日本基督教団 千歳船橋教会礼拝説教
2017年12月31日  (降誕節第1主日) 


聖書:イザヤ書60:1〜7、ローマの信徒への手紙13:11〜14
説教題:「ダモクレスの剣とキリストの光」

東方 敬信牧師


  今年の12月も終わり、アドベント、クリスマス、年末と続き、新年を迎える時期ですが、人類は第三ミレニアム(第三千年期)を迎えて最初の世紀である21世紀に突入し、はや18年目を迎えます、しかし人類史発展の希望の徴を見るどころか、その逆に、個人のレベルを超えて、国々と世界を覆う戦争と平和の課題に深刻さが増してきています。このような混乱した時代のただ中を歩んでいる時期に、私たちは、パウロの勧める時間感覚をローマ書13章11節以下から学びます。まず、パウロは、キリスト者がどんな時間感覚で生きるかを知っていると13章11節で「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています」と記しています。
 
   そして13章12節以下には、対になる対照的な言葉が四種類並べられています。その第一の対は<眠りと目覚め>です、第二の対は<更ける夜>と<近づく朝の日>です、第三対は<闇の行い>と<光の武具>、そして第四対は<闇の業を脱ぎ捨てること>と<主イエス・キリストを着ること>です。そのいずれにも、夜と昼または闇と光というイメージです。これは、信仰者の眼差しが鮮やかに捕らえる明暗という時間の感覚です。これらの明暗で捕える表現によって、使徒パウロはローマの信徒たちおよび私たち聴く者に向かって、こう勧めます。キリスト者は暗闇の業を脱ぎ捨てて光の武具を身につけ、主キリストを着て品位を保って生きていると。それは、神の義と愛に与る希望を抱いて地上の生活を「光の子として生きることです。
 
  先ほど挙げました対になる言葉の第二は、<更ける夜と近づく朝の日>でした。これは、「夜は更け、日は近づいた」と12節前半でも言われています。夜の暗闇が深まっている最中に輝き始めるとは実に対照的な出来事です。それこそルカ福音書2章のクリスマス物語と描かれている通りです。夜通し羊の群れの番をしていた徹夜仕事の羊飼いに、天の栄光が周りを照らし、天使の賛美によって「神の御子の誕生」の救いが知らされ、天の軍勢と共に、明るく「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と歌声が響き渡ったとルカは記しました。私たちを取り巻く現実の世界に即して考えてみますと、闇が深まっているのに、希望の光が照るのです。闇の現実を見回してみますと、第三次世界大戦こそ回避されていますが、いつも世界のどこかで血が流されています。さらに、私たちを含む人類の頭上には、ギリシャの説話「ダモクレスの剣」のように、原子力による核兵器と原子力発電所が細い糸でつり下げられた剣のように、私たちを脅かしています。 アメリカの故ケネディ大統領は、1961年に国連演説で地球の全ての人は核時代に危険にさらされた思いを持つべきであると警告しました。東日本大震災による福島原発事故を経験した日本はそのことを身にしみて経験したはずです。
 
   そのギリシャの古事「ダモクレス」は次の内容です。ある日、ダモクレスという人がシチリアの僭主・ディオニシュオスの権力と栄光を羨(うらや)んで、その王者の幸福をたたえました。僭主とは合法的なやり方でなく武力や策略で権力を奪い取った王です。すると後日、ダモクレスは僭主・ディオニシウスから豪華な宴(うたげ)の招待を受けました。宴(うたげ)は贅沢を極めたものでしたが、その豪華な黄金の席からダモクレスがふと頭上を見上げると、天井から今にも切れそうな細い糸で、剣が吊るされていた、というのです。僭主・ディオニシウスは、ダモクレスの羨んでいる僭主という立場がいかに危険なものかを示したのです。使徒パウロがローマの信徒に手紙を記した時より百年ほど遡った時代に、共和制ローマ期の政治哲学者として活躍したキケロは、その著書「トゥスクルム談義」で、この「ダモクレスの剣」の逸話を記しました。その一部は次のような会話です。「ディオニュシオスは言った。『それではダモクレスよ、おまえはみずからこの暮らしをちょっと味わってみないか、私の幸福を経験する気があるか?』と誘いました。彼がぜひと言うと、僭主は彼に、黄金の席に着くようにと命じ、食卓を金と銀で飾った。‥・」というのです。その席に座って、ふと上を見上げると、細い糸で剣が下がっていたというのです。このように、人類はいつの時代も黄金の誘惑にはまりながら、一触即発の危険な状態に戦々恐々としているとキケロは警告したのです。
 
   この逸話がよく知られるようになったのは、繰り返しますが故ケネディ大統領が1961年の国連演説で「地球のすべての住人は、いずれこの星が居住に適さなくなってしまう可能性に思いを馳せるべきであろう。老若男女あらゆる人が、核というダモクレスの剣の下で暮らしている。世にもか細い糸でつるされたその剣は、事故か誤算か狂気により、いつ切れても不思議はないのだ」と語ったのです。
 
