日本基督教団 千歳船橋教会礼拝説教
2018年1月14日  (降誕節第3主日)


聖書:ダニエル書7:13〜14、ガラテヤ書4:12〜20
説教題:「キリストが心に形づくられる」

朴 憲郁(パク ホンウク) 牧師


  私たちは2018年という新しい年を迎えて、第二週の主日を迎えています。しかし自然の時の流れに沿ってこの年を迎えたのでなく、神は御心に相応しい世界を求め、救いの御業を推し進めるために、私たちをお用いになる恵みの年としてお定めになりました。今日は降誕節第3主日で、ルカ福音書2章25節以下に記されていますが、万民を救うメシアの誕生を待ちわびていた老人シメオンが神殿で赤子イエスを見て、希望と喜びみ満たされて生涯を終えたように、私たちも昨年12月から始まったアドベントとクリスマスのシーズンからすでに新しい時の歩みを始めています。暗闇に暗闇を増し加える今の世に、光の子らとして証を立てるためです。
 
  日本の風習によりますならば、新年の吉凶を占うとされる初夢を見た方は、どのような夢を見ましたでしょうか。私の知人は全くの音楽音痴なのですが、不思議なことに、自分がいつの間にか有名な歌手になっていて、コンサートの舞台で多くの聴衆から拍手喝采を浴びて最高に幸せな気分でいるという不思議な夢をみたそうです。「それはよかったね」と言って励ましてあげました。しかし心の中で、私なりに分析してみました。昨年は彼にとって、よほど社会で浮かばれない不満や欲求が積もり積もっていて、それが新年を迎えるに当たって、強い願望として夢に現れたのではないかと推し量ってみました。
 
  人々は周囲の人々や広く民衆から拍手喝采を浴びるようなアピールをし、振る舞いをしてみようと心を動かされたりするものです。これは、昨年特に政治の舞台でポピュリズム(大衆迎合主義)という言葉で特徴づけられたものです。自分の身や政治生命の安全を求めてそうします。もっと平易に申しますと、これはいわゆる<人気取り>の行動です。国民全体への気配りや世相を読み解くことは大切ですが、その上で自分なりの確信や信念をもって方針を打ち出していくことが、特に政治的指導者には強く求められています。これは当然ながら、個人の場合にも求められるでありましょう。優柔不断であっては、混乱をもたらすばかりでありましょう。
 
  紀元前6世紀に、バビロンの王であったネブカドネツァルとベルシャツァルの治世に、捕囚の民の一人であったダニエルは、異国の政治的な支配と異教の神々に囲まれて、イスラエルの同族たちと一緒に苦しみを味わっていました。しかし先週野口牧師も取り上げていましたように、ダニエルとその友人はヤハウェの神への信仰を曲げて屈するようなことは決してしませんでした。身の保全を図る迎合主義の道を選ぶことは致しませんでした。
 
  ダニエルは当時のオリエント世界の列強とそれに囲まれたイスラエルの将来について、夜の幻つまり夢を見ることによって、神のご計画を知らされ、それによって民を慰め、権力者に警告を与えました。彼は、決して保身的で迎合的な振る舞いをすることがありませんでした。
 
  ダニエルがしばしば見た夢=幻の多くは、決して心地よいものではありませんでした。むしろグロテスクで、怪物が出現する恐ろしい場面が描き出されました。次から次へと登場した恐るべき怪物たちは、ネブカドネツァルからアンティオコス・エピファネスに至る人間界の歴史の経過を象徴的に表しています。そしてダニエルは、歴史の最終段階において、怪物どもが神の権力に対する冒涜的な挑戦を試みようとしていることを悟ります。こうしてダニエル書の著者は、ダニエルの目を通して、冷静に判決をくだす裁判官としての神の裁きについての幻の場面を解きます。恐ろしい一連の獣は、イスラエルの歴史の進行しつつある悲劇と傷を表したものですが、ダニエルが見た幻は今や落ち着いた天の光景でした。
 
