日本基督教団 千歳船橋教会礼拝説教
2017年9月17日 聖霊降臨節第16主日 長寿加齢感謝式 教会修養会開会礼拝


聖書:創世記1章1-5節、ヨハネ福音書17章1-19節
説教題:「栄光」

須田則子 牧師


  主イエスはわたしたちのために父なる神に祈りをお献げになります。ヨハネ福音書17章は主イエスの大祭司の祈りと呼ばれます。今年の修養会のテーマは、「全信徒祭司の務め」ですので、その大前提となる、主が先ず、わたしたちの祭司となってくださった、そのことを聖書に聞きます。最後の夜、主は弟子たちの足を洗い、決別説教と言われる御言葉をずっと語られ、そして、この祈りを献げられました。弟子たちに聞こえるよう、父なる神に呼びかけました。この後、主は逮捕され、十字架の死へと向かわれます。
 
  そのような時を主は栄光とおっしゃいました。栄光という言葉はどの福音書にも出てきますが、ヨハネが最も多く、それも、この17章に集中的に出てきます。それで説教題ともいたしましたので、イエス様のおっしゃる栄光がどのようなものであるかを改めて理解したいと願います。ヨハネ福音書の特徴の一つは、主イエスの惨めな十字架の時と、華々しい復活の時を分けないところにあると以前お伝えしたことがあります。十字架が既にもう栄光の時です。栄光は、普通は文字通り、栄(さかえ)、光(ひかり)、栄誉、名誉、輝きを表します。キリスト教絵画でも、仏像の後光、後光がさすの後光のように、父なる神様にしろ、イエス様にしろ、聖人達にしろ、頭の後ろに光輪、光の輪を描くことがしばしばです。光輪だけでなく、全身から光が放たれているという作品も少なくありません。確かに山上の変容の場面では、主の顔が太陽のように輝き、服が真っ白に輝いたとありますが、今、向かわれる十字架にそのような光はありません。後で歌う讃美歌には、「輝き輝くみすがた」という歌詞がありますが、肉の目で分かるものではないでしょう。頭には光輪、光の輪ではなく、いばらの冠が載せられます。顔には唾が吐きかけられ、服は真っ白に輝くどころか、取り上げられ、体は殴られ、手と足に釘を打たれ、槍を刺され、血だらけで死んでいかれます。本当に血だらけで死んでいかれたと思います。見るに堪えないお姿だったでしょう。それを主は栄光とおっしゃいます。わたくしどもの先入観、価値判断が正されます。十字架のお姿はあまりに惨め、無力です。けれども、その無力な十字架において、主は最も大事な救いの業を成し遂げてくださっていました。わたくしどもは思うことがあります。イエス様、何にもしてくれない。そうなのでしょうか。これまで、聞かれない祈りについて何度か申し上げてきました。キリスト者として生きていく中で、祈りが聞かれないという事態は起こります。あんなに祈っていたのに、いや祈りが足りなかったのかと自分を責めてみたり、納得したと思ったけれども、やはり納得できなかったり。正直言って、「なぜですか」と神様を責める気持ちも生まれます。深刻な問題です。ですが、今日与えられているイエス様の祈りを聞いてやっと、そういうことだったのかと思わせられます。主イエスの祈りには栄光という言葉が多いと申し上げましたが、永遠の命という言葉もキーワードの一つです。主が祈ってくださったこと、主が願ってくださったこと、それはわたしたちに永遠の命を与えることでした。このことがわたしたちにとって一番重要だとお祈りになりました。永遠の命をわたしたちがいただけるなら、そうか、これまで叶えられなかったと思っていた祈りは全て最後には叶えられるのだと分かります。死の悲しみ、病の苦しみ、別れの辛さ、心の痛み、絶望、それらはすべて永遠の命によっていやされます、救われます。わたしたちの願いはかなえられます。
 
  主イエスは「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」とおっしゃいました。これは少し、不思議なお言葉です。知ることが永遠の命になるとおっしゃいました。何かを知るだけで永遠の命に生きられるなどということがあるでしょうか。ヨハネ福音書において、「知る」というのは、「信じる」こと、神様の霊、聖霊に導かれて理解することです。無力、敗北に見える主の十字架によって、永遠の命が与えられる。創世記3章で、禁じられた木の実を食べ、罪を犯すようになった人間が永遠に生きることのないよう、命の木から遠ざけられたように、わたしたちは永遠に生きられなくなってしまっていた。罪を犯す人間が、そのままの状態で不老不死になったらこの世は地獄です。しかし、主イエスは、わたしたちを永遠に生きてはならない者としている罪を十字架の死で贖ってくださった。このことを神によって知るようにされた者は、もう、この世において、永遠の命を生き始めます。死が終わりではないと知っているから、信じているからです。永遠は、神様、神様の愛にあるものです。永遠なる神様が、終わりなくわたしたちを愛してくださる。だから、わたしたちはその永遠の愛の中で永遠に生かしていただきます。自己理解としては滅びるべき存在だけれども、神様がとこしえの愛の中でわたくしどもを受けとめてくださっています。その神様の永遠の愛が十字架に表れました。永遠の愛は、わたしたちのために無残に死ぬ主イエスのお姿、それが栄光です。神様の栄光は、わたしたちのためにこの世的な栄光を全てお捨てになった主イエスのお姿です。ヨハネ13章の洗足の場面で、主が人々を愛して、この上なく愛し抜かれたの「この上なく」と訳された言葉は、二つの意味を持っていて、質的な意味でも制限、条件、限界がなく、時間的な意味でも期限のない、終わりのない永遠を表していると申し上げました。主イエスは全ての人のために、限界なくご自分のすべて、一切合財を献げて死んでくださいました。人々がご自分に従っている間は、罪を犯さない間はと期限付きではなく、ご自分を見捨てた後も変わらず愛してくださいました。
 
