日本基督教団 千歳船橋教会礼拝説教
2017年7月23日 (聖霊降臨節第8主日)


聖書:創世記2:15〜17、ガラテヤ書2:20〜21
説教題:「キリストが私の内に生きておられる」

朴 憲郁(パク ホンウク) 牧師


   梅雨明け前に真夏日のような猛暑が続いていますが、八百屋の前を通りましたら、おいしそうな桃が売りに出されていました。今はまだ値段が高いのですが、思い切って買い、冷蔵庫で冷やした後で美味しく食べました。夏はいろんな種類の果物が実る季節ですが、桃もまた、豊かな肥料を吸収して成長した幹から伸びた枝先でしっかり結びついて養分を吸収し、大きな実を結びます。
 
   梅雨明け前に真夏日のような猛暑が続いていますが、八百屋の前を通りましたら、おいしそうな桃が売りに出されていました。今はまだ値段が高いのですが、思い切って買い、冷蔵庫で冷やした後で美味しく食べました。夏はいろんな種類の果物が実る季節ですが、桃もまた、豊かな肥料を吸収して成長した幹から伸びた枝先でしっかり結びついて養分を吸収し、大きな実を結びます。
 
  私たちはそのことを、聖書が神と人間との関係について証言する事柄の比喩として用いることができます。すなわち、もしも枝にしっかり繋がって服従するのは不自由だと考え、自立した自由人になりたいと願って、実りつつあった果実が自ら手を伸ばして枝との接続部分から切り離したら、どうなるでしょうか。自由になったと思った瞬間に、予想とは反対に、養分補給が途絶えるばかりか、自分の重さで地面に落下して腐り果ててしまいます。親元の幹に繋がり続けるようにとの命令・戒めに聞き従わなくなる時、願っていた命とは反対に、自分に死をもたらします。実に神の戒めは、自由と命とへの招きであり、人間にそれを保証するものです。創造主への服従における自由と命は、神の像に似せた人間存在の本質を言い表しています。
 
   創世記1章から3章まで、神話的表現で描かれた創造者なる神と世界と人間との間に起こった栄光と堕落の出来事のもつ深い意味を、私たちは果樹園で日常的に見ることのできる樹木と果実の関係からはっと気づかされます。
 
  それはちょうど、リンゴが木から落ちて地面(地球)に引き寄せるような力が、月や惑星に対しても働いているのではないかと着想して、万有引力の法則を打ち立てたアイザック・ニュートン(1642年〜1727年)と似たものがあります。神様はお造りになった世界の中で、日常的な現象の中に無数の謎の原理を埋め込んで自然を運行なさっておられます。今もなおノーベル化学賞を受賞した人々の多くは、ある単純な現象の不思議さに対する関心から科学的探求心が湧き、それがきっかけとなって、人類史上初の画期的な法則の発見に至るのであります。
 
   創世記の話に戻りますが、創造主であるヤハウェの神がお造りになった美しい世界のただ中で、同じく造られた存在である人間は他の被造物とは異なって、神の本質である自由な人格と意思と、それに基づく管理能力が与えられました。創世記1章の終わりで、それを「神のかたちに似せて人間をお造りになった」と表現しています。これは神の栄光を映し出すものであり、現代の言葉で申しますと、人間の尊厳ということです。そして、この尊厳としての神のかたちに込められた自由な人格が保たれるのは唯一、創造者である神に繋がって聞き従うことによります。創世記2章の描く楽園で、中央の木の実を食べることを神が禁じたのは、善と悪、服従と不服従を選択する自由を用いて、人間がみずから進んでその戒めに聞き従い、守ることが創造主への信仰的従順を意味し、それによってのみ自由と尊厳が揺るぎないものとなるためでした。もしもその反対に、この最初の神の戒め(人類最初の神の掟、律法)を守らなければ、不自由と死が人間の世界に入り込み、神の裁きの前でその罪の責任が問われて、遂に楽園を喪失することになります。善悪を選択する自由を誤って行使するならば、その人間は神の前でその罪科の責任を負い、裁かれ、楽園から追放されることになります。
 
   残念ながら、最初の人間アダムは不服従の罪を犯して、愛する対話のパートナーであったエヴァと共に楽園から追放されてしまいます。まことに苦悩と争いと死の影に包まれた人生を送ることになります。
 
   今朝最初に私たちに差し出された聖書箇所は、堕罪前のパラダイスを描いた創世記2章の中の数節です。その15節から17節までをもう一度お読みします。
 
  「15節:主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。16節:主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。17節:ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と。15節では楽園においても人間に職務が与えられていると教えています。被造物としての人間は園の世話をし、手入れをします。楽園での労働は祝福された労働です。無駄なく生産して、労働が報われ、喜びとなります。これは、堕罪物語を描いた3章18〜19節の呪われた労働とは異なります。裁かれ呪われた人間の労働は、一生額に汗して、肉の糧を得るために働きますが、報われません。労働の成果が自分のもとに帰ってこない、いや、労働が自分から疎外され、無駄になっている。
 
  かつてカール・マルクスは著書の『賃労働と資本』において、労働の疎外の問題を資本主義体制の矛盾として暴露しました。多くの労働者たちの労働(力)はすべて駆り出されるが、少数の資本家に搾取されてしまって、自分たちに返ってこないと痛烈に批判しました。そこで、労働の疎外を克服するには、資本主義体制を打倒する階級闘争しかなく、これに伴って<所有>行為そのものを社会から一掃して、共産主義体制を実現するしかないのだと主張しました。
 