  地上での怪物出現と天上の静けさとの対比は、どういうことを意味しているのでしょうか。それはこういうことです。現実の世界と歴史は今や不透明になってきています。これは、今の21世紀の状況と同じように映ります。別の言い方をしますと、神が明らかに歴史から遠く離れた超越の彼方へと退いてしまったのです。水平の歴史の彼方、その将来を見通すことなどとてもできない状況です。そんな中にあってダニエルは上を見あげたのです。それが夜の幻です。この幻の中で、天から雲に乗って下ってくる「人の子」のようなものが現れ、神(日の老いたる者)の前に出て、この世の諸権力と王権を従わせ、諸民族の上に裁きと支配が及び、それは怪物のようなこの世の権勢とは異なって、永遠に続くのです。この将来の希望を、ダニエルは自分の民に告げ知らせています。
 
  では、この場面で突然現れる「人の子」とは、誰なのでしょうか。謎めいており、解釈もいくつかに分かれます。天から降りてくる勝利者である神の子でしょうか。あるいは、この地上で傷つきやすく脆い人間の子ら(諸帝国に虐げられ傷ついたイスラエルの民ら)を指し、その彼らが神に救い上げられて、最後の勝利を得ることを指しているのでしょうか。後者の解釈に立つ場合には、詩編8編(特に夜空を見上げて神を賛美した5節の「人の子」。4〜5節:「あなたの天を、あなたの指の業を、わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださるとは。人間は何ものなのでしょう。<人の子>は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは」)と80編(特に18節の「人の子」。18〜19節:「御手があなたの右に立つ人の上にあり、御自分のために強められた。<人の子>の上にありますように。わたしたちはあなたを離れません。命を得させ、御名を呼ばせてください」)が注目させられます。
 
  ここで次に私たちは、新約聖書の福音書で描かれる主イエスの姿に目を移します。そうしますと、主イエスが神の国運動の中で、ご自身のことを間接的に「人の子」と呼んでおられることに、私たちは気づかされます。そのことは、クリスマス物語に明かされますように、神の御子が人間の弱さ・脆さを担う人の子となられて、その誕生からご生涯の終わりまでこの二つの御性質を貫かれた姿に見られます。人の子として主イエスは、ご自分に出会った多くの人々(弟子、群衆、ユダヤ教指導者ら)の苦しみと重荷と罪の現実をご存じであられて、これを哀れんで慰め、非難して戒め、悔い改めさせ、神の国への望みに生かしてくださいました。最後には十字架の死への道行きによって、イザヤ書53章が預言した苦難の僕として、人の子らの悲運を担う「人の子」に徹しられました。しかし絶望的な十字架の死を乗り越えて、復活の勝利者「人の子」を、四つの福音書は証言しています。マタイ福音書25章31節で主イエスの預言の言葉として、世の終わりに最後の裁きと救いをもたらす「人の子」が天使たちを従えて地上に来られることが約束されています。
 
  いったい新約聖書の著者たちがどこまでダニエル書7章13〜14節のことを知っていたかは分かりませし、もう一方で、ダニエル書の著者が将来現れるナザレ人イエスのことを予見したかは分かりません。しかし執筆者らの思いを超えて、ダニエル書7章13節の「人の子」の到来が御子イエス・キリストの出現とそれによる神の義と救いの実現を指し示す預言であることを、私たちは旧新約聖書の当該箇所を比べ合わせて確認することができます。これは、実に不思議なことです。ダニエル書7章13節の「人の子」は、先ほど申し上げましたように、第一の解釈(天から降る神の子)と第二の解釈(イスラエルと異邦人を含む、傷つきやすく脆い人間の子ら)の両方を結び合わせているのです。
 
  こうしてダニエル書7章が預言することになった「人の子」イエスのご生涯とその終わりに起こった十字架と復活の出来事によって、この世のどんな凶暴な政治的・軍事的・経済的な権力が押し寄せて、私たちを不安と失望に陥らせるようになっても、死と罪に打ち勝って神の右に坐した「人の子」イエスをしかと見つめることができるのではないでしょうか。最初はおぼろげに望み見ます。すなわち、ダニエル章7章13節前半でこう述べています。「夜の幻をなお見ていると、見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り、「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み」と。「人の子」のような者が天の雲に乗り、と言う時、人の子が誰かをダニエルは最初、その姿形をも含めて認識できなかったということではないでしょうか。しかしこの幻の中で、次第にその形と正体をはっきり見つめることが許されたということでありましょう。このひと年の私たちの歩みもそのようなものではないでしょうか。実際にある問題に出くわしますと、私たちは当惑し、迷いが生じて、生きて働く「人の子」がはっきり捉えられないことがあるのです。しかし祈りの中で、はっきりと御子キリストの形と神の御心が鮮明になってくるのです。その結果、私たちはこの一年のみでなく、終末に至るこの世の将来を神の御力に委ねて、力強く歩む勇気と知恵を上より与えられるのではないでしょうか。
 