  主イエスは祈り、十字架に向かわれました。祈り、その実現のためになすべきことに向かわれました。もし、主がわたしたちの永遠の命を祈るだけで何もなさらなかったら、十字架におつきにならなかったら、イエス様の祈りは空しいものです。しかし、主は、ご自分で祈ったことの責任を取ります。そのようなイエス様の祈りがかなえられないわけがあるでしょうか。わたしたちは主に祈られています。祈りが叶えられない、聞かれないと思い悩むとき、わたしたちにとって最も重大な願いは、主イエスの祈りによってかなえられていることを忘れてはなりません。わたくしどもの突き詰めた願いは何なのか。自分でも気づいていない、あるいはあきらめている、わたくしどもの根本の、根っこの願いを主は十字架でかなえてくださっています。
 
  大祭司主イエスの祈りと業によって、永遠の命を与えられたわたしたちに祭司の務めが委ねられています。最初にお話ししましたように、今年の修養会のテーマは、「全信徒祭司の務め」です。「万人祭司」と言い換えますと、「信仰義認」、「聖書主義」と並んで、宗教改革の三大原理としてプロテスタント教会は受け継いできました。今年は宗教改革500周年で関連文書がいくつも出版され、修養会の三つのテキストもそうですが、最近では9月11日、マルティン・ルターの『宗教改革三大文書 95か条の提題付』が発行され、文庫本で読めるようになりました。1520年に立て続けに出された『キリスト者の自由』、『教会のバビロン捕囚』、『ドイツ・キリスト者貴族に与える書』が収められています。なぜこの本をご紹介するかと言いますと、ご存知の方も多いかもしれませんが、「万人祭司」については、キリスト教世界の改善について書かれた『ドイツ・キリスト者貴族に与える書』に詳しいからです。ルターは、1517年に『95か条の提題』を掲げた時には、贖宥状について、教皇は取り巻きにだまされている、だから神学議論をして誤りをはっきりさせたいと思っていたとされます。ですが、1520年6月には、教皇から破門威嚇の文書が出され、ルターは、12月にはその破門威嚇の文書を市の中心部で人々の目の前で破棄し、教皇への対決姿勢を鮮明にします。三つの文書は、その年に書かれたもので、『ドイツ・キリスト者貴族に与える書』もローマカトリック教会に対して、かなり過激な文章になっています。ルターは、教皇だけでなく、自分もローマカトリック教会の修道士、司祭でありながら、そのような聖職者と一般の信徒を分ける教会の組織・制度の在り方全般を批判します。主なところをお読みします。
 
  「ローマ主義者たちは、いかなる改革をも防ぐため、自分たちの周りに巧妙な壁を巡らせている。その壁の破壊を試みよう。その壁は、教皇や司教、司祭や修道士は「霊的階級」と呼ばれ、一方で君主や領主、職人や農民は「世俗的階級」と呼ばれた。これは全く違った考え方で、誰もそのような考えを恐れるべきではない。全てのキリスト者はまことに霊的階級に属しており、職務を除いて何ら彼らが言うところの霊的階級と異なるところはない。われわれすべては一つの洗礼、一つの福音、一つの信仰を持っており、皆が同様にキリスト者なのであって、洗礼、福音、そして信仰だけがわれわれを霊的な民、キリストの民とするのである。われわれすべては、「あなたがたは王の系統を引く祭司、聖なる国民です」とペトロの手紙一 2章9節にあるように、洗礼によって聖別された司祭なのである。司教の聖別は、司祭である全会衆が一人を選んで、権限を与えることである。職務として司祭の地位を持っている人は、ただその職位の保持者に過ぎないのであって、それ以上のものではない。彼はその職位を保持している間だけ優位性を持っているのであって、その職務から離れたならば、他の全ての人と同様に、彼は小作農や市民となるのである。一般信徒、司祭、君主、そして司教の間に、また霊的なものと世俗的なものとの間には、彼らの職務と働きを除き、彼らの立場の基礎において基本的に何らまことの意味で異なったものはない。全ての人は霊的な地位にあり、たとえ各々の働きの点では異なっているにしても、全ての人はまことに司祭であり、司教、そして教皇なのである。」
 
