日本基督教団 千歳船橋教会礼拝説教
2017年11月12日 聖霊降臨節第23主日


聖書:イザヤ書50章10-11節、ヨハネ福音書18章1-14節
説教題:「イエス・キリストの杯」

須田則子 牧師


  「この人々は去らせない。」主イエスは、弟子たちの前に立ち、武器を手にした兵士、下役たちに言われました。弟子たちの前に進み出て、手を広げて弟子たちを守る主イエスのお姿を想像します。「わたしを捜しているなら、わたしを捕まえればいい。しかし、この人々は去らせなさい。」このお言葉によって、弟子たちは捕まることなく、主イエスのみ十字架に向かわれます。弟子たちはこの時どのように思っていたでしょうか。最初は、最後の最後までイエス様について行かなければならないと思っていたでしょう。最後の最後までついて行きたいと思っていたでしょう。ですが、武器を持った兵士たち、下役たちを前にして、きっと恐れたと思います。「どうしよう、どうしよう、しかし、今さら引き返すわけにもいかないし」、そのように思って人もいたと思います。そのような中で、主イエスが、「この人々は去らせなさい」と言ってくださいました。イエス様は、食事の後、弟子たちと共にキドロンの谷の向こうの園、すなわち、他の福音書ではゲッセマネの園と明記している園に行かれました。そこで、ユダに引き連れられた兵士たちがやって来ると、「この人々は去らせなさい」とおっしゃる。そうであるなら、イエス様が一人でゲッセマネの園に向かわず、弟子たちを一緒に連れて来たのは、兵士たちに向かって、「この人々には手を出すな」と命令するためです。主イエスのみ家を出て、その間に、家に残された弟子たちが主のいないところで一網打尽にされることなどないよう、主は弟子を連れて園に来られました。そして、「この人たちに手を出すな」とはっきり言ってくださいました。聖霊を受けるまで、弟子たち、人は、土壇場のところで無力です。イエス様は、わたしたちが人間自身の力で最後まで主に従う、十字架を背負うことはできないと知っておられます。他の福音書では、事態の成り行きを見て、弟子たちは皆、主を見捨てて逃げ去ったとだけ書いてあります。ですが、ヨハネ福音書は、それも主の弟子たちを去らせるという御心によって起こったというように記します。主が、「わたしが去らせるようにしたのだから」というようにしてくださいます。ですから、わたしどもは、強がらず、意地を張らず、去らせてくださる主に「ありがとうございます」と感謝したいと思います。最後まで、ついて行けない弱さを自覚したいと思います。「わたしは自分の意志の力で殉教した。」そんな誇りを主は求めておられません。弟子たちに殉教ということが起こるのは、聖霊をいただいて後のことです。わたしたちが信仰のために死ぬことができるとするなら、それは、ただただ主のお力、主の霊をいただいた恵みの力によるものです。
  そもそも信仰が主にいただくものです。
  ペトロは、悪あがきをしてしまいました。先ず、大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とします。狙ってそうなったのか、破れかぶれで剣を振り回して、空振りのつもりだったのに手元が狂って傷つけてしまったのか、それとも殺すつもりだったのかは分かりません。他の福音書でも、ペトロとは明記していませんが、弟子の一人が、相手の耳を切り落としたと記しています。これは、今のわたくしどもからするなら、何と物騒なと思うことです。ペトロはガリラヤの漁師でありましたが、剣を持つことは普通のことだったのでしょうか。ルカ福音書にも、主イエスが、最後の晩に弟子たちに、「わたしは犯罪人の一人として殺されるから、あなたがたは犯罪人の弟子として扱われるから、これからは財布のある者はそれを持って行きなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい」とおっしゃり、弟子が、「剣ならここに二振りあります」と答えています。ペトロは、「危害を加えようとする奴がいたら、やってやる。」そのような思いで剣を持っていたのでしょう。それで、主イエスが「この人々は去らせなさい」と言って、ペトロたちはもう逃げていいようにしてくださったのに、剣を持って打ちかかりました。主イエスはそのようなことをお喜びになりません。「イエス様のためだ」と言って武器を使うことはやめさせられます。「剣をさやに収めなさい」とおっしゃいました。他の福音書では、続けて、「剣を取る者は皆、剣で滅びる」とおっしゃり、マルコスという大祭司の手下の耳をいやされました。イエス様は、主のためにと言って、わたしたちが誰かを攻撃したり、イエス様を思って憤り、あなたは間違っていると誰かを責めたてるのは正当化されないと示しておられるのだと思います。主は大祭司の手下をいやされました。イエス様が刃(やいば)を向けておられないのに、相手をいやしておられるのに、わたくしどもが心において、社会において誰かを成敗することはできません。「これからは剣を持ちなさい」という、主の言葉はわたしたちにとって躓きですが、それを使いなさい、相手を攻撃しなさいとは言っておられません。そして主自身はお持ちになりません。イエス様は、神様は、わたくしどもに向けるべき裁きの剣を放棄なさいました。捨ててしまわれました。
