日本基督教団 千歳船橋教会礼拝説教
2017年7月30日 (聖霊降臨節第9主日)


聖書:箴言3:1〜12、ルカ福音書9:46〜56
説教題:「ソフト・パワーの世界」

東方 敬信牧師


  先日、私は新宿で、慶応大学で政治思想史を教えているクリスチャンの教授とお会いして親しく食事を共にしました。すでに21世紀に入って17年を経ましたが、人類はまだまだ国際紛争や貧困や経済格差などの課題で苦しんでいます。その意味で私たちは、思いを同じくして大学教育について語り合いました。従って、その大学の副学長でもあられる方は、政治思想史が専門でしたが、キリスト者であることを明らかにしておられるので、学生や教員の相談にもあずかっておられました。だからと言うわけではありませんが、今朝は先ず、政治思想でパワーつまり力のあり方の分類からお話ししたいと思います。武力や経済力は上から脅しと恐怖心で押し付け、あるいは損得勘定で縛るのが「ハード・パワー」です。そうではなくて、素晴らしい価値観や、魅力で惹きつけるのが「ソフト・パワー」です。「武力や経済力」は上から強制的に押し付けます。しかしハーバード大学の政治学者ジョセフ・ナイ教授が名づけたのですが、上から押し付ける武力と経済力に比較して「惹きつける力」を「ソフト・パワー」と言います。価値観や文化の力あるいは人格の力はソフト・パワーで惹きつけると言います。さらに説明を加えるなら「世界の良心」だともいいました。たとえば刑務所での人権を考える「アムネスティーインターナショナル」をあげます。また途上国を支援する『海外青年協力隊』も挙げられるでしょう。私は、ピカソやルオーなどの魂を振るわす「宗教絵画」も人間を動かすソフト・パワーだと思います。最近テレビで放映されたピカソの大きな壁画「ゲルニカ」も被爆の被害の有様を描いて反戦を訴えるソフト・パワーを示しました。そして、あえて聖書のソフト・パワーは何かと言いますと、「質的に新しい世界を齎す」ことです。コリントの信徒への第二の手紙の有名な5章17節には「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」とあります。最近の権威ある英語の聖書The New English Bibleでは、There is a New World. と宣言します。私たちの救い主・神の御子イエス・キリストが十字架の痛みの中で「父よ、彼らを赦したまえ」と祈られ、人々に神との和解をもたらされ、また蘇られたことによって、私たちの世界は、闘争の場ではなく、神との和解に照らされた新世界にされました。あのエデンの園で神を裏切り「神のかたち」としての生き方を失った私たちが、イエス・キリストの贖いの愛によって相互信頼の心を取り戻して新しい生き方を実践する者とされたのです。コリントの信徒への第二の手紙5章18節から20節までには、和解という言葉が五回も出てきます。このように立て続けに出てくるのは聖書でも珍しいことですが、和解とは、ギリシャ語では「カタラッソー」です、そのカタラッソーは「敵意を取り換える」とか「新しく交流する」ことです。さらに新しい英語訳の聖書Today’s English Versionでは、大変分かりやすく、神が私たち全てを「敵から友」enemies to friendsへと造り替えてくださったと訳しています。たとえ現実で様々な葛藤があったとしても、それはもう神の和らぎに照らされ和解となったと聖書は希望の光を投げかけるのです。
 
  世間で和解というと、裁判で両者の主張がぶつかりあい、どうにも決着がつかないとき、間を取って両者が痛み分けするところで、手を打つことでしょう。しかし、聖書でいう和解は、そんな中途半端なことではありません。聖書でいう和解とは、敵意の逆の関係であります。いや積極的に言えば「新しい友として」親しく生きることです。神は、主イエスの十字架の痛みの中で「父よ。彼らを赦したまえ」と祈られたので和らぎの心になり、もう世界と私たちとは赦しの愛によって交流されているのです。あえていえば、「和解の絆」の中に入れてくださったのです。今は東京オリンピックを待ち望む時期ですが、それどころではなく。パウロの言葉で、「神は、わたしたちの罪のために、罪を知らない方を罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためである」(21節)と記しています。まさに私たちと神が和解した。もう義とされ親しくされた、というのです。それは、内々の仲間だけの絆ではありません。私の大学時代のゼミにはバングラディッシュからの難民の女性がいました。今年の一月に朴先生と同じ勉強会で発題をしてもらいました。つまり海外からの他民族の方々も配慮できる新しい絆が和解なのです。またパラリンピックでも障碍者と健常者が共に親しく交わるのです。
 
