日本基督教団 千歳船橋教会礼拝説教
2017年7月9日 (聖霊降臨節第6主日)


聖書:申命記21:22〜23、ガラテヤ書2:15〜19
説教題:「キリストと共に十字架につけられた」

朴 憲郁(パク ホンウク) 牧師


   登山をしていて山林の道に迷った時などには、もう一度確かな地点に引き返して地図を広げ、目標地点に向かう曲がりくねった道をしっかり確かめることをします。それと同じように、ある問題がこじれて対立が生じ、事柄が複雑に絡み合ってなかなか先に進めない時などには、一度引き返して仕切り直すことがあります。引き返して原点に戻ってみるのです。
 
   今朝のガラテヤ書2章15節からの語り方が、それに似ています。エルサレムの使徒会議でパウロたちによる割礼なき異邦人・諸民族伝道とペトロたちによる割礼あるユダヤ人伝道とは、互いに認め合う合意を果たしました。それにも関わらず間もなくして、異邦人とユダヤ人混成のキリスト教徒によって誕生したアンティオキア教会で、エルサレムのヤコブ派からやってきたユダヤ主義手的キリスト教徒らの監視と干渉の下で、態度を変えたペトロのことでパウロが激しく非難して対立したのでした。その問題の経緯と意味とを、私たちは先週の主日礼拝の講解説教で、ガラテヤ書2章11〜14節のみ言葉によって学びました。
 
  ユダヤ教の律法諸規定から自由な福音によって信仰の交わりと礼拝を守っていたアンティオキア教会は、突然対立と分裂を引き起こす険悪な事態に陥りました。使徒パウロがケファ(ペトロ)の卑屈な態度を非難する言葉は14節でした。
 
  今朝私たちは、それに続く15節以下のみ言葉を手にしています。この15節前半で、ペトロたちと同じくユダヤ人、あるいはユダヤ人キリスト教徒としての基本的な考えに立ち戻って、パウロはこう語り始めます。「わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません」と。パウロもペトロも神の御心である律法を知らない神なき異邦人、穢れた不義な民ではなく、ユダヤ教の良き伝統を守って歩んできたと。しかし、そのような私たちが信仰により、キリストの十字架の死と復活に与ることによって、いったいどのようにして神の前に義とされ、罪の赦しによる救いに与ることになったのか、そして今を歩んでいるのであろうかと、パウロはガラテヤの信徒たちに問いかけるようにして説いていきます。つまり、かつてのケファたちと同じくガラテヤ教会でも律法の諸規定にこだわり、それを誇っているユダヤ主義的なキリスト者に向かって問いかけていきます。
 
  ペトロなどユダヤ人キリスト教徒と共通の理解に一度立った上で、使徒は次に16節と17節前半で、人は律法の実行によってではなく、イエス・キリストへの信仰によって、ユダヤ人であれ異邦人であれ、不義であった者が神の前で罪赦されて義とされるのです、と繰り返し述べます。
 
  新共同訳で「律法の実行」(エルガ・ノムー)と訳されていますが、それは直訳すると「律法の行い/業」です。では本来聖なる神の法であった律法の行い/業が、なぜ神の前で義とされないのでしょうか。かつてのパウロがそうであったように、ユダヤ人はユダヤ教徒として真剣にそれを守ることに努めました。「律法の業」とは次のようなことです。イスラエル民族を選び、契約を結んだ愛の富む神の恵みに対する応答として、ユダヤ人が遵守すべき律法の行いを意味しました。より具体的に申しますと、割礼、ユダヤ教の祝祭日の律法(4:10)、それに食物規定(2:14)などでありまして、これらは、それを忠実に守ることによって、神の民としてイスラエルのアイデンティティーや地位を維持するために神によって与えられたものです。これらを守ることを離れては神の約束における神の義に与ることはほとんどできないと、受けとめられていました。
 