  このマルクスおよびレーニンの社会主義理論が前世期に世界の各地に社会主義国家を生み出しましたが、冷戦構造の終結後はどうなったかは、歴史が私たちに知らせている通りです。では、資本主義社会では労働の疎外の問題、貧富の格差の問題は解消したのでしょうか。いや、決してそうではありません。創造主である神から遠のき、自ら神のようになろうとする高慢の罪のゆえに、光栄ある神のかたちを喪失した人間の労働は、現代もなお常にどの経済体制のもとでも、呪いと裁きの影がつきまとっており、報われないでいます。
 
  しかしそこから脱却して、まことの神のかたちである最後のアダム、すなわち御子キリストに与って神の御国とその平和(シャローム)を目指す信仰者とその同調者たち(価値を共有する人々)がいます。彼らは、経済と政治と労働に励む働き人として神に期待されています。希望ある労働について、東方敬信牧師は随所でそれを訴え、先週の壮年会でのお話しによっても提示しておられます。
 
  さて、2章15節の楽園における祝福された労働の話から3章の呪われた労働にまで進んで、話が逸れてしまいました。次の16節には、本来の人間(アダム)に与えられた「許可」があります。それが、すべて取って食べてよいとの言葉と結びついていることは興味深いです。使徒パウロも第一コリント書の6章12節と10章23節で食物と結びつけて、キリストにある自由においてすべてのことが許されていると言います。10章23節に続く26節では、神の創造の素晴らしさを称える24編1節からの引用句によって、食物への感謝が勧められます。
 
  しかし食物を含めた完全な自由と命は、最初に桃の木の譬えで申しましたように、真の創造主である神に聞き従い、繋がることによって初めて保障されるものであって、それを表現する象徴的な徴が、楽園の中央の木であり、それだけは食べるなという禁止命令であり、それを食べると死を引き寄せることになるとの警告です。それが三つ目の17節の言葉です。ですから、「食べると必ず死んでしまう」というのは、単なる人間への脅しではなく、命と自由を確保するために不可欠な、配慮された警告なのです。ましてや、その中央の木だけに毒があり、食べると食中毒で死ぬから食べるなという、単純な食品衛生学上の話でもありません。そうではなく、神との関係における人間の尊厳を成り立たせる根源的な戒めなのです。神への服従の戒めを、人間が主体的に聞き従うことによって命を保持することができるという根本的な問題が、ここにあるのです。
 
  15節の職務、16節の許可、17節の禁止、この三つは一つになって、神が人間に本来表されたご意思であり、生きるに際しての道です。そられのどの一つを欠いても、人間の生命を正道から踏み外させてしまいます。けれども第三の禁止の戒めを守ることによって初めて、第一と第二の側面は成り立つものであり、意味あるものとなります。
 
   イスラエル宗教の中心に神の律法がありますが、その基礎にはシナイ山で二枚の石板に刻まれモーセを通しイスラエルの民に授けられた<十戒>があります。これを中心に律法が作られました。出エジプト記を読みますと、その律法には、民が祭壇で一緒に神を拝むことに関する祭儀律法と、善悪の振舞いや罪への裁きに関する倫理律法とに大別されます。そこには当然ながら、ガラテヤ書でも問題となっている割礼や食物に関する規定のことが盛り込まれています。これらの律法は事細かな規定に分かれており、文字となって成文化されました。これらを含むモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)はイスラエル人にとって、旧約聖書の中でも最も権威ある神の言葉として重んじられました。
 
   しかし、新約時代に先立つユダヤ教の神学におきまして、文字として規定されたモーセ律法に先立って、神は世界創造の初めに、楽園において大切な一つの戒めをアダムのためにお定めになり、それが創世記2章17節であると信じられていました。園の中央にある善悪を知る木(もしくは命の木。2:9参照)の実を「むさぼり食べてはならない」という、意味深長な最初の戒めです。実に、かつてファリサイ派の熱心なユダヤ教徒であったパウロ(サウロ)も、神の律法の最初の戒律が創世記2章17節であったとのユダヤ教的解釈伝統を引き継いでいまして、それが以前ローマ書講解説教の時にも申しましたように、ローマ書7章7節後半の御言葉です。それを8節と合わせて引用いたします。「律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです」。
 
   ローマ書とガラテヤ書で語っていますように、使徒パウロにとっては成文化されたモーセ律法の戒めも、パラダイスで神の口から発せられた(非成文化の)禁止律法の戒めも、同じく律法と考えられています。
 
   本来、人は律法をすべて守ることによって命を得るのであり、それを絶えず守らなければ、神に裁かれ呪われます。これが律法の第一の役割であり意義でした。そのことをパウロは知っており、それに彼は命をかけていました。ガラテヤ書3章10節後半でこう述べます。「『律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている』(申命記27:26)と書いてあるからです。」
 
  しかし、ダマスコでの回心の後に諸民族の使徒となった以後のパウロにとりまして、ローマ書でもそれに先立つガラテヤ書でも、律法がもつ予想外の第二の役割があることを認識し、それを特にユダヤ主義的なキリスト教徒に悟らせてています。それは、先ほどローマ書7章7節で引用しましたように、本来人が神の前に正しい人(義人)として立って命を得る手立てであるはずの律法の諸規定が、人間の中に潜んでいる反抗的な罪を誘発、いや、暴露してしまうことです。「むさぼるな」と命じて禁じると、むさぼってしまうのです。
 
  それはちょうど、反抗期の子供のようであります。親がこれを食べなさいと言うと、子供は食べないと言います。勉強をしなさいというと、勉強しようとしません。教会に生きなさいと言うと、ますます行かなくなります。
 