   ところで、ルカによる福音書9章51節から学ぶのは、主イエスの十字架への決意です。ルカによる福音書9章51節に「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」とあります。このときの主イエスの心は、強い決意に加え、弟子たちとの別れを悲しみまた力強い愛が入り混じり複雑な心境だったと思います。弟子たちの間で論争が起こった時に48節で「あなた方皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である」と言われました。英語でいうと最も小さいthe least が最も偉大なthe greatestとなる価値転換です。そのような偉大な価値転換の魅力を残されたのです。先日の慶応の先生がエレベーターの中で良く同僚の相談を受けますと言われました。クリスチャンとして同僚にアドヴァイスをするのは、「大学宗教主任のようですね。」と返事をすると、ニコリと笑って「そうですね」と言っておられました。キリスト者としての証しも実践しておられました。まさに 大切な人格的愛の力です。
 
   そして、今朝の御言葉を通して最も強く感じるのは、弟子たちへの戒めいや愛です。55節に「イエスは振り向いて二人を戒められた」とあります。このときの主イエスの最も深いところにある心は、弟子たちへの強い愛だったと思われます。私たちも経験しますが、深い愛がなければ子供を本気で叱ることはできません。深い愛があるからこそ、子供を叱ることができるのです。49節に「そこで、ヨハネが言った。『先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちと一緒にあなたに従わないので、やめさせようとしました。』」とあります。従わないとは一緒にエルサレムにいかないことです。今朝の個所には、ヨハネとヤコブという兄弟が登場します。マルコ福音書では「この二人にはボアネルゲス、すなわち、『雷の子ら』という名を付けられた(3:17)」とありますので、気性の激しい兄弟だったようです。
 
   ルカ福音書9章51節に「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」とあります。繰り返し言いますと、「天に上げられる」とは、主イエスが長老、祭司長、律法学者たちから排斥され十字架で殺され、三日目に復活し、40日にわたって弟子たちに現れて、神の国について話された後、天に上げられる「昇天」を意味します。主イエスは、その「昇天」の時期が近づいていると知り、決然としてエルサレムに向かう決意を固められたのです。51節は、ルカ福音書の折り返し地点のように感じます。主イエスは、これまで弟子たちや病を患っている人たちに向けていた御顔を、決然とエルサレムに向けられたのです。主イエスはこれからも弟子たち、また病を患っている人たちに御顔を向けて下さいます。しかし、十字架への決意の顔を加えて新しい表情となります。私たち様々な弱さを抱えている者、罪深い者、繰り返し過ちを犯す者を、赦し新しく生かすために御顔をエルサレムつまり死、復活、昇天に向ける決心されたのです。だからこそ、51節の御言葉はルカ福音書の一つの山場です。 主イエスは、これまで、ガリラヤ地方の北部で御言葉を語ってこられました。一方、これから向かうエルサレムは、パレスチナ南部のユダヤ地方にあります。つまり、主イエスはパレスチナ北部から南部に向かわれますが、その北部と南部の間にサマリア地方がありました。
 
   サマリアはかつて北王国イスラエルの首都があった地域です。しかし紀元前8世紀に北王国イスラエルはアッシリアに滅ぼされ、多くの住民がアッシリアに拉致されました。その結果、異国の人々が移住させられ、混血の地となりました。その混血の人々をサマリア人と言います。純血を重んじるユダヤ人と、混血のサマリア人が対立するのは当然のことでしょう。しかもサマリア人は、ゲリジム山に神殿を持っておりました。神殿には祭司もおり、また律法に基づいた独自の解釈もしていました。一方、ユダヤの人々はエルサレムの神殿を重んじています。純血か混血かの対立に加え、エルサレムの神殿か、ゲリジム山の神殿かの宗教的対立もありました。そのような対立の中で、主イエスはエルサレム神殿に向かうべくサマリア人の村に通ることになりました。そこで主イエスは、弟子たちを使いに出したのです。当然、村人は歓迎するはずがありません。ユダヤとサマリアの対立の原因は民族的な対立と同時に宗教的な対立でした。エルサレム神殿の正統性を認めないサマリア人がゲリジム山の神殿を素通りし、エルサレム神殿に向かう主イエス一行を歓迎するはずがないのです。
 
