日本基督教団 千歳船橋教会礼拝説教
2017年10月29日(降誕前第9主日、宗教改革記念日)


聖書:詩編23:2〜6、ルカ15章1〜7節
説教題:「リアルに生きる・万人祭司」

朴 憲郁(パク ホンウク) 牧師


  私たちが教会修養会で学んだ宗教改革を記念する言葉は、聖書のみ、恵みのみ、さらに万人祭司です。この万人祭司は言うまでもなく、宗教改革者ルターが、修道士や司祭だけでなく万人が聖書の生き方に従えるという提案でした。このことに触れたのは、私が、都心の銀座教会の伝道師を始めた時のことです。小さな教会で育ちましたので、人数の多い大都会の教会で名前を覚えたり、青年たちの指導をしなければならないと緊張したりしたせいでしょう。しばらくして、腎臓結石をいう痛みのある病を発生しました。するとすぐに主任牧師の鵜飼勇先生が、聖路加国際病院に連れて行ってくださいました。着くとすぐに「ごめんなさい、ごめんなさい」と言われて、並んでいる人々を通り越して日野原先生の診察室に行って「うちの副牧師が・・」と言ってその素晴らしい人柄に触れさせてくださいました。日野原先生は、私の痛む腹部にふれて泌尿器科にすぐ連絡してくださって、直行する様に言われました。その時は、日野原先生が「よど号ハイジャック事件」に出会われた直後でした。1970年日本内科学会のために福岡に行く日航機「よど号」に乗ってハイジャックに出会われたのです。朝鮮半島の金浦空港で代理の日本の政治家が乗り込んで解放され、空港に降りて土を踏んだ時、「新しい命を与えられた」という気持ちになったと言われました。58才で新しい命の自覚という回心の経験をされました。心の中で「人がやったことのないことを、勇気をもってやってみよう、」と決心して、行動が非常にリアルになってきたのを感じました。」と告白されて、ある対談でそれが私の「生きる哲学です」と言われました。それは戦前からのドイツ式医療と異なるアメリカ式の「プライマリ・ケア」の導入でした。まさに「社会起業家」と同じように社会に新しい価値観と実践を投入するリアルな生き方でした。いまやどこにでもある総合内科で診察して専門治療に振り分けるやり方です。
 
  思わず「社会起業家(ソーシャルアントレプレナー)」と言う用語を使ってしまいましたが、新しい価値観と実践で社会を開拓する人です。私たちが生きている21世紀は、18世紀から300年の近代の社会システムを見直すときです。18世紀の産業社会の出発を改めて21世紀のポスト・近代の立場から見直すと「鉄の檻から生活世界へ」という経済史家マックス・ウェーバーの用語に従うことになります。鉄の檻とは利害関係で現実に縛られることです。しかし、日野原先生を育てられた教会また私が勤めていた青山学院のメソジスト派の宣教師たちを考えると、ジョン・ウエスレーの新しい生き方という信仰に生きることになり、ウェーバーが「精神のない専門人」と「心情のない享楽人」の世界と言った危機感を克服する「愛によって働く信仰」となります。そして、ウエスレーの「キリスト者の完全」という信仰を、ジェイムズ・マックレンドンという現代の神学者は、個人だけでなく「文化と教育の完全」という生き方にまで高め、またBBCなどの放送の使命も新しくした指摘します。それは、キリスト教信仰を「全被造物に関する責任」にまで高めたことを意味します。1760年のジョン・ウエスレーの説教「金銭の使用法」はポスト近代にヒントを与えてくれます。私たちは、神に委ねられた全被造物への責任を果たそうとするビル・ゲイツのNPO創設や日野原重明氏の「医師のミッション」に見ることができます。また、現代哲学者のハバーマスの「ポスト世俗化時代」の課題までなります。つまり経済的利益を計算する冷たい世俗化を「生活世界の温かさ」にまで高めることです。それはキリスト教信仰による「責任的な愛によって働く信仰」と言うことができます。
 
  その証しは、キリスト教会が「聖餐式」を「パンと葡萄酒を分け合うシャロームの象徴」として再発見することにもなります。使徒パウロによると教会は聖餐から生まれてくる「愛の共同体」です。それは、おのずとポスト世俗化の「社会起業家の世界」に連結し、地上の責任・スチュワードシップの回復で、ジョン・ウエスレーの「大いに獲得しなさい」「大いに節約しなさい」「大いに捧げなさい」という信仰的実践にもなります。また今日的に言うと、まずイギリスが、20世紀に入って長期にわたって低迷を続け、1970年代のオイルショック以降、深刻な経済危機に遭遇し、「イギリス病」と世界から揶揄されるほど財政赤字が累積して、「ゆりかごから墓場まで」という世界があこがれたイギリス型の福祉国家を続けてられなくなりました。そこで労働党から保守党に政権交代した1979年以降、社会経済システムが大きく転換され、サッチャー政権の誕生によって、大きな政府から「小さな政府」への方向転換が求められ、福祉政策をスリム化し、全て「民営化」が推し進められ、徹底した「規制緩和」が行われました。このように重要なルールを破棄して、民間の企業家に任せたのです。アメリカでも1970年代に、レーガン大統領が規制緩和を行って、徹底的に「小さな政府」を目指しました。
 
  その流れで、私たちの大学では、ボランティアセンターが機能しはじめ、ボランティアがこの夏も30人ほどのチームを熊本に派遣しました。その意味で、一人一人の生き方が問われてきています。
 
