日本基督教団 千歳船橋教会礼拝説教
2017年11月19日 降誕前第6主日


聖書:サムエル記下 7:8〜16、第1テサロニケ書 1:1〜5
説教題:「あなたがたは確かに選ばれた」

山本 克三 牧師


  1. キリストにある教会へ
  1-1. パウロたちの宣教活動の実りとしてのテサロニケ教会
   『テサロニケの信徒への手紙一』の冒頭、1章1節には、次のように書かれています。「パウロ、シルワノ、テモテから、父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会へ」。ここには三人の名前が記されておりますけれども、彼らこそが、この『テサロニケの信徒への手紙一』の著者(送り手)です。そして、この三人の福音宣教者————すなわち、パウロとシルワノ(このシルワノは、『使徒言行録』において「シラス」という名前で登場しております)、そしてテモテ————によって、テサロニケの地に初めてキリストの福音がもたらされました。そして彼らの宣教活動の結果、テサロニケの地に教会が設立されました。テサロニケ教会が誕生したのです。
   パウロたちは当時一般的だった手紙の書き方に従って、手紙の冒頭に、手紙の書き手である自分たちの名前を書き記しました。それに続けて、次に、手紙の宛先(受け取り手)を記しています。すなわち、自分たちの伝道によって生まれたテサロニケ教会に対し、「父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会へ」と呼びかけているのです。
 
  1-2. 「キリストにある教会」と記す意味
  1-2-1. キリストの体としての「教会」
   ここでテサロニケ教会が「主イエス・キリストに結ばれている教会(主イエス・キリストにあるテサロニケ人たちの教会)」と呼びかけられていることには、注意が必要です。
   勿論、「キリストに結ばれている教会(キリストにある教会)」という表現が意味しているのは、教会の群れが復活したキリストの命によって生かされている、ということです。この表現によって、信徒たちがキリストの体の一部分となっているということが、意味されているのです。「キリストに結ばれている教会」という用語が、キリストと教会との強い連帯、ないしは一体性(すなわち、教会の頭(かしら)がキリストであり、教会はキリストの体であるということ)を表している。これは、言うまでもないことでありましょう。
 
  1-2-2. キリスト教会としての「教会」
   ですが、ここで注目しておきたいのは、もう一つの、別のことです。それは、テサロニケ教会の信徒たちとはどのような人々であったのか、ということです。テサロニケ教会は、どのようなキリスト者によって構成されていたのか。それを「キリストに結ばれた教会」=キリスト教会という表現が示唆しているのです。
   例えば、長年にわたって信仰生活を誠実に送ってきた人同士の間で単に「教会」と言う場合、それがキリスト教の教会=「キリスト教会」を意味していることは、言うまでもありません。あえて「キリスト教会」と言う必要はないのです。
   けれども、状況や背景が異なれば、単に「教会」と言うとしても、それが必ずしも「キリスト教会」を意味しないということは、キリスト者が少数派である日本社会で生活しておられる皆さんであれば、容易に理解して頂けるのではないでしょうか。つまり、日本で「教会」と言う場合、この言葉はキリスト教以外の宗教における集会や集会所を指して用いることができるのです。実際、金光教やPL(パーフェクト リバティー)教団の集会所も「教会」と呼ばれています。また、徳島県には「教会前」という名前の駅がJR鳴門線にありますが、この「教会前」駅の近くにキリスト教会があるというわけではありません。駅の近くに天理教の教会があることから、名付けられた駅名なのです。
   パウロはテサロニケ教会に対して、単に「教会」と呼びかけることで満足せず、あえて「キリストにある教会」と呼びかけています。これは、テサロニケ教会の信徒たちにとって、「教会」が必ずしも「キリスト教会」とイコールではなかった、ということを意味します。具体的に言いますと、テサロニケ教会は、もともと異教徒であって、最近キリスト教に改宗したばかりの信徒・キリスト者になりたての人々が教会員の大部分を占めているような教会でした。ですから、つい最近まで、偶像を拝む異教徒だったテサロニケの信徒たちにとって、「教会」あるいは「集会」という言葉は、必ずしもキリスト教と結びついた用語として認識されていたわけではなかったのです。
   そのため、回心してキリスト教徒になったばかりのテサロニケの人々に対し、パウロは単に「教会」とではなく、あえて「キリストに結ばれた教会」・「キリスト教会」と呼びかけました。そうすることによって、テサロニケ教会の信徒たちに対し、自分たちがこの世の他の集団とは異なり、キリストと結び付けられた群れであるということを思い起こさせるとともに、自分がキリスト者であるというアイデンティティを自覚させる必要があったのでした。
 