  当時にあっては、とても大胆な主張だったでしょう。ルターは、祭司を否定したのではなく、みんな祭司なのだと訴えました。その祭司とは何か。当時の誤った教皇、司教、司祭に見られるようなものでなく、聖書の言う祭司とはどのようなものか。大祭司イエス・キリストによって招かれている祭司の務めとはどのようなものか。ここで、礼拝後の修養会に参加する方は受け取っておられる三つの参考資料の内容を参加しない方とも少し共有したいと思います。江藤直純先生の「賜物と課題としての全信徒祭司性」、倉松功(いさお)先生の『宗教改革と現代の信仰』、中村敏(さとし)先生の『宗教改革の精神と日本のキリスト者』です。倉松先生、ルターの列挙した七つの職務を紹介しています。祭司の務めは、一つ目は教えること、すなわち説教すること、神の言葉を宣べ伝えること、二つ目は洗礼を授けること、三つ目は聖餐式を執行すること、四つ目は、罪に定めたり、罪の赦しを宣言したりすること、五つ目は、他の人のために祈ること、六つ目は献げ物をすること、すなわち、自分自身を献げること、七つ目が、あらゆる教えと霊について判断することです。中村先生は、中世の教会においては、一般の信徒は祭司どころか、礼拝はみなラテン語で行われ、立ち見の観客でいるしかなかったことを指摘し、そうではない宗教改革の万人祭司を実現するためには、教会員全員が学べることが非常に大切だと述べています。江藤先生は、全てのキリスト者が教会内における祭司の務めだけでなく、この世における務め、たとえばボンヘッファーを引用して、教会と家族と労働あるいは文化、政治の領域において、祭司性を発揮することが期待されていると述べています。
 
  このような考え方は今のわたくしどもにとても必要だと思います。キリスト者がどんどん減っている、人口1パーセントよりもっともっと少なくなっていると心配されます。しかし、祭司の務めに関するなら、数が少なくともできることです。キリスト者が人口の3パーセントだったら、祭司として執り成しの祈りができるけれども、1パーセントを切ってしまったら執り成しはできないなどということはありません。たった一人であっても、置かれている場で、その場にいる人のために祭司の役割を担うことが求められています。仕える、おのれを献げる仕方においてです。ルターが主張したのは、ある意味、一般の信徒の地位向上ですが、それは、当時の既得権益を持っている聖職者たちがうらやましい、自分たちもそんな立場にというのでなく、皆がキリストのように低くなることです。例えば、誰かがやらなければならない一番大変なめんどくさい仕事を引き受けるとか、自分がキリストに赦されているから、人を赦す、その人のために祈るとか、悩みを持っている隣人のためにも一所懸命聖書を読むなどです。17章2節に、父なる神が全ての人を支配する権能を主イエスに与えたとありますが、支配するというのは聖書においては、上に立って指図することではありません。その者に仕えること、その者に自身を献げることです。祭司として生きるというのは、周りが自分に何をしてくれるかではなく、主イエスのように、わたしが周りの人に何ができるかを思い生きることです。キリスト者の親御さんを持った人から聞くことがあるのですが、親が祈っている姿、背中というのは子供に印象を与えるようです。ある人は、お母様が小学校の先生をしていて、クラスでいじめが起こっているのを聞いて、母の祈る背中に、そのことでも祈っているんだろうなあと思います。自分の喜びの日に、親が祈ってくれていたからだと思う人もいます。そのような姿はこれ見よがしだと逆効果だと思いますが、支えになります。わたしも短大がキリスト教の学校で卒業して社会人になった後、ああ、あの時はきっと祈られていたんだと思うことがありました。自由にのびのび、少しはまともでいられたのは祈られて守られていたからなのだと思いました。そのような感覚的な思いを持っていたのですが、そのような感覚だけでは不十分な結論であったと思います。なぜなら、わたしたちはいつもどこにあっても主に祈られているからです、守られているかです。そのことに思いが及んでいなかったと思わせられました。
 
  主に倣い、見えるところ、見えないところで祈りの務め、祭司の務めにあたらせていただきたいと願います。自分が祭司なんてと思われるかもしれません。ルターも、後に全信徒祭司性、万人祭司を言いましたが、司祭に任じられ、最初にミサを執行した時、恐怖に捉えられ、祭壇から逃げ出したい思いを必死にこらえねばなりませんでした。自分のような罪人が神と人間を仲立ちするような務めには耐えられない。何という大それた恐ろしいことをしようとしているのかと思ったのです。しかし、聖書によってまことの神を知った時、罪人のために十字架で死んでくださる主、大祭司キリストを知った時、ルターは目の前で天国の扉が開くような思いがしました。ルターはこのような恵みを知ることは、当時のいわゆる聖職者だけの特権と思いませんでした。全ての人が聖書によって知ることのできるものと考えました。そして、その恵みによって全ての人が万人祭司としての務めに召されているという教えに導かれました。お祈りします。