  しかし、パウロはそれを単なる反抗心としてではなく、深刻な心の葛藤として、ローマ書7章13節以下でこう描いて告白しています。心の中で善を行おうとする意志があり、神の律法を喜んでいるが、心に潜む罪の法則がそれを阻止し、<私>を虜にしている。「私はなんと惨めな人間でしょうか。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか」と絶望的な叫びをあげています。これが、律法の縄目から人間を自由にするイエス・キリストに出会う前の人間が罪の奴隷となった姿であり、律法はその姿をあからさまにします。律法は<わたし>の無力さを明らかにします。いや、律法によって罪は暗躍するばかりです。
 
  今の情報化時代に、人間存在の深みにある闇の悪と罪に苦しむ人がめっきり少なくなったように感じます。しかしあのパウロのように、そのような苦悩の末に信仰による救いを得た人々がいます。その一人に、日本の敗戦後の混乱期に政治、学問、教育に分野で指導的な役割をした人に、南原茂という人がいます。彼は、敗戦直後に7年間東京大学の総長を務め、教育基本法の制定のために貢献した人です。彼は「宗教は不必要か」と題して、NHKラジオ放送「人生度読本」での講話として所見を発表した。その中で彼は、自分の生い立ちを振り返ります。四国の一寒村の儒教的・仏教的伝統の家に生まれ育ったことや、東京での大学生活において恩師の新渡戸稲造から感化を受け、内村鑑三の書物と定期の集会に引かれて、「聖書」に出会ったことなどを振り返った後、次のように宗教観に達しました。
 
   「それまでは、いかほど神仏を念じ、儒教の説く道を心がけても、結局、自分自身の幸福か、せいぜい家内の息災や国家の安泰を出なかったのが、いまや自己みずからの内面の罪を自覚し、その贖いと赦しを求め、神の聖旨と神の国の正義の成就されんことを願うに至った。この変化は私の人生観・世界観の根本的革新であった。それは、上京以来、私ながらの苦悩と心の闘いの中に、ようやく得られた私の「新生」であり、「第二の生誕」であった。以来、今日に至るまで40余年、自分の魂の歩みを顧みて、依然として呉下の阿豪であり、しばしば誤りを犯し、なお罪過の中にある。しかし、それにもかかわらず、その中から常に立ちあがり、善きもの、全きものを望んで、毎日、新たな出発をしていることも事実である」と。
 
   現世をどう生きるかの処世術では、現実の底辺を突き破る人間の深みの暗闇と光が分かりません。南原氏や回心前のパウロのように、律法と罪の奴隷のもとで苦悩していた古い人間は、信仰により、イエス・キリストと共に十字架につけられて死んでしまい、復活した主イエスの命に与って新たに生きるようになります。私たちも言葉に表せない喜びをもって、キリストの甦りの命に生かされています。二度と律法に戻ることはできないと、ガラテヤ書3章17節以下で語っていました。20節と21節のみ言葉か、今朝もう一度私たちに与えられています。
 
  20節について、ある注解者がこう解説しています。キリスト信仰による一大転換の生き方があまりにも素晴らしかったので、パウロがそれを表現できたただ一つの方法は、「私はキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや私ではない。キリストが私の内に生きておられるのである」と。これに続く、20節後半は、「地上で(地上の諸条件の制約と試練に見舞われ易い)肉体において(εν σαρκι)生きているのは、私のために身を捧げてくださった神の御子の愛に、信仰をもって応えるためである」と語っています。他の人に対する惜しみない愛を内に含む御子キリストに対する信仰によって、私たちは生きます。これが、「キリスト我が内に生くるなり」というキリスト教的主体性です。神との神秘的合一とか神がかり的になることではありません。自分が自分であることを確認し、それによって存在し、自分を支える所属意識、それがアイデンティティーというものですが、キリスト者はお友達や身近な人々に、自分の正体(正直なあり方)を躊躇なく紹介し、表現する時、どういう一言で表現するでしょうか。英語でぴったりそれに合う表現があるとしたら、それはI am Christian でありましょう。カタカナでそのまま使い、臆することなく「私はクリスチャンです」と自己紹介するのはいかがでしょうか。キリストの香りがするのです。私はキリスト教信者です、キリスト教徒です、私は耶蘇教徒です、と表現することもあるでしょうけど、それはどうも仏教徒や神道信者と意識して向き合う言い方に響き、いろいろな意味合いをもってしまいます。また、私はどこそこの出身、家系、学校卒、会社の者ですと真っ先に自分を名乗るのではなく、自分はそれ以外には存在しない、唯一の拠り所であり、誇りとするものとして、私はクリスチャンですと率直に答えることから、信仰者の証しが始まるのではないでしょうか。それは、キリストが私の内に生きておられることの証しだからです。
 
   梅雨明け前に真夏日のような猛暑が続いていますが、八百屋の前を通りましたら、おいしそうな桃が売りに出されていました。今はまだ値段が高いのですが、思い切って買い、冷蔵庫で冷やした後で美味しく食べました。夏はいろんな種類の果物が実る季節ですが、桃もまた、豊かな肥料を吸収して成長した幹から伸びた枝先でしっかり結びついて養分を吸収し、大きな実を結びます。
 
  私たちはそのことを、聖書が神と人間との関係について証言する事柄の比喩として用いることができます。すなわち、もしも枝にしっかり繋がって服従するのは不自由だと考え、自立した自由人になりたいと願って、実りつつあった果実が自ら手を伸ばして枝との接続部分から切り離したら、どうなるでしょうか。自由になったと思った瞬間に、予想とは反対に、養分補給が途絶えるばかりか、自分の重さで地面に落下して腐り果ててしまいます。親元の幹に繋がり続けるようにとの命令・戒めに聞き従わなくなる時、願っていた命とは反対に、自分に死をもたらします。実に神の戒めは、自由と命とへの招きであり、人間にそれを保証するものです。創造主への服従における自由と命は、神の像に似せた人間存在の本質を言い表しています。
 
