日本基督教団 千歳船橋教会礼拝説教
2017年10月8日 (聖霊降臨節第19主日、神学校日・伝道献身者奨励日)


聖書:詩編22:2〜6、ガラテヤ書4:1〜7
説教題:「神による相続人」

朴 憲郁(パク ホンウク) 牧師


   律法の規律を守り、自分で自由に物事を処理することができると思う人間が実は、人を惑わすこの世の霊力の支配の下で奴隷という惨めな存在なのだと指摘する御言葉が、今朝のガラテヤ書4章の3節後半で述べられています。人を欺いて拝ませるこの世の霊力、神々を、使徒パウロは当時のヘレニズム世界の哲学や神秘宗教で用いられたストイケイアというギリシャ語で言い表しています。ストイケイア(霊力、諸力)は本来、世界を成り立たせている四つの元素を指していました。それは土と水と空気と火でありました。これらは医学と一般哲学と宗教において欠かせない大切な役割を担っていました。地上の人間が生きていくためにもそれら四つの要素は欠かせない必需品なのですが、それらは小さな人間存在を遙かに超える全地球的、宇宙的な広がりをもっており、洪水や地震などに見られますように、しばしば人間を脅かす超越的な存在でもあります。いや、人間を含む生物はこれら四つの根本要素の混合によってできた存在だとも考えたのです。
 
  ですから、人間は自分の手に負えないこれらのストイケイアの威力や怒りから救われ、安寧と秩序を維持するために、それらを神々に祭って崇拝し、その加護の下に生きるために呪術信仰が生まれました。さらに、太陽や月や星の運行をも目を懲らして観察し、そこから人生と世界の行く末を占う占星術なるものも生まれました。人々の心には、万物をお造りになった創造神への信仰が芽生えず、むしろ逆に、造られたものをある形にして拝む偶像崇拝がはびこります。そこから、吉日や凶日など名迷信的な決まり事で人の生活習慣を縛り上げることにもなってきます。そして、拝まれる対象のストイケイアが逆に人間に支配的な力を及ぼし、魅惑するのです。今朝の聖書箇所の後に続く9節後半から10節までの御言葉はガラテヤのある信徒たちのことをこう描きます。「なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています」と。
 
  しかし、ストイケイアが空しい欺きに過ぎないことを、旧約外典である「知恵の書」13章10節は、すでにこう指摘していました。「命のないものに望みをかける人々は惨めだ。彼らは、人の手で造られたものを神々と呼ぶ。技術の生み出した金銀の作品、動物の像、昔の人が加工した役に立たない医師などを」。ストイケイアとは昔話ではなく、今も勢いを増して働いています。国民を惑わす空しい欺きのストイケイアは、昨今の票集めの政治的スローガンや軍事的恐喝においても顕著です。それはまた、迷信的な信仰にも現れてきます。
 
  長く牧会をしていますと、思いがけないいろんなことに出くわします。私は20代終わりに、在日大韓基督教会の岡山教会で5年間牧会していましたが、毎週日曜日の午後は無牧で弱い倉敷の教会に出かけて行って、夕拝を導きました。教会の近くに住むある求道中の老婦人が礼拝に出席していました。秋の季節を迎え、ある主日の夕拝を私が導いた後に、互いに挨拶を交わし、出口の方に行きました。するとその老婦人が一足先に礼拝堂の外に出ており、西の空に映えるきれいな夕日に向かって両手を合わせ、何度も首を垂れて、太陽を拝んでいるではありませんか。それを見て私は驚きましたが、彼女に近寄って「どうしてそのようなことをしているのですか」と聞くと、「夕日の神さまにも拝んでいます」と、何か気まずそうな表情で答えました。そこで私はこうお話ししました。「御子イエス・キリストを私たちのもとに遣わすほどの神の愛と御支配が礼拝で語られ、私たちがそれを信じているのに、礼拝が終わるや否や、それに反してお日様を拝むことはまことの創造の神を否定することであって、避けなければなりませんよ」と。すると彼女は「はい、分かりました」と答えましたが、どれほど分かってそう答えたのかは分かりません。
 