  2. パウロの配慮————メッセージに耳を傾けさせるために
  2-1. メッセージを伝える手段としての「手紙」
   ところで、「手紙」というものは何故書かれるのでしょうか。私たちはどうして「手紙」を書くのでしょうか。
   例えば、「挨拶状」と呼ばれるような、挨拶だけを記した儀礼的なものを考えるとしましても、それが「手紙」として書かれる以上、その中には何らかの伝えたいメッセージが込められている筈です。そのメッセージを伝えるために、「手紙」という形式の文書は書かれるわけです。
   そうだとしますと、パウロたちが『テサロニケの信徒への手紙一』という「手紙」を書いたということは、この手紙を通して、彼らがテサロニケ教会の人々に伝えたい何事かがあった筈です。手紙という手段を用いて、パウロがテサロニケ教会の人々に伝えようとしていた教えや戒め。それは、この手紙では4章と5章において具体的に述べられることになります。言ってみれば、パウロが手紙で伝えたい肝心な要件は、4章と5章に書かれているのです。
 
  2-2. 耳を傾けさせるために
   ですが、このように申し上げますと、次のような疑問を抱かれるかもしれません。「もしそうであれば、1章から3章までには何が書かれているのか? 著者が伝えようとしている教えや戒めが3章までには記されていないとするならば、3章までは『なくてもよい部分(必要ない文章)』ということにならないか? パウロは4章から手紙を書き始めればよかったのではないか?」————そのように思われるかもしれません。
   しかし、決してそうではありません。『テサロニケの信徒への手紙一』を大きく二つに分けると、3章までが前半、4章以下が後半となります。そして、1章から3章までのこの手紙の前半は、4章以下の後半で記されることになる教えや戒めを、テサロニケの教会員たちが受け入れやすいように・聞き入れやすいようにするための準備をしている部分なのです。確かに、3章までは、手紙の本題・核心部分ではないかもしれません。ですが、極めて重要な前置きとして機能しています。この前置きは、テサロニケ教会の信徒たちが、パウロたちの教えに対して耳を傾けるように導く役割を果たしています。1章から3章までの前半部は、テサロニケ教会の人々に聞く耳を持たせる役割を担っていると言えるのです。
 
   また、手紙の分量全体の中で半分以上を占める前半部(3章まで)を、手紙の本題ではなく「準備」「前置き」として費やさなければならなかったということは、当時のテサロニケ教会の状況を反映しています。先ほど、テサロニケの教会員の大部分は、キリスト教に改宗して間もない信徒たちだった、と申し上げました。テサロニケ教会は生まれたばかりの教会であり、その信徒たちは、信仰的に見ればまだ幼子(おさなご)と言ってもよい人々でした。パウロは彼らに向かってメッセージを伝えるにあたり、次のように判断したのです。すなわち、パウロの言葉に対してテサロニケの人々の耳を傾けさせるためには、相当に念入りな準備が必要だろう。自分たちが伝えようとしているメッセージがテサロニケ教会の信徒たちに受け入れられるためには、肝心のメッセージ本体と同じか、あるいはそれ以上の分量の言葉を前置きとして費やさねばなるまい。それでこそ、初めて信徒たちに耳を傾けさせることができる。これが、手紙の書き手であるパウロたちの考えだったのです。
  2-3. 『テサロニケの信徒への手紙一』を読むことの、ささやかだが重要な今日的意義
   さらに付け加えますと、ここまで述べてきましたことは、現代において『テサロニケの信徒への手紙一』がどのように読まれるべきかについて、ヒントを与えてくれるように思います。例えば、自分は信仰的にまだまだ不十分であると思う人は、まさに自分に向かって、最大限にあらゆる配慮を尽くして語られている言葉だと受け取って読んで頂いてよいでしょう。しかしまた、長く忠実に信仰生活を送ってこられた方、信仰的に成熟している方であっても、この手紙は自分には必要ないもの・無関係なものだとは考えないで頂きたいと思います。むしろ、新しく信仰生活を始めたばかりの人や、信仰的にまだ成熟していないと思われる方々を教え導く場合、その人々にどのように語りかけるべきなのか。それを、パウロの筆の運びから学ぶことができる筈です。教会の中の兄弟姉妹を教え、戒める時の「語り口」を学ぶことは、教会の中で私たちが互いに重荷を担うことの具体的な表現につながるのではないか、と思うのです。
 