  次にペトロは、主が去ってもよいとしてくださったのに、離れて後を追っていきます。どのようなつもりだったのでしょうか。ただ、成り行きを見届けたかったのか。イエス様が神通力を発揮して、縄目を解くのを見たかったのか。それとも、去ってもよいとは言われても、あなたのためなら命を捨てますと言った手前、すごすご帰るわけにもいかず、それなりのアリバイ作り、自分なりの誠意を見せたかったのか。はたまた本気でイエス様と一緒に死ぬつもりだったのか。とにかく、その後ペトロがどうなったのかは、皆様ご存じの通りです。主の予告通り、鶏が鳴く前に、三度も主を知らないという言う羽目になります。だったら最初から中途半端なことをせず、イエス様の配慮に感謝して、さっさと逃げた方がまだましだったのに、と思います。しかし、このような失態はペトロだけのことではなく、おのれを知らないことが引き起こす事態です。カルヴァンは、罪はいつも傲慢という車、当時は馬車という意味だと思いますが、車に乗ってやって来ると言いましたが、過信、うぬぼれが、主のご好意を無にしました。
  主の最後の日のお姿は、この後、逮捕される、大祭司のところに連れて行かれる、総督に引き渡される、死刑を言い渡される、十字架につけられると、受け身受け身が続きます。しかし、実際に起こっているのは、全て、主が主体的に引き受けておられることでした。全て御心の内に行われているということです。18章の14節でリマインドされているように、既に、11章で、大祭司のカイアファが、自分の考えではなく、神様の言葉を預言したことが記されています。イエス様がラザロを復活させて、人々はますます主をメシアと信じるようになり、そうするとローマ帝国からの独立を求める声が高くなり、それを知ったローマ人によって、我々の国が鎮圧されてしまうという恐れに対して、大祭司は答えました。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」これは、ローマによって滅ぼされることのないよう、イエスが国民のために死ねばいいと言ったのであり、カイアファ本人は気付いていないけれども、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったと聖書は記します。主イエスを亡き者としようとする大祭司でさえ、本人は知らずに神の計画に用いられているのだ。彼らは、自分たちの思いのままに主イエスを十字架にかけようと思っていたかもしれないけれども、それも神の御心の内に過ぎないのだと、イエス様の主権を言います。
  全ては御心の内に行われているというのは、今日与えられている逮捕の場面でも顕著です。兵士たちは、イエスを捕らえにやってきました。しかし、主イエスが、「誰を捜しているのか」と問い、彼らが「ナザレのイエスだ」と答え、主が「わたしである」とおっしゃると兵士たちは後ずさりして、地に倒れてしまいます。地に倒れるという言葉は、聖書の他の箇所では、ひれ伏す、また、滅びるとも訳される言葉です。「わたしである」、「エゴー、エイミー」という神様がご自身を表す時におっしゃる言葉を聞くなら、人は伏し拝むか、滅びるしかありません。人間にイエス様を逮捕できるはずがありません。神様を裁けるわけがありません。それをイエス様ご自身が逮捕されるように仕向けられる、自ら逮捕に向かわれます。そもそも、ゲッセマネの園に行かれたことが、主のご意志でした。イエス様は、弟子たちと度々、ここに集まっておられ、そのことをユダも知っていました。ユダがイエス様を引き渡そうと、祭司長たちに、「ゲッセマネの園なら、イエスが来るはずだ」と手引きすると分かっていながら、主は園に来られました。何故、度々、園に来られたのか。祈るためです。イエス様はしばしば父なる神様に祈っておられたので、祈りの場である園にもたびたび行っておられました。ユダは、主イエスが祈っている間なら、逮捕するのに好都合とでも思ったのかもしれません。いわば祈りという神様への礼拝の最中に襲ってやろうということであったかもしれません。
  とにかくイエス様は、最後には、まんまと捕まってしまいます。しかし、このようにイエス様の無力と思われるところで、実は御心、御言葉が実現しています。聖書は、イエス様が「この人々は去らせなさい」とおっしゃったのは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と言われた主の言葉が実現するためであったと告げます。わたしたちは神様がイエス様に与えてくださったもの、わたしたちはイエス様のものです。わたしたちが何を持っているかが問題ではありません。それらはいつ失われるか分からないものです。そして、実際わたくしどもは突然失うことがあります。けれども、たとえわたくしどもが何もかも失ってしまったとしても、それが決定的なことではありません。大事なのは、わたしたちが誰のものであるかです。わたしたちはイエス様のもの、主はわたしたちを失いません、手放しません。だから、わたしたちは、孤独を感じる必要はないはずです。話を聞いてくれる人がいないと寂しがる必要はないはずです。「あなたは一人ではない。あなたはわたしのものだ」と主は言ってくださいます。