   それでは、天来の賛美を聞き、闇を押しのける希望の言葉が語られるというのは、どういうことでしょうか。前世紀に起こした二つの世界大戦に懲りたはずの人類が、紛争を繰り返し、互いに不信感を募らせて、恐怖に怯えているのを克服でしょうか。ここでは、神がいるかいないかを問う前に、人間自身の罪の現実が実に深刻な問題となっているのではないでしょうか。確かに、絶望的な罪の暗闇が問われています。これを一つの譬えで申しますと、一軒の家に人が住んでいます。夜が過ぎ、その家はすでに朝の光に包まれています。でも、その家の窓には、厚い遮光性のカーテンが掛かっているので、この家に住む人は、まだ闇の中に生きなければなりません。遮光性のカーテンを開けなければなりません。闇の部屋にいると思っているだけでなく、実際に闇の部屋なのです。そのことは、世界という家(オイコス)に生きるキリスト者にとっても、また非キリスト者にとっても変わりはないでしょう。
 
   しかしキリスト者は、主イエス・キリストの誕生と御国の到来、また主イエスの最後の十字架と復活によって、人間の不義に対する神の愛の勝利と御支配が人類史の中で決定的に開始されたことを知っているはずです。そして、曙の光が燦々と輝いて不義な世界が裁かれ、それと同時に、御子イエス・キリストの贖いによる罪の赦しと恵みの愛に拠り頼める信仰者にとっては、ちょうど眠りから覚めて家のカーテンを取り払い、朝の光が部屋に満ち溢れて、未来には救いの日を待ち望めるのです。そのような平和と救いの日を経験しつつ、私たちは、流血の続く平和なきこの世界に愛の証し赦し合いの証しに生きるのです。義なる神のご支配が完成する終わりの日は、闇の子らにとっては恐るべき日ですが、光の子らにとっては復活を伴った救いの光を浴びる喜びの日です。ではこのような希望を抱く信仰者は、今の地上の生をどう過ごせばよいのでしょうか。それは、光の子として証しの生活を貫くことです。実験し実証して、身を張って生きるのです。ローマ書12章9節の「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛を持って互いに愛し、尊敬を持って互いに相手を優れた者と思いなさい。」とパウロは、まだ訪問していないローマ教会にすでにイエス・キリストの信仰のゆえに実現した共同体の姿を勧めています。
 
  日本のキリスト教信仰で実現した歴史を一つ指摘したいと思います。明治の後半に滋賀県の商業学校に米国のYMCAから派遣されたヴォーリズという宣教師が商業学校の英語教師となりました。商業学校の青年たちの間には聖書に生きる共同体・YMCAがヴォーリズ宣教師によって沸き起こりました。当時の近江は極めて封建的で仏教徒の多い土地でした。かつて、近江の人々には、朝夕神仏に祈る習慣だけでなく、天を畏れる儒教倫理もあって、比叡山の天台宗勢力と真宗門徒による3000にもおよぶ寺院ネットワークと共に、人々の思想と行動様式に多大な影響を与えていました。従ってヴオーリズの伝道がすすむにつれて、反対派を中心に「YMBA(仏教青年会)]も発足しました。さらに日本が日露戦争に勝利したことで国全体に国粋主義が広まった背景も存在しました。ですから、学校の職員や生徒たちの考えや地方新聞の論調にもその傾向に染まり、キリスト教排斥を訴える生徒によるクリスチャン生徒への暴行事件も起こりました。しかし、被害を受けたクリスチャン生徒は、決して暴力をもって応戦することはせず、ヴオーリズとの出会いを通して与えられたマタイによる福音書第5章を守り、「自分を迫害する者のために祈る」ことを実践しました。こうして、ヴオーリズの思いは、若者の中に着実に根付き、暴力を振るった生徒たちがキリスト者の生徒たちの愛に心を打たれ反省し、洗礼を受けることまで起こりました。このことをヴォーリズは自伝の中で印象深く思い出しています。それにメンソレータムという衛生薬品を広めた近江兄弟社も学校教育をすることになりました。
 