   創世記1章から3章まで、神話的表現で描かれた創造者なる神と世界と人間との間に起こった栄光と堕落の出来事のもつ深い意味を、私たちは果樹園で日常的に見ることのできる樹木と果実の関係からはっと気づかされます。
 
  それはちょうど、リンゴが木から落ちて地面(地球)に引き寄せるような力が、月や惑星に対しても働いているのではないかと着想して、万有引力の法則を打ち立てたアイザック・ニュートン(1642年〜1727年)と似たものがあります。神様はお造りになった世界の中で、日常的な現象の中に無数の謎の原理を埋め込んで自然を運行なさっておられます。今もなおノーベル化学賞を受賞した人々の多くは、ある単純な現象の不思議さに対する関心から科学的探求心が湧き、それがきっかけとなって、人類史上初の画期的な法則の発見に至るのであります。
 
   創世記の話に戻りますが、創造主であるヤハウェの神がお造りになった美しい世界のただ中で、同じく造られた存在である人間は他の被造物とは異なって、神の本質である自由な人格と意思と、それに基づく管理能力が与えられました。創世記1章の終わりで、それを「神のかたちに似せて人間をお造りになった」と表現しています。これは神の栄光を映し出すものであり、現代の言葉で申しますと、人間の尊厳ということです。そして、この尊厳としての神のかたちに込められた自由な人格が保たれるのは唯一、創造者である神に繋がって聞き従うことによります。創世記2章の描く楽園で、中央の木の実を食べることを神が禁じたのは、善と悪、服従と不服従を選択する自由を用いて、人間がみずから進んでその戒めに聞き従い、守ることが創造主への信仰的従順を意味し、それによってのみ自由と尊厳が揺るぎないものとなるためでした。もしもその反対に、この最初の神の戒め(人類最初の神の掟、律法)を守らなければ、不自由と死が人間の世界に入り込み、神の裁きの前でその罪の責任が問われて、遂に楽園を喪失することになります。善悪を選択する自由を誤って行使するならば、その人間は神の前でその罪科の責任を負い、裁かれ、楽園から追放されることになります。
 
   残念ながら、最初の人間アダムは不服従の罪を犯して、愛する対話のパートナーであったエヴァと共に楽園から追放されてしまいます。まことに苦悩と争いと死の影に包まれた人生を送ることになります。
 
   今朝最初に私たちに差し出された聖書箇所は、堕罪前のパラダイスを描いた創世記2章の中の数節です。その15節から17節までをもう一度お読みします。
 
  「15節:主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。16節:主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。17節:ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と。15節では楽園においても人間に職務が与えられていると教えています。被造物としての人間は園の世話をし、手入れをします。楽園での労働は祝福された労働です。無駄なく生産して、労働が報われ、喜びとなります。これは、堕罪物語を描いた3章18〜19節の呪われた労働とは異なります。裁かれ呪われた人間の労働は、一生額に汗して、肉の糧を得るために働きますが、報われません。労働の成果が自分のもとに帰ってこない、いや、労働が自分から疎外され、無駄になっている。
 
  かつてカール・マルクスは著書の『賃労働と資本』において、労働の疎外の問題を資本主義体制の矛盾として暴露しました。多くの労働者たちの労働(力)はすべて駆り出されるが、少数の資本家に搾取されてしまって、自分たちに返ってこないと痛烈に批判しました。そこで、労働の疎外を克服するには、資本主義体制を打倒する階級闘争しかなく、これに伴って<所有>行為そのものを社会から一掃して、共産主義体制を実現するしかないのだと主張しました。
 
  このマルクスおよびレーニンの社会主義理論が前世期に世界の各地に社会主義国家を生み出しましたが、冷戦構造の終結後はどうなったかは、歴史が私たちに知らせている通りです。では、資本主義社会では労働の疎外の問題、貧富の格差の問題は解消したのでしょうか。いや、決してそうではありません。創造主である神から遠のき、自ら神のようになろうとする高慢の罪のゆえに、光栄ある神のかたちを喪失した人間の労働は、現代もなお常にどの経済体制のもとでも、呪いと裁きの影がつきまとっており、報われないでいます。
 
  しかしそこから脱却して、まことの神のかたちである最後のアダム、すなわち御子キリストに与って神の御国とその平和(シャローム)を目指す信仰者とその同調者たち(価値を共有する人々)がいます。彼らは、経済と政治と労働に励む働き人として神に期待されています。希望ある労働について、東方敬信牧師は随所でそれを訴え、先週の壮年会でのお話しによっても提示しておられます。
 
  さて、2章15節の楽園における祝福された労働の話から3章の呪われた労働にまで進んで、話が逸れてしまいました。次の16節には、本来の人間(アダム)に与えられた「許可」があります。それが、すべて取って食べてよいとの言葉と結びついていることは興味深いです。使徒パウロも第一コリント書の6章12節と10章23節で食物と結びつけて、キリストにある自由においてすべてのことが許されていると言います。10章23節に続く26節では、神の創造の素晴らしさを称える24編1節からの引用句によって、食物への感謝が勧められます。
 
  しかし食物を含めた完全な自由と命は、最初に桃の木の譬えで申しましたように、真の創造主である神に聞き従い、繋がることによって初めて保障されるものであって、それを表現する象徴的な徴が、楽園の中央の木であり、それだけは食べるなという禁止命令であり、それを食べると死を引き寄せることになるとの警告です。それが三つ目の17節の言葉です。ですから、「食べると必ず死んでしまう」というのは、単なる人間への脅しではなく、命と自由を確保するために不可欠な、配慮された警告なのです。ましてや、その中央の木だけに毒があり、食べると食中毒で死ぬから食べるなという、単純な食品衛生学上の話でもありません。そうではなく、神との関係における人間の尊厳を成り立たせる根源的な戒めなのです。神への服従の戒めを、人間が主体的に聞き従うことによって命を保持することができるという根本的な問題が、ここにあるのです。
 