  人の子である御子キリストが信仰者の心の中に明瞭に形づくられるまで、全力で牧会に打ち込んだ人がいます。それは、ガラテヤ書を綴った使徒パウロです。今朝の12節から20節まで御言葉が、それを生き生きと伝えています。
 
  使徒パウロは、ガラテヤの教会に入り込んで扇動した偽使徒たちの教えに惑わされないようにと信徒たちを説き勧めるために、ガラテヤ書でいろいろな訴えをしています。それにつきまして、私たちはすでに講解説教によって学んでまいりました。
 
  異邦人が福音を受け入れて悔い改め、洗礼を受けて霊的なイスラエルの民に加わるようになった時に、ユダヤ主義的キリスト教徒たちは彼らに律法と割礼と食物規定を要求してきました。さらに、パウロの使徒性をも否定し、彼の宣べ伝えた福音から信徒たちを離反させようとしました。しかしそのような敵対者らの行動が、キリストの福音による律法からの自由を損ねる要求であることを見て取った使徒は、正面から論争しつつ、信徒たちを正しい福音に取り戻そうとしたのであります。
 
  今朝の12〜20節は、その努力に向けて心情的に訴えています。その内容は配慮に満ちたもので、こう語ります。使徒パウロが初めてその地方を訪ねた時に、ガラテヤ人たちが福音とそれを宣べ伝えたパウロ個人に対していかに熱心に応答したかを思い起こさせます。彼らは使徒を排斥することをせず、むしろ神の使者でもあるかのように丁寧に振舞いました。それなのに今や態度を変えて、すべてを水泡に帰してしまったのであろうか。そしてパウロが敵意と非難に満ちたまなざしをもって白眼視されなければならないのであろうか。ちょうど産みの苦しみをする母親のように、パウロはキリストが彼らの内で新しく生き始めることを期待しながら、苦悶しているのです。
 
  ここでは勢いよく心情的な訴えがなされて、一文一文筋道を立てた丁寧な展開とはなっていませんので、一瞬飛躍と思われたり、前後の文章の内容的つながりがないように思われたりします。思想と感情とが入り混じって表現されているからです。しかしそうとは申しましても、進める内容の筋は通っています。
 
  12節前半で使徒はこう語ります。すなわち、彼がかつて律法に熱心なユダヤ教徒であったが、ダマスコ途上で復活のキリストに出会って根本的な回心をし、もはや律法と割礼と悪しき諸霊(ユダヤ教的しきたりも含めて。ストイケイア)の」支配から自由にされた恵みに生きているので、異邦人キリスト者のようになっている。だからガラテヤの異邦人教会の信徒たちも、ユダヤ教徒に気兼ねすることなく、使徒パウロに倣って恵みの自由に生きてくださいと嘆願します。
 
  次に、12節後半から16節までにおきまして、最初にガラテヤに携えて宣べ伝えた福音と使徒パウロを心から受け入れた初心を思い起こさせつつ、今やパウロは彼らの敵になったのですか、いや、そうではないでしょと、迫るような問いかけをします。この中の13節では、ガラテヤ伝道時にパウロが(今日の私たちには知られない)ある病気(精神的障害か眼病か)にかかって弱り果てていたにも関わらず、かえって心動かされて彼を神の使者であるかのように受け入れたことを思い起こさせつつ、今やパウロが彼らの敵になったのでしょうかと反語的に質問します。
 