もう10年近く前のことですが、勤務している学校の全体修養会で、関西から来てくださった講師の牧師に、ある高校3年生の生徒が、皆の前で、「死にたくなることがある」と発言しました。その言葉に対して、講師の牧師は答えました。「あなたが、死にたいと思う気持には、よりよく生きたいという願いがあるんだよ。自分はよりよく生きたいという思いもあることに気付いてほしい。それがうまくいかないので、死にたくなる時もあるのだ」と伝えていました。その通りだと思います。ある人は、「死にたい」という思いは、「幸せになりたい」という気持ちの別の表現だと言います。これもその通りかもしれません。イエス様は、わたしたちに生きてほしい、死んでほしくないと願っておられます。わたしたちが生きてくれていて、幸せだと思ってくださいます。「あなたが生きていてるから、わたしは幸せ」と言ってくださいます。「あなたがいるから、わたしは不幸なんだ」などとおっしゃいません。「あなたの存在がイエス様を幸せにしている」と聖書は伝えます。「それなのにあなたの命が失われてよいだろうか」と訴えます。何を持って幸せとするかは人それぞれだと思います。また、先ほど申し上げたように突然、幸せを失うこともあります。過去が幸せであればあるほど、それを失って不幸を感じることもあります。また、周りの人を見て幸せだと思い、自分を比べて惨めに思うこともあるかもしれません。そんな移ろいやすい、人の幸福が自分の不幸に思えてくるような、そんな幸せではなく、イエス・キリストのものにされている、イエス様がわたしが生きることによって幸せと思ってくださる、そのような変わることのない幸せにわたくしどもは包まれています。
  ヨハネによる福音書は、主イエスが、受け身ではなく、主体的に、堂々と死に向かわれるお姿が印象的であり、マタイ、マルコ、ルカ福音書に共通する、もだえ苦しむ「ゲッセマネの祈り」の場面はありません。ですが、11節に「父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」というお言葉があり、杯という言葉は三つの福音書にある祈りと重なります。主は三度祈られました。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」旧約聖書において、杯にはいくつかの意味があります。イエス様がここでおっしゃっている杯は、神様の定め、神に逆らう者が飲み干さねばならない裁きがもられた杯です。本来はわたくしどもが飲まねばならなかった神の怒りの杯です。それを主が代わって飲み干そうとされます。わたくしどもの身代わりとなって罪を取り除くために十字架に向かわれます。わたしたちに代わって罰を受け、わたしたちは罪なきものとされます。ヨハネ福音書には、イエス様が、「この杯を取りのけてください」と祈られたか否かは記していませんが、度々、ゲッセマネの園に来られたということから、何度も祈って、杯を飲むようにとの父なる神様の御心とご自分のお心を一つになさったと思わせられます。父なる神様とイエス様の間に「杯」を巡る、祈り、対話がおありになったことでしょう。杯にはいくつかの意味があると申し上げましたが、父なる神が主にお与えになった杯は、本来わたくしどもが飲むべき裁きの杯であり、主がわたくしどもにお与えくださる杯は、主の血潮を表し、主の御愛を表し、永遠の命、祝福の満たされた杯です。わたくしどもは、「神様、この杯をわたくしから取りのけてください」と願うような、杯を受けねばならない定めより救われました。
  礼拝で聖餐に与ります。わたくしどもは神様の怒りに怯えることなく、感謝して主からの杯をいただくことができます。自分のような罪人が聖餐に与るのはもったいない、畏れ多い、かえって相応しくない者が飲んでしまうことによる裁きが怖いと恐れる方がいます。先週の日曜日は、部活の顧問として、大会の引率のため、召天者記念礼拝でありながら、千歳船橋教会の礼拝を欠席して、大会が終わった後、久しぶりにカトリックのイグナチオ教会の夕方6時からの礼拝に出席しました。カトリックの礼拝は、必ず聖餐がありますが、ご存じの通り、司祭はパンとぶどう酒をいただき、一般の信徒は、パンのみに与ります。カトリック教会は化体説をとりますので、パンとぶどう酒の実体が主イエスの血と体に変わると信じますので、ぶどう酒をこぼしてしまったら一大事になります。教会史を学んで意外だったのですが、一般の信徒がパンのみに与るようになったのは、信徒の方から粗相をしてしまったら大変だと辞退したことから始まったということです。カトリック教会を批判するつもりはありませんが、改めて、主が定めてくださった通りに、パンとぶどう酒に与れることを感謝しました。主が裁きの杯、怒りの杯を飲み干してくださったから、わたしたちに命の杯が与えられています。だから聖餐を軽んじないように、また、聖餐を恐れないようにと招かれています。聖餐、主の体と血を表すパンとぶどう酒は、教会でだけ、教会の交わりでだけいただけるものです。洗礼によって神様の霊、聖霊をいただき、聖餐によって、主の杯から霊の糧をいただき、主が洗足で示してくださったように、互いに赦し合い、愛し合う者、教会、世界にしていただきたいと願います。お祈りします。