日本基督教団 千歳船橋教会礼拝説教
2017年8月13日 (聖霊降臨節第11主日)


聖書:創世記15:1〜6、ガラテヤ書3:1〜6
説教題:「十字架の福音を聞き、信じ、義とされる」

朴 憲郁(パク ホンウク) 牧師


   今朝の説教題は、ガラテヤ書3章1〜6節の中で大切な三つの言葉からなっています。この箇所で使徒パウロは、福音によって生きる信仰者の在り方から離れていくガラテヤ人たちに厳しく問いかけながら、この三つの言葉を中心に説き勧めています。「十字架の福音を聞き、信じ、義とされる」。この三つは、分かちがたく結び合っています。耳を傾けてイエス・キリストの福音を聞き従うことによって、信仰が心に芽生えて主を崇めることについては、パウロがローマ書10章14節以下においてイザヤ書52章7節以下の御言葉を引用して語っています。その17節でこう述べている通りです。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」と。そして、そう述べる数節前で語っていますように、聞くためには語り告げる人がいなくてはなりません。神に遣わされて、キリストの言葉を告げ知らせる伝令者(伝道者)が先にいます。その伝令者によって、人は異教の神々に取り囲まれた価値観と風習のただ中で、その喜ばしい救いの知らせを聞き分けて受け入れ、キリストの十字架の死による贖いによって、不義から義へと移されます。それによって、古い価値観と風習から決別して、新しい信仰者の生が始まるのです。
 
   これと同じ福音伝道の連鎖反応が、ガラテヤ地方の人々への開拓伝道においても起こっていました。使徒は彼らにそれを思い起こさせて、福音を受け入れた初心に立ち返るよう強く促します。それが3章1節以下の言葉です。その中で、「信仰は聞くことによる」という言葉が二度も出てきます。それは2節の終わりと5節の終わりで、ギリシャ語を直訳すると「信仰の聴聞」という言葉です。「信仰をもたらす聴聞」という意味です。新共同訳聖書はその意味を解きほぐして「福音を聞いて信じた」と敷衍して訳しています。
 
   今日、相手の話しを聞くことの大切さを感じさせられます。情報化の時代に、消化できないほど膨大なインフォメーションが私たちの耳に入り込んでくるからです。また双方が対話的に話すのでなく、一方的に話しまくる人が少なくありません。そんな時、私たちは耳を塞ぎたくなります。心は頑なになってしまいます。しかし秋になり、そっと耳を澄ますと、鈴虫の音が聞こえてきて、秋の気配を感じ取り、癒す力をもつ自然を心の中に取り込むことができます。また、耳を傾けることで相手の心と考えをしっかり受けとめることができ、共感し、心が動かされるのです。御子イエス・キリストによる神の語りかけに対しても、私たちは心と耳を開いて聞き、じっと待ちます。そこで不思議と、神への信仰が芽生えてきます。
 
  数年前天に召された故熊谷剛(たけし)さんが描いた「サムエルの祈り」の墨絵がCSホールにかかっています。あの絵を見て私たちは、サムエル記上3章の記事を思い起こすに違いありません。シロの神殿で仕えていた祭司エリのもとで修業していた少年サムエルにある夜寝ていた時、主なる神は、「サムエルよ」と呼ばれます。三度呼ばれた時、サムエルは起き上がって、エリの指示に従ってこう答えます。「主よ、お話しください。僕は聞いております」と。そこで主はこれからイスラエルに行うであろうことを預言として彼に告げ知らせます。
 
  このサムエルのように、私たちもまた聖書や説教やある信仰者の証を聞く時に、そこから主の語りかける言葉を聞きます。涙で顔をぬらす時にも、福音の言葉に耳を傾けて、「主よ、お話しください。僕は聞いております」と申します。信仰はそこから芽生え、また新たに養われます。
 
   ガラテヤ書3章で説かれるこの「聞き、信じる」ということを、今朝の説教題の後半の言葉と繋げて申しますと、「福音を聞いて信じ、それによって義とされた」と言うことになります。これが、この聖書箇所の中心的な教えです。
 
  しかし、これをおさらいするかのように、ガラテヤ人たちにもう一度丁寧に教えたというのではありません。むしろ、この教えから大幅に逸脱して、再び律法の行いを重んじる方向に突き進んでいく危機に直面して、使徒は信徒たちを目覚めさせ、その逸脱に気づかせる緊迫した文脈の中で語られたのが、この大切な教えなのです。
 
  福音による信仰的な生き方から逸れていく彼らの有り様を嘆いて、パウロは1節の冒頭で「ああ、物分かりの悪い(=無理解な、愚かな)ガラテヤの人たちよ!」と語り出します。これは、3節の冒頭でも同じように繰り返されます。「このようにあなた方は、物分かりの悪い(=無理解な)人たちです」と。「物分かりの悪い」と訳された原典のアノエートイと言う言葉はストレートに「愚かな(無理解な)」という意味です。これはもともと、理解力のなさを指す言葉ですが、ここで単にそのような意味ではなく、パウロの福音伝道を巡る信仰的な理解の乏しさに対する驚きと批判なのです。
 