  3. 罪をも乗り越える神の選びと救い
  3-1. テサロニケ教会が困難を抱えるに至った事情
   ところで、パウロたちが『テサロニケの信徒への手紙一』を書いた時点において、テサロニケ教会はまだ十分に成熟した教会とはなっていなかったわけですが、そうなったのには、それなりの事情がありました。その背景について、ここで少し説明を加えておくことといたします。
   パウロたちの宣教によって、テサロニケに教会が・キリスト者の群れが新しく誕生しました。ですが、新しくキリスト信者となった人々に十分な信仰教育を施す時間もないまま、パウロたちはテサロニケを去らなければなりませんでした(この間の事情は、『使徒言行録』17章に記されています)。その結果、テサロニケ教会の信徒たちは、十分な信仰的教育や訓練を受けることができないままにおかれ、しかも、牧会者・指導者をも失ってしまったのです。テサロニケ教会の人々は、キリスト者として・信仰的に成長する機会を奪われたのです。そしてこのことが、パウロたちがテサロニケを去ってから幾らも経たないうちに、テサロニケ教会内部にいくつもの問題が引き起こされる原因となりました。
   テサロニケ教会が抱えていた問題について具体的に述べるためには、4章以下を扱う必要がありますので、ここでは、ごく簡単に述べるにとどめておきます。すなわち、テサロニケの信徒たちは、異教からキリスト教に改宗したにもかかわらず、性に関する倫理は、異教徒であった時の水準のままに留まっていました。また、キリストの再臨が迫っていることが強調され過ぎていたことが、教会の中にさまざまな問題を引き起こしてもいたのです。
   こうした諸問題に対処すべく、テサロニケ教会に対して教えや戒めを与えるために書き送られたのが、この『テサロニケの信徒への手紙一』です。この手紙は、パウロとシルワノが追われるようにテサロニケを去ってから数週間後(遅くても、せいぜい数ヶ月後)に書かれたと考えられています。
   それでは、信仰的にも未熟で、幾つもの問題を抱えていたテサロニケ教会の信徒たちに教えを与えるにあたり、パウロはまず何を語ろうとしたのでしょうか。それは、テサロニケ教会の信徒たちに対する「神の選びと救い」という主題でした。
 
  3-2. ダビデに対する神の選びと約束
   ここで、今日共にお読みしました旧約聖書の箇所に目を向けてみたいと思います。『サムエル記下』7章8-16節です(旧約聖書490-491頁)。この箇所には、主なる神が預言者ナタンを通してダビデに与えた約束が記されています。ダビデに対して神がなさった約束とは、「あなたの王国を堅く、揺るぎないものとする」。また、「あなたの跡を継ぐ息子はわたしの息子となり、そして、わたしはその者の父となる」という約束でした。こうして、ダビデは自分自身と、自分の子孫に対する祝福を、神から約束されたのでした。
 
   けれども、この約束の後、『サムエル記下』11章でダビデは姦淫の罪を犯し、預言者ナタンから叱責されるという大失態を演じてしまいます。しかし、そのようなダビデの過(あやま)ちにもかかわらず、神はバト・シェバを通して、彼にソロモンという息子をお与えになりました。神はよりにもよって、ダビデが姦淫によって略奪した女性であるバト・シェバが産んだ息子をお選びになりました。そして、その息子ソロモンをダビデの跡を継ぐ王とすることによって、神はダビデの王国の土台を堅くしてくださったのです。
   こうして、ダビデの罪にもかかわらず————いやむしろ、ダビデの罪を乗り越える形で————、神がダビデに与えた約束は、少しも変わることなく実現しました。神が与えてくださる約束は、人間のいかなる罪をも乗り越え、必ず実現するのです。
 
