日本基督教団 千歳船橋教会礼拝説教
2017年9月10日 (聖霊降臨節第15主日)


聖書:創世記16:7〜8、ガラテヤ書3:15〜20
説教題:「律法と約束」

朴 憲郁(パク ホンウク) 牧師


   ガラテヤ書3章6節で、創世記15章6節の「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」という言葉が引用されていました。そして、律法の行いによっては達し得ない神の義は、ただ十字架上で身代わりに呪われた御子イエス・キリストへの信仰によって得られることの意味につきまして、私たちはすでにご一緒に考えました。福音内容の核心に触れるこの教えを、使徒パウロは3章1節で「ああ、物わかりの悪いガラテヤの人たちよ」と言って嘆きながら、律法主義的に信仰の在り方を求めるガラテヤの信徒たちに説きました。 それは第二コリント書の論敵への激しい非難とは異なって、牧会的配慮をもって説く姿勢に貫かれていたことも、前回合わせてお話ししました。
 
   彼のこの姿勢は今朝の15節冒頭にも表れています。新共同訳では「兄弟たち、分かりやすく説明しましょう」と書かれていますが、直訳しますと「兄弟たち、人間的な仕方で話します」となります。つまり、「人間の習わしを例にとってお話します」となります。そこで、人間の習わしの一つとして、この世で法律的に取り交わされる遺言または契約を取り上げて、分かりやすく説明してまいります。
 
  使徒は15節で遺言と言い、17節で契約と言っていますが、これら両語とも同じギリシャ語のディアセーケーの訳語です。英語ではTestamentです。英語で旧約聖書をThe Old Testamentと言い、新約聖書をThe New Testamentと言います。
 
  初めて聞く人にとっては、旧約とか新約という場合の<約>がどういう意味なのか皆目見当がつかないか、耳で聞くだけですと、古い訳の聖書が旧約で、新しい訳の聖書が新約だと勘違いしてしまいます。しかし、これは契約の約です。そこで日本基督教会の永井直治(ながいなおじ)という牧師(日本基督下谷教会。現在の日本基督教団豊島岡教会)は、長年の新約聖書の翻訳の努力の末、1928年(昭和3年)に『新契約聖書』と名付けて自費出版したことがあります。銀座の日本聖書協会の図書室に行きますと、その現物が見られます。
 
  さて、今まで律法の行いによっては神の前で義とされないと一貫して主張されてきましたので、それではなぜ神がイスラエルの民に律法をお与えになったのか、神の救いの歴史にとって律法の役割と位置は何であるのかと、ガラテヤの人々は改めていぶかしげに問いを立てます。そして、やはり割礼を含む律法の遵守によって、アブラハムに約束された神の祝福を得ることができるに違いないのだと、ガラテヤのある人たちはなおも言い張るのです。そこで、使徒はこの15節以下の段落で語り出します。信仰をもって神の前に立ったアブラハムと結んだ最初の祝福の約束は、430年後にできた律法に先立って優位し、かつ有効なものです。つまり、後の時代に、指導者モーセを立ててエジプトの奴隷状態から解放されたアブラハムの子孫であるイスラエルの民が荒れ野を430年さまよいましたが(出エジプト12:40)、その期間に民がシナイ山で、天使たちの手によってモーセを通して彼らに啓示された十戒と律法、そしてそれによって民が神と結んだ契約よりもはるかに優位を占め、不動の価値と効力を保っているということです。シナイ山で民がヤハウェの神に誓って結んだ契約は大切ですが、それよりはるかに先立つアブラハムとの契約は、取り消されない遺言のように効力を発揮し、優位に立つのだと言います。法律的に一度効力を発揮した遺言は無効にされたり、それに別のものを付け加えたりすることはできません。
 
  この「付け加える」はギリシャ語でエピディアタッソマイと言う動詞で、当時のヘレニズムの法律用語です。当時のヘレニズム法では、遺言は遺言者の死後に検認を受けて有効となり、それによって初めて変更も撤回も不可能な確定的な遺言となりました。しかし、遺言は遺言者が生きている間は、いつでも変更可能でありました。当時のローマ法においても事情は同じでした。
 