   しかし、そのように批判していましても、第二コリント書で外部からコリント教会に侵入して信徒を扇動した敵対者たちとそれに同調する信徒たちに対する激しい非難とは異なりまして、パウロはガラテヤ書においては信徒を教え諭し、戒めて正しく導く牧会的な姿勢を貫いています。
 
   その上で、手を緩めることなく厳しく戒めます。主にある兄弟姉妹を愛するが故です。嘆きながらこう語り出します。「ああ、愚かなガラテヤの人たちよ!」。それに続いてこう語ります。「だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」と。これは、単にあのグロテスクで無残な十字架刑の姿を思い起こしなさい、という意味ではないでありましょう。むしろ前回学びました2章19節の「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています」という言葉と結びつけて受け取る必要があります。すなわち、じっと眺めているのでなく、私たちがキリストの十字架に共にかけられることにより、律法の支配から解放され、それによって律法遵守による義認の道が閉ざされ、信仰により義認の道がわたしたちに開かれたという意味をもっているのです。
 
  考えてみますと、イエスの無残な十字架刑による死が喜ばしい福音の知らせだというのは、誠に不思議なことです。いや、常識ではその様なことは考えられません。しかし、信仰の目をもって見つめる人にとっては、それが隠された神の知恵と愛であり、死を乗り越える永遠の命と救いへの道であります。「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」との問いかけは、ガラテヤの人々に信仰の目が捉えるこの救いの現実を思い起こさせているのです。律法の行いを基準にしようとする律法主義的な信徒たちは、そのことがまったく見えないからです。
 
  「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」との問いかけがもつもう一つの意味は、御子キリストを十字架の死に差し出し、それによって私たちを律法の呪いから解き放つために、キリストの霊をお与えになる神の「惜しみなき愛」の強調です。それが5節始めのエピコレーギオーという動詞(分詞形)です。その語源となる名詞はコレーギアです。新共同訳では5節冒頭を「あなたがたに霊を<授け>・・・」とだけ訳しています。コレーギアという語で当時表現されたものは次のようなことです。昔、ギリシャでは大切なお祭りをする時に、エウリピデスやソフォクレスなどの有名な戯曲家たちが劇を演じました。演劇はすべて合唱団をかかえていました。でもこの合唱団を準備ぢ、訓練するのはずいぶん経費がかかることでしたので、公共精神に富むギリシャ人たちは、自らこの合唱団の全費用を気前よく支払いたいと申し出ました。後の時代には、戦時になって国粋派の市民は国家に自発的な寄付をしましたし、結婚契約の際には夫が愛をもって妻を扶養する責任を負いました。このように、市民愛や国家愛や妻に対する夫の愛がコレーギアという語で表現されました。
 
  使徒パウロはこの言葉を、神が御子キリストの十字架によって私たち人間に対して惜しみない愛を示すものとして用いました。名詞コレーギアの動詞であるコレーギオーを用いて5節で、神は御子によって「あなたがたに惜しみなく霊をお与えになった」と語るのです。この言葉には、私たちのために、御子キリストを十字架上に犠牲として差し出すほどに惜しみない神の愛、寛大な愛がにじみ出ています。
 
  それにもかかわらず、眼前に描き出されたキリストの十字架の愛から離れる人々がガラテヤ教会員の中にいることは、使徒にとって理解しがたいことであります。神の愛の証拠であるキリストの十字架は、私たちを悪しき世と呪いから解放する力です。そのことはすでに1章4節でこう説かれていました。「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです」。さらに、3章13節前半でこう語られます。「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました」。
 
  ですから、キリストの十字架の愛から離れてわきまえない者は、哀れにも再び悪しき世と呪いのとりこにされたままとなります。この人々はなぜそれをわきまず、十字架の下に留まらないのでしょうか。逆に申して、なぜ彼らは十字架をわきまえてその下に留まらないのでしょうか。それは不信仰のゆえです。信仰に留まり続けること、すなわち、十字架に隠された神の救いの御業を信頼し続けることがないからです。彼らは異教徒ではありません。異教徒からキリスト教徒に改宗した人々です。この人たちは、宣べ伝えられた福音を受け入れてキリスト教徒になった人々です。彼らはキリスト信仰によって人生の立て直しを計った人々です。それにもかかわらず、いつの間にか肉による人間的な能力によって救いを仕上げるのです。3節でこう問うて、決断を迫っている通りです。「あなたがたは、それほど物分かりが悪く、“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか」。
 
  ここで言う「肉」とは「人間的な能力」だと私は今申しましたが、2節と照らし合わせて正確に申しますと、それは律法の行い(肉の割礼も含む)のことであり、律法の支配する勢力です。律法が支は配する勢力圏いおいて、人は常に功績/業績に追い立てられ、結果主義によって他を評価し、自分の達成感を追い求めるのです。その意味で、律法の支配する勢力とは、古めかしい旧約聖書の律法の戒律のことに限らず、律法主義の本質は、現代社会をも貫いているのではないでしょうか。利潤を追求して機能的に動く社会の将来は、人間の能力よりも賢く効率的に働くロボットが主役になっていくでありましょう。人間はそこで置いてきぼりにされるか、定年退職後にもっぱら家の中にいる夫がよく揶揄されますように、粗大ごみとなるかもしれません。いや、将来の高度のテクノロジー社会において、生き残りをかけて自分なりの力量を発揮して働く人間であり続けたとしても、人間らしさ、自分らしさを取り戻すことはむずかしいでありましょう。そこには、自分と他者を見つめ、憩うような安息と救いがありません。律法の支配の虜になったままだからです。
 
