和解に向けた注目すべきエキュメニカルな研究と記念行事も実現されてきました。このような意義ある記念行事は昨年で終わったのではなく、数年前から始まって今年も続いています。日本では今年3月20日と21日に渋谷の教会と大学を会場にして、保守派から福音派を経て自由派やペンテコステ派までの幅広い立場の諸教派教会の青年たちが全国から結集します。宗教改革の根本精神に立ち返るためです。これは注目に値します。宗教改革5百周年大会を開催して、一応の記念集会を終える計画となります。世田谷地域の動きとしましては、先日23日(火)より松沢教会を会場にして、二年に一回の超教派の一致祈祷会の準備会がもたれました。本教会からは保坂久実姉妹が代表で出席しました。
 
  15世紀から16世紀にかけて起こった反カトリック教会の宗教改革とは、当時の儀式化し世俗化した教会がもう一度聖書の教えに立ち戻り、信仰義認によるイエス・キリストの福音を再発見して福音主義的教会(プロテスタント教会)を打ち立てるための運動でした。その精神を、プロテスタント諸教派教会はそれぞれの国の中で受け継ぎ、地域・世界への福音伝道に励みで今日に至っています。私たちの教会もその一つです。
 
  ルターは1520年に重要な書物三冊を顕しました。第一に『ドイツのキリスト者貴族に宛てて』、第二に『教会のバビロン捕囚について』、そして第三に『キリスト者の自由について』を書きましたが、これらは重版されて飛ぶように売れました。これらの書物にはっきり主張されたことは、カトリック教会が言う神の恩寵と人間の善行、聖書の教えと教皇の権威(または教会の教義)が聖書的ではないとして、唯一聖書のみ、キリストのみ、恩恵のみ、信仰のみという、いわば「〜のみの原理」(Exklusivpartikel)を前面に出したことです。あれとこれを足して救いに至るという当時の教会の教えは福音的主張と相反するとして、一方のカトリック教会に反旗を翻し、もう一方で、自分たちの仲間だと思っていた人文主義者たちとも対決せざるをえませんでした。
 
  福音書の中で、主イエスがマルタとマリアの姉妹の家庭に招かれた物語が記されています(ルカ10:38〜42)。二人の姉妹は興奮するほど喜んでイエス様をお迎えしましたが、その迎え入れ方は姉と妹では全く異なっていました。妹のマリアは主イエスのお言葉を聞き漏らすまいと、座って耳を傾けてじっと聞いていましたが、姉のマルタは食事の接待でせわしく立ち働いていました。そして、彼女は何もしない妹の態度に苛々して、ついに大切なお客である主イエスに不満を吐いて、妹に手伝わせるよう催促したのです。その時、主イエスは彼女にこうお答えになりました。「マルタ、マルタ、あなたが多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」と。これは説教でも時々取り上げられていまして、様々な角度から解釈され、信仰生活の教訓として説かれています。
 
  私たちは家事や仕事や子育てにおいて、あれこれのことを考えて気を配りながら、一つ一つのことをこなしていますので、マリアのように御言葉だけを聞いてじっと座っているわけにはいかないことを承知しています。いや、主イエスもマルタのもてなしにおける忙しさを承知しておられた上での戒めです。
 
  しかし、いろいろなことに気を配り、先のことを予見して計画を立てるにしましても、人を根底から支え、一本筋を通す信念や価値がもっとも大切なものとして人に求められるとしますならば、ましてや変わることのない神の言葉によって生き、そこに命と生き甲斐の拠り所を求める信仰者にとりまして、主イエスが先鋭化しておっしゃるように、他を排除して御言葉一点に集中し、そこから関連することを組み立てていく順序が大切になってくるのではないでしょうか。
 
  さて、以上のことを考えつつ、今朝のガラテヤ書4章21節以下の御言葉に注目したいと思います。21節の冒頭で使徒パウロは、「私に答えてください。律法の下にいたいと思っている人たちよ」と呼びかけます。律法と福音の問題を論じてきたパウロが、ここでそう呼びかける時に、その相手は律法に従って生きるユダヤ教徒のユダヤ人たちではありません。かつてはそうであっても、今や律法から人を自由にするキリストの福音を受け入れてキリスト教信仰に改宗したユダヤ人キリスト教徒たちです。さらに彼らに加わって、もともと小アジア(今のトルコ)やギリシャで異教徒であった人々の中からもキリスト教徒に改宗した異邦人(ガラテヤ人)キリスト教徒たちです。その彼らの中から、ユダヤ主義的キリスト教信徒たちが現れて、キリストの福音を受け入れておきながら、ユダヤ教の割礼や律法の戒律や食物規定にこだわって、異邦人信徒たちにもそれを要求したので、それに引きずられるガラテヤの信徒たちが少なからずいたのです。つまりキリスト教信仰を右手にし、律法の行いを左の手に取って、その両方を重んじようとするのです。つまり、先ほどからお話しましたように、あれもこれも携えるキリスト教信徒であろうとするのです。しかしそれによって、結局はキリストの十字架の死と復活は半減し、いや骨抜きになり、律法主義に戻っていくことを意味するのです。
 