  その関連で、もう一つ思い起こすことがあります。先日は、台風が接近する中、YMCA東山荘で教会修養会を無事終えることができました。二日目の朝から空が晴れ、美しい富士山が敷地内の丘の一角から姿を覗かせていました。朝、皆で散策した後、その丘の脇に立てられた小さな「黙想館」という建物に入りました。暗い部屋ですが、西側の大きなガラス窓からだけ、まぶしい朝の光が入ってきます。その遠くに裾野が雲に囲まれてそびえ立つ神々しい黒富士の美しい景色が、窓全体を独占するかのように目に映りました。皆はその迫力に感動して、わっと言いました。ある人が言いました。「だから、昔から富士山を崇める浅間富士信仰が生まれたのですね」と。山岳信仰である富士信仰とは、富士山そのものを神と見立てるなど、何らかの形で富士山を信仰・崇拝の対象とすることです。しかし、富士山ではなく、その形も美しさも創造し支配なさる神とその栄光を崇めるよう、そして富士山崇拝の誘惑を諭すかのように、横の壁には、筆で書いた文語訳聖句の掛け軸がかかっていました。それは詩編121編1節でありまして、讃美歌では神信頼の301番の一節にあるものです。((助けはいずかたよりきたるか。あめつちの御神より助けぞわれにきたる」。何と力強い神信頼に満ちた言葉でしょうか。荒れ野を旅したイスラエルの民のように、誘惑に陥り易い私たちであっても、この御言葉に押し出されて、この世のストイケイア(諸力)を吹き払って前進する信仰者とされています。
 
  かつてエジプトから導き出されて荒れ野の40年という試練の旅を続けたイスラエルの民は、守護神となる金の仔牛像を造って拝み、罪を犯してしまいました。しかしその後、彼らが繰り返し同じような過ちに陥らないよう、指導者モーセは民を勧告し、警告しました。それが、申命記4章15〜19節に書かれています。
 
  「あなたたちは自らよく注意しなさい。主がホレブで火の中から語られた日、あなたたちは何の形も見なかった。堕落して、自分のためにいかなる形の像も造ってはならない。男や女の形も、地上のいかなる獣の形も、空を飛ぶ翼のあるいかなる鳥の形も、地上を這ういかなる動物の形も、地下の海に住むいかなる魚の形も。また目を上げて天を仰ぎ、太陽、月、星といった天の万象を見て、これらに惑わされ、ひれ伏し仕えてはならない。それらは、あなたの神、主が天の下にいるすべての民に分け与えられたものである」と(申命記4:15〜19)。
 
   私たちはこの申命記の戒めを、ガラテヤ書4章の教えと照らし合わせますと、不可解に思うことがあるのではないでしょうか。偶像崇拝を禁ずるこのモーセ律法を遵守することによって、ユダヤ人であれ異邦人であれ、ストイケイアの誘惑を避け、迷信的な生き方を退けることができるはずなのではないのでしょうか。しかしパウロはそれとは逆に、律法順守へのこだわりが人をストイケイアと偶像の奴隷にしてしまうのだと言います。これはどういうことでしょか。
 
  しかし、律法主義的信仰との戦いを繰り広げる使徒パウロのガラテヤ書翰を学んできて、私たちが繰り返し気づかされることは、本来聖なる律法がイスラエルの長い歴史の中でいつの間にか形骸化し、さらに、律法を手掛かりとする罪の仕業によって、人間を神の前で自由にするどころか、むしろ縛り上げて奴隷のように取り押さえるという転倒が起こることです。イスラエルの民にとっては、考えてもみなかった全く逆の事態がおこっています。
 
  モーセ律法と言いましても、神と人の関係においてどう生きるかを規定する倫理律法と、もう一方に、神の前で民と共に礼拝を捧げ、動物の生け贄を捧げる際の細かい規定を定めた祭儀律法とがありますが、この後者の祭儀律法についても、それが形骸化しておまじないや魔術的なものに成り下がって堕落し、迷信化するのです。それがいつしかヘレニズムのユダヤ教において、ギリシャ時代以来のストケイア思想と結びついてしまうのです。そういう転倒したことがガラテヤの律法主義的な信仰者の間で広がり始めたので、使徒はここで戒めているのです。
 
