日本基督教団 千歳船橋教会礼拝説教
2017年11月26日 降誕前第5主日(収穫感謝日 みんなの礼拝・謝恩日)


聖書:出エジプト記16:13〜21、ルカ福音書12:13〜21
説教題:「豊かに祝福を受ける人」

朴 憲郁(パク ホンウク) 牧師


   猛暑の夏とその残暑が過ぎ、度重なる台風と秋雨も過ぎ去って、収穫の実りと紅葉の秋を、私たちはようやく迎えています。固くて石時のような土地、肥沃でなかった乏しい田畑を耕して、お百姓さんたちは春に田植えをし、種をまいて穀物を育てます。日照りの時も長雨の時も、田畑を手入れて、秋に豊かな収穫となった時に、大きな喜びと満足を得ることになります。その労苦を知らない人々には、なかなかその喜びが実感としてわかないでありましょう。
  それと同じく、神は、石地や茨に覆われ、固い畑のようになった私たち人間の心と思いを耕して、乏しい日々の生活、荒れ野のような人生に、豊かな実りをもたらしてくださいます。腰をかがめ、汗水を流して田畑を耕す農夫のように、神は御子キリストを遣わして私たちに心を傾け、愛して、日照りのような試練と滅亡の中から私たちを贖い出してくださいます。
  イスラエルの民の中に立つ一人の詩人は詩編126編5〜6節で、世の終わりの日における救いの喜びをこう告白します。「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌を歌いながら帰ってくる」と。
  私たちは収穫物を祭壇にお捧げしながら、この詩人と同じ喜びの歌を歌いつつ、共に礼拝を守っています。自分の生活環境の貧しさや不運を嘆き、不平ばかり言って、神の祝福を受けるに値しない私たちが、神からの憐みの恵みとして豊かに祝福を受ける人とされて、ここに集まっています。ですから、恵みとしての実りの祝福は自分で所有したり、独り占めにしたりするものではなく、それをお与えになった神に対する感謝の褒め歌を引き起こします。
  今朝は最初に、出エジプト記16章の御言葉が与えられています。エジプトの奴隷生活から解放されたイスラエルの民は、モーセの指導の下に、約束のカナンの土地を目指して40年の試練の歳月を過ごさねばなりませんでした。神の愛する契約の民として鍛え上げられるためです。砂漠の荒れ野を彷徨いながら、水も食物も欠乏する苦しみに耐えなければなりませんでした。自分たちの荒れ野で飢え死にしそうだと叫び求めた時、神は鶉とマナ(パン)を天から降らせて、彼らを養いました。その時の状況を描いたものが、今朝の聖書箇所です。それは、エリムとシナイとの間にあるシンの荒れ野に向かっていた時のことです(16:1)。
  特に、彼らが初めて見た大量のマナを不思議に見つめ、次にそれを手に取り口にして腹を満たしました。モーセは民に、「だれもそれを、翌朝まで残しておいてはならない」と言いました。それは、神の恵みのマナは人が自分の手で掴んで所有し得ない性質のものであることを、教え諭すためでありました。ところが20節に書いてありますように、モーセに聞き従わない欲張りな人々がいて、朝降ったマナを翌日の朝まで残しておきました。しかし虫が付いて臭くなったので、食べられませんでした。そのことを知ってモーセは怒ったので、彼らは反省して、彼の命令に従ってマナをいただくマナーを守りました。
  この出来事は、何を意味しているでしょうか。肉の糧である食物は人の地上の生活に欠かせませんが、食物の源である大地と雨と太陽は神がお供えくださっており、人の命もまた神がお与えになったものであるので、人はこの神の有形無形の恵みを手で掴んで所有することもできなければ、倉に納めて蓄えておくべきものでもないことへの警告です。従って、命の根源である神をほめたたえ、その方の御心に従って生きることを教える出来事です。いや、神の守りと導きに対する全面的な信頼によって、荒れ野の人生を生き抜くのです。別の言い方をしますと、一日一日の食物と命を、神の恵みとして感謝して受けとり、生きることです。主の祈りに、そのことが言い表されています。「日毎の糧を今日も与えたまえ」と。 
  食道楽を人生のモットーとするのでない限り、人は生きるために食べるのであって、食べるために生きるのではありません。
  主イエスが40日40夜の断食の後に空腹になられた時、荒れ野でサタンの誘惑に遭って、「神の子なら石ころをパンに変えて」腹を満たしなさいと迫られたとき、申命記8章3節を引用なさり、「人はパンだけで生きるのではなくい、主の口から出るすべての言葉によって生きるのである」との言葉によって、サタンの誘惑を退けました。あの記事を、私たちは思い起こすのではないでしょうか。
  マナを倉に納めて生きる人生観と、マナを倉に納めることをしない人生観との相違は、どれほど真剣に神との関係において自分の命を見つめているかにかかっています。前者は、自分の命を農作物で満たし、保証できると考える人です。
  そのことについて、主イエスはある日、父親の遺産相続で争う二人の兄弟の訴えを退けつつ、豊作物を倉に納めて自分の魂を満足させる一人の農夫の譬えでお教えになりました。それが、ルカ福音書12章13節以下の御言葉です。
  遺産相続できるほどに、ある程度の財産を親から譲り受けようとする二人の息子がいました。しかし、私たちの間でもしばしば経験することですが、この豊かな財産が順調に、そして公平に分配されない時には、骨肉の争いを引き起こすことがあります。その根底には、人間の貪欲が潜んでいます。豊かな財が必ずしも豊かな人生を約束するとは限らず、恥ずかしいほどの貧しさと悲惨に突き落とすことがあります。そのことを、今朝の聖書箇所は明らかにしています。