  今の日本の民法における相続法でも同様でありまして、近年は ‎公正証書遺言書を作成する人が増えているようです。本人が生きている場合、特に自筆証書遺言における一部変更は容易です(民法968条2項)。しかし本人の死後は、遺言書は効力を発行して、変更できません。私たちの教会でご高齢のある信徒は、今のうちに地上での財産整理をする決心をなさり、御親族の関係者にすべてを相続する遺言書作成を司法書士のもとで済ませたと、私におっしゃいました。またある教会の信徒は、神様の御用のためにお使いくださいと言って、地上で働いて貯めてきた多額の預金や不動産を教会のため、神学校のために献金する遺言書を事前に作成しておいて、天に召されました。こういう仕方で遺産を神様にお捧げする方は一人、二人ではなく、後を絶ちません。まことに麗しいことです。
 
  15節に戻りますが、遺言書は本人の死後に法的効力が発生して、訂正は不可能となります。使徒パウロは、有効となった遺言に追加することはできないと言っていますが、これについてシュラッターという注解者が興味深い注解をしています。ガラテヤ教会で問題となっているユダヤ主義的な信徒たちは、尊敬する始祖のアブラハムに土地取得と子孫繁栄という神による相続の祝福の約束が与えられたことの優位性と有効性を否定なんかしていない。むしろその祝福をいただくために、律法のあれこれを条件として持ち出して付け加えている(エピディアタッソマイ)。ガラテヤ人たちはこう付け加えて、神の約束に揺さぶりをかけている。彼らは律法を約束と混同し、律法を約束の条件として、約束に付け加えます(律法は別の目的のため後で付け加えられたと19節では語ります)。「私が割礼を受けさえすれば、私が安息日を守りさえすれば、その時、私にとって約束は確実である」と。「・・・しさえすれば! 私がこれこれを行ってさえいれば!」。こうして、いつの間にか法律の行いに優位を与えて、信仰によって神の前に立ったアブラハムに対する神の無条件の祝福を色あせたものにしてしまい、後退させてしまっているのです。
 
  これが彼らの条件付け足し(エピディアタッソマイ)の行為の根本問題なのです。果たして、古いアブラハム時代の契約と祝福は、430年後のモーセ時代のシナイ契約と律法とによって上塗りされて消え失せていくのでしょうか。いや、決してそうではないとパウロは語ります。
 
  信じて義とされた(創世記15:6)アブラハムへの祝福の一場面が創世記16章7〜8節に描かれています。この章の1節には、アブラハムが妻サラとの間に子が生まれないまま99歳という年齢になったことが書かれています。子孫の祝福などは望めないゆえに、妻と共にしばしば不信仰に襲われて「笑った」ということがこの後の記事に出てまいります。アブラハムも人間ですから、疑いと緊張の感情が交錯していました。彼は本妻によって子をもつ望みを諦めていたに違いありません。自分たちには子が授けられないと諦めていた頃、アブラハムは当時の掟に従って、子孫繁栄のために女奴隷のハガルとの間に子イシュマエルを生ませていました。そして、イシュマエルの誕生以来、長い時が経過していました。
 
  しかし、神はもう一度アブラハムに現れて、彼が多くの国民の父となることを約束なさり、15章と同じく、神はアブラハムとの契約についてお語るになります。神はサラがまもなく男の子を産み、イシュマエルも祝福するが、神の契約はサラの子イサクと結ばれるのだと、アブラハムにおっしゃいます。アブラハムは葛藤の末に、土地取得と子孫繁栄の祝福を伴う神との永遠の契約を結びます。その徴が17章後半に記された男子の割礼でした。割礼は神との契約に入る徴であり象徴でしたから、この儀式そのものが神との契約と祝福の約束を自動的に保証するものではないことは、すでに以前お話ししました。アブラハムは自分の後に続くイスラエル共同体を代表して、希望を与える神の約束を信じ、家族と僕たちと一緒に契約に忠実であろうとします。その場合、不信仰を乗り越える彼の信仰が、神との契約に対する彼の忠実な態度を支えています。
 