  15節の職務、16節の許可、17節の禁止、この三つは一つになって、神が人間に本来表されたご意思であり、生きるに際しての道です。そられのどの一つを欠いても、人間の生命を正道から踏み外させてしまいます。けれども第三の禁止の戒めを守ることによって初めて、第一と第二の側面は成り立つものであり、意味あるものとなります。
 
   イスラエル宗教の中心に神の律法がありますが、その基礎にはシナイ山で二枚の石板に刻まれモーセを通しイスラエルの民に授けられた<十戒>があります。これを中心に律法が作られました。出エジプト記を読みますと、その律法には、民が祭壇で一緒に神を拝むことに関する祭儀律法と、善悪の振舞いや罪への裁きに関する倫理律法とに大別されます。そこには当然ながら、ガラテヤ書でも問題となっている割礼や食物に関する規定のことが盛り込まれています。これらの律法は事細かな規定に分かれており、文字となって成文化されました。これらを含むモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)はイスラエル人にとって、旧約聖書の中でも最も権威ある神の言葉として重んじられました。
 
   しかし、新約時代に先立つユダヤ教の神学におきまして、文字として規定されたモーセ律法に先立って、神は世界創造の初めに、楽園において大切な一つの戒めをアダムのためにお定めになり、それが創世記2章17節であると信じられていました。園の中央にある善悪を知る木(もしくは命の木。2:9参照)の実を「むさぼり食べてはならない」という、意味深長な最初の戒めです。実に、かつてファリサイ派の熱心なユダヤ教徒であったパウロ(サウロ)も、神の律法の最初の戒律が創世記2章17節であったとのユダヤ教的解釈伝統を引き継いでいまして、それが以前ローマ書講解説教の時にも申しましたように、ローマ書7章7節後半の御言葉です。それを8節と合わせて引用いたします。「律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです」。
 
   ローマ書とガラテヤ書で語っていますように、使徒パウロにとっては成文化されたモーセ律法の戒めも、パラダイスで神の口から発せられた(非成文化の)禁止律法の戒めも、同じく律法と考えられています。
 
   本来、人は律法をすべて守ることによって命を得るのであり、それを絶えず守らなければ、神に裁かれ呪われます。これが律法の第一の役割であり意義でした。そのことをパウロは知っており、それに彼は命をかけていました。ガラテヤ書3章10節後半でこう述べます。「『律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている』(申命記27:26)と書いてあるからです。」
 
  しかし、ダマスコでの回心の後に諸民族の使徒となった以後のパウロにとりまして、ローマ書でもそれに先立つガラテヤ書でも、律法がもつ予想外の第二の役割があることを認識し、それを特にユダヤ主義的なキリスト教徒に悟らせてています。それは、先ほどローマ書7章7節で引用しましたように、本来人が神の前に正しい人(義人)として立って命を得る手立てであるはずの律法の諸規定が、人間の中に潜んでいる反抗的な罪を誘発、いや、暴露してしまうことです。「むさぼるな」と命じて禁じると、むさぼってしまうのです。
 
  それはちょうど、反抗期の子供のようであります。親がこれを食べなさいと言うと、子供は食べないと言います。勉強をしなさいというと、勉強しようとしません。教会に生きなさいと言うと、ますます行かなくなります。
 
  しかし、パウロはそれを単なる反抗心としてではなく、深刻な心の葛藤として、ローマ書7章13節以下でこう描いて告白しています。心の中で善を行おうとする意志があり、神の律法を喜んでいるが、心に潜む罪の法則がそれを阻止し、<私>を虜にしている。「私はなんと惨めな人間でしょうか。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか」と絶望的な叫びをあげています。これが、律法の縄目から人間を自由にするイエス・キリストに出会う前の人間が罪の奴隷となった姿であり、律法はその姿をあからさまにします。律法は<わたし>の無力さを明らかにします。いや、律法によって罪は暗躍するばかりです。
 
  今の情報化時代に、人間存在の深みにある闇の悪と罪に苦しむ人がめっきり少なくなったように感じます。しかしあのパウロのように、そのような苦悩の末に信仰による救いを得た人々がいます。その一人に、日本の敗戦後の混乱期に政治、学問、教育に分野で指導的な役割をした人に、南原茂という人がいます。彼は、敗戦直後に7年間東京大学の総長を務め、教育基本法の制定のために貢献した人です。彼は「宗教は不必要か」と題して、NHKラジオ放送「人生度読本」での講話として所見を発表した。その中で彼は、自分の生い立ちを振り返ります。四国の一寒村の儒教的・仏教的伝統の家に生まれ育ったことや、東京での大学生活において恩師の新渡戸稲造から感化を受け、内村鑑三の書物と定期の集会に引かれて、「聖書」に出会ったことなどを振り返った後、次のように宗教観に達しました。
 
   「それまでは、いかほど神仏を念じ、儒教の説く道を心がけても、結局、自分自身の幸福か、せいぜい家内の息災や国家の安泰を出なかったのが、いまや自己みずからの内面の罪を自覚し、その贖いと赦しを求め、神の聖旨と神の国の正義の成就されんことを願うに至った。この変化は私の人生観・世界観の根本的革新であった。それは、上京以来、私ながらの苦悩と心の闘いの中に、ようやく得られた私の「新生」であり、「第二の生誕」であった。以来、今日に至るまで40余年、自分の魂の歩みを顧みて、依然として呉下の阿豪であり、しばしば誤りを犯し、なお罪過の中にある。しかし、それにもかかわらず、その中から常に立ちあがり、善きもの、全きものを望んで、毎日、新たな出発をしていることも事実である」と。
 
