日本基督教団 千歳船橋教会礼拝説教
2017年10月1日 (聖霊降臨節第18主日、世界聖餐日・世界宣教の日)


聖書:創世記15:4〜7、ガラテヤ書3:26〜29
説教題:「洗礼による一つの体」

朴 憲郁(パク ホンウク) 牧師


   本日は、日本基督教団の年間教会暦で定めた世界聖餐日・世界宣教の主日です。イエス・キリストの福音による神の愛と永遠の命をいただいた信仰者が、溢れるほどの喜びと感謝を抱いて、周囲の人々に福音を宣べ伝えていきました。
 
  信仰者の群れである教会は二千年前に誕生した初代教会の時から今日まで、決して内向きの宗教結社ではなく、様々な障害や障壁をも打ち破って、時が良くても悪くても、家族や社会や国へと広がって、福音宣教の務めを果たしてきました。キリストの体である教会は、神様からいただいた恵みを他の人々と分かち合い交わりつつ、常に伝道する教会でした。
 
  私たちの罪の贖いのために十字架上で犠牲の死を遂げて復活なさったキリストの体であるパンと、注がれた血である葡萄の杯を分かち合うことによって、つまり聖餐に与ることによって、人間はどんなに男女の性差と民族的相違と社会階級差などで多様に分かれていても、それらの違いを乗り越えて、キリストにある一つの体の中に固く結び合わされています。立場や考えの違いを乗り越えてキリストの平和である一つの全体教会に連なって、神の平和と正義と愛の交わりのための務めを果たしています。偏見や差別、抑圧や争いのただ中にあっても、いや、そのような困難な状況のただ中でこそ、キリストによる和解の福音を宣べ伝え、行いによる証を立てています。そして、教会から世界各地へと福音宣教のために遣わされている働き人を一斉に祈りに覚え、500万円の目標額の達成に向けて献金をお捧げします。それが、本日の主日礼拝の意義です。
 
   今日の特別礼拝のために、教団の世界宣教委員会からカラー刷りの宣教報告書が送られてきました。ここには、本教会の元副牧師であられ、現在はロサンゼルスのセンテナリー合同メソジスト教会で牧会・伝道・奉仕の活動を続ける久山康彦宣教師をはじめとする14か国で働く宣教師とその家族と教会の様子が載っています。今年3月の受難週の主日には、ベルギーの首都ブリュッセル日本語プロテスタント教会への派遣を控えた川上寧(やすし)牧師ご夫妻を私たちの教会にお招きし、川上牧師が証しのを含む説教をしてくださいましたが、ブリュッセルの教会の様子が、宣教報告書の表紙に載っています。
 
   実は、私も一年前から世界宣教委員会のメンバーとして加わっていまして、教団から海外に遣わされた宣教師への配慮とお世話をしています。先日開いた委員会の話し合いの中で、川上寧牧師がより安定した在留資格を得るために、ベルギー政府が課すフランス語のテストに合格しなければならないとの報告を受けました。彼がフランス語学院で受講する費用を、本委員会の乏しい財源の中から支出してあげられるかどうかを協議しましたが、継続審議となりました。たとえばこんなことまで、委員会は相談に乗っていますが、何と言いましても、全国諸教会の祈りと献金を必要としていることに、委員の一人として気づかされています。
 
   長い教会の歴史の中で、いったい何が教会の信仰者たちを突き動かし、国境と民族的、人間的な隔たりを突き破って、福音宣教への情熱的な献身を引き起こしているのでしょうか。その源流となる秘密は、今朝のガラテヤ書3章26〜29節に記されています。私たちは特に、27〜28節に注目します。
 
  ギリシャ語の原意を読み取り、解釈して申しますと、そこには、次のようなことが書いてあります。キリストを我が主と告白する信仰を伴って洗礼を受け、キリストの体の中に組み入れられる時、人間は、ユダヤ人とギリシャ人、奴隷と自由人、男と女という、いわば水と油のように互いに敵対し自己主張していた古い人間性を完全に脱ぎ去り、今や皆が衣服のようにキリストという唯一のユニホームを着て、内側から新しい人間性を獲得することが許されます。キリストにあって、古い人は洗礼によって滅び、今まで固くこだわっていた自分の立場や身分や思想は徹底的に相対化されます。そして、自分とは異なる相手と手を結び、罪の赦しによる神の愛の交わりを伴うキリストの体に組み入れられるのです。これが、根っこにある根源的な出来事です。根っこにありますから、最初は人目につきません。しかしやがてそこから、地上に芽を出し、茎/幹と枝と葉が育っていく植物のように成長して、地上の古いあり方をひっくり返す漸進的な変革の力なのです。
 
   根源的な出来事があやふやで左右に揺れ動き、その根っこが蝕まれ腐っていると、その樹木はたちまち枯れてゆきます。ここ1〜2か月の間に、教会の玄関先の脇の花壇に植えられて勢いよく育っていたからし菜の木が根元から上の梢と枝まで枯れてしまっているのを、お気づきの方が多くおられることと思います。その苗を植えてから、6〜7年経ちます。毎週説教壇の脇に生け花を備えてくださるお花屋ララの益子さんにお伺いしましたが、もう寿命なのかもしれませんが、もう一つの原因として、根切虫に根っこが食われてしまったことも考えられるとのことです。もし後者の原因でからし菜が枯れたとしたら、まことに残念なことです。逆に根っこが丈夫でしっかり土壌に根付いて養分を吸い上げているのでしたら、からし菜の木は、まだまだ高くそびえ、枝葉を伸ばすはずであります。いや、今までは実際そうでした。主イエスの辛子種の譬えにありますように、砂粒ほどの種が地に根を張って芽を出し、成長し出しますと、ものすごい勢いでニョキニョキと伸びていきます。残念ながらからし菜は幹の中身が詰まった樹木ではなく、その細い幹の中は空洞になっている茎なものですから、本来ですと教会の屋根のはるか上空まで伸びていたものが、一定の高さまで伸びると強風によって簡単に折れてしまうのです。今まで2度ほど折れました。しかし逆に申しますと、それほどに、根元が丈夫で健康であった証拠なのです。その意味におきまして、信仰共同体である教会の基盤がキリストであり、キリスト告白によって教会が成長することをよく証言してくれた貴重な植物であったと申せましょう。
 