  ガラテヤ書の御言葉に戻りますが、遺言として効力を発揮した神とアブラハムとの契約は、はるか後の時代に制定された律法に先立つのだとパウロは論じています。しかしこの時間的・年代的な優位性と合わせて、パウロはガラテヤの律法主義的キリスト教信徒たちに対して、もう一つの旧約聖書の解釈によって反論するのです。それは、契約によって神の祝福が約束される「アブラハムその子孫(スペルマ)」と言われた時、その子孫とは複数形の「子孫たち」ではなく、単数形の「子孫」を指すので、それはアブラハムの血統・血肉の子孫、すなわち多くのイスラエル人/ユダヤ人のことではない。この単数形の「子孫」とは将来生まれ出る子孫、すなわちメシア(キリスト)お一人のことを指すのだと、驚くべき解釈を示します。一般に旧約の解釈伝統の中では、普通単数形で言われても、それは集合名詞の意味に受けとめますので、アブラハムの子孫とは一人でなく、イスラエルの民族全体を指すと受け止めています。
 
  こうしてパウロは第一に、約束が律法に対して優位を占めることを時間的・年代的に明らかにしつつ、第二に、その約束を実現するキリストご自身も律法以前に位置づけ、あらかじめ預言されていたことを論証する必要があるのです。
 
  パウロ自身もしばしば単数のスペルマを集合的に、つまり複数と理解する場合がありますので(ローマ4:13、16、9:7以下。2コリ11:22など)、この箇所のように文法通り単数の意味に解することは、伝統的ではありません。しかし伝統的な解釈ではないといっても、文法的には単数形の「子孫」ですから、文字通りに受け取ったからといって間違ではなく、捻じ曲げた解釈とは言えません。そういうことで言えば、このようなキリスト中心の旧約解釈は先の6節で、創世記15章6節の言葉から「信仰義認」の原理を引き出すことに見られるわけでありまして、それ自体ユダヤ教徒にとってはまったく予想外の解釈であったに違いありません。
 
  しかし、これは不当な解釈ではありません。
 
  このように押しなべて、イエス・キリストによる神の救いの出来事の光に照らして、旧約聖書の当該箇所を解釈し直し、それによって、神がアブラハムとその肉の子孫らに約束なさった祝福の約束が、信仰による新しいイスラエルの民にも及ぶのだという一貫した神の救いのご計画を、使徒パウロは明らかにしているのです。彼だけではありません。他の使徒たち、それに新約聖書の他の手紙や福音書や使徒言行録の著者は皆、そのような視点から旧約聖書を読み解くのです。
 
  将来の子孫とはキリストを指すと言うことによって、血統によるイスラエルを乗り越え、民族宗教の枠を乗り越えて、信仰によって異邦人にも約束の祝福が与えられるというメッセージに結びつけるのです。創世記22章で、愛する子イサクを神に捧げるようにという不可解な神の命令に従った父アブラハムの信仰が本物であることが確定した後に、御使いが彼に約束した次の祝福の言葉の通りです。「地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである」(創世記22:18)。
 
  将来の子孫とは単数のキリストを指し、それによってユダヤ人だけでなく異邦人にも約束の祝福が及ぶということをここで確認しますが、それによってすでに語られた13〜14節の言葉を別の視点から裏打ちすることになります。その箇所で語られたことは、次の通りです。すなわち、御子キリストが私たちを律法の呪いから贖い出すために木にかかって神に呪われたことによって、14節ですでにこう語っていました。「それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした」と。
 