   そこで、雷兄弟ヤコブとヨハネは、威勢の良い言葉を発しました。54節「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」。この言葉には、列王記下第1章に記された預言者エリヤを攻撃する隊長と50人の部下が神の火によって焼き尽くされた出来事が背景にあります。最近も、イラク北部のモスルで「イスラム国掃討作戦」で大爆発が起こりました。毎週のように凶悪事件、テロが発生し、小さな子供たちが犠牲になっています。凶悪事件やテロの背景は複雑であり、本当にどこから手をつけてよいのかわかりません。同時に、今朝の聖句を通して強烈に突き付けられたのは、雷兄弟ヤコブとヨハネとはいえ、主イエスが徹夜で祈り、選んで下さった弟子の2人が声を合わせて、「天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と語った事実です。凶悪なテロリストではなく、12弟子の2人が語ったのです。「主よ、お望みなら」と断っていますが、本音は、うずうずしていたのでしょう。「主よ、どうか認めて下さい。目障りなサマリアを一瞬で焼き滅ぼしましょう。そうなれば、ユダヤの純血とエルサレム神殿の評価が証明されます。これは、サマリア掃討作戦です」と。
 
  この考えは、ナチスドイツまた現代の民族主義と同じかもしれません。私たちの心にも歪んだ正義感があるかもしれません。その忍耐のなさが、小さな命さえ無視します。だから、ヤコブとヨハネの発言は冗談でなく、私たちの心の歪みを示します。「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」。 このときの主イエスの心を想像すると、まず主イエスの心にそれこそ雷が落ちたでしょう。そこで主は振り向いたのです。本来なら2人から、いや12人の弟子たちからも目を背けたくなったかもしれません。「私と共にいて語る説教を聴いていたのか。お前たちを弟子として選んだ私の責任だ。それにしても、本当に情けなく悲しい。だからこそあなたがたの目を見て、あなたがたの方を向いて伝えたい。その考えは間違いだ。もしも天から火を降らせて焼き滅ぼすのなら、あなたがたが真っ先に天からの火で焼き滅ぼされる。なぜなら、あなたがたは私の予告つまり十字架で死に、三日目に復活することを知っているはずではないか。それなら、サマリア人が、いつの日か真の救い主を信じ、赦しと和解を信じて告白するように祈り続けるのが、あなたがたの役割ではないか。それなのに、どうして『焼き滅ぼしましょうか』と言うのか。情けない。悲しい」と思われたでしょう。だから厳しい表情で「二人を戒められた」とあるのです。
 
   弟子たちは言葉を失ったはずです。ルカは、僅か一行「二人を戒められた」としか書いておりません。しかし、主イエスの戒めは、人格的な熱い魂の叫びでもありました。間も無く、私は十字架に命を捧げる。そして三日目には復活する。また天に昇ってからも聖霊を送り続ける。しかし、直接語れなくなり、十字架の痛みをうける。だからこそ、今戒める。弟子たちは、主イエスの人格的迫力を感じたはずです。 迫力をもって主イエスは、振り向いたのです。エルサレムに向かっていた決意の御顔を、弟子たちに向けて下さった。本来なら感謝すべきことです。残念な発言をしてしまったヤコブとヨハネを心から真剣に深く愛されたからこそ、厳しく戒めて下さった。主イエスは、サマリアの人々のためにも十字架で死なれます。弟子たちのためにも十字架で死なれます。そして、私たち一人一人のためにも十字架に命を捧げられます。だからこそ、主イエスはある特定の人々を殺害する世界を深く悲しまれたのです。まさに世界の為に祈られたのです。創世記の冒頭には、「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面(おもて)にあり、神の霊が水の面(おもて)を動いていた」とあります。その状態に神が「光あれ」と言われたことで闇に光が与えられた。それにもかかわらず、今の世は、本当に混沌として深い闇に覆われてしまったように感じます。しかも、今朝の御言葉を通して弟子たちの心にまで、凶悪な心が宿って、神の名のために叫んで、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言ってしまう。そのような心は私たちの中にもある。本当に言葉を失います。
 
   しかし、主イエスは、孤独の中で、自分だけでスタスタと歩いていく御方ではありません。むしろ、私たちが現実から目を逸らし、自分の殻に閉じこもっているときでさえ、常に、私たちに諦めることなく振り向いて下さり、私たちを見つめて下さり、私たちが全ての人々と平和に歩んでいけるよう力強く導いて下さる。共に主イエスの眼差しを感じつつ、主の平和がなるように祈り続けたいと願うものです。イエス・キリストの人格はまさに強力なソフト・パワーです。
 