  3-3. テサロニケ教会に対する神の選びと救い
   ダビデの身に起こったことは、テサロニケ教会についても当てはまります。テサロニケ教会は確かに幾つもの問題を抱えていました。教会の中には、罪の中に陥っている信徒もいたようです。そうした問題や罪がどのようなものであるにせよ、また、その深刻さがどれ程のものであったにせよ、神がテサロニケ教会の人々を選び、お救いになったという事実は決して揺るぎません。神の選びは、決して変わることはないのです。人間がどんなに問題を抱え、罪を犯したとしても、それによって神の選びと救いが失われるということは、決してありません。これこそ、パウロがテサロニケ教会について抱いていた確信でした。ですから、パウロは『テサロニケの信徒への手紙一』1章4節で次のように書き記しています。「神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています」。
 
  4. 「私たちは神の教会を信じます」
  4-1. 私たちは「聖なる教会」を実現します
   誤解しないで頂きたいのですが、教会の中に問題や罪があるならば、当然、それはそのまま放置されてはなりません。信徒が罪を犯しているならば、教会はその人を戒め、悔い改めさせ、罪から離れるようにと勧めなければなりません。教会の中に神の愛と赦しが満ちているということは、教会の中で罪が見逃されてよいということと、決して同じことではありません。
 
   教会は、罪を犯し続ける教会員に対し、罪から離れ、行動と生活とを改めるようにと教え、戒めなければなりません。それは、教会が「神の教会」、すなわち「聖なる教会」であるために必要な営みなのです。教会員の生活のすべてを通して、神の御名が汚(けが)されることなく、むしろ神の御名があがめられ、賛美されるように、教会員の思いと言葉と行いとは正され、整えられなければなりません。
 
  4-2. 神は私たち教会を選ばれました
   しかし同時に、私たちは「神の教会」という言葉が意味するもう一つの側面を忘れてはならないでしょう。それは、神がお選びになった教会、神によって選ばれた教会という側面です。『使徒信条』が告白する「聖なる公同の教会」という表現には、神が教会をお選びになり、永遠の命をお与えになり、終わりの日まで教会を守り、保ってくださるという意味が含まれています(『ハイデルベルク信仰問答』問54)。ですから、神がお選びになった教会に属している限り、いかなる罪に陥っている人であっても、その人が神によって選ばれ、救われたという事実は、決して変わることはありません。洗礼を受け、教会員である限り、その人に与えられた神の救いは、永遠の命は、決して失われることがありません。その人がいかなる罪に陥っているとしても、その人が神に選ばれた「神の子」であるという事実は、決して変わらないのです。
   ですから、私たちは教会の中にどんな罪があろうとも、失望する必要はありません。決して希望を失ってはならないのです。それは、罪や問題が、どんなに信徒たちを呑み込んでしまっているように見えるとしても、その人々に対する神の選びは決して変わらないからです。神が信徒たちをお見捨てになることなど、決してないのです。
 
  4-3. 私たちは希望をもって教会生活に励みます
   かえって、私たちは教会に対し常に希望を抱(いだ)くべきなのです。希望を持って、隣人である兄弟姉妹を教え、戒めるべきなのです。「この兄弟姉妹をも、神はお救いになったのだ」。そう信じて、教え導かなければなりません。
   たとえ今、どんなに罪の中に陥っているように見えるとしても、その人が教会に属している限り、神は必ずその人を終わりの日に救いへと入れてくださる。教会で信仰生活を送っている私たちすべてを永遠の救いへと導いてくださる。これこそが、目の前にいる兄弟姉妹について、また教会そのものについて、私たちが信じ、告白すべきことなのです。
   お祈りいたします。
 
   【説教後祈祷】
   永遠の命を与えようと、全人類の中から教会という一つの群れをお選びになり、
   自らその頭(かしら)となってくださったお方、主イエス・キリストの父なる御神(おんかみ)。
     あなたが私たちに与えてくださった選びと救いを感謝いたします。
     あなたに選ばれた神の子としてふさわしく歩むことができるよう、
       私たちを守り、導いてください。
     あなたから与えられた救いの恵みを見失うことなく、
       互いに励まし合い、希望を抱いて、主の再臨を待ち望むことができますように。
           主イエス・キリストの御名によって祈ります。
                             アーメン