  この基本的な考えは現在まで変わることはありません。そのことで思い起こすことがあります。2年に一回夏に一週間かけた国際宗教教育学会が開かれて、そのメンバーである私もよく参加して発表をします。もう10年以上前に、英国ウェールズのカーマーゼンという小さな都市の神学大学を会場に当学会が開かれました。それを終えて近くの駅からロンドンの駅に向かう3時間ほどの列車の中で、私を含めて4〜5人の学会員がたまたま同じ差し向かいの座席でしたので、いろいろな話をしました。そのメンバーの一人はイスラエルの大学教授でラビの人で。他はカトリックかプロテスタントの立場の学者たちです。主な話は信仰と律法と終末論などのユダヤ教とキリスト教の理解を巡るものでした。共通の理解を求めて話が進んで、信仰義認の問題に及んだのですが、最後の段になって、イスラエルのラビが同意できない一つの点をこう述べて締めくくりました。「やはりユダヤ教にとって譲れないのは、神の言葉・神の律法を行うこと(deed)で、それが重要なのです」と述べました。私はそれを聞いて、「参った、やはりそうだんな」と思いました。その考えは、今日まで貫かれているのです。
 
  さて、律法の行いの遵守と一途な生き方は二つの問題を引き起こしていました。一つはアンティオキアでのことで、ユダヤ人キリスト教徒が異邦人キリスト教徒にこの「律法の行い/業」を求めることは、救いのために信仰にもう一つ加える不可欠な条件、手段という意味を持つことになりますから、イエス・キリストへの信仰による人間の義、すなわち信仰義認に反することです。その関連で引き起こす問題として、異邦人にユダヤ化を迫ることになり、ユダヤ人主義・民族主義の現れとなるのです。
 
  もう一つは、ユダヤ人あるいはユダヤ人キリスト教徒自身にとっても、律法の遵守がいつの間にか神の前の義と救いを獲得する手段となり、権利となってしまいます。つまり、自分で自分を義とすることになります。それを別の言い方で申しますと、律法の遵守が人間の高慢の罪を誘発することです。それをパウロは、ガラテヤ書の後に書いたローマ書の中で克明に論じています。
 
  アンティオキア教会でも、また今こうして手紙を書き送っているガラテヤ教会でも、問題になっているのはユダヤ人/ユダヤ教徒の信仰ではなく、ユダヤ人キリスト教徒の信仰態度です。すなわち、彼らもイエス・キリストへの信仰による神の義を受けとめています。しかしそれに加えて、旧約時代からの律法の諸規定の行い、とりわけ食物規定の遵守と契約の徴である男子の割礼は異邦人であっても、洗礼による入信において新しい契約の民の一員となるために欠かせないものだと主張するのです。つまり、信仰プラス律法の行いという考えが彼らの考えの根底にあるので、使徒パウロはこの「プラス律法の行い」がキリストへの信仰を台無しにするものであるとみて、問題視します。
 
  この問題を裏返して、彼らを批判する言葉が17節です。ユダヤ人キリスト教徒の考えに寄り添って、パウロは自分を含めて「私たち」と言います。そして、こう問いかけます。「私たちがキリストによって義とされる道を求めながら、律法から自由だとして律法を守らない異邦人と同じく、無法者・罪人呼ばわりされるとするならば、あなた方が仰ぐキリストは信仰者を罪人に追いやる役目を負い、罪に奉仕する者ということにならないであろうか」と詰め寄って問いかけます。当然、彼らからも「決してそうではない」との否定的な答えが返ってきます。こうして、彼らの問題点を暴くことになります。それを駄目押しするように、19節で、入信の時に壊した律法をまたもや自分の生の根拠とすることは、建築者に譬えればまったく愚かなことであり、「違反者」になります。
 
  神の義を得るための「律法の行い/業」が今やかえって、自分の義に頼ることになります。このあたりの問題を、ある人は平易な譬えでこう表現しました。「自分の義に頼る者は、自分の影に身を隠そうとする者と同じく、いくら骨を折っても、結局不可能なことである。けれども私どもは大きな岩か、または大木の蔭にも似た、キリストのご庇護のもとに、その身を託す隠れ家を見出すことができる」と。結局私たちに、信仰によって義とされる以外に、罪から救われる道はありません。
 