   この譬えからも分かりますように、私たちの社会と世界の営みの根底における人間の常に新しく健全な生き方が保持されるのでしたら、社会も世界も混沌から抜け出して、まったく新たな様相を呈することになるでありましょう。しかし現実はそれとは裏腹に、技術革新を遂げているにも関わらず、混迷を深めています。
 
   しかし神に背を向け、暗闇を増し加える人間の不義と不道徳を突き破って、神が御子イエス・キリストを私たちのために差し出してくださったことにより、古い人を十字架につけて滅ぼし、御子の復活に与らせて新しい人に造り変えてくださいます。具体的には礼拝において、イエスを主と告白して洗礼を受け、その後に主の晩餐、すなわち聖餐式に繰り返し与ることによって、根源的に新しい秩序と共同体(教会)が生まれます。そこでは、人間的な対立の壁が崩れ去ります。
 
   本日聖餐の祝いを共にする前に、一人の若い姉妹が洗礼を受けます。洗礼を目指す教会学校の子供たちもこのことをじっと見守り、学んでいます。私たちもわが身の如くこれを喜び、祝いたいと思います。
 
   今朝は、教会学校の子供と親御さんと教師たちも一緒に礼拝を守っていますので、長いお話ができません。それでも、大人の方々のために、今朝の旧新約聖書の御言葉に少しだけ目を向けてみたいと思います。
 
   ガラテヤ書3章26節は、新共同訳では、新たな段落となっていますが、ギリシャ語原典では前の25節を受けて、理由・原因の接続詞である「なぜならば」で始まる節なのです。26節は原典に基づけば、こう語られています。「なぜなら(というのは)あなた方は皆、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子たちだからです」。
 
   前の25節で、こう述べられていました。「しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません」。つまり、私たちがもはや律法の戒めという監獄に閉じ込められた状態から解かれて、信仰の現れのもとで生きるようになりましたが、その理由・原因は何であるのかという問いを受けて、26節は語り出します。キリスト・イエスにある信仰によって、あなた方は神の子たちであり、29節にありますように、アブラハムの子孫であるとまず述べます。
 
   25節でも26節でも、その前の箇所で何度も用いられる「信仰」を語っています。次の27節は「キリストに向かって洗礼を授けられた」と述べていますが、洗礼には、それに先立つキリストへの信仰告白が伴います。先日あるところで、一信徒がこう言いました。神の一方的な恵みが我々の信仰を引き起こすのであるから、ことさら人間の側の信仰を持ち出すべきではない、そのような信仰は、信仰という名による人間の行為であり、それによる義を獲得になってしまうと言うのです。しかし、これは過ちです。神の先行的な恵みとして、私たちのうちに働いて、主体的・責任的な信仰告白に至らせるのです。
 
   信仰のモデルは、このガラテヤ書の中でしばしば引用される創世記15章6節のアブラハムの信仰の姿です。使徒パウロは、ガラテヤ教会のユダヤ主義的キリスト教徒に対する批判として信仰義認を一貫して主張していますが、その拠り所が創世記15章6節です。5節では、神がアブラムに夜空に輝く無数の星を仰ぎ見させて、高齢のアブラムとサライの間に子孫がその星の数ほどに授かるであろうという神の約束に、彼は全面的に信頼しました。人間に不可能なことでも、神は可能になさることを、アブラムは疑いのぎりぎりのところで信じ切ったのです。これは、不可能の可能性に対する揺るぎない信頼です。この信仰は単なる業績となるような人間のよき業ではありません。
 
   考えてみますと、ガラテヤ教会に見られた律法主義的なキリスト教信仰者のように、中世のローマ・カトリック教会もそれに類似して、「信仰プラス良い行い」を信徒たちに説いていました。それに対して、ルターは1519年の95か条の提題によって<否>を唱えて、信仰義認を打ち出しました。しかしそのことが、ガラテヤ書3章27〜28節が語るキリストにおける一致の体とはならず、むしろ嵐のような試練がドイツとヨーロッパを襲い、ローマ・カトリックとプロテスタントとの分裂が生まれてしまったことは、まことに皮肉なことでした。
 
   いったい聖書の言葉は本当に現実の歴史の中で実現しているのでしょうか。しかし遂に、あれから500年を経た今日、ローマ・カトリック教会とルーテル世界連盟の代表者とが互いに歩み寄って祈り、両者の神学的、教理的な決定的一致を見たのです。これは昨年2016年10月31日スウェーデンのルンドにあるルーテル教会の大聖堂においてでした。そこにおいて、「イエス・キリストにおける神の一方的な恵みに対する人間の信仰的な受領」を確認したのです。これは驚くべき出来事です。過去50年間の議論と話し合いの積み重ねによって、聖書の真理を一緒に確認するに至りました。世界聖餐の主日にこのことも覚えたいと思います。