  同じような出来事は、旧約聖書の中に見られます。夫婦であるイサクとリベカとの間に双子として生まれたエサウとヤコブが、やがて大きく成長した時に、財産相続のことで激しい骨肉の争いをした物語は有名です。本来同じ母の胎から生まれた二人の子が大きくなっても仲良く過ごし、心を一つにして協力し合うべきでしょうが、なかなかそうならない人間自身の問題があるのです。
  今朝の聖書箇所におきまして、おそらく二人の兄弟の内の弟の方が、財産を独り占めしようとする兄に不満を抱いて、主イエスのもとにやってきたと思われます。そして彼は、その調停役を引き受けてくださいと申し出ました。しかし、主イエスはこれをきっぱりと断ることによって、御自身がそのために遣わされたのでないことをお示しになります。そして、相続争いの根本理由として見ておられる所有欲というものは、当時のユダヤ教において、姦淫や偶像崇拝と並んで、異邦人の主要な悪徳に数え上げられていました。
  しかし所有欲は問題であるにせよ、勤勉で誠実で、しかも神の戒めを守って生きる者が、神の祝福の徴として豊かな財を得たのだとしたら、それ自体はむしろ喜ぶべきことなのではないでしょうか。確かにそうです。さらに、貪欲を排して人が自分の財を神の御心のために用いることは、物質の豊かさに優って、真の魂の豊かさとして称賛されるべきでありましょう。しかし問題は、「貪欲を排して」ということが容易ではないことであり、むしろ人は所有欲を隠し、自分の財を隣人や社会に捧げる慈善行為をしたとしても、名誉欲という別の貪欲を求めることがあることを、主イエスは見ておられます。ですから15節で、相談を持ちかけてきたこの男に対してだけでなく、ギリシャ語の原典をそのまま訳しますと、「彼らに」、つまり弟子たち(=信仰者)や群衆に向かって、そして読者のすべてに向かっても、こう忠告なさいます。「あらゆる(種類の)貪欲を見て、それに気をつけなさい」と。そしてこれに付け加えて、(原典を訳しますと)「人の命は、その人の溢れるばかりの所有に基づくものではないからである」と。この命題的なお答えは、所有物が地上における人の命を維持し、人が生きていく手段であって、最終の目的や価値ではないという意味に、まず受け取ることができるでありましょう。この命題的なお答えは、次にあげる主イエスの譬えの中にも貫かれていきます。
  そこで次に、主イエスが持ち出した金持ちの農夫の譬えに目を移したいと思います。この譬えとその締めくくりの言葉(16〜21節)は、財産相続争いに関する記事(13〜16節)の付録ではなく、むしろそれは、15節後半で主がお答えになった言葉、「人の命は、その人の溢れるばかりの所有に基づくものではない」という命題を、一つの物語として見事に生き生きと描いて見せている部分ですし、主イエスのお考えをもっと深く伝えている部分です。
  この譬え話は有名で、多くの人がすでに知っていますし、初めてこの箇所をお読みになる人にとりましても、特に説明を要しないほど分かりやすい内容です。
  いったい、ここに登場する金持ちの農夫は、不正に土地や財産を取得したのでしょうか。いや、そうではありません。先ほど少し触れましたが、むしろ彼はこつことと働き、勤勉に農事に携わってきたのでしょうし、汗水流した長い労働の成果として、秋の豊作を喜び、楽しんでいるのではないでしょうか。しかも、豊かな収穫物を無駄にしないために、今の小さい倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに収納するというのは、賢明な計画ではないでしょうか。そして、19節で彼が自分に言い聞かせている言葉は、彼の当然の権利ではないでしょうか。
  しかし問題は、この農夫が人の命を、自分が所有する物や財産と同じレベルに引き下げている点です。19節で彼が満足げに自分自身に言い聞かせて、つまり「自分の魂」に向かって、「魂(プシュケー)よ!」と呼びかけて、「これから先何年も生きて行くだけの蓄えがあるぞ!」と、独り言のように言っていますが、人は物ではなく、魂であり霊なのだ、だから物質は真の命を保証しないということです。しかし独り言を言う農夫は、そのことに気づかないでいます。
  この農夫が満足げに自分に言い聞かせていたその夜、「お前の命を今夜奪う」との衝撃的な神の声が聞こえてきます。そして、今まで積み上げてきた彼の財が何の役にもたたないことが、彼に告げ知らせます。教訓的で、しかも決断を迫る主イエスのこの譬えはここで終わりです。この後、主イエスはひと言、こう締めくくります。「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と。
  自分の人生の終わりを告げる恐ろしい神の声を、真夜中に聞かされた農夫の心境が、いったいどう変化したのか、変化しなかったのか、その続きの話はありません。むしろ、この譬えを聞いていたあの訴え人の弟、さらにはイエスの弟子たち、一塊の群衆、そして今ここにいる私たちこそが、価値観の転換を迫る主イエスの警告的な問いかけにどう答え、どのような心と生き方の変化をもたらすのかが問われています。聖書の御言葉はそのように問いかけて、迫ってきます。
  確かに私たちも心が緩む時、富の魅力的な力に翻弄されがちです。しかし、主イエスの厳しい戒めを、恵みの言葉として繰り返し受けとめ、前進することが許されています。実り豊かな秋のように、ご一緒に真の豊かさを共に生きてゆきましょう。