  ところで、イエス・キリストの十字架の愛によって変えられた共同体に属する人々の「愛の生き方」をローマ書12章の9節から13節まで記したパウロは、信仰共同体・つまり教会とその周囲の人々の関わりについて12章14節から21節まで記しました。「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。誰に対しても悪に悪を返さず、全ての人の前で善を行うよう心がけなさい。」とあります。そして18節には「できれば、せめてあなたがたは、全ての人と平和に過ごしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること、私が報復する』と主は言われる」とあります。また20節からは「あなたがたの敵が餓えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる」。「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」と勧めています。まさに十字架の愛によって救われた者の価値転換が、非暴力的愛となって証しされる事を勧めました。教会の内部に対しては「愛には偽りがあってはなりません」と9節に記して「互いに真理を語り合う」友情を求めたパウロは、教会に周囲の社会に対して平和を証する使命を与えています。ある記録によると、紀元一世紀のローマ教会には、約500人の貧困と飢餓にあった人々を養う「救護所」があったと言われています。ローマ帝国の官僚組織にはできない愛の業です。洗礼をうけて光に包まれ主イエスの十字架の愛に支えられている故に可能になった品のある生き方です。では、戦争や地域紛争が止むことのない世界であるのに、御子イエス・キリストによって永遠の平和が実現し、終りが近づいたと宣言するのは、なぜでしょうか? 辺り一帯に希望がないのに光があるというのは、なぜでしょうか。
 
   これをやはり一つの譬えで申しますと、次のようになりましょう。一軒の家に人が住んでいます。夜が過ぎ、その家はすでに朝の光に包まれています。でも、その家の窓には、遮光性の厚いカーテンが掛かっているので、この家に住む人は、まだ闇の中に生きなければなりません。闇の部屋と思うだけでなく、実際に闇の部屋にいます。そのことは、世界という(オイコス)家の中に生きるキリスト者にとっても、変わりはないのです。ただ一つだけ違うのは、キリスト者は、そのような闇の現実の中に生きていても、すでに過ぎ去りつつある現実で、この家がすでに朝を迎え、東の空から昇った太陽の光に包まれていることを、カーテンの向こうに知っているのです。キリスト者はこれが確かな現実であることを知っているのです。しかも彼は、いまだ周りの社会が闇の中に生きていることも忘れません。いや、闇は勢いを増しています。しかし世が更け、丑三つ時を過ぎて暗闇が深まれば深まるほど、朝が近づいているのです。つまり闇は、確実に光に包まれて消え去っていく運命にあります。あるのは最後のあがきです。しかし、闇は結局光に対して勝ち目はありません。キリスト者は、主イエスの誕生と御国の到来を宣べ伝え、主イエスの十字架の死と復活によって、人間の不義に対する神の愛の勝利と御支配が人類史の中で決定的になったと語られています。そして、曙の光が世の終わりに燦々と輝いて地上を照らし、それによって闇に満ちた不義な世界と不義な人間が裁かれ、同時に御子の贖いによる罪の赦しと恵みが信仰者にとっては、ちょうど眠りから覚めて家のカーテンが取り払われ、朝の光が差し込んで部屋に満ちあふれるように、終末の救いの日を待ち望むことができるということです。そのような平和と救いの日を信じ待ち望みつつ、私たちは、流血の続く平和なきこの世界で光の子として生きます。神のご支配が完成する終わりの日は、闇の子らにとっては恐るべき裁きの日ですが、光の子らにとっては復活の体を伴って救いの光を浴びる喜びの日です。 それでは、このような希望を抱く信仰者は、今をどのように過ごせばよいのでしょうか。それは、闇の現実をただ耐えて生きるのでなく、また神のなさる業をただ傍観するのでもなく、光の子として証しの生活を貫くことです。光の子として生きるとは、平和を造り出す人(peacemaker)になることだと言えましょう。いやむしろpeacemakerであろうとする前に、キリスト者はいつの間にか闇の行いに取り込まれ、それに絡まれてしまう社会をしっかりと凝視すべきでしょう。当時のローマは、この13章13節後半で列挙された悪徳「酒宴と酪酎、淫乱と好色、争いとねたみ」が蔓延していました。紀元56年に歴史家のタキトウスは、皇帝ネロがまさに自分の身を隠して、機会あるたびに夜、居酒屋をほっつき歩いて、それらの悪徳に身を染めていたことを『年代記』で報告しています(『年代記』、XIII、25、国原訳)。これは今の私たちの周辺にもネット社会を通じて忍び込んでいる現実でしょう。平和を論じる時に、私たち自身がキリストを着た者に相応しく証しを立て、救いに与る希望となり、また体を張ってあかしし語り告ぐ者でありたいと願います。マタイによる福音書の山上の説教の直前の4章25節では「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音をのべ伝え、また民衆のありとあらゆる病気や煩いをいやされた。」とあります。教えのteaching、述べ伝えのpreaching,癒のhealingと主イエスの神の国の活動を教え、あたかもキリスト教学校の教育、教会の伝道、キリスト教病院や社会福祉施設の癒しの業によって総合的に展開するように記録されています。これからの日本の社会で私たち一人一人もそうですが、伝道活動において教会、学校、福祉施設の三者が協力して闇を照らす光として展開することを促されているように思います。また三団体だけでなく私たち一人一人が光の子としてイエス・キリストの愛を証し伝えていきましょう。