  こうした深刻な事態を見抜いて、パウロはすでに1章の6〜7節でこう非難していました。「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです」と。
 
  律法主義的な生き方に対する警告として、1章から4章20節までいろいろの角度から議論してきましたが、この21節からは彼らが拠り所にしようとしている律法の領域そのものに踏み込み、いわば相手の土俵に踏み込んで、パウロは彼らの振る舞いと考えが肉的であり奴隷的であり、古いシナイ山での契約の子らであることを明らかにしようとします。
 
  「あなたがたは、律法の言うことに耳を貸さないのですか。律法には二つの系譜があることを知らないのですか」と訴えます。そして、信仰の父アブラハムの物語に遡って語り出します。ここで律法とは何でしょうか。どこから始まるのでしょうか。私たちはまず、モーセを立てて神がイスラエルと結んだシナイ契約が出発点ではないかと考えますが、それは常識的には正しいのです。モーセの指導による出エジプト後の荒れ野の旅を続けたイスラエルの民が、ようやく長い試練の旅の途中で到着したシナイ山の麓で、モーセを介してヤハウェの神から十戒をいただき、それに基づいて倫理と祭儀に関する様々な律法の数々の戒律が決められました。そして、それらを心に刻んで固く守ることを命じられました。
 
  しかしパウロは、律法の言うことに耳を貸さないのですかと言って、引用するのはモーセより数百年も前の族長アブラハムの物語に遡らせて律法を語るのですから、ここで言う律法とは、いわゆる出エジプト記の20章以下において、シナイ山でモーセを通して受け取った十戒とそれに続く律法に限定されるのではなく、イスラエル宗教においてモーセの名において書かれたとされる創世記から申命記までの五書全体を指してそう呼んでいた「律法の書」の巻物のことを指しているに違いありません。この律法の書は後のユダヤ教徒たちにとって、他の預言書や詩編などの諸書に優る最も権威ある巻物と重んじられていました。ですからパウロはこのモーセ五書を重んじるユダヤ主義的キリスト教信徒たちの目をそこに向けさせて、モーセ五書の最初の巻物である創世記に記録されたアブラハムとその妻サラの物語から説き起こします。そして、はじめはサラに子が授からなかったので、当時の慣習に従って女奴隷ハガルを側めとしてアブラハムの子(イシュマエル)を産ませたこと、それからかなりの歳月が過てから、神の約束した子(イサク)が(奴隷でない自由な身分の)本妻サラから生まれたこと、しかしその後、先に生まれて育ったイシュマエルが異母兄弟の弟イサクをいじめていたのを見て、サラが心を痛めて悩み、夫のアブラハムに「ハガルとその子イシュマエルを追い出してください」(創世記21:10)と訴えたことが、創世記16章と21章に物語として綴られています。今朝のガラテヤ書の中で、例えば5章の30節でハガル追放の言葉は創世記21章10節(70人訳)に基づきます。ただしパウロは自由のテーマを引き出すために、「私の子イサク」を「自由な身の女」と言い換えています。このように律法の書の中のアブラハム物語に基づいて、文字通りに引用し、さらに聖書に基づくユダヤ教の伝承・言い伝え、比喩的解釈がなされます。
 
  ガラテヤ書4章の21節以下は、基本的に比喩的解釈を施されています。すなわち、24節で「これには別の意味が隠されています」と言われますように、比喩的解釈とは、(旧約)聖書箇所を構成している個々の要素は文字通りの意味とは異なった、もっと深い意味を暗示しているという前提の下で、その深い意味を明らかにする解釈方法を指します。こういう比喩的な解釈方法は、パウロ以前のユダヤ教の旧約聖書を理解する伝統の中で生まれ、適用されてきておりまして、パウロもかつてはそれに精通してしましたから、その方法を大胆に用います。
 