  4章1節以下で、相続人とか未成年者とか後見人の喩えによって話しが進められていますが、その流れでいきますと、3節後半で、未成年であった時の私たちも「世を支配する律法・規則に奴隷として仕えていた」と述べて良いはずの箇所で「律法・規則」とは言わないで、諸霊/諸力[ストイケイア]に奴隷として仕えていた」と言い換えておりますし、次の4節では、神は御子イエスを人間的な制約と条件のもとに、つまり女から、しかも律法の下に生まれさせた」と並行させて語っていますので、ここではストイケイアが律法と結びついて語られていることに気づかされます。つまり、祭儀の律法であれ倫理の律法であれ、律法や割礼というものを守ることによって神の前で自分の義が得られるという追求の仕方が、偶像の排除による自由をもたらさず、むしろ人間を空しい欺きの偶像の虜にさせ、異教の神々に隷属させてしまうのだと言うのです。律法に固執するユダヤ教徒、およびユダヤ主義的キリスト教徒がまったく気づいていなかった問題がここで浮き彫りにされています。彼らにとってそれは驚きですし、使徒パウロのこの指摘を否定し、抵抗するのですが、使徒はそのことをはっきり告げるのです。
 
  さて、アブラハムとその子孫に対する神の祝福の約束が、キリストへの信仰によってユダヤ人にも異邦人にも及ぶことは新時代を画するということが、3章ですでに述べられていました。律法のもとで、人はユダヤ人であれ異邦人であれ、罪の支配下に置かれていました。これは古い時代に属します。これに対してキリストの到来、信仰の到来は、祝福の財を譲り受ける自由な神の子らの新時代です。旧時代から新時代への転換を印象づけるために、パウロは4章の1節から新しい譬えを用います。それは、全財産の所有権をもつ未成年と成年者の対比です。全財産の所有権をもつ未成年は成人に達して初めて、実質的な財産所有者になり得るというのは、当時のローマ・ヘレニズムの法律によるものでしたが、それによれば、後見人の役割は相続人が成人すると自動的に終了し、その時期は父親によってではなく法で定められていました。
 
  当時のそのような相続法は、今の日本の相続法とも類似しています。満20歳に達しない(満19歳以下)の未成年者は、年齢に関係なく法定相続人になります。赤子であっても両親の全財産の相続人となります。しかし、親が亡くなってその残した遺産を兄弟姉妹で分割する場合に、遺産分割の協議書を作成する必要があります。その際に、原則的に相続人(すなわち親の子供たち)全員が参加する必要がありますが、相続人に未成年の人がいる場合、未成年者はこの協議に参加することは認められず、法定代理人を立てなければなりません。この法定代理人が、ガラテヤ書4章2節では後見人と管理人に当たります。
 
  ガラテヤ書4章1節以下の御言葉において、使徒パウロはこうした財産相続における未成年者と成年者の譬えを用いて、律法の支配下に生きる古い時代と、キリストへの信仰による新しい時代との決定的な時代転換の意義を明らかにしようと意図しています。そのことをより詳しく把握すると、次のようになります。
 
  アブラハムにおける神からの祝福の財を譲り受けるはずの神の子らであっても、律法の監視下の時代においてはちょうど未成年の状態であって、独り占めにできず、成人に達した時に初めて、つまり御子キリストの出現により、このお方を信じることによって、律法およびこの世の諸力(ストイケイア)という後見人の保護・監督から解放されるならば、実質的に神の祝福の財を所有する者となる、ということです。
 
  そして、御子キリストへの信仰を通して、私たちは父なる神の子らとされ(養子とされ)、直接「アッバー、父よ」と呼びかけ、祈ることができるのです。これは、愛する子供が父親に素直に呼びかける信頼の言葉です。御子キリストによる聖霊が、心からの神信頼の呼びかけと祈りを、神の子らの魂に引き起こしてくださるからです。「アッバー、父なる神よ」と呼び求めて、私たちは困窮の時には助けを求め、また喜びの時は感謝と賛美を捧げることができるのです。
 