   現世をどう生きるかの処世術では、現実の底辺を突き破る人間の深みの暗闇と光が分かりません。南原氏や回心前のパウロのように、律法と罪の奴隷のもとで苦悩していた古い人間は、信仰により、イエス・キリストと共に十字架につけられて死んでしまい、復活した主イエスの命に与って新たに生きるようになります。私たちも言葉に表せない喜びをもって、キリストの甦りの命に生かされています。二度と律法に戻ることはできないと、ガラテヤ書3章17節以下で語っていました。20節と21節のみ言葉か、今朝もう一度私たちに与えられています。
 
  20節について、ある注解者がこう解説しています。キリスト信仰による一大転換の生き方があまりにも素晴らしかったので、パウロがそれを表現できたただ一つの方法は、「私はキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや私ではない。キリストが私の内に生きておられるのである」と。これに続く、20節後半は、「地上で(地上の諸条件の制約と試練に見舞われ易い)肉体において(εν σαρκι)生きているのは、私のために身を捧げてくださった神の御子の愛に、信仰をもって応えるためである」と語っています。他の人に対する惜しみない愛を内に含む御子キリストに対する信仰によって、私たちは生きます。これが、「キリスト我が内に生くるなり」というキリスト教的主体性です。神との神秘的合一とか神がかり的になることではありません。自分が自分であることを確認し、それによって存在し、自分を支える所属意識、それがアイデンティティーというものですが、キリスト者はお友達や身近な人々に、自分の正体(正直なあり方)を躊躇なく紹介し、表現する時、どういう一言で表現するでしょうか。英語でぴったりそれに合う表現があるとしたら、それはI am Christian でありましょう。カタカナでそのまま使い、臆することなく「私はクリスチャンです」と自己紹介するのはいかがでしょうか。キリストの香りがするのです。私はキリスト教信者です、キリスト教徒です、私は耶蘇教徒です、と表現することもあるでしょうけど、それはどうも仏教徒や神道信者と意識して向き合う言い方に響き、いろいろな意味合いをもってしまいます。また、私はどこそこの出身、家系、学校卒、会社の者ですと真っ先に自分を名乗るのではなく、自分はそれ以外には存在しない、唯一の拠り所であり、誇りとするものとして、私はクリスチャンですと率直に答えることから、信仰者の証しが始まるのではないでしょうか。それは、キリストが私の内に生きておられることの証しだからです。
 
  私たちはそのことを、聖書が神と人間との関係について証言する事柄の比喩として用いることができます。すなわち、もしも枝にしっかり繋がって服従するのは不自由だと考え、自立した自由人になりたいと願って、実りつつあった果実が自ら手を伸ばして枝との接続部分から切り離したら、どうなるでしょうか。自由になったと思った瞬間に、予想とは反対に、養分補給が途絶えるばかりか、自分の重さで地面に落下して腐り果ててしまいます。親元の幹に繋がり続けるようにとの命令・戒めに聞き従わなくなる時、願っていた命とは反対に、自分に死をもたらします。実に神の戒めは、自由と命とへの招きであり、人間にそれを保証するものです。創造主への服従における自由と命は、神の像に似せた人間存在の本質を言い表しています。
 
   創世記1章から3章まで、神話的表現で描かれた創造者なる神と世界と人間との間に起こった栄光と堕落の出来事のもつ深い意味を、私たちは果樹園で日常的に見ることのできる樹木と果実の関係からはっと気づかされます。
 
  それはちょうど、リンゴが木から落ちて地面(地球)に引き寄せるような力が、月や惑星に対しても働いているのではないかと着想して、万有引力の法則を打ち立てたアイザック・ニュートン(1642年〜1727年)と似たものがあります。神様はお造りになった世界の中で、日常的な現象の中に無数の謎の原理を埋め込んで自然を運行なさっておられます。今もなおノーベル化学賞を受賞した人々の多くは、ある単純な現象の不思議さに対する関心から科学的探求心が湧き、それがきっかけとなって、人類史上初の画期的な法則の発見に至るのであります。
 
   創世記の話に戻りますが、創造主であるヤハウェの神がお造りになった美しい世界のただ中で、同じく造られた存在である人間は他の被造物とは異なって、神の本質である自由な人格と意思と、それに基づく管理能力が与えられました。創世記1章の終わりで、それを「神のかたちに似せて人間をお造りになった」と表現しています。これは神の栄光を映し出すものであり、現代の言葉で申しますと、人間の尊厳ということです。そして、この尊厳としての神のかたちに込められた自由な人格が保たれるのは唯一、創造者である神に繋がって聞き従うことによります。創世記2章の描く楽園で、中央の木の実を食べることを神が禁じたのは、善と悪、服従と不服従を選択する自由を用いて、人間がみずから進んでその戒めに聞き従い、守ることが創造主への信仰的従順を意味し、それによってのみ自由と尊厳が揺るぎないものとなるためでした。もしもその反対に、この最初の神の戒め(人類最初の神の掟、律法)を守らなければ、不自由と死が人間の世界に入り込み、神の裁きの前でその罪の責任が問われて、遂に楽園を喪失することになります。善悪を選択する自由を誤って行使するならば、その人間は神の前でその罪科の責任を負い、裁かれ、楽園から追放されることになります。
 
   残念ながら、最初の人間アダムは不服従の罪を犯して、愛する対話のパートナーであったエヴァと共に楽園から追放されてしまいます。まことに苦悩と争いと死の影に包まれた人生を送ることになります。
 