  イエス・キリストが求めておられる神の民は、神の恵みに心から答えて、「自発的に信頼し合う友情の共同体」です。ある神学者はこういっています。信仰は、私たちの自発的な意志、自発的な決断によって成立する。税金を強制的に集めるとか、武力で脅す上からの強制力ではなく、自由な神との友情、人々との親しい友情で信仰を表します。また、押さえつけるような武力ではなく、自由な愛の決断を尊重する方が人格の尊厳を示せるに違いありません。私たちは、「その一人子を賜うほどにこの世を愛された神のもとに」信頼して立ち返り、赦しの愛に感謝し安らぎを得て再出発し、新しく親しい関わりを作るのです。改めて、制度や仕組みを生かすのは、私たちの存在の拠り所である信頼すべき神の愛の力にあることを覚えさせられます。
 
  ところが、今の時代の病は、深く物事を考えないで、武力と損得勘定で問題を解決しようとします。かえって人間性を萎縮させてしまいます。親しく信頼関係に生きるより、個人の利己心や権力欲によって心を萎縮させられます。むしろ、忍耐を持って友情を育む豊かな心が、赦しと平和の好循環を生むのです。最後に歴史的事実を申し上げます。1960年代に第三次世界大戦がはじまりそうになる危機、所謂キューバ危機の時に、アメリカのケネディ大統領はグローバルリーダーとして「信頼と和解というソフト・パワー」を働かせました。それにはローマ法王ヨハネ23世が仲介者でした。この法王は、『地上の平和・パーチェム・イン・テリス』 という回勅をその時期に発表されました。簡単に言うと、他者を恐れず、愛することを訴えられました。聖書には「完全な愛は恐れを締め出します」とヨハネ第一の手紙4章18節にあります。その回勅は「相互の愛のきずなを強化させ、他者に対する理解を深めさせ、・・・地上のすべての民族が真の兄弟愛で結ばれ、切望してやまない平和が絶えず咲き香り、みなぎりますように。」と祈りを求めました。回勅発布2か月後に、残念ながらローマ教皇ヨハネ23世は亡くなりましたが、そのメッセージは、次の週に行われたケネディ大統領の平和演説に引き継がれました。そのケネディの「平和演説」とは、合同メソジスト教会設立の「アメリカン大学」での卒業式の記念演説で、ケネディ大統領は「私たちはどのような平和を求めているのでしょう?」と問いかけ、「それはアメリカが軍事力によって世界に押し付けるパクス・アメリカーナではありません。」と自国の軍事力を否定し、「私がお話したいのは本物の平和、つまりこの地上での暮らしを、生きる価値のあるものにする平和であり、人間と国家が成長し希望を抱き、子供たちのために『より良い暮らし』を築けるようにする平和のことです。アメリカ人だけでなく、すべての人のための平和であり、私たちの時代だけでなく、すべての時代に通じる平和のことです。」と語りました。それはあらゆる国をパートナーとして参加を促す平和構築に歩み出す勇気でした。そして続けて「だからこそ、意見の違いから目をそらさず、共通の利益に目を向け、違いを解決できる手段を探しましょう。少なくとも多様性を受け入れる世界にできるよう努力しようではありませんか。つきつめれば、・・・『誰もがこの小さな惑星に暮らしているということなのです。誰もが同じ空気を吸って生きています。誰もが子どもたちの将来を気にかけています。』」と語りかけました。この言葉には、「地球上で共に生きる社会」のビジョンが見えます。「誰もがこの小さな惑星に暮らしている」「誰もが同じ空気を吸って生きています。」という指摘はまさに、21世紀に生きる私たちに「人類愛」の課題を示しています。「愛と赦しの精神」で和解を作るソフト・パワーです。私はさらに2017年7月17日の新聞をみて驚きました。ある日本のメガネ店が従業員全員で順番に難民キャンプを訪れ、視力検査をして無償でメガネを提供する運動を1983年から30年以上継続していることが報道されました。これも国連の緒方貞子さんの影響力でした。私も講義で取り上げ、それを聞いた学生がそこに就職さえしていました。私たちも深い悔改めつまり心の方向転換と、主イエスの十字架に流された痛みと苦しみの愛に感謝応答して、復活の霊に招かれた教会共同体でさらに屠られた子羊の勝利を信じる歩みへと招かれ、新しい愛を広げていく歴史を構築しましょう。今まさに教会は、十字架の愛を信じて人々の土台となる共同体を形成しています。新しい歴史に向かって共々に歩みだしましょう。今の時代の病は、深く物事を考えないで、武力と損得勘定で問題を解決しようとしますが、ハード・パワーは、かえって人間性を萎縮させてしまいます。個人の利己心や権力欲によって心を萎縮させます。むしろ、少しでも「親しく友情を育むソフト・パワーで」忍耐を持って愛の証しに歩み出しましょう。十字架の愛の赦しに感謝して平和の好循環を生むようにいたしましょう。祈ります。