  この世の諸勢力(ストイケイア)と律法の下に閉じ込められていた哀れな人間を贖い出し、信仰により神の光の子らとするために、神ご自身が御子を肉の人間と同じ諸制約のもとに遣わして、連帯し、奴隷的な縄目から私たち人間を贖い出してくださったことが、信仰者が神の子らとしての身分を得るために大前提です。この世への御子の派遣の証拠が、一人の女(マリア)から、しかも律法の下で生まれた赤子イエスです。4節に書いてある通りです。  
 
  エルサレムの初代の使徒たちよりも後に、回心して諸民族の使徒とされたパウロは、エルサレムの使徒たちや、ベツレヘムやガリラヤで最初に主イエスに従ったキリスト教信徒たちを通して、マタイやルカの福音書が描くクリスマス物語を、つまり赤子イエスの誕生の次第の一端を、マタイやルカよりも30年も前に聞き知っていたのです。そのことが4節の一言の中から読み取れます。飼い葉桶の中にまで下って生まれた主イエスによって、父なる神がどれほど、私たちを律法主義的、迷信的、奴隷的な状態から贖い出そうとされたかを知ることができます。
 
  4節に続く5〜7節をお読みします。「それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです」。
 
  このガラテヤ書の御言葉を、使徒パウロは後にローマの信徒に書き送った手紙の8章15〜17節でも、表現を少し変えてほぼそのまま語り伝えています。そこでは興味深いことに、ガラテヤ書の場合よりももう少し付け加えて17節後半で、キリストと共同で神の相続人とされており、それによってキリストと共に苦しみ、その栄光にも与るのだと言います。
 
  「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊が、信仰者の生活と祈りの中に働いていると、ローマ書8章でもこのガラテヤ書4章の5節でも示されています。アッバとは、イエスがお話になったアラム語(へブライ語の方言)の一つで、子が父親に信頼を寄せて「パパ!」「お父さん」と呼びかける時のように、御子イエスが父なる神にそう呼びかけて祈る時の言葉です。朝夕に、主イエスは山に登って一人で父なる神にそう呼びかけて、真剣に祈りました。アッバはギリシャ語ではパテールです。新約聖書はすべてギリシャ語で書かれていますので、ここでもパテールとだけ書いてもよいはずですのに、この言葉だけは、そして特に印象的な、忘れがたい主イエスの言葉だけ(他に例えば十字架上の言葉)は、アラムの言語でそのまま、初代の異邦人教会でも用いられ、残されていきました。特に主イエスが神に祈ることを教えた<主の祈り>(ルカ11:2、マタイ6:9)の冒頭は「父よ」(パテール)で始まります。これもおそらくアラム語のアッバで教え始めたに違いありません。おそらくアンティオキア教会でもガラテヤ教会でも、おそらく主の祈りを知っていたと思われます。<主の祈り>は祈りの基本でありますが、自由祈祷においても、私たちは健やかな時もやめる時も、イエスの御名によって、アッバ父よと呼びかけて祈りを始めることが許された神の子らです。自由とされた神の子らとして、神に「わが神よ!」と呼び求めることも許されています。
 
  私たちは御子によって自由にされた神の子らとして、健やかな時も病める時もアッバ父よ、あるいは我が神よと、直接神に呼び求めて祈る者です。特に病める時の祈り求めのモデルを、御子イエスご自身が十字架上でお示しになったことを見逃すわけにはまいりません。私たちのために、父なる神から見捨てられる試練と絶望の暗闇のただ中で、子が父を慕い求めように「我が神よ」としがみつくように叫び求めた最後の言葉を、私たちは暗闇と試練のただ中で思い起したいと願います。「エりー、エリー、ラーマー、アザーベターニー」(我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか)。しかし、主イエスが絶望的な叫びにおいて引用なさった詩編22編初めの嘆きの言葉は、ただちに信頼の言葉に繋がっています。それは今朝の詩編22編のみ言葉です。主はご自身の地上における最後の魂を神に委ねられたのです。