   今朝最初に私たちに差し出された聖書箇所は、堕罪前のパラダイスを描いた創世記2章の中の数節です。その15節から17節までをもう一度お読みします。
 
  「15節:主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。16節:主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。17節:ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と。15節では楽園においても人間に職務が与えられていると教えています。被造物としての人間は園の世話をし、手入れをします。楽園での労働は祝福された労働です。無駄なく生産して、労働が報われ、喜びとなります。これは、堕罪物語を描いた3章18〜19節の呪われた労働とは異なります。裁かれ呪われた人間の労働は、一生額に汗して、肉の糧を得るために働きますが、報われません。労働の成果が自分のもとに帰ってこない、いや、労働が自分から疎外され、無駄になっている。
 
  かつてカール・マルクスは著書の『賃労働と資本』において、労働の疎外の問題を資本主義体制の矛盾として暴露しました。多くの労働者たちの労働(力)はすべて駆り出されるが、少数の資本家に搾取されてしまって、自分たちに返ってこないと痛烈に批判しました。そこで、労働の疎外を克服するには、資本主義体制を打倒する階級闘争しかなく、これに伴って<所有>行為そのものを社会から一掃して、共産主義体制を実現するしかないのだと主張しました。
 
  このマルクスおよびレーニンの社会主義理論が前世期に世界の各地に社会主義国家を生み出しましたが、冷戦構造の終結後はどうなったかは、歴史が私たちに知らせている通りです。では、資本主義社会では労働の疎外の問題、貧富の格差の問題は解消したのでしょうか。いや、決してそうではありません。創造主である神から遠のき、自ら神のようになろうとする高慢の罪のゆえに、光栄ある神のかたちを喪失した人間の労働は、現代もなお常にどの経済体制のもとでも、呪いと裁きの影がつきまとっており、報われないでいます。
 
  しかしそこから脱却して、まことの神のかたちである最後のアダム、すなわち御子キリストに与って神の御国とその平和(シャローム)を目指す信仰者とその同調者たち(価値を共有する人々)がいます。彼らは、経済と政治と労働に励む働き人として神に期待されています。希望ある労働について、東方敬信牧師は随所でそれを訴え、先週の壮年会でのお話しによっても提示しておられます。
 
  さて、2章15節の楽園における祝福された労働の話から3章の呪われた労働にまで進んで、話が逸れてしまいました。次の16節には、本来の人間(アダム)に与えられた「許可」があります。それが、すべて取って食べてよいとの言葉と結びついていることは興味深いです。使徒パウロも第一コリント書の6章12節と10章23節で食物と結びつけて、キリストにある自由においてすべてのことが許されていると言います。10章23節に続く26節では、神の創造の素晴らしさを称える24編1節からの引用句によって、食物への感謝が勧められます。
 
  しかし食物を含めた完全な自由と命は、最初に桃の木の譬えで申しましたように、真の創造主である神に聞き従い、繋がることによって初めて保障されるものであって、それを表現する象徴的な徴が、楽園の中央の木であり、それだけは食べるなという禁止命令であり、それを食べると死を引き寄せることになるとの警告です。それが三つ目の17節の言葉です。ですから、「食べると必ず死んでしまう」というのは、単なる人間への脅しではなく、命と自由を確保するために不可欠な、配慮された警告なのです。ましてや、その中央の木だけに毒があり、食べると食中毒で死ぬから食べるなという、単純な食品衛生学上の話でもありません。そうではなく、神との関係における人間の尊厳を成り立たせる根源的な戒めなのです。神への服従の戒めを、人間が主体的に聞き従うことによって命を保持することができるという根本的な問題が、ここにあるのです。
 
  15節の職務、16節の許可、17節の禁止、この三つは一つになって、神が人間に本来表されたご意思であり、生きるに際しての道です。そられのどの一つを欠いても、人間の生命を正道から踏み外させてしまいます。けれども第三の禁止の戒めを守ることによって初めて、第一と第二の側面は成り立つものであり、意味あるものとなります。
 
   イスラエル宗教の中心に神の律法がありますが、その基礎にはシナイ山で二枚の石板に刻まれモーセを通しイスラエルの民に授けられた<十戒>があります。これを中心に律法が作られました。出エジプト記を読みますと、その律法には、民が祭壇で一緒に神を拝むことに関する祭儀律法と、善悪の振舞いや罪への裁きに関する倫理律法とに大別されます。そこには当然ながら、ガラテヤ書でも問題となっている割礼や食物に関する規定のことが盛り込まれています。これらの律法は事細かな規定に分かれており、文字となって成文化されました。これらを含むモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)はイスラエル人にとって、旧約聖書の中でも最も権威ある神の言葉として重んじられました。
 
   しかし、新約時代に先立つユダヤ教の神学におきまして、文字として規定されたモーセ律法に先立って、神は世界創造の初めに、楽園において大切な一つの戒めをアダムのためにお定めになり、それが創世記2章17節であると信じられていました。園の中央にある善悪を知る木(もしくは命の木。2:9参照)の実を「むさぼり食べてはならない」という、意味深長な最初の戒めです。実に、かつてファリサイ派の熱心なユダヤ教徒であったパウロ(サウロ)も、神の律法の最初の戒律が創世記2章17節であったとのユダヤ教的解釈伝統を引き継いでいまして、それが以前ローマ書講解説教の時にも申しましたように、ローマ書7章7節後半の御言葉です。それを8節と合わせて引用いたします。「律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです」。
 
   ローマ書とガラテヤ書で語っていますように、使徒パウロにとっては成文化されたモーセ律法の戒めも、パラダイスで神の口から発せられた(非成文化の)禁止律法の戒めも、同じく律法と考えられています。
 
   本来、人は律法をすべて守ることによって命を得るのであり、それを絶えず守らなければ、神に裁かれ呪われます。これが律法の第一の役割であり意義でした。そのことをパウロは知っており、それに彼は命をかけていました。ガラテヤ書3章10節後半でこう述べます。「『律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている』(申命記27:26)と書いてあるからです。」
 