  さて、今朝の後半部分である19節から21節までの御言葉に注目したいと思います。律法に関する19節からの語り方は、それ以前とは異なります。18節までにおきましては、律法の行いの限界、律法の破綻が語られていますが、19節からは律法にかけて生きる肉的な人間自身が破綻し、律法の戒律に縛られた古い人間として死んでしまったのだと語ります。何によって死ぬのでしょうか。それは洗礼の出来事によります。ローマ書6章3節以下で明かされますように、洗礼において信仰者はキリストの十字架の死に与って、古い自己として死に、それによって律法の束縛から解放されてしまうのです。それは、私のために死んで甦ったキリストの愛と命に生かされるためです。そのことを、パウロはローマ書8章の前半で述べています。復活のキリストの霊が私たちの魂の深みに働いて生かし、体の復活への希望を抱かせ、父なる神をアッバー父よと呼ぶ特権を聖霊なる神によって与え、祈りを深めさせます。
 
  19節後半で「私は、キリストと共に十字架につけられています」と言われますが、キリストは十字架上の犠牲の死によって律法の終わり(テロス。ローマ書10:4の新共同訳は<目標>と訳しているが不適切!)となり、信仰者を律法による義ではなく、恵みとしての神の義と命に与らせてくださいました。そのことを、ローマ書10章4節は伝えています。
 
  しかし考えてみますと、現実に主イエスがお受けになった十字架刑は、実はイエスが律法破りの神冒涜だと叫んだユダヤ人指導者たちが仕組んだ罠でありまして、当時死刑執行権を牛耳っていたローマの総督ピラトに巧みに訴え出て、主イエスを十字架刑に処するように群衆を扇動した結果でした。ユダヤ人指導者の側では、旧約以来の法に従ってイエスの斬新な振る舞いは神冒涜者であり、神の呪いとして木にかけて見せしめの死刑に処するに値するとの腹積もりであったのです。今朝の申命記21章23節の律法の掟を盾に取るのです。そのことは、この後の3章13節で引用されています。しかし、そのような人間の悪だくみの罪をむしろお一人で引き受けて、御子は罪の贖いの犠牲となってくださっていたのです。ここに、神の驚くべき隠された救いの知恵があり、贖いの恵みが備えられていました。信仰の目をもってそれを見つめ、恐れを抱く者は、このような隠された神の知恵と恵みとしての御子キリストの犠牲の十字架の死と復活に与る洗礼を受けて、律法と肉に支配された古い自己に死に、新しい復活の命に与ることが許されています。
 
  先に述べましたように、復活のキリストの霊が神の子らに豊かに注がれ、また多様に働くことがローマ書で説かれていますが、それはガラテヤ書執筆の段階ではまだ語ってはいません。しかし、とても印象的で強烈な一言でこう表現します。20節です。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」と。ここで「肉において生きている」とは否定的な意味ではなく、「地上における生」という意味です。地上におけるみすぼらしい一人ひとりの信仰者の「私の中に」働く復活のキリストの霊(ローマ書8章)に生かされることを意味しています。ここでは「古い私が去り、キリストが新しい私の主体となってくださる」との強力な言葉で表現されます。キリストとパウロとの神秘的な合一を指し示すような言葉です。
 
  この次元について思い起こしますと、1917年(大正6年)に日本のホーリネス教会を創立し、その初代監督となった中田重治牧師は、キリストの過去を語るのではなく、関連するいくつもの聖書箇所に照らし合わせながら、現在的なキリストの実在の体験を強調して、これを「キリストの内住」(1924年、大正13年)と呼びました。
 
  また北森嘉蔵牧師は『ガラテヤ人への手紙講解説教』のこの20節の箇所の解説で、スイスで法学者として、またキリスト教思想家として19世紀後半に活躍したカール・ヒルティの言葉を借用して、「健全な神秘主義」がここにあると申しました。不健全で危険な神秘主義もあるが、健全な神秘主義がある。頭で理解するだけのキリスト教ではダメだと申しました。キリストと一つになるということがないと、キリスト教信仰とは言えないというヒルティの言葉に、着目します。
 
  私たちはキリストとの合一とか内住とか神秘主義という言葉に惑わされず、本日の説教によって紡ぎ出された聖書のみ言葉に耳を傾けて、律法の戒律に支配され奴隷となる生き方が死んで、洗礼により、甦りのキリストの霊が私たちの心の深みまで支配して交わり、神の義に与り、それを生活の様々な場面で証していけることを願います。そのために父なる神が私たちを助け、導いてくださいます。