   社会起業家が活躍する領域は、医療、福祉、教育、環境などですが、こうした社会的責任は、すべて市場化したらよいというわけにもいきません、利益だけを追求し、倫理観に乏しい組織に任せておくわけにはいきません。といって昔の福祉国家に戻ることもできません。しかし、私は、長期的には「全て重荷を負うて苦労しているものは私の元に来ない」と言われる「イエス・キリストの励まし」によって「私に学びなさい」と言われる主イエスに支えなければならないと思います。
 
   繰り返しますが、宗教改革を記念する言葉の一つは、「万人祭司」です。これは言うまでもなく、ルターが、修道士や司祭だけでなく万人が聖書の教えで生きるというテーマでした。そして、ルターの九五箇条の提題の出発にあるのが、「悔い改め」と言う言葉でした。「私たちの師にして主であるイエス・キリストが悔い改めよと言われた時に、それによって主イエスは、キリスト者の全生涯が悔い改めだということを求めておられた」というのです。この悔い改めは、先ほど読んでいただきましたようにルカ一五章以下にも出ております。ここでは悔い改めが、中心的な問題として取り上げられています。さらに悔い改めるという謙虚な姿勢がキリストの愛、神の愛に関連して語られています。そのところを見てみますと。1節2節に「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「イエスは罪人たちを迎えて、食事までしている』と不平を言い出した」とあります。つまり罪人とは、私たちにとっては好ましくない人物で。表現を変えれば、正しくない、良くない、あるいは美しくない、見栄えがしない、要するに、人の目で見てプラスの評価ができない、外見上マイナスの評価をする人に対して、私どもはあまり好感を待ちません。むしろ愛さないと言ったほうがいいかもしれません。それに対して、見栄えのするもの、正しく見えるものについて、私どもは好ましいと思い、プラスの評価をします。古代のアリストテレスが書いた『ニコマコス倫理学』は、紀元前のものですが、息子のニコマコスの名をつけた素晴らしい書物ですが、そこに愛について書いたところがあります。「よき人とよき人との間において、相手のよき人がよき人である限りにおいて存続する愛それが人間の愛(フィリア)である」といっています。しかし、今拝読した聖書の箇所は、そうではなくて、徴税人や罪人と言われる「マイナスの人」に対して主イエスの「にもかかわらずの愛」が示されます。ここに、エロースあるいはフィリアといわれたりする人間の愛と、アガペーと言われるイエス・キリストに示された神の愛との対比が出ています。
 
   実はルターは、神の愛と人間の愛ということについて論争しました。現在のハイデルベルク大学の広場に、九五箇条の提題の翌年に、ここで「ルターはハイデルベルクの討論をした」という大きな銅版のプレートが敷かれています。そのハイデルベルクの討論で、最後に、ルターは人間の愛と神の愛を比較しました。そこで、人間の愛について、先程言ったようなこと。よい人、美しい人、好ましい人に対して人間の愛は働く。それに対して、神の愛は、見栄えのしない人、見た目で正しくない人に向くといっております。これが、ルターが聖書から取り出した神の愛と人間の愛の比較です。実は二十世紀に入り、一九三○年代のはじめに、スウェーデンの神学者ニグレンという人が『アガペーとエロース』という本を書くきっかけになったのは、このハイデルベルク討論のルターの言葉です。ルターがアガペーとエロースという言葉を使ったわけでありませんが、その本を見ますと分るように、ニグレンは、神の愛と人間の愛について、ルターはこのハイデルベルク討論において、「コペルニクス的革命」と言ったとしております。
 
   さて、ルカによる福音書一五章で、聖書は大事なことを言っています。「悔い改めについて喜びがある」、「九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」と言っています。これが一番大事なところです。先程、九五箇条の提題の第一に、キリスト者の全生涯が悔い改めであることを求めたと言いましたが、反省とか後悔という点から考えると、人間全てが悔い改めを必要としております。個人だけではありません。組織体全てがそうかもしれません。大学もそうです。大学の授業改善、あるいは大学のボランティアセンター、これはある意味では悔い改めに通ずる実例です。一人一人の悔い改めなくして改革なし、と言えます。しかし、なぜ悔い改めなければならないのでしょうか。ヒューマニズムより大切な事、ここではもっと大事なこと、もっと注目すべきことが書かれております。先程いいましたように、悔い改める一人の罪人については、九十九人の正しい人よりも、もっと大きな喜びが天にあり、悔い改めることを神はどんなにか喜んでおられるか、九十九対一の割合で喜んでいると記されます。ですから、全生涯が悔い改めであるということには、神の喜びだという意味の大きさがあるのです。その悔い改めることは、それ自体は喜びではありません。自分自身について悔い改めるということは、心の痛みを伴うことでもあります。しかし、その悔い改めを神は喜ぶと言われているのです。その神の喜ぶ悔い改めを心に留めたいと思います。ルターは、「最高の悔い改めは新しい生活である」といっています。確かに、神が喜ぶ悔い改めは、新しい生活でしょう。私たちの信仰から生まれる生き方でしょう。しかし、本当に生き方が新しくなったかどうかは、神様が判断なされることです。私たちは、自らを変える悔い改めを続けること以外にありません。まさに、「全生涯が悔い改めである」と言えます。あの、日本の政治家が代わりに乗り込んで、解放された金浦空港の土を踏んだ時、「命を与えられたんだ」という気持ちになったと言われ、58才から新しい命の自覚という回心の経験。「人がやったことのないことを勇気をもってやってみよう、」と決心して、行動が非常にリアルになってきたのを自分自身で感じました。」といわれたことを覚えて祈り、私たちも新しい週の歩みを始めましょう。祈ります。