  すなわち、今ガラテヤ教会では、律法に拘束された隷属的な信徒と福音による自由な信徒、さらに肉的人間と霊的人間、また、地上のエルサレム(神殿)を律法のメッカとして誇る人々と天のエルサレム(神殿。ヨハネ黙示録21章参照)を望み見る人々という、二律背反的な問題が起こっているのですが、この二つのタイプの原型となるものが、ちょうど花咲く前のつぼみの中に備えられているのと同じように、大昔にアブラハム家族内の波乱に満ちた出来事を綴った物語の中にすでに萌芽として潜んでいたのだと語ります。この二つのタイプの原型が、アブラハムの本妻サラとその子ら、およびもう一方の奴隷のハガルとその子らという二つの家系と子孫の中に潜んで組み入れられていたと語り出しています。そしてこの二系統は混ざりようがないのだと主張します。
 
  おそらくこれを聞いたガラテヤのユダヤ人キリスト教徒らは反論して、「いや、自分たちの血筋はハガルではなく、サラの方だ、自由な女である本妻のサラの家系の子孫なのだ」と主張するでありましょう。しかし使徒パウロは、そういう血統のことをいっているのではないと、反論するでありましょう。結論的に申しますと、たとえ肉による血統からしてサラの子イサク、さらにその子ヤコブの子孫であっても、イスラエルを救うメシアの到来を、ナザレ人イエスの御生涯とその終わりに起こった十字架と復活の出来事の中に読み取ることを拒み、逆にイエスを十字架につけた大祭司やファリサイ派の人々の側について、律法に固執して生きるならば、その人は律法主義の呪縛された奴隷となり、肉的な判断で福音を真剣には受けとめなくなっているのです。従ってその人は、ハガル系列の人以外の誰でもないのだと、使徒は語ります。それに反して、律法に触発されて人の心に潜む罪から人間を贖い出すイエス・キリストの福音を受け入れて、肉的な人から霊的な人へと造り変えられた人は、たとえその人が元は神も律法も知らぬ異教徒であり、無神論者であり、非ユダヤ人であっても、ガラテヤ書3章29節で語られますように、洗礼によってキリストの体なる教会に連なる時、霊的なイスラエルに属する者となり、アブラハムの子孫に連なり、神の祝福に与ることになるのだと説きます。
 
  ガラテヤ書の後に書かれたローマの信徒への手紙の9章からは、イスラエルの選びについてのテーマに移っていますが、その冒頭部分で使徒パウロは、血肉からすれば自分も同族であるところのイスラエルの民がイエスのメシアたることを拒んで離反する有様を見て、どれほど心を痛めているかを、率直に告白します。そして6節下でこう語ります。「ところで、神の言葉は決して効力を失ったわけではありません。イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならず、また、アブラハムの子孫だからといって、皆がその子供ということにはならない。・・・すなわち、肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫と見なされるのです」と語っています。これはすでに、ガラテヤの信徒へ手紙の今朝の御言葉で説かれていたことと通じています。「約束に従って生まれる子供」とは、肉的にはイサクとその妻リベカとの間に生まれたヤコブのことを指すのだと先のローマ書9章10節以下で述べていますが、その先を読みますと、やはりガラテヤ書の場合と同じように、頑固で頑なな肉のイスラエルの耳には馬耳東風でしかなかったあの福音が聞き届けられて信じた異邦人こそ先に、神の救いと義に入れられた約束の子なのだと、使徒パウロは語っています。
 
  今朝のみ言葉で、見過ごしてならないのは29節です。キリスト者はユダヤ人であれ異邦人であれ、イサクの場合のように神の約束に与るだけではなく、イサクが肉によって生まれたハガルの子イシュマエルにからかわれたように、イサクの受けた迫害、苦しみにも与っているのだと言っているからです。祝福ばかりではないのです。苦しみに遭う場合の忍耐をも、信仰者は求められています。つまり、福音による自由と霊的生活が、しばしば律法主義的な奴隷と肉的生活に脅かされ、誘惑され、戦いを挑まれることがあるということです。
 
  しかし使徒パウロが今まで戒めて警告していたガラテヤの律法主義的生き方の人々を31節では福音に引き戻しつつ、自分と彼らを含めて「わたしたちは」と言って、断言的にこう励ますのです。「要するに、兄弟(姉妹)、私たちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです」と。
 
  この言葉は、肉と律法の誘惑に陥りがちな私たち信仰者に向けて今も語りかけている招きの言葉です。この呼び求めに励まされて、歩んでまいりましょう。