  もう一度聖書のみ言葉に注目し、信仰の事柄に引き戻します。「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前にイエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」と嘆いて使徒が批判するガラテヤ人は、十字架を信じ仰ぐ生き方から逸脱していく「不信仰」な人々であると、先ほど申しあげました。しかし、彼ら自身は不信仰だと思っていないのではないでしょうか。信仰を放棄したのではなく、信仰の道を歩みつつ、旧約時代に神が与えた律法の戒めを守って仕上げる、つまり救いの完成を目論むのです。しかしパウロにとって、この自力救済の仕上げこそは、4節で述べられていますように、十字架の贖いによる主の恵みをすべて台無しにしてしまう振る舞いですから、何としてもそれに気づかせる必要があるのです。
 
  ガラテヤ人が最初に福音を聞き入れた時のもう一つの経験があります。それは、信仰と聖霊の受領とが一つとなって繋がる経験です。これは、イエスを我が主、万物の主であるとの信仰告白をもって洗礼を受け、聖霊のお働きを受け取った
 
  瞬間から始まる信仰体験を指します。受洗以来、聖霊は信仰者の新たな生活に伴い、日々新たに導きます。5節の原意である「力あるわざ」(デュナメイス)(新共同訳に従って「奇跡的な力の働き」とも解せる)を引き起こします。それは、私たちの内面と周囲を変革していく力です。
 
  あのペンテコステの聖霊降臨によって力強く押し出された初代エルサレム教会の使徒や信徒たちが経験したことは、その後、異邦人教会のテサロニケとコリントでも起こっていました。聖霊の賜物(カリスマタ)がいかに多様な仕方で、体なる教会に連なる肢肢に与えられ、働いていたかを、私たちは第一コリント書12章から14章までの箇所を読みますと確認できます。その様子が生き生きと眼に浮かび上がってくるほどです。第一テサロニケ書の講解説教の時に学びましたが、1章5節で聖霊による開拓伝道を振り返ってこう語っています。「わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。わたしたちがあなたがたのところで、どのようにあなたがたのために働いたかは、御承知のとおりです。」
 
   紀元一世紀後半から始まって古代キリスト時代まで力強く教会に働いた聖霊による世界伝道への情熱と使命、そしてカリスマ的な指導力は、その後の教会の歴史の中で、主イエスの再臨の遅延意識と教会の制度化や信条・教理の形成によって、次第に固定化し、弱まっていきました。二千年の教会史の中でしばしば終末運動や聖霊運動が起こって、初代教会のような力強い姿を回復することもありました。例えば、2世紀後半から小アジア西部のフリュギアでモンタヌス主義という刷新的な聖霊運動が起こりました。しかし、今日この運動は極端に禁欲的で厳格な道徳主義的であったために、古代の諸教会はこれを異端視しました。
 
   18世紀以降のキリスト教ヨーロッパ諸国で理性による啓蒙主義的なキリスト教が全面に現れ、他方、それに対抗する敬虔主義や信仰覚醒の運動が起こりましたが、今日、父なる神と子なる神イエス・キリストへの信仰と教理は堅持していても、聖霊なる神への信仰は希薄になっていると言われます。その隙を突くように、ペンテコステ派の教会は聖霊信仰を強調し、初代コリント教会のように聖霊による異言や癒しを強調することが起こっています。アジアのキリスト教の中にもそのような流れの諸教派が見られます。
 
   しかし、聖霊信仰の強調は、ペンテコステ派系のカリスマ的教会の専売特許ではありません。聖書に基づく健全な聖霊信仰もしくは聖霊と信仰との結びつきが、私たちに真剣に求められるのではないでしょうか。ガラテヤ書3章の律法主義的・ユダヤ主義的な信徒への批判の部分だけに注目して、「そうだ、そうだ」と言って同調するだけでは、主の霊によって生きることの大切さが欠落するのです。
 
  確かに、聖霊は人間の意思にも働きますので、神の御心にふさわしく愛の実を結ばせようとの良き行いを引き起こします。しかしこれは、5章22節以下に書かれていますように、すべて聖霊の導きとご支配によることですから、律法の行いによって完成を目指す生き方とは表面的には似ていても、根っこはまったく異なります。異教の神々の霊力から救い出されたガラテヤの人々は、その信仰生活の出発点から信仰と聖霊の注ぎを力強く経験しました。今ここにいる私たちも同じように経験しています。肉の欲望との闘いを伴いつつ、主を仰ぎ聖霊の力強い導きに信頼して生涯を全うします。若い時期も年老いた時期も、このような生き方を喜びとする者でありたいと心から願います。