  しかし、ダマスコでの回心の後に諸民族の使徒となった以後のパウロにとりまして、ローマ書でもそれに先立つガラテヤ書でも、律法がもつ予想外の第二の役割があることを認識し、それを特にユダヤ主義的なキリスト教徒に悟らせてています。それは、先ほどローマ書7章7節で引用しましたように、本来人が神の前に正しい人(義人)として立って命を得る手立てであるはずの律法の諸規定が、人間の中に潜んでいる反抗的な罪を誘発、いや、暴露してしまうことです。「むさぼるな」と命じて禁じると、むさぼってしまうのです。
 
  それはちょうど、反抗期の子供のようであります。親がこれを食べなさいと言うと、子供は食べないと言います。勉強をしなさいというと、勉強しようとしません。教会に生きなさいと言うと、ますます行かなくなります。
 
  しかし、パウロはそれを単なる反抗心としてではなく、深刻な心の葛藤として、ローマ書7章13節以下でこう描いて告白しています。心の中で善を行おうとする意志があり、神の律法を喜んでいるが、心に潜む罪の法則がそれを阻止し、<私>を虜にしている。「私はなんと惨めな人間でしょうか。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか」と絶望的な叫びをあげています。これが、律法の縄目から人間を自由にするイエス・キリストに出会う前の人間が罪の奴隷となった姿であり、律法はその姿をあからさまにします。律法は<わたし>の無力さを明らかにします。いや、律法によって罪は暗躍するばかりです。
 
  今の情報化時代に、人間存在の深みにある闇の悪と罪に苦しむ人がめっきり少なくなったように感じます。しかしあのパウロのように、そのような苦悩の末に信仰による救いを得た人々がいます。その一人に、日本の敗戦後の混乱期に政治、学問、教育に分野で指導的な役割をした人に、南原茂という人がいます。彼は、敗戦直後に7年間東京大学の総長を務め、教育基本法の制定のために貢献した人です。彼は「宗教は不必要か」と題して、NHKラジオ放送「人生度読本」での講話として所見を発表した。その中で彼は、自分の生い立ちを振り返ります。四国の一寒村の儒教的・仏教的伝統の家に生まれ育ったことや、東京での大学生活において恩師の新渡戸稲造から感化を受け、内村鑑三の書物と定期の集会に引かれて、「聖書」に出会ったことなどを振り返った後、次のように宗教観に達しました。
 
   「それまでは、いかほど神仏を念じ、儒教の説く道を心がけても、結局、自分自身の幸福か、せいぜい家内の息災や国家の安泰を出なかったのが、いまや自己みずからの内面の罪を自覚し、その贖いと赦しを求め、神の聖旨と神の国の正義の成就されんことを願うに至った。この変化は私の人生観・世界観の根本的革新であった。それは、上京以来、私ながらの苦悩と心の闘いの中に、ようやく得られた私の「新生」であり、「第二の生誕」であった。以来、今日に至るまで40余年、自分の魂の歩みを顧みて、依然として呉下の阿豪であり、しばしば誤りを犯し、なお罪過の中にある。しかし、それにもかかわらず、その中から常に立ちあがり、善きもの、全きものを望んで、毎日、新たな出発をしていることも事実である」と。
 
   現世をどう生きるかの処世術では、現実の底辺を突き破る人間の深みの暗闇と光が分かりません。南原氏や回心前のパウロのように、律法と罪の奴隷のもとで苦悩していた古い人間は、信仰により、イエス・キリストと共に十字架につけられて死んでしまい、復活した主イエスの命に与って新たに生きるようになります。私たちも言葉に表せない喜びをもって、キリストの甦りの命に生かされています。二度と律法に戻ることはできないと、ガラテヤ書3章17節以下で語っていました。20節と21節のみ言葉か、今朝もう一度私たちに与えられています。
 
  20節について、ある注解者がこう解説しています。キリスト信仰による一大転換の生き方があまりにも素晴らしかったので、パウロがそれを表現できたただ一つの方法は、「私はキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや私ではない。キリストが私の内に生きておられるのである」と。これに続く、20節後半は、「地上で(地上の諸条件の制約と試練に見舞われ易い)肉体において(εν σαρκι)生きているのは、私のために身を捧げてくださった神の御子の愛に、信仰をもって応えるためである」と語っています。他の人に対する惜しみない愛を内に含む御子キリストに対する信仰によって、私たちは生きます。これが、「キリスト我が内に生くるなり」というキリスト教的主体性です。神との神秘的合一とか神がかり的になることではありません。自分が自分であることを確認し、それによって存在し、自分を支える所属意識、それがアイデンティティーというものですが、キリスト者はお友達や身近な人々に、自分の正体(正直なあり方)を躊躇なく紹介し、表現する時、どういう一言で表現するでしょうか。英語でぴったりそれに合う表現があるとしたら、それはI am Christian でありましょう。カタカナでそのまま使い、臆することなく「私はクリスチャンです」と自己紹介するのはいかがでしょうか。キリストの香りがするのです。私はキリスト教信者です、キリスト教徒です、私は耶蘇教徒です、と表現することもあるでしょうけど、それはどうも仏教徒や神道信者と意識して向き合う言い方に響き、いろいろな意味合いをもってしまいます。また、私はどこそこの出身、家系、学校卒、会社の者ですと真っ先に自分を名乗るのではなく、自分はそれ以外には存在しない、唯一の拠り所であり、誇りとするものとして、私はクリスチャンですと率直に答えることから、信仰者の証しが始まるのではないでしょうか。それは、キリストが私の内に生きておられることの証しだからです。