  古代において一般的に、病気は悪霊がとりついたことから生じたと考えられていましたので、入信前の彼らはパウロもその例だと考えて、彼と彼の福音のメッセージを退ける誘惑に陥ることも考えられたはずですが、彼らはそれとはまったく反対に、悪霊どころか天使(アンゲロス)のように、そしてイエス・キリストのように歓迎してくれたことを思い起こさせています。
 
  私どもの教会員であられて、すでに召された方々の中で、病弱なために何度も入退院を繰り返しておられた方がいます。私が本教会に赴任して間もない頃、やっと退院してバイクで教会にきましたと言って、ヘルメットを脱ぎながら玄関に入って礼拝をささげられた婦人です(倉田ふじ子姉。8年半前に召天)。もちろん健康で様々な働きができればなおよいのですが、病弱なためにほとんど何もできなかったのでは決してありませんでした。むしろ床に伏した闘病生活の弱さのただなかで、輝くような証しの日々を送って、その生涯を全うされたことを、私は忘れることができません。これは、パウロが思いがけない病気を患ったにもかかわらず、それは躓きにならず、むしろその貧弱さの中に働く神の力が発揮されたのと同じです。
 
  あの第二コリント書4章7節の言葉を、私たちは思い起こします。「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」
 
  14節の真ん中に「さげすんだり、忌み嫌ったりせず」とありますが、「忌み嫌う」はもとの意味は「吐き出す」の意味で、悪霊を退ける動作を示しています。
 
  こうした考えと似たものがドイツ語にあります。それは風邪にかかり始めた時にハクションとくしゃみをすると、その傍にいる人が直ちにゲズントゥハイトゥ(Gesudheit、健康であれ!)と言います。なぜならば、ハクションして息を力強く出し、風邪を引き起こしそうな悪霊が口や鼻を通って、一挙に体の外に吐き出され、健康になるからだそうです。もちろん真剣にそう信じているのではなく、昔からの言い伝えを受けついで、人々はユーモラスにそう言うのです。
 
  それはともかくとしまして、このように真剣にガラテヤ人たちを訴えて、使徒は次の17節と18節で、外からやって来た扇動的な敵対者たちは卑屈な動機からガラテヤ人たちを説得して自分たちの仲間に引き寄せていると非難するのです。信徒たちを目覚めさせるためです。これに続いて、19節と20節で、パウロは自分の個人的な不安と当惑の感情を表明して、ガラテヤに行きたい希望を述べます。
 
  これらの最後の箇所で、私たちは説教の題にあり、ダニエル書7章で注目してきました人の子、すなわち御子キリストが形づくられる(ギリシャ語のモルフォーセー)ことを切に願う19節の言葉に注目しています。これは2章20節ですでに「キリストが私の内に生きておられる」と語られたことの別の表現であります。キリストが人の心の中に生きた霊として住まわれます(ローマ8:9〜10も参照)。キリストの霊は、信徒たちを脅かしている律法とこの世の霊力(ストイケイア。4:3、9)から彼らを解放する力なのです。
 
  しかし、心に生きたキリストが刻まれ、根を張り、形をなすのは一瞬にしてではありません。そのためにパウロが「もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます」と語っている通りです。あのダニエルが列強の侵略と捕囚の苦難のさなかで見た幻によって、彼は「苦難を味わい勝利に導いた人の子」の到来を最初はおぼろげに見ていましたが、やがて鮮明に捉えました。それと同じように、私たちもまた右往左往する混迷と騒乱の世にあって、自由と恵みをもたらす御子キリストを、祈りの中で徐々に捉え、やがてはっきりと捉えてまっすぐ歩んでまいりたいと思います。
 
  新年号『中央公論』の中で、19世紀後半から20世紀前半にピアニスト、交響曲の作曲家、指揮者として活躍したロシアの天才的な音楽家のセルゲイ・ラフマニノフのことが載っていました。私も彼の作品には惹かれて、機会あるごとにCDで聴いて慰められています。見出し語は「祖国への「愛」に満ちた交響曲」です。彼の音楽の根底には、いつも祖国への<愛>が流れています。ロシアを離れたことで望郷の念が募ったのでしょう。
 
  それと同じく、私たちがどんな境遇にあっても、キリストからの愛とキリストへの愛に満ちた証しを立てキリストを奏でて、周囲に響かせたいと願います。