  さて、論争するガラテヤの信徒たちから出される根本的な問い、すなわち「では律法が定められたのは何のためですか」という問いに、使徒パウロは真剣に向き合って答えます。答えは22節にまでに及びますが、今朝与えられた20節までの言葉で申しますと、19節で言われますように、律法は約束の子孫であるキリストが出現するまでの期間、神に対する人間の「違反の(明らかにされる)ため」です。直訳しますと「違反のため」(トーン・パラバッセオース・カリン)に付け加えられた、と書かれています。「違反のために」加えられたと言いますが、「違反のため」の「ため」とは「違反を確認するため」「違反を防ぐため」とう理由の意味にとることもできますが、「違反を生じさせるため」「違反を生むため」という目的の意味にも関することができます。普通は違反を防ぐために律法、法律、戒めは存在します。律法は当時のギリシャ・ローマ社会では、人間に対する神の賜物であり、また犯罪的行為を防ぐために不可欠なものと考えられていました。パレスチナのユダヤ教においても、律法は罪を防ぐ盾としてイスラエルに与えられたと理解されました。ですから当時ヘレニズム社会でもユダヤ教社会でも、「違反のために」とは「違反がなされるのを防ぐため」という理由を示す意味をもちます。
 
  ところがこの19節の前後の文脈において、律法はアブラハムに与えられた約束に比べてはるかに劣るものとみなされ、このあとの21節で律法が命を与えないことが述べられています。ですから、この19節でも律法が否定的な役割しか果たさないと考えられています。そうしますと、「違反のために」とは違反を生じさせ、引き起こさせるためという目的の意味に解することができます。ローマ書4章15節はそれに符合して、「実に、律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違犯もありません」と述べています。
 
  神がその民に与えた律法自体は確かに聖なるものであり、それを守り実行することが神の前に義とされる道であるはずです。以前の若い時のパウロもそれを信じて律法に命をかけ、遵守しようと努力しました。しかし、モーセ律法に先立つ最初の戒め、すなわち楽園における神の唯一の戒め(中央の木のみを食べるな!)がアダム(アダム)にむさぼりの欲望を誘発して、戒めを破って罪を現実のものにしてしまったのだと、ローマ書7章7節以下は説いています。この背景に、あの創世記2章と3章のアダム物語があることは確かです。神のかたちに似せて尊く造られた人間の「自由」の中に潜む罪の可能性が、最初の戒めによって目覚め誘発されて、どん欲に中央の木のみを食べて、神のようになろうとしたのです。使徒パウロはこのことを鋭くローマ書7章で描いています。
 
  楽園における最初の戒めのみならず、後の時代にモーセを通して授けられた十戒と数々の律法も同じような役割を果したことは言うまでもありません。
 
  ユダヤ教徒および律法主義的なキリスト教徒たちは、このようなパウロによる律法の深い読み、つまり律法のもたらす逆転的な効果、皮肉な役割を知って驚いたに違いありません。
 
  先月の第三主日礼拝後にもたれました青年会の例会に、私も参加しました。今年は十戒を扱っているとのことで、それについて話し合いました。使徒信条、主の祈りに次いで、十戒を三要文の一つとして、宗教改革者のルターもカルヴァンも取り上げました。それから5百年目を迎える今年、その一つである十戒を喜ばし福音との関係で取り上げる意味は何か、また、今日の若者の生き方にどう結びつき、意味をもつのかが話し合われました。律法のもつ否定的な意味と役割と、その反対に、律法のもつ積極的な意味と役割について、考える機会となりました。
 
  律法は「天使たちを通し、仲介者の手によって制定された」ので、神お一人の意志でアブラハムに直接現れて契約を結び、約束なさった祝福に比べますと、価値が劣っていることを示します。律法授与に関しては、神が直接ではなく、遠くに離れて律法授与に係ったに過ぎないと、パウロは受け止めているようです。
 
  イエス・キリストに対する信仰によって律法の縄目から解き放たれた私たちは、新しいイスラエルに連なる者として、かつてのアブラハムのように、そしてダマスコで召し出されたパウロのように、今ここで神に召し出されています。神の約束の子らとして生かされていることを感謝して歩んでまいりたいと思います。